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沖縄県

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北部

中部

南部
抜粋

那覇

回顧

概要

■北部では、沖縄本島最北部にある国頭(くにがみ)の辺戸岬(へどみさき)に達すると、ゲストハウスを予約した名護に向かって南下していった。

写真
祖国復帰闘争碑

途中まで天候がよくなかったため、辺戸岬からの眺望を期待することはできないかと考えていたが、遠くに島が見えていた。鹿児島県の与論島のようだ。琉球王国の支配下にあった奄美群島の一部だ。岬には祖国復帰闘争碑が建てられていた。アメリカ合衆国による沖縄統治について屈辱的であったとし、沖縄の祖国復帰でも平和への願いは叶わなかったと強い筆致で記されていた。米国軍基地の撤廃を強く望んでいるということであろう。この思いはしっかりと認識しておかなければならないと感じた。

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今帰仁城跡

今帰仁(なきじん)の今帰仁城跡は、14世紀から15世紀にかけて繁栄した北山王国(ほくざんおうこく)の居城跡だ。見物を終えると暗くなりかけていたが、欲張って本部の沖縄美ら海水族館に向かった。鮫やエイなどを見ることができた。

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ミルク

予約済みのゲストハウスは、カー・ナヴィゲイションとして利用していたGoogleマップに描き込まれていたため迷わずに到着することができたが、縦長の駐車場の手前側に宿泊客が駐車していた。それを避けてスロウプの側面からゲストハウスの敷地に乗り入れようとしたが、ボンネットを擦ってしまった。その後は、レンタカー会社や警察署に事故について連絡するなど手続きに追われた。

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那覇

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概要

■中部では、沖縄本島西部を走っている国道58号ではなく、東部を走っている国道329号を南下することにした。

写真
勝連城跡

うるまの勝連城(かつれんじょう)跡は、15世紀に琉球統一を目指した阿麻和利(あまわり)の居城跡だ。

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中城城跡

南に下ると、北中城(きたなかぐすく)だ。中村家住宅は、庄屋格の堂々とした佇まいで、江戸時代後期から明治時代にかけての裕福な農家の様子を窺うことができる。中城城(なかぐすくじょう)跡は、15世紀に阿麻和利によって滅ぼされた護佐丸盛春(ごさまるせいしゅん)の居城跡だ。沖縄戦に耐えてよく城壁が残ったのは素晴らしいことだ。

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那覇

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概要

■南部では、南城から那覇に向かって西進していった。

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斎場御嶽

南城には、斎場御嶽(せいふあうたき)がある。御嶽(うたき)とは、琉球において祭祀を行った施設だが、琉球王国の祭祀を行った斎場御嶽は最高の格式を与えられている。石灰岩の溶食作用によってできた見慣れない形の岩石が遥拝所になっていた。

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沖縄平和祈念堂

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ひめゆりの塔

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ひめゆり平和記念資料館

■糸満に入ると、まず、沖縄平和祈念公園に向かった。沖縄県最後の激戦地であった摩文仁(まぶに)などで亡くなった人を慰霊しているのであろうが、あまりにも広大であり、実感が湧かなかった。

次いで、ひめゆりの塔を訪ねた。看護業務に従軍していたひめゆり学徒隊に因むものだ。納骨堂前の病院壕跡が生々しい。ひめゆり平和祈念資料館を訪ねると、生き残った人が亡くなった人に代わって、以下のようなことを訴えていた。
  • 看護業務は非常に過酷なものであった。
  • 日本軍は沖縄戦を長引かせることのみを目指し、民間人を巻き込みながら戦争を続けた。そして、戦陣訓(「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。」)に代表される皇民化教育によって、民間人も捕虜になることが恥とされ、命が軽んじられていたため、多くの民間人の死を招くことになった。
  • 米国軍が間近に迫って絶体絶命という状況になってからひめゆり学徒隊の解散命令が出され、命を全うするための方策は各人に委ねられるのみで何の支援もなく、その後に亡くなった人が大多数を占めた。

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Seaglass

訪問を終えると、予約済みのゲストハウスに向かった。至近距離にある那覇に滞在しなかったのは、位置関係がよく分かっていない時に予約手続を行ったことも影響している。

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那覇

回顧

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■那覇では、レンタカーを返却すると、モノレイルに乗って、まず首里(しゅり)に向かった。

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識名園

識名園(しきなえん)は、琉球王国が清の使者をもてなす施設として造られた庭園だ。非常に広大で、大名屋敷のようだ。首里城などからは遠く、南風原(はえばる)の町域を経由して向かうことになるが、足を伸ばす価値はあると思う。

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首里城

首里城付近へは、ハンタガー、真珠道(まだまみち)、金城町(きんじょうちょう)石畳、金城大樋川(かなぐすくうふひいじゃあ)を経由して戻った。古い歴史が感じられ、また、谷線を挟むため、眺望にも優れていた。首里では、玉陵(たまうどん)と園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)に立ち寄った後、琉球王国の王城である首里城の見物となる。沖縄戦などで破壊されたが、正殿などが復元されており、往時の威容を偲ばせる。ちょうど上演されていた琉球舞踊も堪能した。
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ハンタガー付近から

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御膳

中心部にある予約済みのカプセル・ホテルにチェックインすると、2日間にわたって国際通りを往来した。公設市場では、チラガー(豚の顔皮)やミミガー(豚の耳皮)を目にした。台湾と同じく、市場で買った海産物を階上で調理してもらうこともできるようだ。沖縄そば(ソーキそばや三枚肉そばなどトッピングによる呼称もある)、ドーナツのサーターアンダギー、ラフテー(豚の角煮)、アグー(豚)・フィレ・カトレットなどに舌鼓を打った。

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機内から

■走行距離は、約350kmであった。珊瑚礁によるエメラルド色の海は広い範囲で見られたわけではないが、南北に細長い地形のため、自動車運転中も様々な角度で視界に飛び込んできた。次に訪ねる機会があれば、宮古島や石垣まで足を伸ばすことも考えたいものだ。今回の旅では、土産として宮古そばと八重山そばを買うことによって自らを納得させた。

1日平均の旅行費用(土産費を除く)は約28,000円であった。費用の約6割は自動車修理費だ。旅行費用のうち宿泊料金の最高は糸満の4,000円で、最低は那覇の2,800円であった。

沖縄県を巡っていると、普天間、嘉手納、辺野古と、報道でよく耳にする在日米国軍基地のある地名を目の当たりにする。また、キャンプ・シュワブでは、米国軍基地の撤廃を訴えてデモンストレイションが行われていた。米国軍基地の存在は沖縄県経済に組み込まれているため撤廃すると打撃を与えるという論調もあるが、沖縄戦で犠牲を強いた歴史を想起し、県民の総意に寄り添った政策を考えてもらいたいものだ。

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那覇

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概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 東京都 東京
6日08:00 空路 11:25 沖縄県 那覇
12:25 道路 15:00 国頭
15:25 道路 16:30 今帰仁
17:10 道路 17:25 本部
18:25 道路 19:10 名護
7日09:15 道路 10:55 うるま
11:15 道路 12:05 北中城
13:20 道路 14:05 南城
14:55 道路 15:30 糸満
8日10:05 道路 10:45 那覇
9日19:20 空路 21:30 東京都 東京
道路 :道路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
沖縄県 名護 ミルク JP.\ 3,000 1
糸満 Seaglass JP.\ 4,000 1
那覇 スターカプセル JP.\ 2,800 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
日本 JP.\ 1.00円 166
内訳
10,243
内訳
87,662
内訳
0 4,520
内訳

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
日本 9,800
内訳
1,392 113,783 112,391 4 28,098
(注)円換算と日平均は土産費を除く。

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春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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