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イスラエル(渡航中)

イスラエル

イェルサレム

抜粋

キング・フセイン橋に到着しても、イミグレイションがどの建物にあるのか分からない。動線が不十分なのだ。一旦別の建物に入ってしまった後、何とかイミグレイションに向かうことができた。しかし、窓口がよく分からない。それらしい窓口でパスポートを提出すると、付近で待つよう指示される。手続きを待っている人は多く、なかなか名前が呼ばれない。ようやく名前が呼ばれ、パスポートに出国スタンプを押さないよう依頼することはできたが、簡単な確認を終えると、パスポートを返されることなく、再び付近で待たされることになった。ほかの人は次の窓口に進み出国税を支払っていたが、その手続きに進むことのできない理由が分からず、いつまでも不安を抱えることになった。旅の猛者というような人は見当たらず、ほかの人も右往左往していたため、手続きの順序を教えてあげたり、日本人の名前の発音が分からない入国審査官に代わって日本人を呼んであげたりした。長らく待たされた後、バスに乗るよう指示された。バスの中でパスポートを返してもらい、ようやく安心することができた。イスラエルの入国審査も長時間を要したが、パスポートが手許にあるため、長く待たされることは苦にはならなかった。

イスラエル

イェルサレム

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ダマスカス門

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ダマスカス門内

■イェルサレムに向けて、入国審査を受け終えたアレンビ橋をバスに乗って出発した。イスラエルが首都だと宣言している町だ。アレンビ橋とイェルサレムの間はパレスティナ自治区を通らなければならないように見えるが、幹線道路を進んでいる限りはそのことを意識する必要はないようだ。

バスを降ろされた場所は、ありふれた市街のように思われた。しかし、道路の反対側を見ると、趣のある門が立っている。旧市街北側のダマスカス門(ヘブライ語名シェケム門)らしい。門を潜ると、街の様相が一変する。入りくねった細い路地に地元の人を対象にした商店が果てしなく軒を連ね、多くの人で溢れていた。いかにも旧市街という趣だが、想像以上に大きかった。予約しておいたゲストハウスは旧市街西側のヤッフォ門の近くにあったが、移動するためには雑踏を潜り抜けていかなければならず、かなりの時間を要した。ドミトリには、様々な国籍の宿泊客が泊まっていた。アフリカンもいたが、同じドミトリに泊まり合わせるのは初めてのことかもしれない。一帯はキリスト教徒地区に属すが、アルメニア人地区に属すダヴィデの塔も近い。外国人観光客受けするような洒落たレストランや土産店が軒を連ねていた。

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聖墳墓教会

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アナスタシス

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イエス・キリストの十字架

キリスト教徒地区の最大の見所は、何と言っても、イエス・キリストが磔刑を受けたゴルゴタの丘の上に建てられたとされる聖墳墓教会であろう。昼食を済ませて出かけることにした。到着する直前、壮年の男性が現れ、教会は閉鎖されているが、別の入口からなら入場することができるので案内すると言われた。そして、思慮のないことに勧誘に応じてしまった。教会は目と鼻の先にあるのだから、本当に閉鎖されているのかどうか、自分で確かめるべきところであった。ただし、案内料として100シェケル(1シェケルは約36.4円)を要求されたのに対し、10分の1にディスカウントさせることができた。男性には教会の中庭のような場所に連れていかれたが、聖墳墓教会とは全く関係ないもののようであった。詐欺を見抜くことができなかったことを反省しながら聖墳墓教会に戻る途中、件の男性と擦れ違ったが、正規の入口がオウプンしたと弁解してきた。詐取された金銭を取り返すのは難しいと考え、それ以上無駄に時間を費やすことはしないことにした。

聖墳墓教会の前には多くの人が溢れており、イエス・キリストの最期を悲しむ人によって異様な雰囲気になっていた。中に入ると、アナスタシス(復活聖堂)にイエス・キリストの墓が置かれている。内部には天使の礼拝堂があるとのことで、多くの人が並んでいた。そして、階上に上がると、イエス・キリストの十字架が掲げられている。実際に磔刑を受けたのは、足下にある祭壇の下の辺りだという。多くの人で溢れ返っていた。圧倒的な威圧感があり、厳かな雰囲気であった。

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嘆きの壁

夜が明けると、朝から行動を始めた。最初に訪ねたのは、ユダヤ人地区の嘆きの壁(正式名称は西壁)だ。簡単に探し当てることはできなかった。また、ほかの観光名所よりも警備が厳重なようだ。神殿の丘の西側の外壁に当たるが、長らく聖地への帰還が許されなかったユダヤ人が神殿の再建とメシア(救世主)の来臨を祈ってきた悲嘆の場所だという。男性用と女性用に分かれており、異教徒が至近距離に近づくことは認められていない。最下層の石は、紀元前1世紀の第二神殿修復時のものらしい。

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岩のドウム

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岩のドウム

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アクサー寺院

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イスラーム教徒地区

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イスラエル料理店

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フンムス/ムタッバル/ココア

続いて、神殿の丘(ハラム・シェリーフ)に向かうことになる。観光客が多いことは事前に分かっていたが、唯一の入口であり、嘆きの壁から連なっているモロッコ門の場所が分かりづらいため、観光客が集まってくるまでゆっくり嘆きの壁を見物しようと考えていた。しかし、しばらくしてそれらしい方向に向かおうとすると、行列がえんえんと続いていることが分かった。大いに出遅れてしまったと反省した。ようやく内部に入ると、岩のドウムやアクサー寺院を外から見物した。その後、北側の門から出て、イスラーム教徒地区を見物した。一帯は雑然としているという印象を受ける。レストランで提供される料理は、フンムスやムタッバルなど、アラビア料理と共通する。イスラエル料理店と呼ぶべきなのか、アラビア料理店と呼ぶべきなのかはよく分からなかった。

アブラハム(アラビア語名イブラーヒーム)の宗教と呼ばれるユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の3宗教の聖地であるイェルサレムの中でも、神殿の丘は特別な存在だ。まず、ユダヤ人とアラビア人の共通の祖先とされるアブラハムが自分の子を神の生贄として捧げようとしたモリヤ(ユダヤ人がイスラエルに故国を再建しようとしてきたシオニズムの語源であるシオン)に当たるとされる。そして、ユダヤ教にとっては、イスラエル統一王国発祥の地だ。紀元前10世紀に統一王国のソロモンの第一神殿以来の神殿が建てられた場所でもある。また、キリスト教にとっては、イエス・キリストの絶命時に神殿の幕が切り裂かれた場所だという。さらに、イスラーム教にとっては、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが昇天体験をしたとされ、紀元7世紀にウマイヤ朝のカリフ(国家最高指導者)であったアブドゥルマリクが岩のドウムを建てた場所だ。

ここで気付かされるのは、1967年の第三次イスラエル・アラビア戦争により、神殿の丘やイスラーム教徒地区を含む旧市街などの東イェルサレムをイスラエルが実効支配するようになったにも関わらず、神殿の丘の管理がイスラーム教徒の手に委ねられているという事実だ。パレスティナ支配に関する強硬姿勢が再三報道されるイスラエルではあるが、自らにとって最も神聖だと考えられる場所の管理を異教徒に認めているのは、宗教的寛容を意味しているのではないかと感じられる。また、旧市街のモスクからはアザーンが大音量で流れてきたが、日常の生活の場では、イスラーム教徒と深刻な対立に陥ることのない方策を模索しているのかもしれないという気がした。ただし、パレスティナ問題全体に関しては、平和裏に問題を解決することは至難の業だと言わざるを得ない。パレスティナがイスラエルから独立する時に首都とすることを想定している東イェルサレムは、イェルサレムのうち、宗教的な意味での核心部分をすべて含んでいるためだ。それ以外の西イェルサレムのことをナスィング(取るに足らないもの)と称した人もいた。問題は、日本人が考えるよりもはるかに深刻なのだ。

計画段階では週末にイスラエル旅行を行う予定であり、イスラエルの出国審査が午後早く終わってしまうことに注意する必要があった。結果的にはイスラエル出国日は週末とはならなかったものの、当初の計画を踏襲して午前中に出入国審査を受けることにした。イスラエルの出国審査は滞りなく受け終えたが、ヨルダンの入国審査では、またもパスポートを取り上げられたまま次の行動指示が明確に行われず、旅行者全員が大いに気を揉むということが起こった。ようやくパスポートを返してもらった場所は、パスポートを提出した場所からほど近い場所であった。そして、そこからそのまま市内に向かうことができるようになっていた。正規の入国審査を受けないまま入国する不法入国を防ぐという観点からは、適切な動線ではないように思われた。アンマーン行バスを見つけることはできず、乗合タクシーを利用することにした。

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