旅べえ > 第4部旅草子 >

←後 / 前→

中国 / ←─後 / 前─→

中国D

出発

抜粋

上海

黄山

無錫
南京

蘇州

上海2

回顧

概要

写真
明堂人民広場青年旅舎

写真
明堂人民広場青年旅舎

■上海浦東空港に到着したのは、21時半頃であった。地鉄に乗って市内に入りたかったが、夜のためか運行していないようであった。そこで、上海站に向かう機場巴士に乗り、目星を付けていた青年旅舎(ユース・ホステル)に近い南京路を降車場所として指定した。しかし、途中で運転手に降車を促された。そして、指示に従ってタクシーに乗り換えて青年旅舎に向かったが、あいにく満室であった。そこで、スタッフに近くにある青年旅舎を紹介してもらい、電話でドミトリに空ベッドがあることを確認した。そして、別のタクシーに乗って向かうことにしたが、運転手は青年旅舎の場所を完全には理解していなかったらしく、降車時に青年旅舎の場所を示してくれなかった。通行人に尋ねても要領を得ない。通りの店ではすぐ近くだと教えてくれるが、なかなか見つからなかった。結局、辺りを行ったり来たりしていた場所で見つかったが、目立たないロゴ・マークを除き、青年旅舎であることの表示が全くなく、恨めしく思った。ベッドに入った時には深夜0時半頃になっていたと思う。ホテル代が高騰している中国で宿泊料金を安く抑えるため、この旅では無錫を除く町で青年旅舎に泊まり、そのうち蘇州を除く町でドミトリを利用した。積極的にドミトリを志向して泊まったのは、初回のインド旅行以来19年振りということになるであろうか。

写真
明堂上海旅行者青年旅舎

翌日、チェックアウトを済ませると、前日満室であった青年旅舎に出向き、帰国前日のドミトリを予約しようとしたが、空ベッドはないとのことであった。個室は予約することができるようであったが、前日と同じ青年旅舎のドミトリを予約することにした。かなり人気のある青年旅舎のようだ。市内を歩いていると售票処が目に留まり、黄山に向かう当夜の快速・硬臥の切符をあっけなく買うことができた。

写真
浦東

南京東路(ナンジントンルー)や豫園を散策した後、旧共同租界の外灘(ワイタン、通称はバンド)に向かった。若いカップルが浦東に同行しないかと誘ってきたが、怪しいと考え、同意しなかった。以前は鑑真乗船者御用達であり、初回の旅で世話になった浦江飯店は、ドミトリを廃止し、1846年創業という歴史を活かして高級ホテルへと衣替えしている。また、黄浦江(フアンプージャン)対岸の浦東には世界最高層ビルディングとなる可能性もあった上海環球金融中心などの高層ビルディングが立ち並び、発展する中国の息吹を感じさせる。夜の帳が下り、イルミネイションが映える高層ビルディングに見とれていた。
写真
浦東


出発

抜粋

上海

黄山

無錫
南京

蘇州

上海2

回顧

概要

写真
黄山行火車から

■黄山(フアンシャン)市には、「黄山を見ずして、山を見たというなかれ。」と称えられている黄山、西逓(シーディ)や宏村(ホンツゥン)などの古代集落群、中心部の屯渓(トゥンシー)などがある。初めて硬臥を利用して上海から向かうことになったが、快適に過ごすことができた。到着まで切符を預かり、到着時に起こしてくれるサーヴィスはありがたい。

写真
老街

黄山站に到着すると、三輪車(サンルゥンチァ、サイクル力車)に乗って、屯渓にある旧市街の老街(ラオジエ)を目指した。趣のある落ち着いた町並みが形成されていた。宿泊先とした青年旅舎では、翌日の黄山風景区までの観光汽車(バス)を予約した。
写真
新安江

写真
西逓

当地での初日は、西逓と宏村を訪ねることとし、市汽車客運総站(総合バス・ターミナル)から出発している汽車に乗って向かった。ともに宋の時代まで遡る長い歴史を持ち、伝統を感じさせる建物が軒を連ねていた。メインテナンスに費用がかかるのかもしれないが、入場料金がともに104元(1元は約12.7円)と宿泊料金の約2倍となっていたことは残念であった。中国人は割引を受けるシステムがあるようで、形式的には外国人料金制度が廃止されたとしても、文字通りの一物一価が成立するのはまだ先のようだ。

写真
玉屏楼付近

写真
蓮花峰付近

写真
蓮花峰付近

写真
天海付近

写真
光明頂付近

写真
黒虎松付近

翌朝、青年旅舎の近くから出発する観光汽車に乗り込んだ。ミニバスだが、満員であった。ガイドは、朝食のために屋台で小籠包(シャオロンパオ)を買ってくるとよいとアドヴァイスするなど機転を利かせてくれたが、早く到着するためと称して追加料金を徴収しようとしたことは残念であった。黄山風景区の換乗中心から索道(ケイブル・カー、日本語ではロウプウェイ)站までは別の汽車に乗り換えなければならない。大勢の登山者が押しかけてきており、勝手が掴みづらかったが、黄山登山は初めてだという地元の女子生徒に案内してもらった。

慈光閣から玉屏索道に乗り、玉屏楼、蓮花峰、天海、光明頂、北海、黒虎松の順に進んでいった。標高約1,800mで黄山最高峰の蓮花峰への勾配は傾斜があり、苦労して登り下りしている人が多かった。立ち寄らないこともできるが、景観は素晴らしかった。ただ、高所のため霧がかかりやすくなってくる。雲谷新索道に乗って雲谷寺に降りた。

初めて黄山のことを知ったのは、初回の旅で旅行計画を練っていた時だ。その時以来、仙人が住む「仙境」という言葉にふさわしい神秘的な天界という印象を持ち続けてきた。おそらく索道が整備される前であったのではないかと思う。その後、索道などの整備によってアクセスがよくなり、登山者が増加したのではないだろうか。多くの人が素晴らしい景観を堪能することができるようになったことは喜ばしいのかもしれないが、代わりに神秘性は失われたようで、観光開発に諸手を挙げて賛同するわけにはいかないと感じた。

帰路は一波乱があった。往路利用した観光汽車のガイドに帰路便の予約を勧められ、汽車料金を支払っていた。出発は17時となっていた。新雲谷索道が混雑していることを想定して早目に行動したため、14時半頃には換乗中心に到着した。そのため、出発までの間、屯渓に向かう汽車をなすすべもなく何台も見送ることになった。

黄山から無錫へは、19時10分発の快速の硬座を予約していたが、黄山站までの所要時間は1時間強なので、この時点では十分に余裕があると考えていた。しかし、17時になっても予約した汽車が到着する気配はない。仕方なく屯渓に向かうほかの汽車に便乗させてもらえないかと算段していた17時半頃にようやく汽車が到着した。しかし、高速道路を走った往路とは異なり、一般道路を走ることが分かり、火車の出発時刻に間に合わないのではないかとの焦りが募ってきた。また、鳥が汽車に衝突するということがあったが、運転手が汽車を停めたためどうするのかと見守っていると、鳥をトランクに入れ、携帯電話でどこかに連絡したようであった。そして、しばらく走った後、再び汽車を止め、路上で待っていた子供連れの女性に鳥を渡していた。運転手一家の当日の夕食は鳥料理だなと想像された。そして、運転手が汽車を定刻通り走らせようとする意欲に乏しいことに対してやるせない思いを抱きながら、女性を見送った。ただ、一般道路ではあってもかなりのスピードで走ったためか、18時35分には市汽車客運総站の前を通過した。その後は黄山站か老街に向かうのではないかと期待していたが、横江を渡って站から遠ざかる方向に走り始めた。そこで、18時45分に汽車を降りてタクシーに乗り換え、18時55分に黄山站に到着することができた。間一髪であった。

出発

抜粋

上海

黄山

無錫
南京

蘇州

上海2

回顧

概要

写真
無錫站

写真
無錫站付近

■無錫(ウーシー)に向けて、硬座に乗って折り返すことになったわけだが、車内は非常に混み合っていた。そして、ついに座席の奪い合いで大喧嘩が始まった。加減ということを知らないのは国民性によるものであろうか、あるいは巷に溢れ返っている国民の中で伍していくための必要性によるものであろうか。呆気に取られながら見守った。

到着は、翌早朝5時50分であった。途中通りかかる南京も訪ねる予定であったが、到着が深夜となってしまうため、先に無錫を訪ねることにしたのだ。到着時刻を正確に把握していなかったため向かいの乗客に尋ねると、スマートフォン(高機能携帯電話)で時刻表を調べてくれた。中国でもIT産業は急速に発展しているようであり、うかうかしていると置いてけ堀に遭うかもしれない。

写真
聚豊園大酒店

当地では格安の宿泊施設を見つけることができなかった。最初は満室だと断られていたが、詳しく尋ねると外国人を泊めることはできないのだという。困っていると壮年の女性が近づいてきて、外国人を受け入れるホテルを指差してくれる。高級ホテルだ。最初は相手にしていなかったが、アドヴァイスに従わないとほかに泊まることのできる宿泊施設は見つからないという現実を受け入れざるを得なかった。
写真
聚豊園大酒店から

写真
春秋閣

「無錫旅情」でも歌われているように、当地は太湖とともにあると言うことができる。午前中はホテルでゆっくりとくつろいだ後、公共汽車に乗って必見の蠡園(リーユエン)に向かった。春秋時代の紀元前5世紀に、「呉越同舟」、「臥薪嘗胆」、「会稽の恥」という故事成語を生んだ呉越の戦いで活躍した范蠡が、「沈魚落雁」や「ひそみに倣う」という故事成語を生んだ西施とともに隠棲したことに因むという。広大な庭園と、太湖から続く東蠡湖に浮かぶ小島にある西施荘を巡った。

写真
唐城(華清池)

その後、テレビジョン・ドラマ用に造られた唐城を訪ねた。蠡園の近くにある。唐代の町並み、杜甫詩堂、華清池などが再現されていた。

写真
無錫中央車站

市内では専ら公共汽車による移動をすることになったが、地鉄の整備が急速に進んでいるようであった。

出発

抜粋

上海

黄山

無錫
南京

蘇州

上海2

回顧

概要

写真
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館

写真
標志碑

写真
万人坑遺址

写真
瞻園路付近

■南京に向けて、無錫から汽車に乗ることにした。三国時代の呉、東晋、国共内戦敗北前の中華民国などの都が置かれ、西安、洛陽、北京とともに中国四大古都と呼ばれる。現在は江蘇省の省都となっている。初回の旅では当地を訪ねることを躊躇したが、忌避する必要もないのではないかと思い直したのだ。

短時間の移動であれば汽車は火車よりも便利だと思うが、到着時が雨で道路が渋滞していたためか、中央門長途汽車総站の手前で降ろされたようだ。目印がないため現在位置が分からず困ったが、そのうちに南京站に向かう道路が見つかった。售票処では、あわよくば洛陽を訪ねることができないか確認してみたが、少なくとも当夜の硬臥は満席であった。面白いと感じたのは、站員が西安までであれば切符を確保することができると言ったことだ。中国でも顧客の志向を慮って行動することができるようになったのかと感慨深かった。ただ、出国日が近づいているこの時期にゲイトウェイから遠ざかることには慎重であるべきだと考え、蘇州までの特快・硬座の切符を買うことにした。

青年旅舎にチェックインして身軽になると、地鉄に乗って侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館に向かった。巨大な敷地に、中国が主張する30万人という遇難者数が示された標志碑、冥思庁、祭場、万人坑遺址などが並んでいた。犠牲者数や100人斬りの存在の有無を含め、日中間で事実関係についての認識の差異は大きい。日中双方が自説に固執することなく、真摯に事実関係の確認のために協力するという姿勢が必要ではないだろうか。その時、加害者としての日本の立場は忘れてはならないであろう。

青年旅舎は夫子廟に近く、周辺は多くの人が繰り出す繁華街となっている。あてがわれたのは男女共用のドミトリであった。その中に杭州で美術の教師をしているという壮年のアメリカ人女性がおり、話が弾んだ。海外旅行中のアメリカ人と会うのは、長い海外旅行経験の中でも初めてのことであったのではないかと思う。地元の人の中にも南京南站から出発するCRH(中国鉄路高速、和諧号)を利用する人が増えてきているようであった。

翌朝は、中山陵や明孝陵を見物してから出立したいと考えていたが、青年旅舎の開扉時刻を待って出かけると火車の出発時刻が近づいてきたため、途中で諦めた。

出発

抜粋

上海

黄山

無錫
南京

蘇州

上海2

回顧

概要

写真
留園

写真
運河

写真
雲厳寺塔

■蘇州(スージョウ)は、春秋時代に呉の都が置かれた町だ。運河が張り巡らされた水の都として「東洋のヴェニス」と称えられ、杭州と並ぶ江南地方の一大観光名所となっている。

切符は軟座ではなかったが、乗車する火車の関係で、南京站では軟席候車室で火車を待つことになった。ただ、賓客をもてなすような調度が整っているわけではなかった。そればかりではなく、通常の候車室とは異なり、火車別に待つわけではないため、プラットフォームへの移動を促す案内がある度に確認を欠かすことができなかった。

青年旅舎では個室に泊まることにした。当地には2泊したが、旅の疲れがあったこともあり、到着日は半日を青年旅舎で過ごすなど、急ぎ足にならないよう注意した。翌日は、自転車を借りて観光名所を巡った。10世紀に造園された蘇州最古の庭園の滄浪亭、唯一現存する城門の盤門、中国四大名園に挙げられる留園と拙政園、蘇州四大名園とされる獅子林を訪ねた。広い庭園に小気味よく池が配置され、楼閣や回廊が張り巡らされて、古の造園とは思われないような見事なものであった。広い町で自転車を走らせていると、運河と調和した町並みに心が洗われるようだ。

出立日は、公共汽車に乗って春秋時代の呉王の闔閭の陵墓である虎丘を訪ねた。東洋の斜塔とされる雲厳寺塔があるほか、起伏のある広大な敷地は陵墓というよりも山野のような趣があり、感心させられた。

出発

抜粋

上海

黄山

無錫
南京

蘇州

上海2

回顧

概要

写真
CRH

写真
CRH

■上海に戻るためには、切符購入時に特に指定したわけではなかったが、CRHに乗ることになった。售票処ではほとんど並ばずに切符を買うことができた。上海近郊区間としての位置付けのためか、自助售票機(自動券売機)で切符を買うこともできるようであった。(ただし、中国人用の身分証明証が必要とされるため、外国人は利用不可であることが後に判明した。)また、硬座と指定したが、切符には「二等座」と記されていた。確かに、リクライニング機能もある座席は、昔ながらの硬座と同一視することはできないであろう。なお、この旅の最中、隣の浙江省で起こったCRHの事故についての報道を目にしていたが、特に気にならなかった。帰国後、事故による死者が40人に上ること、当局が証拠隠滅とも取られかねない事故車両の埋め立てを行ったこと、乗客離れが起こっていることを知り、もっと慎重であってもよかったかもしれないと反省した。ただ、CRHの中でも高速の高速動車組という種類になるらしく、最高時速300kmで走るため、一旦CRHに乗車すると30分後には上海站に到着していた。

写真
上海博物館館内

青年旅舎へのチェックインを済ませると、上海博物館と南京西路(ナンジンシールー)にある上海雑技団を見物した。上海雑技団は、初回の旅で見物した時と比べると、動物の曲芸がなくなったほか、人間の曲芸もやや小ぢんまりとしたものになったように見受けられた。

写真
上海浦東空港

翌日、地鉄に乗って上海浦東空港に向かった。路線図には中心部から乗り換えることなく向かうことができるかのように記されているが、実際には広蘭路站での乗り換えが必要だ。それを知らずに降り損なってしまい、逆方向に走り始めたことを知って慌てることになった。運行時間が短いことを含め、暫定開通状態にあるのかもしれない。また、世界で唯一超高速運転を行っている磁浮(磁気浮上、マグレヴ、マグネティック・レヴィエイション、リニア・モウターカー)は、空港と竜陽路站を結んでいるが、中心部まで乗り入れないと利用しづらいのではないかと思う。

出発

抜粋

上海

黄山

無錫
南京

蘇州

上海2

回顧

概要

写真
国際青年旅舎(蘇州)

■無錫や蘇州では宿泊先で長時間の休憩を取ったため、訪ねることのできなかった観光名所もあるが、後悔はしていない。むしろ、のんびりと旅をすることの醍醐味を味わうことができたのではないかと考えている。

現地での1日平均の旅行費用(土産費を除く)は約3,900円であった。旅行費用のうち宿泊料金の最高は無錫の約4,200円(330元)で、最低は黄山の約570円(45元)であった。

韓国と比べて渡航回数の少ない中国だが、この旅のように航空券を安く入手することができるようになれば、もっと頻繁に訪ねることができるようになるかもしれない。

出発

抜粋

上海

黄山

無錫
南京

蘇州

上海2

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
21日19:30 空路 21:15 中国 上海
22日21:10 鉄路 23日08:55 黄山
24日19:10 鉄路 25日05:50 無錫
26日08:30 道路 10:45 南京
27日10:00 鉄路 12:15 蘇州
29日12:00 鉄路 12:30 上海
30日09:20 空路 13:05 日本 東京
道路 :道路、 鉄路 :鉄路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
中国 上海 明堂人民広場青年旅舎 CN.\ 55 1
黄山 小鎮国際青年旅舎 CN.\ 45 1
無錫 聚豊園大酒店 CN.\ 330 1
南京 瞻園国際青年旅舎 CN.\ 50 1
蘇州 国際青年旅舎 CN.\ 100 2
上海 明堂人民広場青年旅舎 CN.\ 55 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
中国 CN.\ 12.7円 14
内訳
521.20
内訳
808
内訳
0 1,004
内訳
通貨計 JP.\ 1.00円 178 6,630 10,278 0 12,771

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
中国 735
内訳
4.8 3,086.70 39,205 10 3,920
通貨計 9,349 61 39,205 10 3,920
(注)円換算と日平均は土産費を除く。

出発

抜粋

上海

黄山

無錫
南京

蘇州

上海2

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

旅べえ > 第4部旅草子 >

←後 / 前→

中国 / ←─後 / 前─→