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ヨーロッパB

出発

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フランクフルト

ビルバオ

カトヴィツェ

オシフィエンチム
ブラティスラヴァ

ウィーン

ブダペスト

回顧

概要

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市街遠景

■フランクフルトのフランクフルト・マイン空港へは、道中3回立ち寄ることになったが、最初の立ち寄りの時に乗換時間が6時間半程度あったため、Sバーンに乗って市内に入ることにした。券売機は、ドイツ語を理解していないとどうしてよいか分からなくなるような不親切なものであった。

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旧市庁舎広場

フランクフルト中央駅に到着すると、しばらく流線型のICE(インターシティ・エクスプレス、高速鉄道)のフォルムに見とれた後、市街に繰り出した。そして、マイン川を眺めたり、伝統を感じさせる建物が立ち並ぶ旧市庁舎(レーマー)広場を訪ねたりして時間を費やした。

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ビルバオ空港

■ビルバオ(バスク語名ビルボ)は、スペイン北部のバスク地方にあり、バスクの首都とも言うべき町だ。ビルバオ空港に到着したのはバスの運行が終わった後ではなかったかと思う。仕方なく、タクシーに乗って市内に入った。

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旧市街

ホテルは旧市街にあり、通りに出るとすぐに歴史を感じさせる建物が目の前に飛び込んでくる。ビルバオ川を渡ると一転して建物は近代的になる。アバンド駅にも足を向けた。

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グッゲンハイム美術館

グッゲンハイム美術館は、ビルバオ川を背にして建てられている。現代美術の粋といったところであろうか。不思議なオブジェをどのように理解すればよいのかと、現代美術としばらく格闘した。

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ビルバオ空港

3日目の出立は朝であった。第二次世界大戦前のスペイン内戦の舞台となり、パブロ・ピカソが大作の題材として取り上げたゲルニカも訪ねたかったが、叶わなかった。

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フェリヘジ空港

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レンタカー

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ブダペスト市街

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ブダペスト市街

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山並み(スロヴァキア)

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山並み(スロヴァキア)

■カトヴィツェは、炭鉱を背景に工業が盛んになった町だ。18世紀にプロイセン(プロシア、後のドイツ)とオーストリアが領有を巡って争ったポーランド南部のシュレージエン(シレジア)にある。ビルバオを出立した日の午後になってブダペストのフェリヘジ空港でレンタカーを借りると、早速移動を始めた。左側座席にステアリング・ホイールのあるマニュアル・トランスミッション車であった。

自動車の運転のためには詳細な地図が必要なところだが、入手することができなかった。そこで、Googleマップで縮尺の異なる地図を何枚も印刷して持参することにした。便利ではあるが、やはり市販の地図帳には及ばないようであった。

経路としては、往路はE77号線を北上してクラクフに向かった後、E40号線を西進してカトヴィツェを目指し、帰路は基本的にE75号線を南下するということにしていた。なお、ヨーロッパの主要道路には、各国独自の路線番号とは別に、Eで始まる共通の路線番号が付けられている。路線番号が2桁の偶数番号路線は東西に走り、特に下1桁が0の路線は原則として地域を横断する一方、奇数番号路線は南北に走り、特に下1桁が5の路線は同じく縦断するという付番方法は、アメリカ合衆国のインターステイト・ハイウェイと全く同じだ。異なるのは、東西路線が北から順に番号が付けられていることと、2桁番号路線の分岐である3桁番号路線の上1桁が北隣の東西路線から、中1桁が西隣の南北路線から取られることだ。ただし、ヨーロッパ共通の路線番号は便利ではあるが頻繁に表示されることはなく、多くの区間では各国独自の路線番号だけが表示されている。この最後の点はしっかりと頭に叩き込んでおく必要があった。

ブダペスト中心部では道路が渋滞していたが、郊外に出ると快調に運転することができるようになった。ただし、誤解していたことがあった。ヨーロッパ共通の路線番号が付けられた道路は高速道路に近い高規格道路なのではないかと期待していたのだが、区間によっては必ずしもそうではなかった。特に町の中心に入ってくると生活道路となっているため、速度制限が厳しくなる。当初は日の入りまでにポーランド入国を果たしたいと考えていたが、スロヴァキア(スロヴェンスコ)入国が17時10分〜15分、ポーランド入国が20時25分〜30分となってしまった。

クラクフから先は高速道路となったが、道路工事のため急に車幅減少になることがあり、夜間の運転には注意が必要であった。23時頃、ようやくカトヴィツェ市内に入ってきた。しかし、そこからが難関であった。E40号線は抜けたが、まだ別の高速道路を走っていた。そして、一般道路に出るために手こずっていると、現在位置が分からなくなってしまった。カトヴィツェ市内にいることは分かるし、目印となりそうなホテルも見えていたが、持参した地図に通り名以外の情報がほとんどないことは辛かった。一方、目の前の道路には小さく通り名が表示された道路標識があったが、とても確認しようという気が起こるようなものではなかった。そして、こちらの意思に反して右折させられたり、高速道路に戻されたりと、相変わらず方向感覚を奪うようなことが続いた。このような状況になると、方向指示器と間違えてワイパーを作動させてしまったり、クラッチ操作に失敗してエンジンを止めてしまったりと、それまでとは打って変わって運転に乱れが生じるようになった。方向指示器の右折と左折を間違えて点滅させてしまうこともあった。右折のための操作方法は、「方向指示器のレヴァーを右側に動かす」ではなく、「方向指示器のレヴァーを下側に動かす」として記憶しているのだと再認識した。

ここに至って、予約しておいたホテルに電話をかけてみようと思い立った。スタッフは目印となる最寄りのホテルを教えてくれ、到着するまで玄関を施錠せずに待っていてくれると言ってくれた。目印とされたホテルは見覚えがあるように思われたが、市内を当てもなく走り回っても辿り着くことはできなかった。そこで、再びホテルに電話をかけてみたが、何と応答がない。ホテルに辿り着くことはできないであろうと見捨てられたのかもしれない。目印となりそうな建物のネオン・サインも消え始めたようであった。

それまでの間、通行人に道を尋ねても要領を得た説明をしてもらうことはできなかった。予約したホテルが有名なホテルではないこととホテルまではまだ距離があることが理由のようであった。しかし、目印とされたホテルは有名なので、皆が知っていたように思う。バスを待っている若い男性に道を尋ねると、機転の利いた回答が返ってきた。男性が乗るバスの後をしばらく走ると、右手に目印のホテルが見えてくるというのだ。指示に従ってバスの後を走っていると、確かに目印とされたホテルが見えてきた。言葉による説明ではとても辿り着くことができないような複雑な経路であった。

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ホテル・セナトルから

しかし、まだ困難は続いていた。予約したホテルが見つかったわけではないのだ。ホテルのスタッフの説明を理解することができていたわけではなかった。目印とされたホテルの前に止まっていたタクシーの運転手に道を尋ねると、直線距離は短いが、左折ができないためか回り道をしなければならないようであった。仕方なく、タクシー料金を支払うとの条件で先導してもらうことにした。こうしてようやく辿り着いたホテルでは、幸いなことにスタッフが待っていてくれた。しかし、途中で案内を放棄されたという思いがあり、感謝の気持ちは起こらなかった。自動車の中には、地図を印刷した紙が散乱していた。

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グリヴィツェ市街

当地には3日間滞在し、2日間にわたって、ティヒ、グリヴィツェ、ウェグを訪ねた。ウェグを訪ねた時は、近くにあるオワヴァやイェルチラスコヴィツェに立ち寄ったが、訪問後に間違えてヴロツワフに向かってしまった。

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市街

■オシフィエンチムは、ドイツ語でアウシュヴィッツという。言うまでもなく、第二次世界大戦中、ナツィスのアウシュヴィッツ強制収容所があった町だ。現在はアウシュヴィッツ博物館として公開されている。ティヒから至近距離にある。

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アウシュヴィッツ博物館

収容所の入口であった門の前では、イスラエル国旗を纏った若者が記念撮影を行っていた。ユダヤ人にとって特別な場所なのであろう。

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アウシュヴィッツ博物館

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アウシュヴィッツ博物館

収容所で殺されたのは、ユダヤ人のほか、エジプトに起源を持つとしてジプシーと呼ばれてきた集団(シンティ・ロマなど)、ポーランド人などの反ナツィス活動家、ソヴィエト連邦軍などの戦争捕虜、心身障害者、同性愛者などで、その数は150万人に上るという。至近距離にあり第2アウシュヴィッツと呼ばれるビルケナウ(ポーランド語名ブジェジンカ)における犠牲者もほぼ同数らしい。

収容所における展示だが、ワシントンDCの国立ホロコースト記念博物館やプノンペンのトゥール・スレン博物館などを見物した後であったためか、戦争犯罪を断罪するということよりも、犠牲者に対して慰霊するということに主眼があるように感じた。ただし、ガイドブックを持参していなかったため、厳しく戦争犯罪を断罪している囚人棟を見逃してしまったかもしれない。

戦争や戦争犯罪の悲劇は決して忘れてはならないことだが、それが民族間の確執に繋がらないように配慮することは必要だと思う。このような博物館が建設的な未来の創造に一役買うことを願ってやまない。

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■ブラティスラヴァは、16〜18世紀にハンガリ王国の都となるなど古都として知られている。1993年にスロヴァキアがチェコスロヴァキアから独立し、首都として再び世界の表舞台に立つようになる前から、ぜひ訪ねてみたいと考えていた町だ。図らずもカトヴィツェからブダペストに戻る途中で立ち寄ることができた。

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ヤブルンコフ市街

E75号線を南下し、ブラティスラヴァに向かって進んでいく。チェコ(チェスコ)入国は8時50分〜9時、スロヴァキア入国は9時55分であった。チェコでは、ヤブルンコフに立ち寄った。街道沿いの小さな町だが、落ち着いた雰囲気が感じられた。

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トレンチーン城

スロヴァキアに入国すると、まずトレンチーンに立ち寄った。2世紀のローマ帝国の版図を示唆する石碑が発見されたというトレンチーン城を間近に眺めると、先を急いだ。

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ブラティスラヴァ城

ブラティスラヴァに到着すると、ブラティスラヴァ城を目指した。小高い丘の上にあって目印になりやすい。坂の上からはドナウ川の壮大な流れを眺めることができる。ブラティスラヴァ城は小ぢんまりとしたものだが、18世紀にマリア・テレジアの居城となるなどの歴史を持ち、地元の人に愛されていることが分かる。
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ブラティスラヴァ城から

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ブラティスラヴァ旧市街

旧市街も見所満載であった。比較的狭い範囲なのかもしれないが、伝統を感じさせる町並みが形成されていた。ただ、落書きが散見されたことは残念であった。

その後、当地を出立しようとして、誤って旧市街の車両進入禁止区域に入ってしまったようだ。警察官が近寄ってきて職務質問を受けることになった。市街を走っていたにも関わらずどこに行こうとしていたのかと尋ねられてブダペストと答えたり、罰金額を申し渡された時にスロヴァキアの通貨についての知識がない上に持ち合わせもないと答えたりしているうちに呆れられたのか、見逃してもらった。

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旧市街

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シュテファン大聖堂

■ウィーンは、20年振り2回目の訪問となった。ブダペストに戻る途中であることを考えると逆走することになるが、ブラティスラヴァからは至近距離にあるため、訪問を決断した。

目指すはシュテファン大聖堂であり、場所は簡単に確認することができたが、駐車のためのスペイスを探すために苦労した。周辺は道路が渋滞しており、歴戦の強者に交じって路上駐車に成功することは不可能なように思われた。そこで、少し離れた有料駐車場に駐車することにした。

シュテファン大聖堂の迫力は圧倒的であった。ゆっくりと過ごすことができないのは残念であった。有料駐車場は無人で運営されており、クレディット・カードがなければ出場に苦労させられたと思う。オーストリア入国は14時45分、ハンガリ入国は17時30分であり、この時間差がウィーンを訪ねるために要した時間だと考えることができる。

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ブダペスト市街

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ブダペスト市街

■ブダペストに到着したのは、20時頃であった。ゲストハウスを予約していたが、カトヴィツェよりも大きな町であるだけに、簡単に探すことができるかどうか不安であった。

市内に入ってからしばらくはどこを走っているのか分からなかったが、ドナウ川を何回か渡ってブダ側とペスト側を行ったり来たりしているうちに、ペスト側の環状道路を走っているのではないかと推測されるようになってきた。ゲストハウスがあるのは放射3号線との交差点の近くであったが、自動車の中から確認することはできなかった。そこで、目星を付けた交差点の近くで路上駐車をすると、交差点に向かって歩いていった。推測は当たっており、ゲストハウスにチェックインすることができた。ブラハ・ルザ広場駅の近くだ。

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大聖堂(エステルゴム)

日曜日に当たっていた翌日は市内見物に充て、3日目から2日間にわたって、スロヴァキアとの国境近くにあるドログとレツァグ、ブダペスト南郊外のドゥナヴァルサニーなどを訪ねた。ドログからレツァグに向かう途中、ハンガリ・カトリックの総本山エステルゴムを通る。歴史のある大聖堂や高台からのスロヴァキア領シュトロヴォの眺めが素晴らしかった。その後、ドナウ川を渡る必要があるが、ブダペストの近くまで戻らないと橋は架かっていない。そこで、ヴァーツで渡し船に乗ることにした。

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ブダペスト市街

ブダペストは、「ドナウの真珠」などと称えられるという。ウィーンと似た町並みを形成していると言うこともできそうだが、落書きが多く、一部でごみが散乱していることは残念であった。

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漁夫の砦から

ペスト側では東駅や国立オペラ劇場などを、ブダ側では王宮、マーチャーシュ教会、漁夫の砦、マーリア・マグドルナ塔などを見物した。ドナウ川と一体となって発展した町だということがよく分かる。日本人観光客も多かった。日本人にとって、中央ヨーロッパも主要な観光地になってきたのかもしれない。

4日間の滞在を終えると午前中に出立し、フランクフルト・マイン空港でトランスファーを行って、翌日の午前中に帰国した。

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■走行距離は約2,100kmであった。やはり無謀であったと言わざるを得ないであろう。ポーランド初日はクラクフに滞在し、またウィーンは訪ねないことにしておけば、少しは楽な行程になっていたかもしれない。

現地での1日平均の滞在費用は9,800円であった。滞在費用のうち宿泊料金の最高はカトヴィツェの約8,900円(215ズウォティ)で、最低はブダペストの約6,100円(35ユーロ)であった。

地域経済についても記しておきたい。ポーランドでは、クラクフなどの南部やヴロツワフなどの南西部に進出する企業が多い。これは、これらの地域が旧ドイツ領であり元々工業地帯であるため比較的社会基盤が整っていることや、ドイツなど西ヨーロッパに近いことが影響している。これに対し、北部は農業地帯であり、進出する企業は少ない。一方、ハンガリでは経済発展に伴って物価や賃金が上昇してきており、労働コスト上昇に対する対策として、企業はスロヴァキア南部やルーマニア北西部のトランシルヴァニアなど第一次世界大戦までハンガリの領土であった周辺地域からハンガリ語を話す人を採用するなどしているが、今後はハンガリよりも東方にあるウクライナなどに生産拠点を移す動きが進むかもしれない。

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前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
12日10:30 空路 13:55 ドイツ フランクフルト
20:25 空路 22:20 スペイン ビルバオ
14日07:20 空路 09:25 ドイツ フランクフルト
12:40 空路 14:00 ハンガリ ブダペスト
14:50 道路 15日00:45 ポーランド カトヴィツェ
08:30 道路 12:10 オシフィエンチム
13:10 道路 16:40 カトヴィツェ
17日07:40 道路 09:35 チェコ ヤブルンコフ
09:50 道路 13:15 スロヴァキア ブラティスラヴァ
14:15 道路 16:00 オーストリア ウィーン
16:30 道路 20:15 ハンガリ ブダペスト
21日10:00 空路 11:35 ドイツ フランクフルト
14:00 空路 22日09:00 日本 東京
道路 :道路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
スペイン ビルバオ Iturrienea Ostatua EUR. 50 2
ポーランド カトヴィツェ Hotel Senator PL.N 215 3
ハンガリ ブダペスト Agape Guesthouse EUR. 35 4

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
US.$ 120円 0 0 0 0 0
EUR. 173円 0.50
内訳
0 32
内訳
0 0
ドイツ 3.10
内訳
0 7.15
内訳
0 0
スペイン 0 21.70
内訳
0 0 7.50
内訳
オーストリア 0 0 3.90
内訳
0 0
ハンガリ HU.F 0.700円 400
内訳
8,283
内訳
10,982
内訳
0 0
ポーランド PL.N 41.2円 1
内訳
16.09
内訳
78.27
内訳
0 0
チェコ CZ.K 8.65円 0 0 10
内訳
0 0
スロヴァキア −円 0 0 0 0 0
日本 JP.\ 1.00円 0 0 0 0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 944 10,219 18,454 0 1,298

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
71.94
内訳
0 71.94
内訳
140
内訳
0 172.50
内訳
ドイツ 0 0 10.25 10,375 0.9 11,528
スペイン 100
内訳
0 129.20 22,361 1.5 14,907
オーストリア 0 0 3.90 675 0.1 6,750
ハンガリ 140
内訳
0 19,805 43,292 4.9 8,835
ポーランド 645
内訳
0 740.36 30,859 2.3 13,417
チェコ 0 0 10 87 0.1 865
スロヴァキア 0 0 0 87 0.2 433
日本 0 0 0 0 1.0 0
通貨計 76,819 0 107,735 11.0 9,794
(注)円換算と日平均は他国通貨での支払いを含む。

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春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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