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インドC

出発

ベンガルール

ハンピ

パナジ

ムンバイー

アウランガーバード
抜粋

ムンバイー2

クアラルンプール

回顧

概要

■ベンガルール(旧称はバンガロール)は、インドのIT産業の中心となっている第3の大都市だ。

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ベンガルール空港付近

ベンガルール空港に到着すると、アライヴァル・ヴィザの取得のために特別のカウンターに向かった。そもそも当地を訪ねる日本人が少ないことも影響しているのであろうが、アライヴァル・ヴィザの発行は一般的ではないようであり、入国審査官は軽口を交えながら手慣れているようには見えない手付きで手続きを進めていった。手続きが終わると、専用通路を進むことになる。イミグレイションで並ばなくてよいことはありがたかった。

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シティ・バス・ステイション

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KSRTCバス・ステイション付近

空港からは、エアポート・シャトルに乗ってベンガルール・シティ駅の近くにあるケンペゴウダ・バス・スタンドに向かった。途中で交通渋滞に巻き込まれた。ようやく到着すると、市内バスが発着するシティ・バス・ステイションが最初に目に入った。しかし、看板などを見ているうちに不安を感じるようになった。複数の文字の併記があっても、その中にローマ字がない場合があるのだ。インドに相当通暁していないと、快適に過ごすことは難しそうだ。次いで、長距離バスが発着するKSRTCバス・ステイションに顔を出したが、バスの切符を買うことは難しそうであった。そこで、旅行代理店に向かい、ホスペット行夜行バスを手配してもらった。この旅では夜行バスに4回乗ったが、すべてスリーパー(寝台車)で、そのうち後の2回はA/C車であった。

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市街

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市街

出発までの時間を利用して市内見物に出かけることにした。ベンガルール・シティ駅付近にいるということのほかは、方角も理解していなかったが、商店街を歩いているうちにどんどん賑やかになっていった。人通りの多い場所を探し出す嗅覚には優れているようだ。渋谷センター街とは異なり、モウターバイクも入り込んでいて、ごった返していた。到着したのは、シティ・マーケットの一画らしい。ヒンドゥー教寺院などがあったが、ガイドブックに掲載されているような観光名所は見物せずに旅行代理店に戻った。人の多さには驚かされたが、産業の集積地としての側面を垣間見ることはできなかった。

旅行代理店からは、オート・リクシャーに乗ってバスの乗車場所に送り届けてもらった。なお、旅行代理店でバスを待っている間、母親に連れられた女児に奉加帳を見せられ、執拗にバクシーシを要求された。既に受け取ったと称するバクシーシの額を記していたのは相場を釣り上げるためだと考えられ、好感を持つことはできなかった。

出発

ベンガルール

ハンピ

パナジ

ムンバイー

アウランガーバード
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ムンバイー2

クアラルンプール

回顧

概要

■ハンピは、ベンガルールを州都とするカルナータカ州北部の村だ。ヴィジャヤナガル王国の都であり、かつてはヴィジャヤナガルと呼ばれた。インド・マムルーク朝に始まるデリー・スルタン朝によって北インドのイスラーム教勢力が伸長した14世紀に、ヒンドゥー教勢力によって南インドで建国され、16世紀にかけて繁栄した。ムガル帝国の支配が確立してイスラーム教勢力の優勢が決定的になる前に、ヒンドゥー教勢力が反攻を見せた時代だと言うことができるであろうか。

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ハンピ・バザール付近

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サドゥーに扮した男性

ベンガルールからはホスペット行バスを利用したが、直通バスがあったかもしれない。ホスペットに到着すると、オート・リクシャーの運転手が集まってきた。最初に旅行代理店に向かうが、開店前であることが分かると、そのままハンピまで連れていってもらうことにした。そして、ハンピ・バザールにある旅行代理店で、アウランガーバードまでの交通手段を確保した。そのうちパナジまでは直通バスを利用することになる。ベンガルールではホスペット行バス切符しか手配してもらうことができなかったため、新しい町に到着する度に次の目的地までの交通手段の確保のために頭を悩ませなければならないのかと思っていたが、一安心であった。

周囲を見回すと、岩山が広がる村であることがすぐに分かる。当初は歩いて遺跡を訪ねようかと考えていたが、1日しか滞在しないため、とても無理だと考え直した。そして、オート・リクシャーを貸切で利用することにした。

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ラクシュミー・ナラシンハ寺院

ヘーマクータの丘周辺で見物したのは、サシヴェカル・ガネーシャ寺院、クリシュナ寺院、バダヴィリンガ寺院、ラクシュミー・ナラシンハ寺院、ウッダナ・ヴィラブハドラ寺院、チャンディケシュヴァール寺院、カドレカル・ガネーシャ寺院などだ。起伏があり、丘の上からは遠くの遺跡を見渡すことができる。
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ヘーマクータの丘から

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王妃の浴場

南に進むと、王宮センターと呼ばれる一画に到着する。地下シヴァ寺院(プラサンナ・ヴィルーパークシャ寺院)、ロータス・マハル、王妃の宮殿基壇(ベイスメント・オヴ・クイーンズ・パレス)、ザナーナー・エンクロウジャー、ハザーララーマ寺院、サブハ・マンタプ、王妃の浴場(クイーンズ・バス)などを見物した。廃墟とは言っても、都が置かれていた時の生活の様子を十分に伺うことができるように思う。

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ヴィッタラ寺院

折り返して北東に進むと、ヴィッタラ寺院が待っている。途中からオート・リクシャーは入れない道路になり、歩いて向かうことになる。広大な敷地に有名な山車を始め精緻な石刻が散りばめられた寺院が建っていた。
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ヴィッタラ寺院

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ヴィルーパークシャ寺院

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巨大聖牛ナンディー像

オート・リクシャーの貸切利用が終わると、まず、ヴィルーパークシャ寺院を訪ねた。当地で最古の寺院でありながら、現在でも多くの参拝者が詰めかけているという。次いで、マータンガの丘に登った。中腹で石細工職人から置物の土産を買った後、さらに上を目指していると、職人の弟がついてきて、アチュタラーヤ寺院まで案内を受けることになった。丘の上は治安がよくないと言われているが、途中まで警察官が同行してくれた。マータンガの丘に戻ろうかという頃、弟はガイド料を要求してきた。「数千ルピー(1ルピーは約1.80円)を欲しいとは言わない。」と強気の態度であった。それに対し、兄は石細工を作るために2日を費やしているのに対価ははるかに少ないことと、弟が勝手にガイドを行ったことから、謝礼は少額になると説明した。弟は、兄と交渉するよう主張してきたが、そのような立場にないことを説明し、少額の紙幣を握らせて立ち去った。
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マータンガの丘から

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ハンピ・バス・スタンド

パナジに向けて、2日連続して夜行バスに乗ることになるため、その前に汗を流したかった。オウナーの妻君が日本人だというゲストハウスで相談すると、シャワーだけの利用は認められないとのことであった。ただ、ドミトリの料金が安かったため、宿泊料金を支払ってシャワーを利用させてもらうことにした。もっと長居したいところであったが、やむを得ないと諦め、ハンピ・バス・スタンドに向かった。

出発

ベンガルール

ハンピ

パナジ

ムンバイー

アウランガーバード
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ムンバイー2

クアラルンプール

回顧

概要

■パナジ(パンジム)は、インド最小のゴア州の州都であり、ゴアとも呼ばれる。そして、ゴア州は、16世紀にポルトガルの植民地となってから発展し、インドに統合されたのがようやく1961年になってという異色の歴史を持つ州だ。

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パーク・レイン・ロッジ

ガダムバ・バス・スタンドに到着すると、中心部に向かいながら宿泊先を探した。Wi-Fiの整備されたホテルは高かったため、ゲストハウスを探してチェックインした。通りにはカラフルなコロニアル風の家屋が立ち並んでいる。

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ボム・ジェズ教会

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聖アウグスティン教会

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ポルトガル総領事館付近

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ティー/チョコレイト・ケイク

郊外のうち、最初に向かったのはオウルドゴアだ。ガダムバ・バス・スタンドから市内バスを利用することにした。乗車場所は分かりづらいものであったが、乗車が呼び掛けられていたため、迷わずに乗ることができた。到着すると、フランシスコ・ザビエルの遺体が安置されているボム・ジェズ教会を手始めに、聖フランシス教会、セ・カテドラル、聖アウグスティン教会などを訪ねた。カトリック布教初期のもののようだ。

前後するが、オウルドゴア訪問中、スマートフォンが故障していることに気付いた。ゲストハウスでの着替え中に硬い床に落としてしまったことが原因のようだ。帰国後に分かったのは、ディスプレイに罅が入り、入力デヴァイスとして機能しなくなったということだ。内部は正常に起動しているのに操作することができないというのはもどかしい。それはともかく、スマートフォンにダウンロウドして持ち歩いていたガイドブックを読むことができなくなってしまった。2年前までメインとして使っていたスマートフォンも持参していたが、そちらにはインドのガイドブックをダウンロウドしていなかった。そこで、Wi-Fiの整備された施設を探したが、簡単には見つからない。ホテルでは、非宿泊者に有料でWi-Fiを利用してもらうようなサーヴィスは提供していないと言われた。次に念頭に浮かんだのはレストランだ。しかし、利用者が少ないためか、店先ではWi-Fiが整備されていることは明示されていない。そのため、通りを歩きながら、電波を検出したレストランに入店して利用の可否を尋ねるしかなかった。電波を検出することのできるレストランはごく僅かであり、しかも電波が安定していないため、ガイドブックのダウンロウドには成功しなかった。そこで、インド政府観光局を訪ねると、喫茶店を紹介してもらうことができた。喫茶店は、ポルトガル総領事館を横目に市街を見下ろしながら登っていく高台にあった。そこで、インド社会とは別世界の贅を尽くした喫茶を楽しみながら、ガイドブックのダウンロウドに成功した。

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カラングート・ビーチ付近

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カラングート・ビーチ

当地での2日目は、市内バスに乗ってカラングート・ビーチに向かった。1960年代に既成の価値観を否定した生活を志向したヒッピーが集まったという。双璧を成すアンジュナ・ビーチとどちらを訪ねるか迷ったが、地元の人も多いというカラングート・ビーチを選んだ。土産店からタトゥー(刺青)・ショップまで多くの店が軒を連ねていた。ビーチに出ると、地元の人が集まっていた。ただし、モンスーン・シーズンで海がしけているため、遊泳は禁止されていた。足を水に浸すことさえほとんどできなかった。季節柄雨が降っても気にかけていなかったが、ビーチで遊ぶことができないのは、一部の旅行者にとっては大いに価値を損なうことであろうから、明確なオフ・シーズンとなっているのであろう。また、1960年代の面影が残っていないのはやむを得ないところであろうか。

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マーケット(ヴァスコ・ダ・ガマ)

翌日は、ムンバイーに向けて出立する日だ。パナジからダボリム空港への直通バスはなく、ヴァスコ・ダ・ガマで乗り換えることになる。ヴァスコ・ダ・ガマでは、マーケットやヴァスコ・ダ・ガマ駅など、観光名所ではない市街ばかりを見物した。しかし、祭りの最中かと見紛うような露天商を目の当たりにすることができた。その後、空港に向かった。とは言え、空港の敷地内に乗り入れてくれるわけではないため、降り損なわないように気を付ける必要がある。

出発

ベンガルール

ハンピ

パナジ

ムンバイー

アウランガーバード
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ムンバイー2

クアラルンプール

回顧

概要

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チャトラパティ・シヴァージー空港

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サンタクルズ駅

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ダーダル駅

■ムンバイーは、パナジからアウランガーバードに向かう時に経由することになる。スパイス・ジェットのフライトを利用し、チャトラパティ・シヴァージー空港(旧サハール空港)に到着した。ムンバイー方面の雨のため、1時間の遅延であった。夜行バスの出発時刻まで時間があったため、一旦市内に入ることにした。オート・リクシャーに乗って空港の最寄駅に向かいたかったのだが、乗場がすぐには分からなかったため、やむを得ずプリペイド・タクシーを利用することにした。プリペイド・タクシーは、固定料金制とすることによって料金支払のトラブルを防ぐことを目的としていると考えられる。それなのに、バクシーシという名前のティップの支払いを要求され、感情を害された。

向かったのは、サンタクルズ駅だ。しかし、切符売場が見つからないまま通路を進んでいくとプラットフォームに出てしまった。列車にはドアがないため、乗客は停車する前に列車から降りている。超満員なのかと危惧したが、それほど混雑しているわけではなかった。列車案内表示は分かりやすものではなかったが、何とか列車に乗ることができた。2等列車だ。ダーダル駅で、ウェスタン・レイルウェイから目指すチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(CST駅、旧ヴィクトリア・ターミナス駅)の属するセントラル・レイルウェイに乗り換えようとしたが、通路上で駅員に呼び止められ、無賃乗車だと咎められた。そして、罰金を徴収された。

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チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅

チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅に到着した時には、ハンピの旅行代理店で予約を提案されたアウランガーバード行列車の出発時刻を過ぎていた。旅行代理店の提案に従っていれば立ち往生するところであった。列車は乗換時間が短いため敬遠したのだが、危険回避能力の賜であろう。アウランガーバードから戻った後、当地を余裕を持って歩くことができるよう、目当てのゲストハウスを確認しておきたかったが、雨が降っており、また夜行バスの出発時刻が近づいてきたため、見送ることにした。

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バス・スタンド

バスの乗車場所は、アンデーリー周辺だという。具体的な乗車場所は電話で確認することになっていた。そこで、アンデーリー駅でオート・リクシャーの運転手に電話してもらい、確認した場所に向かった。到着した場所には運行会社のカウンターはなく、しかも出発が1時間の遅延になったため、小雨の中、道路で延々とバスを待たなければならなかった。さらに、変更後の出発予定時刻になってもバスは姿を見せない。そして、バスの停車場所は一定しない。カウンターのある別の運行会社のスタッフに電話をかけてもらって車両番号を教わったが、バスが到着する度に番号を確認するために右往左往しなければならなかった。ヨーロッパ系の若い二人連れの女性も同じような状況に置かれていた。ようやく到着したバスには、既にほとんどの乗客が乗り込んでいた。始発場所はムンバイー中心部であったのではないかと思う。ハンピの旅行代理店では、空港に近く便利だと考えてアンデーリー周辺を乗車場所として指定してくれたのであろうが、外国人にとって利用しやすいかどうかを乗車場所を決める時の優先基準としてもらいたかった。

出発

ベンガルール

ハンピ

パナジ

ムンバイー

アウランガーバード

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ムンバイー2

クアラルンプール

回顧

概要

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ホテル・パーンチャヴァティー

■アウランガーバードは、ムガル帝国のアウラングゼーブに因んで命名された。石窟寺院のエローラやアジャンター訪問のゲイトウェイとなる。前述したようにムンバイーから夜行バスに乗り、日付が変わって、初めての適用となる山の日にセントラル・バス・スタンド付近に到着すると、例によって集まってきたオート・リクシャーの運転手に、目指すホテルに向かうよう依頼した。

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ビービー・カ・マクバラー

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パーンチャッキー

チェックインを済ませ、ムンバイー行夜行バスを予約すると、先にエローラに向かうことにした。セントラル・バス・スタンドに停車している市内バスの行先はよく分からなかったが、その中に、英語でエローラと行先案内の書かれた小奇麗なバスがあった。トゥアー・バスとのことであったが、あまり考えずに乗ることにした。ほかにはムンバイー在住だという年配の男性が乗っているだけであった。トゥアー・バスは、エローラに向かう前にアウランガーバード内外の観光名所を巡っていく。アウラングゼーブ妃の墓であるビービー・カ・マクバラーはミニ・タージとも呼ばれるが、全面大理石のタージ・マハルとは比べようもなく、外観が似ているだけにかえって哀愁を感じさせる。次いで、製粉機の動力源となる水車パーンチャッキーと、戦勝記念塔チャーンド・ミーナールが聳える砦ダウラターバードを見物したが、エローラの見物が待ち遠しい。男性と相談して、エローラ到着時刻を早めてもらった。

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第10窟

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第15窟側から眺めた第16窟

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第16窟

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第32窟

エローラに到着すると、まずレストランで腹ごしらえだ。男性はチャパーティと漬物のようなものを持参していた。このような時に限ってスペシャル・ターリー(定食)を注文してしまい、男性の食事との不釣り合いのために決まりの悪い思いをした。それなのに、男性はチャパーティを千切って手渡そうとしてくるのだ。

石窟寺院は7〜8世紀の仏教衰退期に造営された第1窟〜第12窟の仏教石窟群、6〜9世紀に造営された第13窟〜第29窟のヒンドゥー教石窟群、9世紀頃に造営された第30窟〜第34窟のジャイナ教石窟群から成る。仏教石窟には、ストゥーパを祀るチャイティヤ窟(塔院)の第10窟と、僧侶の住居であったそれ以外のヴィハーラ窟(僧院)があるそうだ。まず第1窟まで進み、入口方向に引き返しながら見物した。広大な第5窟、チャイティヤ窟の最高峰とされる第10窟、3層構造になっている第11窟と第12窟など、見所が盛り沢山だ。

ヒンドゥー教石窟では、何と言ってもエローラ最大の見所である第16窟(カイラーサナータ寺院)が群を抜いている。完成までに1世紀を要したというが、このような規格外の石窟が本当に1世紀で完成するのかと不思議に思う。また、ほかの石窟を含めて内部の彫刻は生き生きとしている。第27窟まで来ると、第29窟に通じる通路が閉鎖されていたため、一旦西側を通っている道路に戻ってから訪ねた。入口からは分からないが、奥行きのある石窟だ。

この時点で、2時間半の見物時間が過ぎていた。同行の男性は写真撮影に手間取り、進行が遅くなっていた。ジャイナ教石窟の見物は諦めなければならないかと覚悟したが、男性は大丈夫だという。ジャイナ教石窟はヒンドゥー教石窟から離れているため、巡回バスを止めて連れていってもらった。2層になっている第32窟は特に見応えがあり、集合時刻に間に合わなくなっても足を伸ばす価値があった。

トゥアー・バスに戻ると、ヒムローという織物の展示・販売場に立ち寄ってからアウランガーバードに戻った。結果的にトゥアー・バスの利便を十分に利用することができ、満足している。

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第1窟

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第26窟

翌日は、市内バスに乗ってアジャンターに向かった。見物時間を確保しようと早朝出発したため、営業開始前に到着してしまった。すると、年配の男性が現れ、息子を紹介された。土産店を営んでいるという。まだほかの土産店の開店前であり、比較をすることができないため、本来は買い物を始めるべきではなかったが、上手に言いくるめられてしまった。そこからシャトル・バスに乗って石窟寺院に向かうことになる。

石窟寺院は、蛇行するワーグラー川に沿って並んでいる。エローラと同様にチャイティヤ窟とヴィハーラ窟から成る。中程にある石窟寺院の中で、ストゥーパに目を見晴らされる第9窟と第10窟、素朴な仏像が並ぶ第12窟や第13窟などは上座部仏教期の紀元前1世紀頃に造営された前期窟だ。そして、それ以外の石窟寺院は大乗仏教期の5世紀頃に造営された後期窟だ。その中でも圧倒的に有名なのが第1窟にある蓮華手菩薩という壁画だ。法隆寺金堂の壁画などのモデルになっているという。第26窟のストゥーパや涅槃仏などまで見終わると、ワーグラー川対岸の見晴らしのよい丘に登った。長年にわたって石を穿ち続けた苦労が偲ばれる光景であった。
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第18窟から

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石窟群遠景


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市街

アウランガーバードに戻ると、出立までの時間を利用して市内見物をした。旧市街に向かいたかったのだが、間違えてハム川の方に向かってしまったようだ。それでも、露天で売っている果物、山羊、飼い主がいるのかどうか分からない豚などを目にすることができた。アウランガーバード駅では、裏手の空地で生活している一団を目にした。夜行バスの乗車場所は広く、また始発場所であったため、乗車するバスが分からなくて悩まされるということはなかった。

出発

ベンガルール

ハンピ

パナジ

ムンバイー

アウランガーバード
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ムンバイー2

クアラルンプール

回顧

概要

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チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅

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チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅

■ムンバイーは、人口1,000万人を超えるインド最大の都市で、アウランガーバードなどを含むマハーラーシュトラ州の州都だ。国際空港とターミナル駅に冠されている「チャトラパティ・シヴァージー」は、17世紀にマラーター王国を建国して、不寛容政策を採るアウラングゼーブと対峙した国王だ。マラーター王国は、その後マラーター同盟の母体となり、18世紀から19世紀にかけてのマラーター戦争でグレイトブリテン(後にグレイトブリテン・アイルランド連合王国)に敗れて解体されたが、外国勢力の介入がなければムガル帝国に取って代わる勢力となり得る存在であったのであろう。特にマラーター同盟の中心勢力であったマラーティー人が集住するマハーラーシュトラ州において、シヴァージー王(シヴァージー・ボーンスレー)が統合の象徴として扱われるのはもっともなことだと思う。

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タージ・マハル・ホテル

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エレファンタ島石窟寺院

アウランガーバードからの夜行バスでは、チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅で降車させてくれるよう依頼していたが、実際に降車したのは2〜3km北であったようだ。チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅まで歩いた後、インド門に向かう市内バスに乗った。当初の予定を変更してタージ・マハル・ホテル付近のホテルに泊まることとし、アウランガーバードのホテルで電話をかけて予約してもらっていた。当地は宿泊料金の高さで悪名高いため、宿泊先は慎重に選ぶ必要がある。チェックインして部屋で一休みした後、フロントに顔を出すと、ちょうどチェックインしたばかりの若い日本人女性がおり、一緒にエレファンタ島を訪ねることになった。デリー郊外のグルガオンにある日系企業の現地採用社員だという。目玉は6〜8世紀に造営された5窟の石窟寺院だ。多くの石窟がポルトガル人によって破壊されたと聞くと、愚かな行為にもの悲しくなる。帰路、ドリンクを猿に取られた。猿は、木の上に登って安全を確保すると、器用にキャップを開けてドリンクを飲んでいた。取られたのがカメラでなくてよかった。

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博物館

翌日は、チャトラパティ・シヴァージー・マハーラージ・ヴァツ・サングラハラヤという博物館を訪ねたり、チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅まで歩いたりした。その後、高級な海鮮料理店で女性とともに夕食を堪能した。

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サンタクルズ駅

夕食を終えると、別のターミナル駅であるチャーチゲイト駅まで歩き、サンタクルズ駅まで列車に乗った後、オート・リクシャーに乗り換えてチャトラパティ・シヴァージー空港に戻った。サンタクルズ駅では、東西どちらの出口とも、切符売場は見当たらなかった。地元の乗客以外の利用を想定していない駅であり、往路は空港の最寄駅としてアンデーリー駅に向かうべきであったようだ。エアポート・ロウド・メトロ駅−アンデーリー駅間で地下鉄を利用するという選択肢もあったかもしれない。日付が変わってから出立した。

出発

ベンガルール

ハンピ

パナジ

ムンバイー

アウランガーバード
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ムンバイー2

クアラルンプール

回顧

概要

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マスジッド・ジャメ駅前

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マスジッド・ジャメ駅前

■クアラルンプールでは、乗換時間が4時間程度あったため、KLIAエクスプレスに乗って市内に入ることにした。立ち寄ったマスジッド・ジャメ駅付近に限って言うと、町並みが大きく変化したということはなさそうであった。

羽田空港到着は40分遅れであった。後で調べてみると、最適な乗り換えをすると自宅の最寄駅に向かう終発列車に乗ることができたところであったが、スマートフォンが故障していたため経路検索のためのアプリケイションを参照することができず、自宅から遠い駅で乗り換えに失敗して立ち往生するリスクを避け、山手線の駅の中で最も自宅に近いと思われる駅に向かうことにした。そして、タクシーに乗り、日付が変わっての帰宅となった。

出発

ベンガルール

ハンピ

パナジ

ムンバイー

アウランガーバード
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ムンバイー2

クアラルンプール

回顧

概要

■観光と食事をともにした女性からは、デリーの生活について話を聞いた。前回の渡航で朝のラッシュ・アワー時間帯のメトロに乗った時、クトゥブ・ミーナール方向から中心部に向かう上りではなく逆の下りが非常に混雑していたため不思議に思ったところであったが、郊外のグルガオンに通勤する人が多いのだそうだ。

現地での1日平均の旅行費用(土産費を除く)は約4,700円であった。旅行費用のうち宿泊料金の最高はアウランガーバードの約2,300円(1,250ルピー)で、最低はハンピの約180円(100ルピー)であった。ハンピの宿泊料金は、初回のヨーロッパ旅行以来の海外渡航の中で5番目に安いものであった。ただし、実際に宿泊したもののみで比べると、最低はパナジの約1,400円(750ルピー)であった。

久し振りに本格的なインド旅行を行うことができて大いに満足している。東アジアと比べると渡航費用は高くなるが、訪ねてみたい町はまだ多く残されている。初回の旅で訪ねた町の再訪も行いたい。次の機会を待つこととしよう。

出発

ベンガルール

ハンピ

パナジ

ムンバイー

アウランガーバード
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ムンバイー2

クアラルンプール

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
5日23:50 空路 6日05:30 マレイシア クアラルンプール
10:00 空路 11:15 インド ベンガルール
22:50 道路 7日06:50 ホスペット
06:55 道路 07:30 ハンピ
19:25 道路 8日06:25 パナジ
10日14:15 空路 15:15 ムンバイー
22:15 道路 11日07:30 アウランガーバード
12日05:45 道路 08:00 アジャンター
14:20 道路 16:50 アウランガーバード
22:40 道路 13日06:50 ムンバイー
15日02:25 空路 10:15 マレイシア クアラルンプール
14:50 空路 23:10 日本 東京
鉄路 :道路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
インド ハンピ Kalyan Guest House IN.R 100 1
パナジ Park Lane Lodge IN.R 750 2
アウランガーバード Hotel Panchavati IN.R 1,250 1
ムンバイー Carlton Hotel IN.R 1,200 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
マレイシア MY.R 29.8円 0 69.65
内訳
107.20
内訳
0 0
インド IN.R 1.80円 2,250
内訳
3,732
内訳
11,248
内訳
40
内訳
3,823
内訳
日本 JP.\ 1.00円 0 0 0 0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 4,053 8,780 23,454 72 6,886

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
マレイシア 0 0 176.25 5,251 1.2 4,376
インド 4,650
内訳
2,300 28,043 46,369 8.8 5,269
日本 0 0 0 0 1.0 0
通貨計 8,376 4,143 51,621 11.0 4,693
(注)円換算と日平均は土産費を除く。

出発

ベンガルール

ハンピ

パナジ

ムンバイー

アウランガーバード
抜粋

ムンバイー2

クアラルンプール

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概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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