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タイ

出発

バンコク

チェンマイ

抜粋
スコータイ

回顧

概要

■バンコク(曼谷、正式名称は「天使の都」を意味する「クルンテープ」で始まる長い言葉)のドーン・ムアン空港(バンコク空港)に到着したのは、22時頃であった。そして、入国手続を終えた時には23時頃になっていた。このフライトの運航時刻が遅いのは、アメリカ合衆国の都市を始発としているためらしい。既に列車や市内バスなど市内に向かう安価な交通機関の運行は終わっており、市内に入っても簡単に宿泊先が見つかるという保証はない。バジェット旅行の第一関門だ。幸いなことに近代的な空港であったため、迷った末に空港で夜を明かすことにした。24時間営業のカフェテリアで持参のラディオを聞きながら、夜食を取ったり、ガイドブックを読んだり、荷物の整理を行ったりして時間を費やした。そして、翌早朝になって列車に乗って市内に入ることにした。ドーン・ムアン駅は、近代的な空港とは対照的に国際空港の最寄駅とは思われないような田舎駅であり、不安が頭をよぎった。4時半頃発の列車の3等席に乗り、30分程度でフアラムポーン駅(クルンテープ駅)に到着したが、まだ夜は明けていない。薄暗い駅で多くの人がたむろしている様を見ていると、無事に旅ができるであろうかと不安が増幅してきた。

辺りが明るくなるのを待ち、駅に荷物を預けて市街に出かけた。ワット・トライミット、ワット・スタット、ワット・スラケッ(ワット・サケット)など、市内に散在している寺院を横目にチャイナ・タウン(中国人街、中華街)のヤワラー(ヤオワラート)通りを歩いていくと、市街は次第に活気付いてきた。長旅の日本人が溜り場にしている地域だ。さらに進んで政府観光局(TAT)に立ち寄った後、ヨーロピアンが好むゲストハウスが集まっているカオサン通りに向かった。街路にはモダンなレストランなどが並び、まるで欧米諸国の租界(不平等条約により中国に設けられた治外法権付きの外国人居留地)のようだ。ヨーロピアンが開発した地域だと言ってよいであろう。

通りに面した旅行代理店に入り、旅程を練った。この時点では、農村色が豊かな東北(イサーン)、チェンマイなどの北部を訪ねることのほか、東北のノーンカーイからメコン川を船で渡ってラオスの首都ヴィエンティアンを訪ねることも選択肢にあった。しかし、ラオスのヴィザ取得は、所用日数と手数料のどちらの点から見ても難しくなっていた。ヴィエンティアン訪問は諦めざるを得ず、チェンマイに向かう当夜のバスを予約することにした。タイでも韓国と同じく都市間の移動のためにはバスがポピュラーだ。旅行代理店のスタッフは、タイに軍事的脅威を与えている周辺の社会主義諸国に対してよい心証を持っていないようであった。

写真
ワット・アルン

レストランで昼食を取っている時、若い日本人男性に声をかけられた。タイへのリピーター(再訪者)だという。そして、チェンマイからのトレッキング(山歩き)が素晴らしいと勧められた。その後、店に入ってきた二人連れの日本人女子学生とともに3人で王宮とワット・プラケオ(エメラルド寺院)を見物した。初めての海外旅行で、2週間にわたってチェンマイなどの北部やハットヤイ(ハジャイ)などの南部を中心に観光するという。次いで、二人と別れてワット・ポー(涅槃仏寺)や、トンブリーにあるワット・アルン(暁の寺)などを見物した。タイの寺院はどれも非常に煌びやかで、簡素を旨とする日本人の常識で考えると戸惑ってしまう。これは、現世に極楽を求めるというタイ人の気質によるものかもしれない。涅槃仏(リクライニング・ブッダ)も、横たわった姿勢が悟りを意味するとはいうものの、日本であれば受け入れられなかったのではないだろうか。ワット・アルンは、帰路、チャオプラヤー川(メーナーム・チャオプラヤー)を渡る渡し船から見た眺めが素晴らしかった。ワット・アルンへの往路はバスを利用したが、運河に囲まれたトンブリーのうらぶれた町並みが印象的であった。

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プーム

見物が終わると、初めての経験となる帰国便のリコンファームのためにノースウェスト航空のオフィスを訪ねた。電話がなかなか繋がらず、昼食をともにした男性にもバンコクでのリコンファームに際してはオフィスを訪ねた方が確実だとアドヴァイスされたためだ。ノースウェスト航空のオフィスのあるラーチャダムリ通りやそれと交差するプルンチット通りには、日本資本の百貨店を始めとして見違えるほど洗練されたビルディングが並んでいる。一方、通りの一角にあるプーム(祠)では、ヒンドゥー教の神に対する奉納のための華やかな古典舞踊を見ることができ、新旧文化のコントラストが興味深かった。リコンファームに際しては連絡先を尋ねられて困ったが、ガイドブックに掲載されていたホテル名を適当に答えておいた。

首都は正に喧噪の町だ。ラッシュ・アワーには往来を様々な車が数珠繋がりに走り、いたる所で活気に満ち溢れていた。市内移動のためにはバスを多用した。最初は乗車のタイミングが掴むことができなかったが、ドアがないため地元の人はバスのスピードが落ちるとバス停留所でなくても乗り降りしている。また、料金も2バーツ(1バーツは約5.86円)からと安いため、バス路線を市内地図で確認すると、乗り間違えたり降り損なったりしたら乗り直せばよいのだという軽い気持ちで臨むことにした。実際、別方向に向かうバスに乗ってしまったり、発車後に乗り間違いに気付いて慌てて飛び降りたりするということもあった。一方、急いでいる時や道路が渋滞している時にはトゥクトゥク(三輪タクシー)が心強い。駅で荷物を受け取ってからカオサン通りに戻る時に利用した。トゥクトゥクの排気ガスが客席に舞い上がってくることには閉口したが、小回りが利き、自動車の間を縫って機動的に走ってくれた。

出発

バンコク

チェンマイ

抜粋
スコータイ

回顧

概要

■チェンマイは、北部最大の町であり、古都としても有名だ。宵にバンコクの旅行代理店をワゴンに乗って出発し、途中でほかのグループと合流してトゥーリスト・バスに乗り換えた。乗客はまばらで、ほとんどがヨーロピアンであった。前の座席に座っていたフィリピン人と称する若い男性と親しくなり、歓談した。そのうちにウィスキーを勧められた。睡眠薬混入の危険があると考えて断ったが、その前にアルコール飲料は好きだと答えていた言質を捉えて執拗に勧めるため閉口した。その後はよそよそしくなってしまった。深夜にドライヴ・インで夜食を取り、翌朝の到着となった。

バスを降りると、乗客はいくつかのグループに分けられた。そして、日本語を話す若いブリティッシュ男性とともに、荷台を座席に改造してあるヴァン(小型トラック)に乗り込むことになった。ゲストハウスの前で降ろされたが、事情を理解することができなかったためブリティッシュに尋ねると、トゥーリスト・バスの料金に1泊分の宿泊料金が含まれていたのだそうだ。旅行代理店に支払った料金は180バーツに過ぎなかったため、ドミトリとは言え全く予想外のことであった。市内から北東部にあるチェンマイ・アーケイドというバス・ステイションに向かう方角にあるワット・ケート・カーラームの近くだ。

朝食中、ゲストハウスのオウナーの妻君に2泊3日のトレッキング・トゥアーへの参加を勧誘された。当初は当地では市内見物を予定していただけであったが、バンコクで勧められていたこともあり、壮大な自然を満喫することができるのではないかと期待してすぐに参加を決断した。同行してきたブリティッシュは翌日に参加するという。

バックパックや貴重品はゲストハウスに預かってもらってデイパックだけを持ち、ヴァンの荷台に乗ってすぐに出発することになった。途中でほかのゲストハウスに立ち寄ってトゥーリストを拾いながら進んでいった。

同行したトゥーリストは、ブリティッシュ・カップル2組、ドイツ人男性、ベルギー人男性、連合王国在住のインド人男性と、7人の若者であった。ほかに若いフランス人女性がいたが、後でトゥアー・コンダクターであることが分かった。チェンマイに長期滞在しているそうだ。英語が得意でないベルギー人は、フランス人に通訳をしてもらうことができると知って喜んでいた。途中、買い出しのために立ち寄った町で昼食を取った後、山道を駆け上がっていった。3時間程度走ってからヴァンを降り、山歩きを始めた。途中でかなり急な上り坂が果てしなく続いていることがあり、ドイツ人は「クレイジ」と不満を連発していた。

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モン族の女児

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集落

夕方、ようやく目指すモン族(俗称はメオ族)の村に到着した。美しい刺繍の施された民族衣装を着た子供達が無邪気に遊んでいる。しかし、外国人旅行者が足を踏み入れるのに伴って村の観光化が進むことは避けられないようだ。村の主要産業は観光だと陰口を叩く人もいるほどだ。まず、小さな村に数組ものトゥアーが同時に押しかけてきていることに驚かされた。村は交通が遮断されているわけではなく、フランス人などヴァンに乗って上ってきた人もいたようだ。また、広場の前に山岳民族の村には不釣合いな雑貨店があったが、トゥーリストの一人がそこで菓子を買って子供達に与え始めた。子供達はそれをねだって寄ってくる。それを見ていると、素朴な生活を送っていた山岳民族を否応なく西洋の物質文明に巻き込んでいるようで、釈然としない思いが残った。

トゥーリストのためにあてがわれたのは高床式の山小屋であった。トゥアー中の食事はフランス人が用意してくれた。電気もガスも水道も通じていない村でランプの光を頼りにして取る食事は格別であった。トゥアー中の2回の夕食は中国料理(中華料理)風のかけご飯、同じく朝食はサンドウィッチ、昼食はヌードルであった。

トゥアー2日目も山歩きで始まった。トゥーリストは各々のペイスで歩き、先頭が見えなくなっても気にしないところは、いかにも個人主義が浸透しているヨーロピアンらしく思われた。午後になって、象の背中や首に揺られて山を下った。象は行程を知っているらしく、自ら前に進んでいく。背中には座席が設けられているが、首には直接乗ることになり、大きな耳が間近に迫ってきて象に乗っているのだという強い実感を得ることができた。ただし、象が川に入る時に前のめりになることが難点だ。3時間程度でカレン族の村に到着した。川で泳ぐなどして遊んでいると、夕方から激しい雨が降り始めた。

夕食時には、各々の出身国の文化などについて話が弾んだ。すぐにファースト・ネイムで呼び合う仲になることができるというのは素晴らしいことだと感じた。そして、この時以来、英語で「はい」と言う時に、「イエス」ではなく、ブリティッシュ達が使っていた俗語の「ヤー」という言葉が口をつくようになってしまった。また、泊まった小屋には、英語のほか片言のフランス語や日本語を話すかわいい女児がおり、ドイツ人に挨拶をすることができるよう「ダンケ・シェーン(どうもありがとう)」という言葉を教えてあげるなど、楽しい一時を過ごした。

■北部はラオス、ミャンマーとの国境のゴウルデン・トライアングルに広がる芥子の産地に近く、ドラッグ(麻薬)の入手が容易だと言われている。はたして、1晩目にはマリファナ(大麻)が、そして2晩目にはオピウム(阿片)がトゥーリストに供された。驚いたことに、トゥーリストの過半数がマリファナを吸い始めた。ドイツ人は、タバコを吸う感覚と変わらないと言っていた。一方、オピウムは常習性があるとのことで、さすがに手を出すトゥーリストはいなかった。

3日目は、朝から2つの筏に分乗して川下りをした。それぞれガイドが先頭に立ち、トゥーリストも竿を持って漕いだ。最初のうちは靴が濡れないようにしたいなどと考えていたが、前夜の大雨のため川の流れは速く、次第にそれどころではないことが分かってきた。ガイドがタイ語で「右、左」と号令するのに合わせて必死に竿を漕いだ。ところが、しばらくするとガイドの動きがおかしくなる。何とか着岸すると、そのまま動かなくなってしまった。オピウム中毒らしく、別の筏を操っていたガイドが様子を見るために駆け付けてきたが、倒れたガイドの口の中にオピウムらしきものを入れていた。しかし、回復しそうになかったため、オピウム中毒のガイドはそのままそこに休ませておくことになった。

ガイドが一人になってしまったため、トゥーリストの大半はガイドのいる筏に移り、ブリティッシュとベルギー人の二人の男性が勇敢にも元の筏に残った。しかし、ガイドを伴わずに筏を操ることは難しかったらしく、そのうちに岩に衝突してしまう。二人は川に投げ出されてしまったが、こちらの方が先行していたため急流に妨げられてすぐに救出に向かうことはできなかった。筏を失った二人は岸に上がり、薮を掻き分けながら川に沿って進んだようだ。ようやく木の枝に捕まって筏を止めると、ガイドは二人を探すために川を遡っていき、トゥーリストは皆で二人の名前を大声で呼んだ。しかし、二人を見つけることはできず、昼頃から降り始めていた雨は次第に激しくなってきた。雨季に当たっているのだ。仕方なく、捜索を一時中断して下流に向かうことになった。定員オウヴァーであったため、こちらも容易な航行ではなかった。ガイドは遭難した二人が漕いでいたと思われる筏を見つけてきて、元の筏と重ねることによって荷重に耐えるよう補強したが、十分に安全になったわけではなかったようだ。激しい雨が降り続く中、急流の区間はガイドだけを筏に残してトゥーリストは陸路を進んだり、何回も川に落ちて肩まで水に浸かったりするなど、壮絶なトゥアーになってしまった。

川下りは当初3時間程度の予定であったが、ようやく終点の小屋に到着したのは夕方であった。そこでは若いカナダ人女性が給仕をしていた。やはり長期滞在者だという。人心地がついて遅い昼食を取った。そして、ブリティッシュ男性の連れの女性など、遭難した二人を待つ人を残して、ヴァンの荷台に乗ってチェンマイに戻った。泊まっているゲストハウスの名前が分からなくて困ったが、場所だけは地図上で確認していたため、何とか送り届けてもらうことができた。遭難したブリティッシュ達は同宿者であったため、ゲストハウスのオウナーの妻君に事情を説明した。

幸いなことに、ブリティッシュ達は翌日の夜、無事にゲストハウスに戻ってきた。日本語を話すブリティッシュも一緒であった。当日もトゥアーからの帰着が遅かったわけで、またトラブルに巻き込まれていたのかもしれない。

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ワット・プラ・シン

トゥアーから帰着した翌日は、同宿であった年配のオーストラリア人男性とともにチェンマイ市内を見物した。当初はトゥアー仲間であったドイツ人、インド人と同行する予定になっていたが、朝のうち小雨が降っていたため電話で約束を取り消してきたのだ。天候などに応じて自由に予定を変更することのできる余裕のある旅をしていることが羨ましく思われた。大雨の中でもゴルフをすると言われる日本人とは対照的だ。オーストラリア人は実に面白い人で、英語を話さない人とも身振りを交じえながら会話をしてしまう。誰彼となく声をかけるため、なかなか先に進むことができず、最初のうちは少し苛立っていた。しかし、そのうちに地元の人の心情に直接触れることができるということに気付き、オーストラリア人の行動が興味深いものだと感じられるようになってきた。また、金銭感覚も鋭く、商業従事者との駆け引きには見習うべき点があった。ワット・チェーディー・ルアン、ワット・プラ・シン、ワット・チェン・マンなどの寺院を見物し、僧侶に日常の生活についての話を聞くこともできた。上座部仏教(テーラワーダ仏教、小乗仏教)の教えの下で厳しい戒律を守っているようであった。

出発

バンコク

チェンマイ

抜粋
スコータイ

回顧

概要

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ワット・マハータート

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ワット・プラ・パーイ・ルアン

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ター・パー・デーン堂

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ワット・シー・サワイ

■スコータイを訪ねる鉄道旅行者にとっては、ピサヌロークがゲイトウェイとなる。チェンマイで当日に予約した快速列車の2等席に乗り、翌早朝、ピサヌロークに到着した。駅で荷物を預けると、バス・ステイションまで歩いてスコータイに向かうバスに乗り、スコータイでバスを乗り換えて、ムアン・カオ(古い町)と呼ばれるスコータイ朝の遺跡に向かった。

到着すると、すぐに自転車を借りて、城壁内部のラームカムヘン国立博物館、ワット・マハータート、ワット・トラパン・グーンのほか、北側のワット・プラ・パーイ・ルアン、トゥリアン窯、ワット・シー・チュム、東側のワット・トラパン・トン・ラーンなど、散在している遺跡を見物した。農業従事者のほかに人の気配はなく、広大な草原では水牛が草を食んでおり、のどかな風情を楽しむことができた。これほど贅沢なサイクリングはないと言ってもよいかもしれない。仏像は寺院によって倒壊していたり修復されていたりしていたが、どれも飾り気がなく、バンコクの涅槃仏などよりも親近感を持つことができた。また、一体一体が僧衣を着せられていることも、仏陀に対する敬愛の情が感じられてほほえましかった。一方、ター・パー・デーン堂やワット・シー・サワイなどヒンドゥー教の遺跡は独特の雰囲気を醸し出し、自らの出自を誇示しているかのようであった。ガイドブックには往来の少ない城壁の西側は危険だという注意が掲載されていたが、ワット・サパーン・ヒンのある高台から一帯を見下ろす眺めは素晴らしかった。

ピサヌロークでも、少し市内見物をした。サームロー(サイクル力車、自転車による力車)の乗車を執拗に勧誘されたが、チェンマイで同行したオーストラリア人を見習って余裕を持って対応することができた。

夜になって、当日の朝に予約しておいた快速列車に乗り、深夜3時半頃にドーン・ムアン駅に到着した。直角椅子の3等席では、一般国民の生活を肌で感じることができ、リクライニング・チェアーの2等席とは別の魅力に触れることができたように思う。フライトは朝の出発であり、前日にバンコクに滞在していたとしたら早朝のチェックインを行うために深夜に宿泊先を出発しなければならないところであった。しかし、前日までにバンコクから程よく離れた町まで戻っておき、列車に乗って直接ドーン・ムアン空港に向かうことによって、余裕を持ってチェックインすることができた。

出発

バンコク

チェンマイ

抜粋
スコータイ

回顧

概要

■タイは、バンコクを始めとして予想していたよりも経済発展が進んでいたように思う。もちろん、課題は山積している。東北に最貧地域を抱えているほか、経済や人口の首都圏一極集中という現象も発生している。また、「マイペンライ」という言葉に象徴される諦観も問題だ。この言葉は、元々は相手の失敗を思いやる「ドウント・マインド」という意味であったが、コリア語の「ケンチャナヨ」と同じく自己弁護の意味に変化してしまっており、その背後にはあくせくする必要はないという意識が働いていると言われる。このように、近代化への前途は多難だと思われる。しかし、バンコクで見られたような活力が維持されれば、韓国などのNIESに次いで近いうちに停滞するアジアからの脱出が果たせるかもしれない。

出発前に不安に感じていたことの1つに、タイではトイレット・ペイパーの使用が一般的ではないということがあった。しかし、少なくとも捨てる場所はあり、これは杞憂に終わった。

現地での1日平均の旅行費用(土産費を除く)は約1,900円と、それまでと比べて割安な旅であった。費用の約4割はチェンマイからのトレッキング・トゥアーの料金だ。また、夜行で移動することが多く、トゥアー料金に宿泊料金が含まれていることもあったため、宿泊料金を単独で支払うということはなかった。

残念なことに、バンコクでは外国人を騙そうとする人も散見された。トゥクトゥクの運転手に王宮は閉館中だと言われたり、二人連れの男児にワット・ポーのものよりも素晴らしい涅槃仏を見ることのできる寺院があると言われたりしたが、どちらも明らかに何らかの収入を狙った嘘であった。これは、それまで外国人が散財しすぎたための悪弊だと言ってよいであろう。この旅でバンコクに滞在しなかったのは、このように外国人に対して屈折した感情を持ち合わせた大都市に馴染むことができなかったことも影響している。また、ドラッグについては、流通経路の末端にある外国人に厳罰が課されている一方で、撲滅されるどころか簡単に入手することができるという状況にあり、当局の対策に偏向があると言われても仕方がないであろう。これらは、タイが観光に重点を置こうとするならば、改革していかなければならない課題だと思う。

出発

バンコク

チェンマイ

抜粋
スコータイ

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
26日18:10 空路 22:10 タイ バンコク
27日18:30 道路 28日08:00 チェンマイ
29日
30日
31日22:00 鉄路 1日05:00 ピサヌローク
22:00 鉄路 2日03:30 バンコク
06:00 空路 13:50 日本 東京
道路 :道路、 鉄路 :鉄路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
タイ チェンマイ 不詳(トレッキング) 1
不詳(トレッキング) 1
Numchok Guest House 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
タイ TH.B 5.86円 161
内訳
406
内訳
724
内訳
0 1,290
内訳
通貨計 JP.\ 1.00円 944 2,380 4,244 0 7,562

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
タイ 5
内訳
850 3,436 15,159 8 1,895
通貨計 29 4,983 15,159 8 1,895
(注)円換算と日平均は土産費を除く。

出発

バンコク

チェンマイ

抜粋
スコータイ

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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