■1991年9月、5回目の海外旅行に出かけた。11日間の旅程で、そのうち8日間をヴェトナム(ヴェトナム社会主義共和国)訪問に充てることができた。外国人が自由旅行を行うことに対してヴェトナムが事実上門戸を開放してから間もなくのことだ。
■細々と発行されているガイドブックには、ヴィザを取得するためには事前に旅程を決め、車やガイドを手配してもらう必要があるという説明が掲載されていた。また、問い合わせに対して自由旅行は不可能だと答える旅行代理店もあった。地元ではアメリカ戦争と呼ばれるヴェトナム戦争が1975年に終結し、翌年に南北ヴェトナムが統一された後も、ヴェトナム軍のカンプチア(カンボディア)侵攻、中越紛争と続き、軍事情勢は伝わってきても国内事情は伝わってこない。日本で簡単に入手することのできるヴェトナムについての書籍や映画も、ほとんどがヴェトナム戦争に関連したものだ。はたしてどのような旅になるのか、出発前は見当も付かなかった。
■旅の形態は、形式的には手配旅行であった。代理申請をしてもらうヴェトナムのヴィザはバンコクのホテルで受け取ることとされており、ホーチミン・シティではホテル1泊と空港からホテルまでの送迎がセットになっていた。ホーチミン・シティは首都ハノイとともに自由に行動することができるのだが、それ以外の町については提携している現地旅行代理店に問い合わせるよう案内されていた。また、ヴェトナム入国のためにパスポートの残存有効期間がどのぐらい必要とされるのかについての情報がなく、残存有効期間が半年間を下回ったパスポートを念のため更新することにした。
■出発前日の仕事が深夜3時頃まで続いて帰宅したのが4時頃であったため、万全の体調で旅に臨むことはできなかった。鉄道は成田空港の構内まで乗り入れるようになり、便利になっていた。出発はタイ旅行の際よりもさらに遅く、20時頃であった。夜の旅立ちは独特の雰囲気があり、未知の国に向かうという意識も手伝って不安に襲われる。バンコクに向かう飛行機の中ではヴェトナム旅行を決断したことを後悔したほどだ。しかし、疲れていたこともあり、そのうちに寝入ってしまった。利用したユナイテッド航空は、男性のフライト・アテンダント(客室乗務員)が多かったことや、日本人のフライト・アテンダントが乗務するなど日本人向けのサーヴィスが充実していることが特徴的であった。
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