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ヴェトナム

出発

バンコク

ホーチミン・シティ

抜粋

フエ
ヴィンロン

アユタヤー

回顧

概要

■バンコクのドーン・ムアン空港に到着したのは、深夜であった。しかし、タイへは2回目の訪問であるため、余裕を持って入国手続を行うことができた。タクシーに乗ってサヤーム(サイアム、タイの旧国名「シャム」の意)・スクウェアにあるホテルに向かうことにしたが、タクシー乗場では荷物を数メートル運んでもらっただけのポーターにティップを要求された。ティップを要求されるのは初めての経験なので、いくら渡せばよいのかすぐには思い浮かばず、1USドル(約138円)札を渡してしまったが、冷静になって考えると10バーツ(1バーツは約5.54円)札を渡せばよかったのだと後悔した。

翌朝、ホテルのオウナーからヴェトナムのヴィザとホーチミン・シティまでの航空券を受け取った。ヴィザは、パスポートとは別の紙に記される形式になっていた。ホテルからトゥクトゥクに乗り、フアラムポーン駅でバスに乗り換えてドーン・ムアン空港に向かった。そして、旅行代理店に帰国便のリコンファームを電話で依頼した後、出国手続を行った。

出発

バンコク

ホーチミン・シティ

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フエ
ヴィンロン

アユタヤー

回顧

概要

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中央郵便局

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市街

■ホーチミン(胡志明)・シティのタンソンニャット空港に向かうヴェトナム航空の飛行機は、非常に小型のものであり、不安になる。タイ湾(タイランド湾)を過ぎて眼下にメコン・デルタが見えてくると、間もなく着陸体勢に入った。そして、予定よりも少し遅れて2時間程度で到着した。乗客はほとんどヨーロピアンであったようだが、日本人も数人含まれていた。そのうちの一人に話しかけてみると、メイカーの会社員であった。当地には機械のメインテナンスのために来ているという。入国手続を終えると旅行代理店のスタッフの出迎えを受け、二人連れの若い日本人女性とともにワゴンに乗って市内に入った。道路には多くの自転車、モウターバイク、シクロ(サイクル力車)、荷車などが走っており、中国の通勤風景もかくやと思わせるものであった。シクロは、タイのサームローとは異なり、客席が運転席の前にある独特の形をしている。一方、自動車はほとんど見かけることがない。旅行代理店に立ち寄って在留届の提出手続を済ませると、ドンコイ通り(旧トゥゾー通り)から小道を入った場所にあるサイゴン・ホテルに向かった。様々なホテルを経験したかったことや、少なくとも当地では自由行動が認められているのを確認したかったことから、2、3泊目はそれぞれドンコイ通りにある別のホテルに移動した。

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旧米国大使館

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統一会堂

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戦争犯罪展示館

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旧日本大使館

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市人民委員会

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ベンタイン市場

サイゴン・ホテルで簡単な説明を受け、部屋で休憩した後、夜の街に出かけた。ホーチミン・シティは旧南ヴェトナム(ヴェトナム共和国)の首都サイゴン(西貢)であり、1975年の解放(社会主義陣営から評価した表現であり、一般的な表現は攻略、資本主義陣営から評価した表現は陥落)、1976年の南北統一を経て指導者の名前が付けられたものだ。正に、ヴェトナム戦争中、米国軍や南ヴェトナム政府(サイゴン政府)軍などの多くの兵士が飛び立っていき、戦争末期には南ヴェトナム解放戦線(革命政府軍、資本主義陣営からの蔑称はヴェトコン)や北ヴェトナム(ヴェトナム民主共和国)正規軍が最後の攻略目標にした場所に立っているのだ。米国兵をターゲットにした繁華街であったドンコイ通りは解放後は静かになったとされていたが、実際にはネオン・サインがこうこうと輝いていた。ヴェトナム戦争当時とは状況が一変しているであろうと予想していただけに、外国人を対象にした店がこれほど活況を呈しているとは意外であった。道路を少し歩くと、すぐに物乞いの子供達と出会う。簡単に振り切ることはできないが、立ち止まるとすぐに多くの人が集まってくるため立ち話は禁物だ。社会主義国にこれほどの物乞いがいるというのはどういうことであろうか。また、シクロ乗車の勧誘も執拗だ。しかし、中には物好きな運転手もおり、シクロの運転を実体験させてもらうことができた。ペダルは重く、また多くの道路は一方通行になっているため、思うように運転することはできなかった。道路には自転車やモウターバイクの大群が溢れていたが、これは日曜日夜の恒例になっている若者の社交であったようだ。信号がほとんどないため、道路を横断することは至難の業だ。モウターバイクはそれほどのスピードでは走っていないが、何列にもなって次から次へと向かってくるため、その動きに合わせながらゆっくりと歩を進めていかなければならない。もし、モウターバイクを避けようとして走り出してしまったら、すぐに別のモウターバイクにはねられてしまうであろう。

翌日、旅程を相談するために旅行代理店を訪ねた。そして、中部の古都フエとダナンをヴェトナム4日目から2泊3日で、南部メコン・デルタのヴィンロンを7日目に1泊2日で訪ねることにした。交通機関の手配のほか、ハノイとホーチミン・シティ以外の町を訪ねる時に必要となる旅行許可証の代理申請を依頼した。外国人単独で鉄道を利用することはできないとのことであったため中部へはダナン往復のフライトを予約し、ヴィンロンへは手配車を利用することになった。これらの費用を合計すると357USドルと、予想外の出費となってしまった。安価な移動手段がないのは辛いところだ。旅行代理店は外国人を相手にかなりの利益を上げているようで、新しい日本車を所有していた。

このようにして、当地には5日間にわたって滞在することが決まった。見物した観光名所は、町のシンボルになっているサイゴン大教会(聖母マリア教会)のほかは、ヴェトナム戦争に関連のある建物が多い。解放直前の逃亡騒動に揺れた旧米国大使館、南ヴェトナム解放戦線の戦車入場によって最終的に戦争の終結を迎えることになった統一会堂(旧大統領官邸)などだ。戦争犯罪展示館には米国軍が犯した非人道的な行為を暴くための多数の展示があり、ホルマリン漬けとなっている先天性形態異常の胎児が痛々しかった。枯葉剤が原因だとされている。解放時当地に留まっていた日本人ジャーナリストなどが篭城した旧日本大使館の建物も健在だ。内戦下のカンプチアから逃れてきたという中国系の管理人に中に入れてもらい、緑茶を馳走になった。近く領事館になる予定だという。威風堂々とした市人民委員会の前には、ヴェトナム国旗とソヴィエト連邦国旗が並べられた看板が掲げられてあった。ソヴィエト連邦では既に共産党が解体されており、両国の関係は必然的に変化していくことが予想されたが、まだそれに対する対応はできていないのであろう。ベンタイン市場も見物したが、豊富な品数を誇っているようであった。また、街で民族衣装のアオザイを見かけることは少なくなっているが、驚いたことに学生服として採用されており、腰の辺りまでスリットの入った白いアオザイを着た多くの女子学生を見かけた。

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サイゴン駅

市街から外れると興味深い光景に出会う。サイゴン駅へは、フエ訪問の前日にシクロに乗って向かった。特に用事はなかったが、一般に旅の原点と言うことのできる駅の様子を見ておきたいと思ったのだ。解放前にはベンタイン市場の近くにあったようだが、現在はなぜか中心部から離れた場所に移されている。ガイドブックに書いてあるほど治安が悪いということはなさそうであったが、外国人と出会う機会が少ないのか、多くの人が集まってきた。言葉の問題も影響しているのであろうが、そのまま黙って見物している人が多い。どうやら当地で外国人慣れしているのは中心部のごく一部の人だけのようだ。駅舎には英語の案内もあり、鉄道が外国人に開放されていないということは疑わしくなってきた。料金表によると、ヴェトナム人に対する料金の約3倍の外国人料金が適用されていた。また、約1,700kmの距離を足掛け4日で結ぶハノイとの間には、1日1便が運行されているとのことであった。

フエから戻った後には、サイゴン対岸に渡ってみようと思い立った。ヴェトナム戦争中はサイゴン中心部に先んじて解放され、南ヴェトナム解放戦線がサイゴン川を挟んで政府軍と対峙していた場所だ。河岸に向かって歩いていると船頭が近づいてきて、港周辺を遊覧しないかと勧誘された。そこで対岸に渡りたいという希望を伝えると、対岸は田舎であり危険だという。しかし、自分のことを相手に信用させるために第三者のことを悪く言うのはヴェトナムでは珍しいことではないため、こちらの意思は変わらず、危険を承知の上でとの条件で重ねて依頼した。船頭は仕方なく了承したが、十分に用心するようにと忠告してくれた。念のため1時間以内に戻るとの条件で河岸で待っていてもらうことにした。着岸すると、すぐに数人の人が集まってきた。そして、歩を進めるにつれて人の数が多くなっていく。物乞いをする人もいるが、多くの人は好奇心から集まってくるようだ。その中には、なぜか英語が上手で弁の立つ男児がいた。金銭を持っていないと言うと、ヴェトナム渡航費用はいくらであったのかと糺し、金銭を持っていないはずがないと切り返してくるのだ。集まってきた人とは、道端に腰掛けて言葉を交したり、レストランの客にビールを馳走になったりした。危険だという感じはしなかったが、全く外国人慣れしていないため、こちらが戸惑ってしまうことも事実だ。外国人が川を渡ってくることはほとんどないのかもしれない。数分で往来することのできるサイゴン川を越えただけで中心部とは全く別の世界が広がっているというのは非常に不思議なことであった。

食事に際しては、一般国民用のレストランと高級レストランの双方に足を運んだが、料理の質や雰囲気に大きな格差があった。高級レストランでは、Tシャツとショート・パンツの出で立ちであっても、外国人と見るとドア係がドアを開けてくれる。中には民謡や演奏を楽しませてくれるステイジがあり、豪華な造りだ。肉や野菜をライス・ペイパーで巻いて食べるゴイクォン(生春巻)などに舌鼓を打った。ヴェトナム料理では好みに応じて料理をヌックマム(魚と塩から造る醤油)につけて食べればよいため、タイ料理のように辛すぎるということはない。民謡の中には南部特有の寂しいメロディの曲も含まれていた。客の多くは外国人だ。一方、窓の外では物乞いを始めとして貧しそうな身なりをした人が往来している様が見える。このような富の偏在は、解放前のサイゴンで見られた光景そのものではないだろうか。社会主義国にも貧富の差は存在するであろうし、中国でも物乞いを見かけたとは言え、ヴェトナムは資本主義国と比べても貧富の格差が大きいのではないかとさえ思わせるような状況であった。

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ビンタイ市場

チョロンは、中心部から西に向かった場所にあるチャイナ・タウンだ。最初は貸切のシクロに乗って、フエから戻った後には自転車を借りて往復し、出国前日にはこちらにあるホテルに移動した。少しずつ目線を低くしていったわけで、ビンタイ市場などでは中国系居住者の活気ある生活の一端を垣間見ることができたように思う。中国旅行の際と同様に漢字による筆談も役立った。喧噪は中心部以上だが、あまり外国人慣れしておらず、独立した町のようにも思われる。チョロンに滞在した夜、1時間をかけてベンタイン市場まで歩いた。中心部との距離を肌で感じてみたかったためだ。街路には商用の外国人が高級車を乗りつけている豪華なレストランが立ち並ぶ一方、多くのホウムレス(路上生活者)が布団1枚を持って寝ている様を見かけた。いくら常夏の町とは言え、ヴェトナムが抱えている矛盾を如実に示しているように思われた。

出発

バンコク

ホーチミン・シティ

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フエ
ヴィンロン

アユタヤー

回顧

概要

■フエ(ユエ)を空路で訪ねるためには、ダナンがゲイトウェイになる。ホーチミン・シティのタンソンニャット空港で旅行代理店のスタッフにチェックインを代行してもらい、ヴェトナム航空の飛行機に乗って2時間程度でダナン空港に到着した。すると、すぐに監視官に呼び止められた。そして、旅行許可証の点検が終わると、タクシーに乗って市内に入るよう指示された。やはり地方では自由な行動は許されていないのかと落胆した。しかし、幸いなことに以後は行動を制約されるということは特になかった。監視官の説明は指示ではなくアドヴァイスであったのかもしれない。ホーチミン・シティで紹介してもらった旅行代理店が昼食休憩中であることが分かると、運転手の勧誘でそのままフエに向かうことになった。運転手の説明によると、タクシーだとガイド料などがかからないため、旅行代理店に自動車を手配してもらった場合の半額しか要しないという。とは言え、ダナンから100kmも北上しなければならないわけで、40USドルとかなりの出費になってしまった。運転手はほとんど英語を話すことができなかったが、何とか意思の疎通を行うことはできた。途中、ハイヴァン峠が海岸線まで迫ってくる。頂上の近くまで上ると、南中国海が見渡せて非常によい眺めだ。米国軍の基地跡も見せてもらった。さらに進むと、刈り入れた稲穂を路上で乾燥させている光景に出会う。それを踏みながら走っていった。

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フォーンザン・ホテル

フエは、19世紀から第二次世界大戦までの阮朝の都だ。ダナンから2時間半程度で到着した。フォーン川の新市街側の河岸にあるフォーンザン・ホテルにチェックインすると、シクロに乗って駅に向かった。外国人も列車に乗ることができるとホテルで教えてもらったのだ。駅舎には英語の案内があり、英語を話す駅員もいて、意外にもダナンまでの翌日の列車を簡単に予約することができた。ガイドブックではまだ外国人にとって夢の存在だとされていた統一鉄道に一部なりとも乗ることができるというのは望外の喜びであった。

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女児

新市街を王宮の方に向かって歩いていると、多くの人がこちらを振り返りながら通り過ぎていく。外国人慣れしたホーチミン・シティ市民とは明らかに雰囲気が異なっていた。観光コースから外れた王宮の裏通りまで来ると、方々で「ハロウ」と声をかけられたり握手を求められたりした。外国人がよほど珍しいのか、子供達が数十人も後からついてきて困ってしまうということもあった。

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カイディン帝廟

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ミンマン帝廟

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トゥドゥック帝廟

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王宮

翌日は、ホテルで自転車を借りることができたため、阮朝の帝廟が広い場所に点在している郊外を自由に回ることができた。午後早く出立することになっていたため、朝から精力的に見物を始めた。分岐点に行先案内がほとんどなかったため、道路は分かりづらかった。何段もの階段を昇りつめた場所にあるカイディン帝廟、いくつもの門を通り過ぎた場所に日本の古墳のような墓所があるミンマン帝廟、蓮池が心を和ませてくれるトゥドゥック帝廟などを見物した。自転車を走らせていると、ここでも子供達が「ハロウ」と声をかけてくる。非常に清々しい気分だ。ガイドブックに掲載されている地図ではミンマン帝廟に向かうための橋がフォーン川に架かっているようになっていたが、実際には橋はなかった。そこで、船で渡ることになる。往路は船頭一人だけであったが、帰路は船頭の家族を含めて3人で迎えにきた。訝しく思っていたが、ティップを要求するためであった。なかなか商才に長けていると感心させられ、それぞれに少額のティップを渡すことにした。市街に戻り、王宮を見物してから当地を出立した。

ダナン(ツーラン)に向かう列車には、簡単に乗ることができた。改札を受けている様を見て、駅にいたヨーロピアンが驚いて列車に乗るのかと尋ねてきた。英語のガイドブックでもまだ外国人が列車に乗ることができるという説明は掲載されていないのかもしれない。列車までは駅の職員に案内してもらった。指定されたのは、車両の端のボックス席のうち連結部の方を向いている側の窓寄りの座席だ。公園にあるベンチのような木の直角椅子であった。向かいには鉄道局の治安担当官と警察官が座った。鉄道の案内をしてくれたり、隣に座らせた若い女性に緑茶を入れさせたりと、いろいろと気を遣ってくれたが、目的がほかの乗客に近づかないようにするための監視であることは明白であった。途中で若い男性が話しかけてくることがあったが、すぐに警察官に追い払われ、次の駅で列車を降ろされてしまった。都市以外では外国人が一般国民と自由に会話をすることは許されていないようだ。男性はプラットフォームから無念そうに目で合図をしてきた。列車の中から会釈すると、嬉しそうにしていた。治安担当官は「奴を信用してはいけない。」の一言で片付けてしまった。政府は、ヴェトナム戦争中に最初に解放区として確保し拠点とした農村に資本主義思想が流入することを極度に警戒しているようだ。水牛が草を食んでいる様を見ながら進んでいくと、ハイヴァン峠に差し掛かる。入念な点検のため麓の駅で長時間停車した後、列車はゆっくりと上っていった。

ダナン到着までには4時間程度を要した。当地で1泊した後、シクロに乗ってダナン空港に向かった。空港では、フエで出会った若い日本人男性と再会した。中国雲南省(ユンナンション)周辺を何回も訪ねているという。ホーチミン・シティに戻る飛行機の中で旅行談義に花を咲かせた。タンソンニャット空港からタクシーに乗り、サイゴン・ホテルで部屋を共有した。

出発

バンコク

ホーチミン・シティ

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フエ
ヴィンロン

アユタヤー

回顧

概要

■ヴィンロンへは、日本語を話すガイドに伴われた手配旅行となった。自動車の中から見えるのは、日本と全く変わらないのどかな田園風景であった。ミトーで休憩した後、一路ヴィンロンを目指して進んでいった。途中、メコン川の支流を渡るためにフェリーに乗ることになる。フェリーは、自動車を収容することができるよう内部が繰り抜かれたように見える簡単な構造だ。船内には多くの物乞いや物売りが乗り込んでいる。車内でその要求を無視し続けることは身分の相違を誇示しているようで罪悪感に駆られた。そこで、辺りに人の気配がなくなってきた頃を見計らい、ガイドにその旨を告げて車外に出てみた。いずれにしても物乞い達の期待に沿うことはできないのだが、対等の立場に立つことで罪悪感は薄らいだ。甲板から眺めたメコン川は、悠々とした流れを見せていた。

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メコン川

到着すると、すぐに船に乗ってメコン川クルーズに出かけた。市内には川が縦横に流れ、一般国民の足となっている。果樹園を訪ね、地元の名士だと思われるオウナーからバナナ酒、苺酒、果実を馳走になった。見事な盆栽も見物させてもらうことができた。主催者としてはメコン・デルタの豊かな生活を見せようという企図があるようだ。しかし、どうしても当局による宣伝的色彩が感じられてしまう。また、ガイド、運転手、地元を案内するための女性二人、船頭、果樹園のオウナーと、多くの人が一人の客のために接遇するという形式にも馴染むことができなかった。もっとも、人が多ければ密度の濃いサーヴィスを提供することができるというわけではなく、自分達の間で話に熱中してしまうため退屈させられることが多かった。

果樹園では、半ば強制的にノウトブックに感想を書かされた。そこで、「メコンの大河の懐に抱かれたヴィンロンは素晴らしい町です。自然の偉大さを改めて思い知らされました。」と書いた。ガイドがそれをヴェトナム語に訳し、オウナーは満足そうにそれに頷いていた。市場が賑わっていることを考えてもメコン川が当地に大いなる恵みをもたらしていることは確かだと思うが、このような作為のある出会いは肩が凝って性に合わなかった。

夕食後、ガイドや運転手と話をした。どちらかと言うとマニュアルに沿っているように思われるガイドの話よりも、英語を話す運転手の話の方が興味深かった。運転手によると、日帰りで訪ねることのできるミトーの方がヴィンロンよりも面白いとのことであった。旅行代理店のオウナーのペイスに乗せられてしまったかもしれない。

河岸にあるレストランやホテルでは多くのヤモリが出没したが、かえって趣が感じられた。

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バンコク

ホーチミン・シティ

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フエ
ヴィンロン

アユタヤー

回顧

概要

■アユタヤーは、タイ旅行で訪ねることができず残念に思っていた町だ。タイで過ごすことのできる残った1日を利用して訪ねることにした。

まず、ホーチミン・シティからバンコクに戻るため、タンソンニャット空港に向かう。イミグレイションでは所持金の審査が厳しかった。また、フライトの案内は音声だけで行われ、非常に分かりづらいものであった。バンコクのドーン・ムアン空港に到着すると、日本語を話す空港職員が市内までのタクシーの乗車を勧誘してきた。そして、空港から直接アユタヤーに向かうことはできないという。しかし、空港は中心部からかなりアユタヤー方向に寄った場所に位置しているため空港職員の言葉は信用せず、荷物保管所のスタッフに確認した。すると、やはりアユタヤーに向かうバスは出発しているという。そればかりではなく、親切にもわざわざ空港の外にあるバス停留所まで連れていってくれた。

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ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

アユタヤーに到着すると、サームローやトゥクトゥクに乗って、涅槃仏のあるワット・ロッカヤースッターやワット・ヤイ・チャイ・モンコン、17世紀に山田長政が居住したことで有名な日本人町跡などを見物した。

宵になって、列車に乗ってバンコクのドーン・ムアン空港に戻り、ロビーで夜を明かした。東京は、帰国時が雨であったことも影響しているのであろうが、かなり肌寒く感じられた。

出発

バンコク

ホーチミン・シティ

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フエ
ヴィンロン

アユタヤー

回顧

概要

■現地での1日平均の旅行費用(土産費を除く)は約7,900円と嵩んでしまった。費用の約6割は国内手配旅行などの料金だ。インフレイションが激しいためかUSドルによる支払いを要求されることも多く、1USドル札が大いに役立った。旅行費用のうち一人当たり宿泊料金は最高でフエの約3,900円(28USドル)、最低でフエから戻ってきた後のホーチミン・シティの約690円(5USドル)と、ヨーロッパ旅行や中国旅行の際とほぼ同じ価格帯であった。外国人に開放されているホテルはフランス植民地時代からの格式の高いものが多く、安部屋であるにも関わらず広い応接室が付設されているホテルや、手動式ドアのエレヴェイターが設置されているホテルに出会った。

ヴェトナムと言うと、どうしてもヴェトナム戦争について考えざるを得ない。旅行前後に数冊の戦記を読んだ。もちろん著者によって戦争に対する見解は異なっていたが、アメリカ合衆国の役割を否定的に捉えているという点では共通していたように思う。ホーチミン・シティでは、戦争当時に外国人ジャーナリストが愛用していたという旧マジェスティック・ホテル(現クーロン・ホテル)に入り、戦争について思いを馳せた。考えるに、アメリカ合衆国は戦争の性格を誤解していたようだ。武力で解決することのできる問題ではないにも関わらず、大軍を派遣して農村を焼き払い、敵兵ではない一般国民を大量に死傷させたという。その結果、戦えば戦うほど一般国民を南ヴェトナム解放戦線の側に追いやり、敵の数を増やしていくという悪循環に陥ってしまった。本来は、南ヴェトナム解放戦線との対峙に至る前に、貧困などの根源的な問題の解決を支援するべきであったのだ。この事実は、イデオロギーの相違を越えて、また米国兵の犠牲の多寡に関わらず、確認しておく必要があろう。あたかも市民革命を経た18世紀のグレイトブリテン(イギリス)が北アメリカでは絶対主義国であるかのごとく振る舞ってアメリカ独立戦争(アメリカ独立革命)を誘発したように、民主主義の総本山であるはずのアメリカ合衆国がヴェトナムでは帝国主義国であるかのごとく振る舞ったと言ってよいであろう。

多大な犠牲を払って統一を成し遂げたわけだが、その後、順調な経済発展を遂げることができなかったのは、理想と現実が乖離する社会主義国の悲哀と言うべきであろうか。この旅では旧北ヴェトナム地域は訪ねなかったが、旧南ヴェトナム地域に限ると政府に対して好感を持っていない人が多いように思われた。これについては、ヴェトナムが統一国家を形成した期間が短く南北がそれぞれ独自の文化圏にあったという歴史的経緯や、統一後は豊かなメコン・デルタから北部に大量の農産物が搬出されているという事情も考慮する必要があろう。しかし、社会主義の理想にも関わらず、いつまで経っても生活が豊かにならないことに対する不満もかなり大きいようだ。ホーチミン・シティのシクロ・ドライヴァー(自転車漕ぎ)の中には旧南ヴェトナム政府軍の兵士であった人が多い。中にはアメリカ合衆国への留学経験があるなどという高学歴の人もいたが、その能力は活かされていない。身体の不自由な物乞いも見かけたが、旧南ヴェトナム政府軍の兵士には補償が支給されていないのかもしれない。多くの人から解放前のサイゴンを懐かしむ声を聞くことができた。地元の人がホーチミン・シティのことを依然としてサイゴンと呼んでいるのもそのためかもしれない。

インフレイションの問題も深刻だ。20USドル程度の両替を行うとドン紙幣の札束を受け取ることになってしまうため閉口した。政治的にはヴェトナム版ペレストロイカ(ソヴィエト連邦の政治改革)と言われるドイモイ(刷新)が進展しているとされ、市街で商用の外国人の姿を見かけることからも分かるように外国資本の導入が進んでいるが、様々な矛盾を抱えていて近代化のためのハードルは高いように思われた。

政治改革と並行して、一般国民の意識改革も必要だと思う。この旅では、ホーチミン・シティで2回も窃盗に遭った。タンソンニャット空港では、ヴェトナム航空への託送荷物から蚊取線香の点火用に持参したライターと計算機が盗まれた。後で聞いた話によると、当地では空港職員による窃盗が多発しており、多くの商用者がほとんどの荷物を機内持込にしているとのことであった。にわかには信じ難い話であった。また、掏摸で悪名高いレロイ通りでは、胸ポケットに刺していたボールペンを盗まれた。トラヴェラーズ・チェックを使うことができないため大量に持ち運ぶことを余儀なくされるキャッシュ(現金)は盗まれないように気を付けていたが、ボールペンを盗まれるとは考えてもいなかった。

料金交渉で問題が生じることもあった。ホーチミン・シティ中心部からシクロに乗って旅行代理店に向かった時のことだ。シクロ・ドライヴァーによると30分程度で到着するとのことであった。相場は1時間1万ドン(千ドンは約12.9円)程度であり、5,000ドンで交渉が成立した。しかし、旅行代理店はなかなか見つからず、ようやく探し当てた時には出発してから1時間が経っていた。ドライヴァーの努力はよく分かっていたため、それに報いるために1,000ドン程度のティップを渡そうと考えていたところ、1時間分の労働をしたという理由で1万ドンを要求してきた。抗議しても聞き入れられず、結局8,000ドンを支払わざるを得なかった。ドライヴァーの努力に対する感謝の気持ちは消え、契約の観念はないのかと嘆かわしくなってきた。また、ダナンからフエまで利用したタクシーの運転手は帰路も同行したがっていたが、割り引きするということを知らないため、商機を逸することになった。これらの行動に共通するのは、労働時間を尺度にした同一の労働に対して同一の報酬を要求する労働価値説が市場原理を凌駕しているということだと思うが、経済改革に伴って再考していく必要があるのではないだろうか。

出発

バンコク

ホーチミン・シティ

抜粋

フエ
ヴィンロン

アユタヤー

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
21日19:50 空路 22日00:10 タイ バンコク
14:00 空路 15:50 ヴェトナム ホーチミン・シティ
25日10:00 空路 12:00 ダナン
12:30 道路 15:00 フエ
26日13:00 鉄路 17:00 ダナン
27日08:10 空路 10:10 ホーチミン・シティ
28日08:00 道路 12:00 ヴィンロン
29日08:10 道路 11:00 ホーチミン・シティ
30日10:00 空路 12:00 タイ バンコク
13:00 道路 14:10 アユタヤー
19:00 鉄路 20:00 バンコク
1日06:00 空路 14:00 日本 東京
道路 :道路、 鉄路 :鉄路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
タイ バンコク The Bed & Breakfast 1
ヴェトナム ホーチミン・シティ Saigon Hotel 1
Dong Khoi Hotel VN.D 120K 1
Huong Sen Hotel US.$ 26.40 1
フエ Huong Giang Hotel US.$ 28.00 1
ダナン Phuong Dong Hotel US.$ 26.00 1
ホーチミン・シティ Saigon Hotel US.$ 5.00 1
ヴィンロン Cuulong Hotel 1
ホーチミン・シティ Bat Dat Hotel VN.D 74K 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
US.$ 138円 0 1
内訳
57
内訳
0 357
内訳
タイ TH.B 5.54円 40
内訳
258
内訳
906
内訳
0 20
内訳
ヴェトナム VN.D 12.9 30.9K
内訳
310.1K
内訳
139.2K
内訳
0 45K
内訳
日本 JP.\ 1.00円 0 0 0 0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 620 5,569 14,666 0 49,850

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
101.90
内訳
0 516.90
内訳
タイ 2
内訳
480 1,706 7,207 2.1 3,432
ヴェトナム 194K
内訳
34.4K 753.6K 80,046 7.9 10,132
日本 0 0 0 0 1.0 0
通貨計 16,546 3,104 87,253 11.0 7,932
(注) 円換算と日平均は他国通貨での支払いを含み、土産費を除く。
VN.Dの為替(赤字)は1,000通貨当たりで、費用のKは1,000倍の意。

出発

バンコク

ホーチミン・シティ

抜粋

フエ
ヴィンロン

アユタヤー

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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