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ネパール

出発

デリー

ヴァーラーナシー

ソノーリ

ポカラ

アンナプルナ
抜粋

ポカラ2

カトマンドゥ

バンコク

回顧

概要

■デリーのインディラ・ガーンディー空港へは、22時頃に到着した。そこで、それぞれ個人旅行を行っている若い日本人男性3人と連れ合わせ、プリペイド・タクシーに乗って市内に入ることにした。

ところが、しばらくすると、助手席に乗っていた男性が、安宿街パハールガンジは閉鎖されていると言い出した。インド独立50周年に当たっており、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立が激化しているため、中心部は立入禁止になっているというのだ。同行の日本人男性によると、独立50周年ということ自体は本当だという。後で調べてみると、独立50周年記念日の翌日に当たっていた。

窓口で料金を支払うプリペイド・タクシーであったが、助手席の男性がパハールガンジの閉鎖を口にしたのが乗車後かなり時間が経った後であったため、信用しないことにした。そして、中心部を実際に閉鎖している遮断機を見せるよう再三にわたって要求した。しかし、助手席の男性は、何らかの立入規制を行っている場所を車中から指し示しながら、車外に出ると逮捕されると言って脅した。そして、「GOVERNMENT TOURIST」という札の掲げられた事務所に連れていき、スタッフにデリーの現状を説明させた。当然のことながらその言葉も信用せず、向かいにあったホテルのスタッフに確認してみた。すると、やはりパハールガンジに入ることはできるという。意を強くしてパハールガンジに向かうことを要求したが、性懲りもなく別の旅行代理店に連れていこうとする。しかし、次に到着した場所は、前回のインド旅行の際に訪ねていて見覚えのあるニューデリー中心部のコンノート・プレイスの一角ではないかと推察された。そして、旅行代理店には入らず、通りかかったリクシャー・ワーラーに尋ねてみると、やはりパハールガンジは近いという。そこで、タクシーには取り合わないこととし、リクシャーに乗り換えてパハールガンジに向かった。

タクシーは、おそらく、コミッションを貰うことのできるホテルに連れていこうとしていたのであろう。プリペイド・タクシーに乗ってこのような扱いを受けるとは、早速インドの手荒い歓迎だ。目的地に到着していない以上、プリペイド・タクシーでなければ料金を支払わないところであり、制度を悪用した詐欺のように思われる。

同行の日本人男性のうちの一人はシングル・ルームに泊まるということなので、残る3人で1部屋を共有することにした。一人はインド旅行は初めてという社会人、一人は海外旅行が初めてという学生であった。ともにカルカッタに向かうようだ。短期間のうちにネパールに向かうこちらの強行日程を説明すると、ヒマラヤ・トレッキングを主要目的としながらも、インド再訪に拘った旅程の真意を洞察されてしまった。

翌日は、日曜日に当たっていたため、同宿の3人とも必要な手続きが捗らなかった。まず、タイ航空のオフィスが定休日のため、帰国便のリコンファームを行うことができなかった。次いで、ヴァーラーナシーまでの当日の列車の切符を買おうとしたが、ニューデリー駅の階上にあるインターナショナル・トゥーリスト・ビュロウも定休日であった。そこで、駅の近くにあるノーザン・レイルウェイの予約オフィスに出かけたが、切符を手にすることができたのは翌日アーグラーに向かう社会人男性だけであった。当日の列車の切符は、列車の出発時刻が迫ってくると列車の出発駅でないと買うことができなくなるようだ。この時点で、アーグラーまでの切符を手にしてパハールガンジに戻る社会人男性、当日デリー駅からジャイプルに向かう列車に乗ろうと考えている男子学生と別れた。

一時は、当地からバスに乗ってインドとネパールの国境を越えようかと考えた。このルートのうち、ネパール西部のネパールガンジ(正確にはネパールガンジと国境を接するインドのルパディア)に向かうバスの手配を行っている旅行代理店は見つけることができなかった。一方、ポカラやカトマンドゥに向かうバスは週2便運行しており翌日の便があるとのことであったが、料金の問題と、ヴァーラーナシーを再訪したいという希望から、見送ることにした。そして、当初の予定通り、列車に乗ってヴァーラーナシーに向かうことにした。ただ、ニューデリー駅の当日切符売場では自力で切符を買うことはできず、旅行代理店の世話になることになった。A/C付3等寝台の切符を手配してもらったが、正規料金の倍額にはなっていたと思う。切符を買ったのが出発の直前であったためか、車両の外側に張り出されている乗客名簿に名前がなくて少し不安になったが、特に問題はなかったようだ。夕方には就寝の態勢に入った。

出発

デリー

ヴァーラーナシー

ソノーリ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

カトマンドゥ

バンコク

回顧

概要

■ヴァーラーナシー・カント駅到着は深夜であったが、構内には多くの人がたむろしていた。駅前広場で戯れている数頭の牛をしばらく眺めて時間を費やした後、ガンジス川沿いの沐浴場ダシャーシュワメード・ガートに向かうことにした。そして、前回のインド旅行の際の教訓に従って、不案内な旅行者を騙そうと駅で待ちかまえているリクシャーには取り合わず駅を後にし、通りを流しているリクシャーを探した。

到着する頃には辺りが明るくなっているかと考えていたが、ダシャーシュワメード・ガートに到着しても一面暗闇であった。後で分かったことだが、実は時刻を間違えており、まだ4時頃であったのだ。ところが、ガートには既に多くの人が押しかけてきていた。僅かな明かりを頼りに、老いも若きも一心にガンジス川に向かっている。そして、ガンジス川で沐浴をしたり、持参の瓶に水を汲んで大事そうに抱えたりしている。ガートに到着した時に既に沐浴を終えて帰る人と行き違っていたから、遅くとも3時頃には人が集まり始めていたのではないかと思う。日の出とともに沐浴をする人がいることは知っていたが、ガートがこれほど早くから活況を呈しているとは全く驚かされた。このような敬虔な勤行は、ラマダーン(断食月)のあるイスラーム教や、巡礼中に五体投地(キャンチャ)を行うティベット仏教(俗称はラマ教)に匹敵すると言うことができるのではないだろうか。

前回のインド旅行の際には当地に4日間滞在していたが、体調が十分でなかったこともあり、明るくなってから外出していたため、このようなことには全く気付かなかったのだ。また、明るくなってからでは一心不乱に沐浴をするという表情を感じ取ることは難しい。少し無理をしてでも、暗いうちに見物するべき現場だと感じた。

前回のインド旅行の際に泊まったホテルを訪ねた後、名残惜しいが、早々に駅に戻った。そして、ネパールのポカラに向かうバスの出発するバス・スタンドを目指した。駅の南側の小道に入り込んでいるバス・スタンドは見つけづらかったが、こちらが尋ねてもいないのに、男児が何の見返りもなく道を教えてくれた。

バス・スタンド前の旅行代理店で尋ねると、バスは2時間後に出発するという。運行は週2便しかないという話もあり、絶妙のタイミングであった。バスにはヨーロピアン、日本人、コリアンの若者などが乗っていたが、出発間際になって地元の人も乗り込んできた。空席があった場合に乗ることができるスタンドバイの形式になっているのかもしれない。最後部の座席に座っていたが、横に体格のよい女性が腰を下ろした。しかも、座席数を上回る7人が座ることになったため、身動きが取れなくなってしまった。このようなことは前回のインド旅行の際にも経験したが、この旅では乗車時間が長かったため非常に辛かった。最後部以外の座席は乗客が二人に限られており通路に身を乗り出すこともできるわけだから、このようなバスで最後部の座席に座ることは忌避行為だと言うことができるであろう。

出発

デリー

ヴァーラーナシー

ソノーリ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

カトマンドゥ

バンコク

回顧

概要

■ソノーリ(スノウリ、行政上の正式名称がシッダールタナガルであるバイラワの一部)は、このルートを採った場合の国境の町だ。大河を渡るなどの移動の後、宵に到着した。ネパールのヴィザは日本で取得していたが、国境で割安に取得することができるようであった。入国手続に少し手間取るだけだ。情報収集の怠慢を後悔した。インドは3日間で通過したことになる。

30番目の訪問国となるネパールに入国すると、指定されたネパール・ゲストハウスに向かった。そして、ドミトリに若い日本人男性4人と泊まり合わせることになった。ゲストハウスは、ドミトリ内のシャワーの水が途中で出なくなり共同シャワーを借りなければならなくなるなど、設備が整っていなかった。同室の男性は皆、単独で旅行し、強い個性を持っているようであった。

ソノーリからは、首都カトマンドゥに向かう人と第2の町ポカラに向かう人に分かれる。ヨーロピアンはほとんどカトマンドゥに向かったようだが、日本人は半数程度がポカラに向かった。ほかに、若いコリアン・カップルがポカラに向かった。カトマンドゥに向かう人の中には、日本人とヨーロピアンを問わず、さらにティベットを目指す人が多かったようだ。

ポカラに向かうヨーロピアンがほとんどいなかったのは、雨季であったためであろう。カトマンドゥには町自体に見物するべき観光名所が多いのに対し、ポカラはアンナプルナ山系の眺望によって旅行者の間で人気を博している町だからだ。一方、日本人は長期休暇を取ることのできる季節が限られており、雨季であっても雲の晴れ間にアンナプルナ山系が姿を現すことに一縷の望みを託してポカラを訪ねるということではないだろうか。

ポカラに向かうバスはものすごく古いものであった。多くの座席のカヴァーは破れ、マットが飛び出していた。しかし、そのようなことよりも、今度こそ最後部の座席にならないようにするということが最優先課題であった。その目的だけは達成することができた。

前方でヨーロッパ系の若い男性と地元の男性が口論を始めたので何事かと見守っていたが、荷物をバスの屋上に上げるサーヴィスの料金あるいはティップを支払ってもらいたいということのようであった。ヨーロッパ系の男性は料金支払の必要がないことを運転手に確認すると、地元の男性を追い払っていた。どちらに理があるのかは判断が難しいが、なすすべもなく追い払われている様を見ていると、地元の男性がかわいそうに思われてきた。

出発時には乗客は少なかったが、途中から多くの地元の人が乗り込んできた。最後部の座席を敬遠して正解であった。川に架かった橋を渡っている時、ゴム・ボウトに乗って川を下るラフティングを行っている旅行者を見かけた。

出発

デリー

ヴァーラーナシー

ソノーリ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

カトマンドゥ

バンコク

回顧

概要

■ポカラ到着は、宵であった。到着の30分程度前にホテルの客引きがバスの中に乗り込んできて、入れ代わり立ち代わり勧誘していく。乗客の中には客引きに全く取り合わない人もいたようだが、車内は次第に雑然としてきた。そして、オウルド・バス・パークに到着すると、車外の客引きも加わって、勧誘劇は最高潮に達する。最後には「フィニッシュ(止めろ)」と強く制することが必要になった。説明を受けたどのホテルも魅力的に感じられたが、その中からペワ湖畔のレイク・サイド(ネパール語名バイダム)にあるホテルを選んだ。面白かったのは、こちらがホテルを決めた途端、ほかのホテルの客引きが名刺を取り戻そうとしたことだ。当地では名刺も高価なのであろう。

後部の座席に座っていた日本人男性と部屋を共有することとし、一緒にホテルの送迎車に乗り込んだ。ホテルは、非常に清楚なものであった。ポカラのホテルが供給過剰の状態にあるということは本当のようだ。

男性は、当初はトレッキングを予定していなかったが、こちらの旅程を説明すると、同行したいと申し出てきた。そのため、トレッキング許可証の申請のために男性の写真が必要になり、写真撮影所を探し回った。夕食時には、民族舞踊を観賞することのできるレストランに入った。

翌日は、トレッキングの準備のために忙しかった。まず、旅行代理店で相談することとし、前日に写真撮影所まで連れていってくれた男児の勧める旅行代理店に入った。トレッキングの目的地となるアンナプルナの治安はよいと言うことはできない。そこで、小人数だと山賊に襲われるかもしれないことと道に迷って遭難する恐れがあることから、ガイドを雇うことにしていた。

インド入国後、ガイドブックを読んでアンナプルナ・トレッキングに予想外の日数を費やすことを知り、インドに立ち寄ったことを後悔していたが、旅行代理店のオウナーに旅程を相談すると、トレッキングの準備が整えば当日の午後にも出発することができるとのことであった。そして、ゴレパニで折り返す3泊4日のルートを選んだ。トレッキングの基点は、往路、帰路ともバグルン自動車道上にあるナヤプルとなった。帰路は、ダンプスを経由してポカラまでトレッキングをして戻ってくるルートを希望したが、旅程の都合から適わなかった。ガイド料は同行の男性と折半したため、自己負担は1日4USドル(1USドルは約112円)に過ぎなかった。ほかに手配してもらったのはポンチョ(簡易レイン・コウト)のレンタルだけであり、トレッキング・シューズは用意しなかった。

トレッキング許可証は直接申請することとし、自転車を借りてイミグレイション・オフィスに向かった。そして、手続きを済ませて帰ろうとすると、若い男性に声をかけられた。男性の説明によると、イミグレイション・オフィスの隣にある旅行代理店に申請を依頼すると午後早くトレッキング許可証を取得することができるという。体のよい賄賂だが、翌日の行程を考えると当日のうちに少しでもゴレパニに近づいておきたかったため、勧誘に応じることにした。その後、日本に電話をかけたり、ホテルをチェックアウトしたりするなどの作業が続いた。タイ航空に電話をかけると、帰国便のリコンファームは不要だと言われた。

トレッキングの準備が完了したため、レイク・サイドの旅行代理店で、ガイドを紹介してもらった。若い男性だ。同行の男性は荷物を2つに分けて、半分をガイドに運んでもらうことになった。そして、一緒にタクシーに乗ってイミグレイション・オフィスの隣にある旅行代理店に戻り、トレッキング許可証とアンナプルナ保護地域入域許可証を受け取った。タクシーは給油や整備のために自動車整備場に立ち寄ったが、それが終わると一路ナヤプルを目指した。

ポカラではアンナプルナ山系を見渡すことができないまでもまずまずの晴天であったが、次第に雲行きが怪しくなり、ついに大雨になった。そして、途中で2回、道路上を大量の雨水が横断して川のようになっている場所を渡らなければならないことがあった。これではアンナプルナ山系の眺望を楽しむどころではないと覚悟した。ナヤプルに到着するまでに雨は上がっていたが、雨が降っていたのが高度の高い場所であったことを考えると、トレッキングについて楽観的な見通しを持つことは許されなかった。ポカラを出発してから2時間程度でナヤプルに到着した。

出発

デリー

ヴァーラーナシー

ソノーリ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

カトマンドゥ

バンコク

回顧

概要

■アンナプルナ・トレッキングの開始だ。ナヤプルからしばらく下り坂が続き、渓流モディ・コーラが見えてくると、すぐにビレタンティに到着する。チェック・ポストがあり、トレッキング許可証の検査を受けた。そして、出発しようとしている時、ガイドに連れられた若い日本人男性と行き違った。2週間をかけてアンナプルナ北方のジョムソンなどを訪ね、ちょうど下山しようとするところだという。トレッキング期間中は毎日のように雨が降り、アンナプルナ山系は全く姿を見せなかったそうだ。また、雨季には大敵のヒルに血を吸われて赤く染まった靴下を見せてくれた。体調も崩したという。疲労困憊といった様子であり、それに3日後の自分をなぞらえてしまった。トレッキングの見通しは立たず、同行の男性ともども悲壮感さえ漂わせていたのではないかと思う。

ビレタンティから先は比較的緩やかな上り坂が続く。雲行きが怪しいと感じていたが、ついに雨が降り始めた。既に夕方になっており、次第に辺りが暗くなってきたが、小雨であったこともあり、翌日の負担を軽くするためにできるだけ先に進んでおくことにした。そのうちに道の上を雨水が流れ落ちるようになってきたため、ガイドに従って石塀の上を歩き始めた。ところが、石塀も雨に濡れて滑りやすくなっており、バランスを崩してしまった。石塀の外側は比較的急な斜面だ。ここで斜面に落ちるとどこまで転落してしまうか分からないと考え、必死になって石塀にしがみついた。それによって、何とか転落は免れることができた。同行の男性によると、転落しなかったことが不思議なほど体勢は石塀の外側に傾いていたという。転落していたとしたら少なくとも骨折ぐらいはしていたと考えられ、トレッキングどころではなかったと思う。九死に一生を得た思いであった。その後は、慎重すぎるほど慎重に歩を進めた。

ヒレに到着した時には、辺りはかなり暗くなっていた。途中の村には、どこもロッジ(山小屋)が少なくとも1〜2軒はあるようで、宿泊先はすぐに決まった。簡素なベッドがあるだけだが、トレッキングのためには十分な施設かもしれない。トレッキング中はすべて同行の男性とトゥイン・ルームを共有した。シャワーを浴びた後、夕食を取った。男性は風邪気味とのことであり、風邪薬を服用する代わりにガーリック・スープによって暖を取ることになった。

トレッキング2日目は、雨が上がっており、同行の男性の体調を気遣いながら、朝早く出発した。ゴレパニまでは上り勾配が続いており、朝食休憩を含めて途中で十分な休憩時間を取るためだ。そのうちに、やはりガイドに連れられたヨーロッパ系の壮年のカップルに追い付いた。前日は、このルートを選んだ場合に初日の目的地としてガイドブックで推薦されているティルケドゥンガにロッジを求めたという。前日の午後になってからポカラを出発したことによる遅れを取り戻すことができたわけで、一安心であった。しかし、途中から急勾配の石段が続くようになる。また、ガイドは呼び止めなければ一人で先に進んでしまうため、自然にペイスは速くなる。そのうちに、小休憩を取ったぐらいでは足の疲れは癒えなくなってきた。そこで、朝食休憩や午前中のティー・タイムには十分な時間を取った。また、歩行中は大量の汗が吹き出てくるため、休憩時に着替えをしたり、ペット・ボトルに小川の水を汲んで体にかけ体温を下げたりした。ティー・タイム中に、同行の男性が水を汲んでいる時に手に付いたヒルが見つかった。発見が早かったため被害はなかったが、ヒルの棲息地域に入ったことが分かった。

一時はゴレパニに到着してから昼食を取るという案が出るほど順調に行程が進んだが、午後になって再び雨が降り始めた。そこで、雨宿りを兼ねて昼食休憩とすることにした。立ち寄ったのは民家か茶店か分からないような建物であったが、ヌードルを調理してくれた。雨が上がってから出発し、ゴレパニに到着すると再びチェック・ポストでトレッキング許可証の検査を受けた。

ゴレパニ(正式名称はゴレパニ・デオラリ)では、ダウラギリ・ヴュー・ロッジに泊まることになった。日が暮れるまでにはまだ時間があったため、ガイドに道を教えてもらって一人でプーンヒルに登ることにした。ゴレパニからは徒歩1時間の距離だ。途中の湿地ではヒルに足首から少し血を吸われてしまった。頂上では雲の流れが速く、青空も覗いていたが、残念ながらアンナプルナ山系を見渡すことはできなかった。頂上は標高約3,200mであり、風が強いこともあって、それまでとは打って変わって寒く感じるようになってきた。登坂中にヨーロッパ系の若い男性と行き違ったが、ほかに人はおらず、早々に下山することにした。ロッジでは暖炉に火が入っていた。

3日目は、ガイドや同行の男性と一緒に再びプーンヒルに登った。日の出に間に合うように、出発は4時半としていた。しかし、安眠を妨げられたガイドはあまり機嫌がよくない。「アンナプルナは見えないよ。」と言われた。雨が降っていなければ登坂を決行すると前日に約束していたため、そのようなことを言われること自体、不愉快であったが、確かに天候はよくなく、アンナプルナ山系を見渡すことのできる可能性は低いように思われた。暗闇の中、道を探しながら登っていった。

頂上に到着した時には辺りは明るくなっていたが、アンナプルナ山系は姿を見せていなかった。しかし、しばらくすると、雲の晴れ間にアンナプルナ・サウスの頂上部分が見えてきた。そのうちに雲の晴れ間は中腹部分に移っていき、アンナプルナ・サウスは再び雲の中に姿を消した。短時間であったが、一部なりとも標高約7,200mの高峰を拝むことができ、満足してプーンヒルを後にした。下山中、数人のヨーロピアンと行き違ったが、残念ながらタイミングを逸していたのではないだろうか。

写真
アンナプルナ・サウス

ロッジに戻って朝食を取り、ゴレパニを後にしようかという時、ガイドに声をかけられた。外に出てみると、今度は純白に輝くアンナプルナ・サウスの威容をはっきりと眺めることができた。期待していた以上に素晴らしい眺めであり、それまでの苦労が報われた思いであった。

写真
アンナプルナ・サウス

写真
ダウラギリT峰

写真
マチャプチャレ

ガンドルンに向かう途中でも、アンナプルナ・サウス、標高約8,200mのダウラギリT峰、ポカラのシンボルと言われるマチャプチャレなど、アンナプルナ山系の壮大な景観を堪能することができた。ちょうど雨季の終期に入ったところであり、何とか晴れ間を期待することのできる季節になっていたようだ。

ゴレパニからガンドルンまでの道は、アンナプルナ・トレッキングの中でも難所に当たる。ナヤプルからゴレパニまでの道と比べて、十分に整備が行われていないのだ。草木を縫って進んだり、岩山を登ったり、川を渡ったりと、冒険と呼んでよいような区間もあった。基本的に下り坂であったため何とか耐えられたが、逆ルートであれば非常に苦労したであろう。

この区間は多くが湿地であるため、ヒルが大敵となる。丘陵状になっているアンナプルナ・サウスのヴュー・ポイントでさえ、石に腰を下ろして見とれていると数匹のヒルが服の上を這っているということがあった。同行の男性はヒルの発見が遅れ、大腿部から大量の出血をしていた。その後はヒルに対してかなり神経質になり、定期的に足元を確認するようになった。泥濘でガイドが用を足すために立ち止まった時は、構わずに歩き続けるか、足踏みをする必要があった。立ち止まるとすぐにヒルが靴から這い上がってくるためだ。放牧されていた牛の顔にもヒルが付いていたが、払い落とす手段はないようであった。血を吸う前には尺取虫のような細長い体が、丸々と太っているのだ。ヒルの飼育場ではないかと思ったほどだ。茶店に立ち寄ろうとした時も、庭先にヒルがいるようなので敬遠することにした。

途中で雨が降ってきたが、昼食休憩中であったため、大きな影響を受けることはなかった。猿が棲息している森を通り、午後からペイスを上げて15時半頃にはガンドルンに到着した。前日までよりもかなり早い時刻からロッジでくつろぐことになったが、早朝から行動を始めていたわけだから、ちょうどよかったかもしれない。

同行の男性は、勤務先を退職して南インドを1か月にわたって旅行しており、帰国後の再就職先は決まっていないという。インドではヴァーラーナシーに魅せられたようで、トレッキングを終えると再びヴァーラーナシーに向かうとのことであった。当初トレッキングを予定していなかったのは、英語が得意ではなくガイドとの意思の疎通に苦労すると考えたからとのことで、確かにガイドと会話をしていなかった。しかし、ヴァーラーナシーでリクシャー料金を極限までディスカウントさせるなどしており、旅に苦労はしていないようであった。

トレッキング中に軽い頭痛があったため、同行の男性の風邪に感染したのではないかと考えていたが、一時的なものであった。軽い高山病であったかもしれない。男性の体調もよくなってきたようだ。

写真
マチャプチャレ(右)

4日目は、晴天であった。早朝、部屋を出てみると、正面にアンナプルナ・サウスとマチャプチャレを同時に見渡すことができた。その美しさは筆舌に尽くし難い。そのままアンナプルナBC(アンナプルナ・ベイス・キャンプ、アンナプルナ内院、アンナプルナ・サンクテュアリ)に向かってトレッキングを続けたいという思いに駆られた。

ガンドルンを出発してしばらく進むと、左手に渓谷を挟んでランドルンの集落が見える。アンナプルナBCに向かう道の途中にある村だ。視界が広く、村が自然の中に溶け込んでいるように感じられた。ビレタンティまで下り坂が続くため、非常に楽な行程であった。途中からモディ・コーラの河原を歩き、ビレタンティのチェック・ポストに立ち寄った後、12時頃にはナヤプルに到着した。ナヤプルからはバスに乗ってポカラに向かい、ニュー・バス・パークでタクシーに乗り換えた。

出発

デリー

ヴァーラーナシー

ソノーリ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

カトマンドゥ

バンコク

回顧

概要

■ポカラのホテルに戻ると、シャワーを浴びてトレッキングの垢を落とした。そして、近くにあるレストランで夕食を取っていると、ソノーリのホテルで同室であった若い日本人男性が入ってきた。ソノーリからカトマンドゥに向かったため、当地には到着したばかりだという。男性によると、カトマンドゥに向かったバスは途中でトラックと衝突して走行不可能となったため、乗客はカトマンドゥまでヒッチ・ハイクをする羽目になったらしい。インドを含め、長距離バスの無謀な運転の問題はよく指摘されるが、もしソノーリからカトマンドゥに向かっていたとしたら交通事故に巻き込まれていたわけで、明日にも自分の身に起こり得る問題だと認識せざるを得なかった。

同行の男性はヴァーラーナシーへの旅路を急ぐため、当地には滞在せずカトマンドゥに向かう夜行バスに乗ることになっており、別れを惜しんだ。一人になってから、市街を散策した。大半を占めるネパール人の店のほか、民芸品などを取り扱っているティベット人の店が散見される。日本人旅行者の多いダム・サイド(ネパール語名パルディ)にも足を運んだが、清楚なホテルが立ち並びヨーロッパ系の旅行者の多いレイク・サイドと比べると、下町の風情が漂う。日本人旅行者が愛用しているスルジェ・ハウスも覗いた。

出発

デリー

ヴァーラーナシー

ソノーリ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

カトマンドゥ

バンコク

回顧

概要

■カトマンドゥに向けて、翌朝、トゥーリスト・バスに乗り、午後早く到着した。かつて、既成の価値観を否定したヒッピーの好んだ町だ。トゥーリスト・バスは、バス・パーク以外の場所でも停車してくれる。そこで、かつてヒッピーが集まったことからフリーク通りとも呼ばれるジョッチェンに向かいたいという希望を伝えた。バスを降りた後、指示された方向に向かって歩いたが、様子がおかしい。前を歩いていた二人連れの若い日本人女性に尋ねてみると、現在の安宿街タメルにいることが分かった。バスの運転手にこちらの意図は伝わらなかったようだ。仕方なく、予定を変えてタメルで宿泊先を探すことにした。すぐに客引きに声をかけられ、簡単にゲストハウスが決まった。

タメルに腰を落ち着けてみて、その奥行きの深さに改めて驚かされた。ほかの安宿街と比べてみると、カルカッタのサダル通りは安宿が点在しているだけであるし、デリーのパハールガンジやバンコクのカオサン通りでも華やかなのはほぼメイン・ストリートに限られているのに対し、タメルではホテルやゲストハウス、レストラン、土産店、旅行代理店などが軒を連ねる通りが網の目のように張り巡らされているのだ。そして、カオサン通りと同じく、ヨーロピアンの嗜好に合うよう趣向が凝らされているように思われた。

市内見物のための時間はほとんどなくなっていたが、自転車を借りてパシュパティナートに出かけることにした。ネパール最大のヒンドゥー教寺院にして四大シヴァ寺院の1つだ。異教徒は寺院内への立ち入りを禁止されており、見所は火葬場のアルエ・ガートだ。若い男性に案内してもらい、バグマティ川対岸に置かれているベンチに腰を下ろした。火葬場は、前回のインド旅行の際にヴァーラーナシーで覗き見て以来の訪問だが、今度は遺体が炎に包まれている様を間近で拝むことができた。火葬が人目に晒されることを意に介さず、また遺灰を川に投じるのは、ヒンドゥー教徒が輪廻転生(リインカーネイション)を信じているからだという。民族の死生観は葬法に集約されていると言ってよいであろう。そして、輪廻転生という教義はほかの宗教にもあるが、それが最も純粋に体現されているのがヒンドゥー教だということになるのであろう。いずれにしても、これほど単刀直入に人の死の問題を突きつけられたのは初めてのことであった。

当地では、トレッキングに同行した男性と再会した。ポカラで別れる時に当地で再会するかもしれないと言っていたが、それが現実に起こって驚かされた。男性は、午前中から精力的に市内見物をしており、翌日にはヴァーラーナシーに向かうバスに乗るという。ヴァーラーナシーに魅せられた男性が当地で最大の見所だと感じたのは、もちろんパシュパティナートであった。火葬場だけでなく、寺院周辺の雰囲気がヴァーラーナシーを彷彿とさせるらしい。

翌日は、午後の出国となっていたため、それまでの時間を利用して市内見物を続けることにした。まず、ダルバール広場まで歩いて向かった。広場には旧王宮があるほか、ジョッチェンも近い。クマリの館に行き、女神クマリの化身とされ国王をも跪かせる女児を拝んだ後、リクシャーを貸切で利用することにした。そして、古都パタンを経由してトリブヴァン空港に向かった。当日はクリシュナ誕生日に当たっており、パタンのダルバール広場が群集で埋まっていたほか、パタンの全女性が集まっているのではないかと思われるほどの数の着飾った女性が老いも若きもダルバール広場に向かって列を成していた。

出発

デリー

ヴァーラーナシー

ソノーリ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

カトマンドゥ

バンコク

回顧

概要

■バンコクへは、宵に到着した。そして、乗換時間が6時間半程度あったため、市内に入ってみることにした。と言っても、入国手続に要する時間、チェックイン・タイムのほか、空港、市内間の往復に要する時間などを考えると、十分な時間ではなかった。

ドーン・ムアン空港は、新ターミナルが完成し、装いを新たにしていた。運行を始めたエアポート・バスを試してみることにした。目的地はシーロム通りだ。車内でヴィデオによる運行経路の説明が行われるなど非常に豪華なバスであった。しかし、料金はシーロム通りまで70バーツ(1バーツは約3.39円)と、市内バスの5倍に設定されており、運行頻度が低いにも関わらず乗客は2、3人しかいなかった。また、高速道路を利用するため走り始めると速いが、その前に複数あるターミナルのそれぞれに長時間停車して乗客を募ったりガス・ステイションで給油を行ったりするなど、まだサーヴィスの本質を理解していないように思われた。地元の人をどこまでターゲットにしているのか分からないが、経営的には厳しいであろう。

2年振りのバンコクでは、交通網の高架化のための工事が進むなど、慢性的な交通渋滞の緩和に向けて努力されているように思われた。均衡の取れた経済発展の必要性が理解されるようになってきたのではないだろうか。

到着すると、パッポン通りやタニヤ通りの見物を始めた。辺りが暗くなってから訪ねるのは初めてのことだ。パッポン通りは、当然のことながら日中にはない活況を呈していた。また、タニヤ通りでは、2、3軒あるカラオケ・バーの前に接客係の女性が大勢並び、日本人らしき人が通る度に声を合わせて「いらっしゃいませ。」と呼び込みを行っていた。

歓楽街の活況を確認すると、市内バスに乗って空港に戻り、深夜に福岡に向けて出発した。

出発

デリー

ヴァーラーナシー

ソノーリ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

カトマンドゥ

バンコク

回顧

概要

■この旅の目的であったヒマラヤ・トレッキングを満喫することができ、大いに満足している。天候に大きく左右されるものであり、雨季のトレッキングとしては幸運に恵まれたように思う。

ゴレパニやプーンヒルは、初めての本格的なトレッキングの目的地としては適当であったのではないかと思う。もし将来再び当地を訪ねることができたならば、ぜひアンナプルナBCを目指したい。ガイドによると、初心者には無謀であろうが、ナヤプルを基点としてモディ・コーラ沿いに進むと、順にチョムロン、デオラリ、アンナプルナBC、チョムロンに滞在して、ポカラから最短4泊5日で往復することも不可能ではないようだ。神々の住む山に囲まれて寝食をする日は来るであろうか。

旅の目的がヒマラヤ・トレッキングだけであるならば、もちろんインドに立ち寄る必要はない。この旅では、デリーで同室の男性に看破された通り、インド訪問にも意味があったのだ。アジアを極めようとすると、中国とインドは避けて通れない。そのうち、中国についてはある程度理解が進んだように思われるが、インドについては、前回のインド旅行でどちらかと言うと否定的な印象が残ってしまった。そのため、短期間であっても再訪する機会があればインドの再発見を試みたいという思いがあった。そして、それはヴァーラーナシーで叶えることができたように思う。短時間のことであり、また偶然の産物であったが、決して脳裡から離れることのないであろう光景を目にすることができた。綱渡りの旅程ではあったが、期待した以上の成果を上げることができたと言ってよいであろう。

インドでは、この旅でも外国人だけを対象にした金銭獲得行動に煩わされた。その時によく聞かされた言葉は、「これは自分のために言っているのではない。あなたのために言っているのだ。」というものだ。流行語であろうか。

この旅では、ガイドブックの束縛から自由に行動するため、インドについて扱ったガイドブックは持参しないという試みも行った。しかし、短期間のうちにネパールに向かう必要がある以上、ガイドブックを持たないということは情報不足を招くだけで何の益もなかった。

現地での1日平均の旅行費用は約1,900円であった。旅行費用のうち一人当たり宿泊料金の最高はガンドルンの2食付約380円(190ネパール・ルピー)で、最低はヒレの2食付約180円(90ネパール・ルピー)であった。ともにトレッキング中のロッジであり、宿泊料金単独では50ネパール・ルピー(1ネパール・ルピーは約2.02円)と、アンナプルナ地域を通じて統一されていた。

トレッキング中、滞在している村で食事をする場合は、泊まっているロッジで注文するよう指示されていた。ロッジにとっては、ベッドを提供するだけでなく料理を注文してもらうことによって初めて十分な収入を得ることができるので、泊まっているロッジで料理を注文することが慣例になっているという。朝食ではティベッタン・ブレッド、それ以外ではネパールの代表的な料理のダル・バートを注文することが多かった。ダル・バートには、豆スープ(ダル)と米飯(バート)のほか、野菜(タルカリ)が付いてくる。多くのロッジで、依頼に応じて豆スープや野菜を追加してくれた。山村では贅沢品のようで料金は宿泊料金に匹敵するが、栄養は豊富だ。不可解であったのは、ガイドが毎食ダル・バートを注文していたことだ。食費を合計すると1日のガイド料の半額に達してしまうのだ。それではガイドとして生活することはできないから、ロッジやレストランにトレッカーを連れていくことによって、ガイドは何らかの恩恵を得ることができるような仕組みになっているのであろう。

ティベットについては、この旅ではその文化圏に入り込むことができたと言うことができるかどうか怪しいが、ぜひ訪ねてみたい地域になりつつある。できればネパールから陸路によって入国する方法を試してみたい。

出発

デリー

ヴァーラーナシー

ソノーリ

ポカラ

アンナプルナ
抜粋

ポカラ2

カトマンドゥ

バンコク

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 居住地
16日08:00 道路 10:00 福岡
12:10 空路 22:00 インド デリー
17日13:20 鉄路 18日02:30 ヴァーラーナシー
08:30 道路 18:30 ソノーリ
18:50 徒歩 19:10 ネパール ソノーリ
19日08:30 道路 18:30 ポカラ
20日14:00 道路 16:00 ナヤプル
16:00 徒歩 18:30 ヒレ
21日07:00 徒歩 15:00 ゴレパニ
16:00 徒歩 17:00 プーンヒル
17:30 徒歩 18:00 ゴレパニ
22日04:30 徒歩 05:30 プーンヒル
06:00 徒歩 06:30 ゴレパニ
08:00 徒歩 15:30 ガンドルン
23日07:00 徒歩 12:00 ナヤプル
12:00 道路 14:30 ポカラ
24日06:30 道路 14:00 カトマンドゥ
25日13:40 空路 18:10 タイ バンコク
26日00:50 空路 08:00 日本 福岡
09:00 道路 11:00 居住地
徒歩 :徒歩、 道路 :道路、 鉄路 :鉄路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
インド デリー 不詳 IN.R 70 1
ネパール ソノーリ Nepal Guest House(バイラワ) 1
ポカラ Hotel Mountain's King NP.R 110 1
ヒレ See You Lodge NP.R 90 1
ゴレパニ Dhaulagiri View Lodge NP.R 190 1
ガンドルン 不詳 NP.R 100 1
ポカラ Hotel Mountain's King NP.R 165 1
カトマンドゥ Holyland Guest House NP.R 165 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
US.$ 112円 0 0 0 0 16
内訳
インド IN.R 3.17円 0 193
内訳
1,347
内訳
0 0
ネパール NP.R 2.02円 22
内訳
1,073
内訳
1,593
内訳
0 1,645
内訳
タイ TH.B 3.39円 0 323
内訳
334
内訳
0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 44 3,872 8,620 0 5,106

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
0 0 16
内訳
インド 70
内訳
0 1,610 5,109 2.7 1,892
ネパール 1,285
内訳
0 5,618 13,114 6.9 1,901
タイ 0 0 657 2,230 1.4 1,593
通貨計 2,812 0 20,454 11.0 1,859
(注)円換算と日平均は他国通貨での支払いを含む。

出発

デリー

ヴァーラーナシー

ソノーリ

ポカラ

アンナプルナ
抜粋

ポカラ2

カトマンドゥ

バンコク

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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