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ネパールB

出発

バンコク

カトマンドゥ

ポカラ

アンナプルナ
抜粋

ポカラ2

バンコク2

回顧

概要

■バンコクのドーン・ムアン空港に到着したのは、日中であった。日本から乗ってきた飛行機が明るいうちにバンコクに到着したのは初めてのことだ。イミグレイションにはほとんど列ができていない。それまでになくスムーズに入国することができた。

早速、赤59番の市内バスに乗って、カオサン通りを目指した。経済危機が発生しているというが、通りでは日本車を含め高級な外国車が次々と走り抜けていった。もちろん、実力以上の消費のため経済危機が発生したというのが的を射た説明かもしれない。

同乗していた日本人女子学生に声をかけ、一緒にカオサン通りに向かった。女子学生は10日間の旅程でシンガポールなどを訪ねることを希望していたため、宿泊先を確保する前に一緒に旅行代理店に立ち寄ってみた。2日後に予約が可能なアシアナ航空のシンガポールまでの片道航空券は2,600バーツ(1バーツは約3.15円)、カルカッタ往復航空券は8,950バーツであったが、女子学生はマレイシアのペナンに向かうトゥーリスト・バスを予約した。日程的に可能であればペナンからシンガポールに向かうとのことであった。

カオサン通りではしばらくゲストハウスを物色したが、中には宿泊料金が数百バーツの中級ホテルもあることを初めて知った。

翌朝は、10時半発の飛行機に間に合うように、5時頃に起床して6時頃にはバス停留所に向かった。割高なトゥーリスト・バスではなく、市内バスを利用しようと考えたのだ。様々な番号札を掲げたバスが次々と通り過ぎていくが、赤59番のバスは運行頻度が低いのか、なかなか通りかからない。その上、目的のバスが来たことをすばやく確認して乗車の意思表示をしなければ、停留所のレインには入らずにそのまま走り去ってしまう。結局、2台のバスを見送ってしまい、停留所に到着してから30分後にようやくバスに乗ることができた。

出発

バンコク

カトマンドゥ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

バンコク2

回顧

概要

■カトマンドゥのトリブヴァン空港での入国審査は、順調に進んだ。ヴィザは空港で取得することにしていた。既にヴィザを取得している人とは別の列に並ぶことになるが、こちらの方が人が少なく、かえって簡単に入国審査が終わった。

空港の外に出ると、すぐにホテルの客引きの歓迎だ。空港から安価な交通機関を利用することは難しいため、無料送迎(フリー・トランスポート)のほか、実際にホテルに泊まるかどうかは部屋を見てから決めればよいとの条件を提示してきた客引きに従って市内に入ることにした。到着したホテルは、安宿街タメルの中心部から少し離れていたが、ほぼ空港からのタクシー料金に相当する5USドルと割安であったため、泊まることにした。

次いで、ホテルに紹介された旅行代理店を訪ねてティベット訪問などについて相談した。すると、ティベットに入るためにはトゥアーに参加する必要があり、往路で寄り道をしながら陸路を進みラサで3泊する7泊8日のトゥアーは630USドルとのことであった。また、催行は土曜日に限られるようになっており、ティベット入域許可証の取得に3日を要するため、日本からは2週間程度の旅程が必要になっているようだ。

ティベット訪問は諦め、次に、クーンブを経て標高約5,500mのカラパタールなどからエヴェレスト(ネパール語名サガルマータ、中国語名チョモランマ)を眺めるトレッキングについて問い合わせてみた。トレッキングの起点は、従来であればルクラまたはシャンボチェだ。しかしながら、ヘリコプターのフライトが安全上の問題から廃止されたため、唯一残されたルクラに向かう飛行機に予約が集中しており、4日後のフライトしか予約することができないという。それではとてもカラパタールまで登ることはできない。

日系の旅行代理店も訪ねてみたが、結論は同じであった。ティベットへは5人集まらないと入域許可証が発行されなくなったということや、ルクラに向かう飛行機は日本で予約した方がよいということなどを教えてもらった。登山家の若い日本人男性とも話をしたが、当地で登山をしようとすると莫大な費用がかかるため、トレッキングをするとのことであった。当地では、神聖な山に踏み入る登山を歓迎していないのだ。

結局、トレッキングの目的地は、前回の旅に続いてアンナプルナということになった。アンナプルナを再訪するのであれば、ぜひアンナプルナBCを目指したい。そして、タイトな旅程を少しでも緩和するために、当日中にポカラに向かうことができないか確認してみた。すると、夜行バスにはロウカル・バスしかなく、旅行代理店では手配を取り扱っていないため、直接バス・パークに向かうようにとのことであった。そこで、まず、ホテルを引き払うことにした。ホテルでは、代わりに泊まる外国人を見つけてくれば宿泊料金を返金すると言われ、日本資本の旅行代理店に戻って、まだ宿泊先を決めていないと話していた登山家が残っていないか探したが、ちょうど旅行代理店を後にしたところのようであった。

荷物をまとめると、テンプー(三輪タクシー)に乗ってニュー・バス・パークに向かった。バス・パークは多くの人で溢れ、久し振りに身構えるようなものであった。外国人旅行者はトゥーリスト・バスに乗って移動するためか、地元の人しか見かけなかった。ポカラに向かうバスの切符売場を確認すると、地元の人と押し合いながら窓口に突進していった。

出発

バンコク

カトマンドゥ

ポカラ

アンナプルナ
抜粋

ポカラ2

バンコク2

回顧

概要

■ポカラに向かうバスは、宵に出発した。隣には、カトマンドゥ出張が終わりポカラに戻る途中だという森林省に努める公務員が座り、しばらく話をしていたが、そのうちに眠りに落ちた。

肩を叩かれて起きると、乗客が皆バスを降りるところであった。車外は暗闇だ。しばらく降車をためらっていたが、促されてバスを降りた。深夜3時半頃であった。車外にはほとんど人がいないし、バス・パークらしい雰囲気はない。夜のうちに雨が降ったこともあるが、泥濘が多い。ここは本当にポカラなのか、明るくなるまでどうすればよいのかなどと思案を巡らせていた。

そのうちに、ゲストハウスの客引きが大挙して押しかけてきた。そして、客引きからは「ダム・サイド」や「レイク・サイド」という言葉が次々と口を衝き、初めてポカラに到着したのだと確信することができた。バスは時間調整をしてくれなかったようだ。カトマンドゥと同様に無料送迎を要求すると、なかなか交渉がまとまらなかった。しばらくすると、ダム・サイドにあるゲストハウスまで歩いていこうという提案があった。オウルド・バス・パークからダム・サイドまで徒歩15分程度の距離らしい。そこで、夜道を歩いてゲストハウスに向かうことにした。

初回のインド旅行の際にアーグラーに深夜3時頃に、ヨーロッパ旅行の際のイスタンブルとアメリカ合衆国滞在の際のサライナに深夜2時半頃に到着したことがあるが、さらに遅い時刻の到着となったわけだ。なお、空港で夜を明かしたことを除いて、アメリカ合衆国滞在の際のメキシコ・シティに深夜1時半頃に、同じくピッツバーグに深夜3時半頃に、初回の韓国旅行の際に慶州に4時頃に到着したことがあるが、夜が明けるのを待って行動を始めたため、こちらは早い時刻の到着ということになるであろう。

写真
アンナプルナ山系(奥)

4時頃に就寝したが、浅い眠りであり、明るくなる頃には起き出した。ゲストハウスからはマチャプチャレを始めとするアンナプルナ山系を眺めることができた。前回の旅とは異なり乾季なので晴天を期待することができる。

ゲストハウスでトレッキングについて相談すると、7日間でアンナプルナBCを目指すことは可能だという。そして、当日中に出発することとし、トレッキングの手配はほとんどゲストハウスに任せることにした。トレッキング許可証と入域許可証は追加料金を支払って緊急申請とし、シュラフザックとトレッキング・シューズをレンタルした。ガイドについては、短期間でアンナプルナBCに登るために必須だと判断した。料金交渉の結果、前回のトレッキングと同じ1日8USドル(1USドルは約118円)と決まった。準備が整うまでの間、ペワ湖の辺りからアンナプルナ山系を眺めたり、レイク・サイドに立ち寄ったりしたほか、日本に電話をかけたり両替を行ったりするなどの用事を済ませた。

出発

バンコク

カトマンドゥ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

バンコク2

回顧

概要

■アンナプルナ山系に向けて、午前中にポカラを出発することができた。ナヤプルまでタクシーを利用し、トレッキングを始める。シュラフザックは若い男性のガイドに運んでもらうことになった。

ビレタンティのチェック・ポストに到着すると、ガイドに自分のことをポーターだと説明するようにと依頼された。どうやらガイドの資格を持っていないらしい。ビレタンティからガンドルンまでは前回のトレッキングの最終日の行程を逆に辿るだけなので、あまり楽しいものではなかった。むしろ、7日間のロング・ランを無事にこなすことができるかどうか、不安が先に立つ。また、ガンドルンまでの行程は、上りと下りの相違から、前回のトレッキングよりもはるかに苦労した。右手には、モディ・コーラの刻む渓谷を挟んでガンドルンと向かい合うランドルンが早くから見えていたが、目的地は遠かった。しかも、ガンドルンに到着してチェック・ポストに立ち寄った後も延々と階段を昇っていくため、ロッジで部屋の鍵を受け取るとベッドに倒れ込むという有り様であった。

トレッキング2日目は、朝から曇り気味であり、アンナプルナ・サウスやマチャプチャレをはっきりと確認することはできなかった。高度差の小さいバンブーまで距離を稼ごうと早々に出発した。

写真
アンナプルナ・サウス

しばらく進むと、雲の晴れ間にアンナプルナ・サウスが姿を現した。振り返るとガンドルンの集落と棚田が見える。羊の群れに出会うということもあった。地形に変化があるため、足を運ぶことが苦にならない。

しかし、それは、当日の長い行程の始まりに過ぎなかった。当日の行程はアップ・アンド・ダウンがあるとガイドに説明されても、それが具体的にどのような状態を意味するのか、あまり理解していなかったが、何と、峠越え、谷越えが連続するということを意味していたのだ。ガンドルンとバンブーの高度差が小さいということは、その間の行程が平坦だということを意味しているわけでは全くなかったのだ。

写真
コムロン付近

ガンドルンの次の峠に当たるコムロンで朝食を取ると、ガイドが進路を指し示してくれた。目の前の渓谷を越えた先の峠が次の拠点チョムロンだという。仕方なく、九十九折りになっている坂道をキュムヌ・コーラまで下る。川を渡ると当然のことながら上り坂が待っているが、下りの後の上りは心理的に辛い。せっかく稼いだ高度を掃き出し、また取り戻さなければならないのだと考えてしまうためだ。それでも、何とかチョムロンに辿り着き、コムロンで一緒に朝食を取っていたインド人男子学生の一行に追い付くことができた。ネパールにはカーカルビッタから入国したというから、東部出身のようだ。

昼食を取っていると、若い日本人カップルがランドルン方面から急坂を登ってきた。女性の方は腹痛を起こしており、非常に辛そうであった。長椅子に横になりながら、連れの男性に向かって「絶対に内院(アンナプルナBC)に行くんだから。」と言っていたが、体調が回復するまで当地に留まるとすると、日程的に厳しそうであった。しょせん旅は旅でしかないのだから、もっと肩の力を抜いて、運がよければ目的地に到着するかもしれないというぐらいに柔軟な発想を持っていた方が状況に応じた対応をすることができるのに、一途な思い込みをすると、自らが苦しいだけでなく同行者にも迷惑をかけることがあるのではないかと、自戒を込めて考えた。

このルートではチョムロンが最後の村であり、その先にはロッジがあるだけだ。今度は、眼下にチョムロン・コーラの織り成す渓谷が横たわっており、その先の峠にある建物が次の拠点シヌワだと教えてもらった。建物は遥か先に米粒のように小さく見えており、本当に当日中にバンブーに到着することができるのかと不安になってくる。チョムロン・コーラまでの下りは階段になっていたが、休みながら下らなければならないほど疲れてきていた。チョムロンのロッジで一旦は荷を解いていたインド人の一行は当日の目的地をバンブーに変更したようで、次々と追い抜いていった。

チョムロン・コーラを渡り終えると急坂が待っている。このような峠越え、谷越えの連続を単に「アップ・アンド・ダウン」という言葉で説明するとは何事だ。ガイドとのコミュニケイションには何の支障もないと思っていたが、そうでもないらしい。

何とかシヌワに到着すると、茶店で休憩した。そこでは幼い女児が弟の世話をしながら店番をしており、親はどこにいるのであろうかと気にかかった。茶店で通り雨を遣り過ごし、バンブーに向けて密林を突き進む。途中で、再び雲行きが怪しくなってきたと言われていたが、ついに大雨になった。ちょうど傍らの岩壁が迫り出していたので、その下で雨宿りをすることができた。しばらくすると雨は上がったが、そのうちに次の雨雲に追い付かれた。再び大雨に見舞われ、今度は大木の下で雨宿りをしていたが、大雨を避け切ることができるものではなかった。雨は長く続き、そのうちに雹も交じるようになってきた。すっかり濡れた上に体力を消耗してしまった後、小雨になった頃を見計らい、ガイドを促して歩を進めると、すぐに岩壁の迫り出しがあり、そこで雨宿りをすればよかったのにとガイドの判断の悪さを詰りたくなった。

さらに密林を進むと、チェック・ポストのあるクルディガルに至る。こちらは青息吐息で、ほとんどトレッキング許可証の検査を受けるどころではなかった。クルディガルを過ぎると、モディ・コーラ沿いにあるバンブーに向かって下り坂が多くなる。しかし、下り坂でさえ足が進まない。いよいよバンブーに近づくと、ガイドは先を急ごうとする。しかし、最後の下りの階段で足が動かなくなった。雨に濡れていることに構わずに階段に腰掛けてしまったほどだ。下りで足が動かなくなるというのは初めての経験だ。

バンブーに辿り着いた時には疲労困憊しており、最初のロッジの軒先に張り出された椅子に座ると、しばらく動くことができなかった。ガンドルンを出発してから10時間が過ぎていた。電気は供給されておらず、また、シャワーの代わりにバケツに汲んでもらう有料の温水を浴びることになった。

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ガイド

3日目は、足が動くかどうか不安であったが、幸いなことに疲労は回復していた。ガイドは、標高約2,200mのバンブーから、約3,200mのデオラリを目指そうと提案してきたが、できれば約3,700mのマチャプチャレBC(マチャプチャレ・ベイス・キャンプ)を目指したいという希望を伝えた。早くマチャプチャレを目の前に眺めたいという思いよりも、翌日に約4,100mのアンナプルナBCを目指す以上、早目に高度を稼いでおいた方が高度順応のためによいのではないかとの考えによるものだ。もちろん、当日はデオラリまでに留め、翌日はマチャプチャレBCまでというように、少しずつ高度を上げていくことが最善なのであろうが、旅程に制約がある以上、どこかで無理をすることを覚悟しなければならなかった。

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マチャプチャレ

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マチャプチャレ

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マチャプチャレ

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マチャプチャレ

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マチャプチャレ

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マチャプチャレ

前日に引き続き密林を進んでいくと、左手にヒウンチュリが見え、次いで右手にマチャプチャレが姿を現した。朝日に輝く威容を眺めながら、苦労して登ってきた甲斐があったと思った。

マチャプチャレBCまで高度差約1,500mというのは辛いところだが、ガイドと別の場所で食事をするなどして、ゆっくりと高度を稼いでいった。所々で山から落差のある滝が流れ落ちてきており、壮観であった。

ヒマラヤ・ホテルを過ぎて標高3,000mに達すると、雪が散見されるようになる。そして、デオラリからは高木がなくなり、風が吹いてきたり太陽が雲間に隠れたりすると急に肌寒く感じるようになって、Tシャツ1枚という服装から一気に襟付きシャツ、セーター、ジャンパーを着込まなければならなくなった。大雪原を歩くこともあり、遠くでは雪崩の音がしていたため、急勾配の斜面を横断するトレイルを進む時は恐ろしかった。

当日の行程には冒険的と言ってよいような区間があったが、マチャプチャレBCに到着した時に前日のような疲労は全く感じていなかった。

部屋で休憩していると、ガイドに呼ばれた。外に出てみると、空が晴れ渡っており、マチャプチャレを目の前に眺めることができた。ほかのトレッカーも興奮しているようだ。

そのうちに、壮年の日本人男性二人に話しかけられた。日本のアルペン・クラブの会員としてトレッキングに参加しているという。そのうちの一人は、ヒマラヤ山脈からカラコルム山脈まで広がる標高8,000mに達する山々をほとんど訪ねているらしい。泊まっているテントに招待してもらい、ほかの参加者と話をしたり菓子を貰ったりした。参加者の平均年齢は60歳代前半、最高年齢は何と70歳代前半だという。ポーターを連れているが、ポカラからマチャプチャレBCまで4日間で登ってきたということには驚かされた。最高年齢の参加者も、ほとんど遅れることなく登ってきたらしい。高齢になると個人間の体力差が顕著になることから、日頃の鍛練の賜であろう。

夕食時には、アルペン・クラブのポーターをしている若者達と親しくなった。カトマンドゥから来ているとのことで、多くがインド系の人であったが、中にシェルパ族(ティベット人の一派)の男性がいた。1966年に始まる中国の文化大革命の時に父親がティベットを後にしたという。現在、シェルパ族はティベットとネパールに分かれて住んでいるらしい。

4日目は、初めて朝をロッジでゆっくりと過ごした。ガイドブックによると最終目的地のアンナプルナBCまで1時間半で到着する。朝は1日のうちで最も天候がよいため、早目に出発してアンナプルナBCからアンナプルナT峰を眺めるということも考えられたが、カトマンドゥを出発して以来強行日程で苛めてきた体を休ませたいと思ったのだ。高度順応のためにもよいことであったと思う。アルペン・クラブの会員をはじめほとんどのトレッカーが出発し、当日デオラリを出発したトレッカーが到着する頃になって、ようやく出発することにした。

前日までとは異なって緩やかな上り坂が続き、雪の割れ目に注意する必要があるほかは、全く問題がない。後方を振り返ると、マチャプチャレが朝日に照らされ、また、雲に囲まれて、壮大な景観を呈していた。アンナプルナBCまでは展望が開けており、早くから目的地が視野の中に入っているため、非常に歩きやすい。ゆっくりと歩いたが、午前中に到着した。ついに標高約4,100mの場所に立つことができたのだ。

アンナプルナBCへは、多くのヨーロッパ系の若者が詰めかけていた。気温はかなり低いと思われ、こちらはジャンパーを着込んでいたが、中には軽装で日光浴をしている人もいた。新たに到着した人は歓声を上げてロッジに向かってくる。しかし、残念なことに、到着して間もなく、急速に雲がかかってきて、アンナプルナT峰を始めとする山々の眺望は失われた。

疲れていたこともあり、夕方までベッドに入っていた。しかし、体調がおかしい。動悸や倦怠感がある。高山病なのか風邪なのか、判断が難しかった。夕食時には暖炉に火の入った食堂でガーリック・スープを注文したが、だんだん悪寒を感じるようになってきた。外は大雪になってきたようだ。

部屋に戻ろうという時に問題が起こった。既にチェックインしているトゥーリストはよいとして、ガイドのための部屋が足りないというのだ。ロッジのオウナーは、宿泊料金を半額にするとの条件で、ガイドと部屋を共有してくれないかと申し出てきた。もちろん了承したが、隣の若いイタリア人男性は、部屋が足りないことはロッジの問題であって自分の問題ではないとして即座に断っていた。トレッキングの最中であっても、主従の区別は厳格なようだ。部屋に戻っても、頭痛と悪寒のためなかなか寝つかれなかった。強行日程の報いかもしれない。

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アンナプルナT峰

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アンナプルナT峰

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アンナプルナV峰

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アンナプルナV峰

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アンナプルナV峰(左)

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グレイシャー・ドウム(奥)

5日目は、早朝ロッジの外で起こった歓声によって目が覚めた。晴天のようだ。気分は優れないが、身支度を整えて外に出ていった。すると、快晴の下、標高約8,100mのアンナプルナT峰やマチャプチャレなど並居る山々に周囲を囲まれていた。念願成就だ。一生忘れない光景になるであろうと、しばらく感慨に耽っていた。

次いで、アルペン・クラブがテントを張っている場所を訪ねた。マチャプチャレBCで知り合った男性によると、山々をヴィデオ・カメラで撮影した後、おそらく翌日に下山するという。そして、風邪薬を貰っていると、リーダーに声をかけられた。症状を説明すると、血液中の酸素量を測ってくれた。結果は、酸素量は不足気味だが、特に問題ないであろうとのことであった。ただ、おそらく風邪ではなく高山病であろうという。

名残惜しいが、景観は十分に堪能したため、アンナプルナBCを後にすることにする。下山中も、マチャプチャレやアンナプルナV峰などの山々の威容を間近に眺めることができた。前夜発生したと思われる雪崩の跡にも遭遇した。

急坂では慎重に歩を進める必要があったが、上りの時とは比較にならないぐらい楽な行程であった。ただ、膝を傷めないように注意する必要があるらしい。目指すは2日目と同じバンブーだ。ガイドには、手前にある標高約2,600mのドヴァンまでに留めておこうと提案されたが、高山病の可能性が高い以上、できるだけ低地まで下っておきたかった。

バンブーまでの行程は、ドヴァンでの休憩を省略することができるぐらい順調に進んだ。ロッジでは、3日前よりもはるかにゆっくりとくつろぐことができた。旅にはゆとりが必要だとつくづく実感した。後からバンブーに到着してさらにチョムロンを目指して先に進んでいった人もいたが、3日間で下山すればよいため、もはや先を急ぐ必要はない。体調は万全ではないが、最悪の状態に陥る危険はなくなった。夜は大雨になっていたが、今度は難を免れることができた。

6日目は、温泉のあるジヌーを目指すことにした。体調は完全に回復した。やはり風邪ではなく高山病であったようだ。バンブーからは上り坂も多く、ペイスが落ちる。しかし、途中、後方にガンガプルナを眺めることができたり、シヌワからはチョムロンやガンドルンを、チョムロンからはシヌワ、コムロン、ランドルンのほか、ゴレパニに向かう途中にあるタダパニを見渡すことができるなど、相変わらず景観には恵まれていた。チョムロンからジヌーへは急坂を下ることになる。下りでも難路であり、逆ルートの苦労が思いやられる。

ジヌーでは、ジンバブエを訪ねたことがあるという若い日本人男性と親しくなった。ガイドはカトマンドゥで手配してもらったという。ロッジから徒歩15分程度下った場所にある温泉に一緒に出かけた。期待したほど熱い温泉が湧いているわけではなかったが、久し振りの湯船に心が浮き立った。多くのトレッカーが押しかけていた。夕食では男性にネパール料理のモモ(餃子)を紹介された。

7日目は、当夜カトマンドゥに向かうバスの予約が済んでいなかったため、できるだけ早い時刻にポカラに到着しようと、下山を急いだ。ニューブリッジからモディ・コーラ沿いに下るガイド同伴ならではのルートを採った。ナヤプルからバスに乗り、ポカラのニュー・バス・パークでタクシーに乗り換えた。

出発

バンコク

カトマンドゥ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

バンコク2

回顧

概要

■ポカラのゲストハウスに到着すると、乗車時に合意した70ネパール・ルピー(1ネパール・ルピーは約1.93円)よりも多くのタクシー料金を支払うよう要求されたが、頑として拒否した。合意の再確認をした後、100ネパール・ルピー札を差し出すと、釣銭として紙幣を3枚渡された。確認すると、すべて5ネパール・ルピー札だ。抗議すると、5ネパール・ルピー札を1枚ずつ返してくる。トレッキングの最後に感情を害されてしまった。

カトマンドゥに向かうバスの予約を済ませると、日本料理を食べるためにスルジェ・ハウスに出かけた。そこでは、数人の日本人が旅行談義に華を咲かせていた。情報ノウトブックには、単独でトレッキングをする場合、道に迷うこともあるが、そのような時にはほかのトレッカーが来るのを待てばよいというアドヴァイスがあった。ただ、詳細な地図を持っていた場合、地図に記入されていない集落に繋がる行き止まりの小道に迷い込むことはあっても、根本的にルートを間違える可能性は低いようだ。

カトマンドゥへは、またもロウカル・バスに乗って向かうことになった。最後部の窓際の座席に座っていたが、インド人男子学生の一団と乗り合わせた。それなりに話が弾んだが、当日までのトレッキングのため疲れており、早々に就寝の態勢に入ることにした。しかし、ほとんどの乗客が寝入っているにも関わらず、いつまでも大声で話をしている乗客がいたため、静かにするようにと声を荒らげてしまった。

カトマンドゥのニュー・バス・パークへは、翌早朝戻ってきた。初めてであれば戸惑ったであろうが、余裕を持ってタメルまで歩くことができた。タメルからはオウルド・バス・パークまで歩いた後、市内バスに乗ってトリブヴァン空港に向かうことにした。オウルド・バス・パークは、バスが無秩序に集まっているだけのような混沌とした状態であったが、何とか空港に向かうバスを探し出すことができた。

出発

バンコク

カトマンドゥ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

バンコク2

回顧

概要

■バンコクへは、夕方に到着した。帰国便の出発は深夜であり、乗換時間が7時間程度あったため、この旅でも市内バスに乗って市内との間を往復した。フアラムポーン駅を目指していたが、途中で折り返すバスであったためか、駅に到着する前に乗客は皆、降ろされた。現在地が分からなくて困ったが、シーロム通りに向かうバスが来たと教えられ、予定を変更して飛び乗った。パッポン通りの活況は相変わらずであった。

ドーン・ムアン空港では、経済危機に伴うバーツ安に対応するためか、あるいは新ターミナルの建設費用を賄うためか分からないが、空港使用料が500バーツと一気に2倍に引き上げられていた。一時は1バーツが3円を割り込むぐらいバーツ安が進んだらしいが、既に3円台に回復しており、空港使用料は、場合によっては一時入国の断念を迫るほどの水準になってしまったように思う。

出発

バンコク

カトマンドゥ

ポカラ

アンナプルナ
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ポカラ2

バンコク2

回顧

概要

■この旅では、アンナプルナBC到達という、前回のトレッキングで叶わなかった希望を早くも実現することができ、幸運に大いに感謝している。

11日間の旅程のうち、ネパールで費やすことができるのは9日間しかなく、カトマンドゥに滞在しないという強行日程を組んだが、それでもポカラ周辺に限ると7日間しかなかった。事前にインターネットで問い合わせた時には、ゴレパニを目指すルートが適当なのではないかというアドヴァイスを貰った。前回のトレッキングと同じルートを辿るという案は考慮の対象外であったが、7日間でアンナプルナBCを目指すことが簡単でないことは認識させられていた。

高山病については、軽く考えていたが、最悪の場合は死に繋がるものであり、十分に注意するべきであった。大雨に打たれて体力を消耗したことも影響していると思うが、時間に余裕があれば、天候が悪くなりそうな日は早目にトレッキングを切り上げるなどの工夫をすることができたかもしれない。旅に際しては、金銭的な余裕とともに、時間的、体力的な余裕が必要だと痛感することになった。7日間を上り5日間、下り2日間というように割り振ることも一法であったかもしれない。

ガイドについては、無資格者ではあったが、効率的に目的地に到着しさえすればよかったのだから、問題なかったと思う。英語で話をしていたが、下山時には日本語も話すようになった。ネパールでは様々な穀物を栽培しているが、丘陵地であるため生産性が低く、インドから農産物を輸入しなければならないことや、トレッキング・ルート周辺には芥子が生育していることなどを教えてもらった。

この旅では、日本だけではなく現地でもインターネットにアクセスする機会があった。カトマンドゥでトレッキングの前後にインターネット・カフェに立ち寄り、自分が運営しているウェブサイトの掲示板に近況を投稿することができたのだ。利用料金は1分10ネパール・ルピーとリーズナブルであったが、日本語を処理することができないため、記事の閲覧をすることはできず、また、投稿は英語で行うことになった。モバイル・コンピューターを持ち歩かなくても、言語の制約なくインターネットにアクセスすることのできる日が来るのはいつのことであろうかと待ち遠しく思った。

現地での1日平均の旅行費用(土産費を除く)は約2,800円であった。旅行費用のうち一人当たり宿泊料金の最高はアンナプルナBCの2食付約1,400円(750ネパール・ルピー)で、最低はポカラの約150円(80ネパール・ルピー)であった。トレッキング中は、高度が上がるほど料金が高くなっていった。

ティベットは、いつか訪ねてみたいという思いが募りつつある。この旅では、ポーターをしていたシェルパ族の男性のほか、ポカラで行商をしていたティベット人女性と話をすることができた。密出入国をしている人が多いようだ。陸路によるか空路によるかを問わず、いつか訪問する機会を見つけることができれば、この上ない喜びだ。また、カラパタールからエヴェレストを眺めるトレッキングをすることにも憬れている。余裕を持って臨むことのできる時期を選びたい。

出発

バンコク

カトマンドゥ

ポカラ

アンナプルナ
抜粋

ポカラ2

バンコク2

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 居住地
25日08:00 道路 10:00 福岡
12:45 空路 15:50 タイ バンコク
26日10:30 空路 12:20 ネパール カトマンドゥ
18:45 道路 27日03:15 ポカラ
11:30 道路 12:40 ナヤプル
12:40 徒歩 18:15 ガンドルン
28日06:50 徒歩 17:15 バンブー
29日07:10 徒歩 15:40 マチャプチャレBC
30日08:50 徒歩 11:50 アンナプルナBC
1日07:40 徒歩 14:35 バンブー
2日07:50 徒歩 14:30 ジヌー
3日06:15 徒歩 12:30 ナヤプル
13:00 道路 14:35 ポカラ
18:50 道路 4日04:55 カトマンドゥ
13:40 空路 17:55 タイ バンコク
5日00:50 空路 07:30 日本 福岡
09:00 道路 11:00 居住地
徒歩 :徒歩、 道路 :道路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
タイ バンコク Nat Guest House TH.B 140 1
ネパール ポカラ Friendly Guest House NP.R 80 1
ガンドルン 不詳 NP.R 188 1
バンブー 不詳 NP.R 395 1
マチャプチャレBC 不詳 NP.R 550 1
アンナプルナBC 不詳 NP.R 750 1
バンブー 不詳 NP.R 450 1
ジヌー 不詳 NP.R 435 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
US.$ 118円 15
内訳
0 0 0 61
内訳
タイ TH.B 3.15円 110
内訳
294
内訳
1,044.50
内訳
0 0
ネパール NP.R 1.93円 180
内訳
1,709
内訳
1,676
内訳
0 1,690
内訳
通貨計 JP.\ 1.00円 2,458 4,223 6,527 0 10,433

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
5
内訳
45 126
内訳
タイ 140
内訳
120 1,708.50 5,011 2.8 1,790
ネパール 3,458
内訳
421 9,134 26,327 8.2 3,211
通貨計 7,697 6,483 31,338 11.0 2,849
(注)円換算と日平均は他国通貨での支払いを含み、土産費を除く。

出発

バンコク

カトマンドゥ

ポカラ

アンナプルナ
抜粋

ポカラ2

バンコク2

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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