旅べえ > 第1部旅草子 >

←後 / 前→

バングラデシュ

出発

ダッカ

抜粋

クルナ
ジョショール

ダッカ2

回顧

概要

■ダッカ(ダカ)へは、夕方に到着した。着陸する前、上空からダッカ周辺を眺めていると、既に陸上を飛んでいるはずなのに、正に一帯が水に覆われているというような状況であった。それが通常の状態なのか、あるいは雨季のため土地が冠水しているのか分からず、中心部に近づくとともに水に覆われている部分の割合が上下することに一喜一憂していた。また、おそらく川と思われるものに架かっている橋は、水面上にあるのか、あるいは水面下にあって冠水しないように対策が講じられているのか分からないというような有り様であった。

ジア空港は予想通りの田舎空港であり、フロアに敷かれた貧弱なカーペットは一部で波を打っていた。イミグレイションでは、ヴィザの関係で入国審査官に呼び止められた。訪問目的は観光だと答えると、ヴィザなしでは入国することはできないというのだ。通常は慎重な説明に徹する旅行代理店からヴィザは空港で取得することができると聞いていたし、同人誌にも同様の説明があったため、ヴィザは取得していなかった。ほかにも日本人一人が呼び止められており、ともにイミグレイションの手前のブースに引き戻されて身分照会を受けることになった。特に心配はしていなかったが、ヴィザなしで入国することができないというのは審査官のからかいであったのか、思いのほか簡単に入国を許可された。何とヴィザの取得は不要とされたのだ。用意していた写真も不要となり、拍子抜けしてしまった。

イミグレイションの先では、若い日本人男性が二人、タクシーに相乗りするためかほかの日本人旅行者を探しているようであった。しかし、こちらのことをバジェット旅行者とはみなさなかったのか話が噛み合わなかったため、空港を後にすることにした。

空港からは、ベイビ・タクシー(三輪タクシー)に乗って市内に入ることにした。目指すは安宿のあるセントラル・ダッカだ。助手席に乗った男性はホテルのオウナーらしく、セントラル・ダッカの安宿は危険だとしきりに再考を促してきた。地元の人の生活の息吹が感じられそうにない高級住宅街のグルシャン地区に宿泊先を求めることは考慮の対象外であったが、GPO(中央郵便局)としか指定していないのにそれだけで安宿だと洞察され、町の様子が少し分かったような気がした。次いで、旅程について聞かれた。クルナまでの船旅を楽しみたいと考えていると説明すると、乗船手続に2〜3日を要するため、実質6日間の旅程ではクルナを訪ねることはできないという。それなのに、男性にガイドを依頼すると、クルナを含めて多くの町を訪ねることができるというのだ。クルナへはバスに乗って向かうことになるのだそうだ。せっかく自由旅行を楽しむためにバングラデシュに来ているのに何という勧誘をするのであろうと腹立たしく思われ、即座に断った。バジェット旅行者に対してそのような勧誘をしても、ほとんど成功しないであろう。ただ、男性が東京に向かうビーマン・バングラデシュ航空のフライトの日程を正確に知っていたことは、当地を訪ねる日本人が少しはいるということを推察させた。

セントラル・ダッカに近づくにつれて交通渋滞が深刻になり、GPOに到着した時には辺りはすっかり暗くなっていた。料金は交渉によって120タカ(1タカは約2.17円)と決めていたが、150タカを渡しても、男性は渋滞のため予想外に時間がかかったと主張してバクシーシを要求し、釣銭を返そうとしなかった。入国後間もなくのことであり、小額紙幣を持っていなかったことは不利であった。結局、空港での料金交渉の努力が無に帰してしまった。

初めて目にする町の印象は、特に身構える必要はないのではないかというものであった。通りを流しているベイビ・タクシー(インドではオート・リクシャー)やリクシャー、人や建物の様子など、インドの町とあまり変わらないかもしれないと感じた。もっとも、インドの町との共通点を見出すことによって気分を落ち着かせようとする気持ちが無意識のうちに働いていたのかもしれない。

商店街の薄明かりを頼りに、ロウンリ・プラネットに掲載されているホテルを探した。バンコクのカオサン通りなどのように安宿が集中しているわけではなく、ホテルが雑居ビルディングの中に隠れているということもあるため、ガイドブックがなければホテル探しには非常に苦労するであろう。しかも、ロウンリ・プラネットによると、その辺りの安宿の多くは外国人を泊めないというのだ。ようやく探し当てたホテルでは、「荷物はどうしたのか。」と、小さなショルダーバッグしか持っていないことを訝しがられた。外の喧騒は深夜まで静まることがなく、祭りの最中かと勘違いしたほどであった。

写真
市街

写真
市街

深夜、大雨が降り続いていたようであり、一帯が冠水していないかと心配した。夜が明けると雨はほぼ上がっていたので、朝食前、地図を持たずに周辺を散策してみることにした。道路は路肩など一部冠水している場所があったが、全体として心配したような状況ではなかった。考えてみると、当地のような広大な平地では、一帯が冠水するような洪水は、数か月をかけて上流地域で降った雨が生じさせるものであり、一夜の雨はあまり脅威ではないのかもしれない。クリケット、フットボール、ホッケイなどの試合が行われるというナショナル・スタディアムの前まで来ると、多くのホウムレスが横になっていた。蚊帳の中に入っている人もいる。スタディアムを雨除けとして使っているのであろう。地元の人の貧しい生活の一端が垣間見えたようであった。

その後、ホテルに戻ってレストランで朝食を取ることにした。この旅ではバングラデシュの衛生状態に不安があったこともありホテル内のレストランで食事をすることが多く、市街のレストランで食事をしたのはようやく5日目になってからのことだ。ただ、ホテル内のレストランと言っても、安宿であるため、市街のレストランと比べて豪華というわけではない。相違点は、屋内にあるため砂埃が舞ってこないというメリットがあるということぐらいであろうか。座席に座り、メニューがないためどうしようかと考えていると、店員がチャパーティを載せたアルミニウムの皿をテイブルの上に置いて、「ヴェジタブル(野菜)か。」と尋ねてきた。カリーのことだと理解し、頷いた。その後もミネラル・ウォーターのペット・ボトルを持ってきたり、チャパーティを追加したりしてくれた。サーヴィスは申し分ないと言うこともできるが、ホテル内のレストランと言っても外国人旅行者に対する配慮はその程度だ。

一旦部屋に戻り、仮眠をした後、ホテルをチェックアウトして市街を散策してみることにした。ビーマン・バングラデシュ航空のオフィスで久し振りとなる帰国便のリコンファームを行うとともに、BIWTC(バングラデシュ内陸水上交通会社)のオフィスでクルナに向かうロケット・スティーマーと呼ばれる船を予約するという目的もあった。そこで、今度は地図を見ながら市街を歩くことにした。BIWTCのオフィスは残念ながら定休日に当たっており乗船券を売ってもらうことはできなかったが、勤務中のスタッフがロウカル・オフィスに電話をかけて当日の船の1等室を確保してくれた。

バングラデシュでどの地域を訪ねるかについては、ダッカに向かう飛行機の中でロウンリ・プラネットなどを読みながら思案を重ねた。最初に思い浮かんだのは、首都ダッカに次ぐ第2の町チッタゴンなどの南東部だ。湖で体を休めたり、仏教やヒンドゥー教の遺跡を訪ねることができる。また、何よりも、秘境とされるミャンマーとの国境近くまで歩を進めることができるのは魅力的であった。別の選択肢は、クルナなどの南西部であった。優雅な船旅を楽しむことができるほか、インドとの国境近くを訪ねることができる。甲乙付け難かったが、強行日程にはしたくなかったので、このどちらかを選ぶこととし、最終的に南西部を選んだのだ。判断材料は、南西部を選んだ方が、ブリゴンガ川やパドマ川などバングラデシュを流れる大河の様々な顔を見ることができると考えられたことだ。南西部は大河によって移動が困難になっているということもバングラデシュらしく、むしろ旅心をそそられた。何と言ってもバングラデシュの見所は大河だとの考えであった。

市街の様子は朝と異なっていると感じていたが、仮眠中に再びかなりの雨が降っていたということを後で知った。危うく難を免れたわけだ。ナショナル・スタディアムの前まで来ると、ホウムレスはいなくなっており、夜の状況を知らぬ気に電気機器店が営業していた。日中、ホウムレスはどこに行っているのかと気にかかった。

リコンファームなどの手続きを終えると、ブリゴンガ川を見物するためにショドル・ガットに向かうこととし、オウルド・ダッカを延々と歩いていった。途中、年齢の揃っていない男児が数人、小学校の校庭で裸足でフットボールをしている光景を目にした。校庭には随所に水溜りができており、また2本の棒から成るゴウル・ポストは1つしかなかったが、楽しそうに遊んでいた。歩を進めていくと狭い小道が続くようになり、リクシャーが次々と追い抜いていくため、それを避けて歩かなければならなくなる。リクシャーは座席のある後部の車幅が広く、何回も接触しそうになった。

ようやくブリゴンガ川に到達したが、小道が一本道ではなかったため、ショドル・ガットに到着したのかどうかは分からなかった。河岸には数隻の船が繋留されており、また対岸を含め多くの船を目の当たりにすることができた。そして、埠頭にはバケツで川の水を汲んで行水をしている人がいた。

BIWTCに指定された17時まで河岸で時間を費やそうかとも考えていたが、周辺にチャーイ店などは見当たらなかった。日射が強かったため、どこか屋内に入らないと熱中症のため倒れてしまうかもしれないと考え、一旦セントラル・ダッカの方に戻ることにした。途中で道に迷ったため、ベイビ・タクシーに乗ってシェラトン・ホテルに向かった。高級ホテルの内部は、当然のことながら外界とは別世界であった。それまで高級ホテルを利用した経験が全くなかったとしたら、入ることは憚られたであろう。バジェット旅行とは趣向を変えてホテル内で昼食を取ろうかとも考えたが、ビュッフェの料金は前日の宿泊料金の2倍に達していたため、ロビーでの休憩に留めることにした。

写真
ロケット・スティーマー

写真
ロケット・スティーマー

写真
ショドル・ガット

写真
ショドル・ガット

写真
ショドル・ガット

夕方になってショドル・ガットに戻ることとし、シェラトン・ホテルの敷地内に入ってきたベイビ・タクシーと交渉を始めた。そして、要求額の200タカを半額にディスカウントしてもらって出発した。しかし、GPO付近でガソリンがなくなってしまったという。そして、通りを流しているベイビ・タクシーを探してきて、乗り換えるよう促してきた。また、まだ目的地までの半ばにも到達していないにも関わらず、連れてきた運転手に約束の100タカを支払うよう要求された。そのうちの60タカを自分が受け取ろうとしているようであった。シェラトン・ホテル付近では通りを流しているベイビ・タクシーを探さなかったが、目的地に確実に連れていってもらうためには、通常よりも高い料金を支払ってでも英語を話すことのできる運転手の方が望ましいと考えたためだ。そのため、このような措置は理不尽だと思い、シェラトン・ホテルからGPOまでの料金を個別に交渉し直そうとしたが、受け入れられなかった。ただ、GPOからショドル・ガットまでの料金が運転手同士で交渉して40タカと決まったことで、相場が分かった。シェラトン・ホテルからショドル・ガットまでの料金は60タカ程度が適当なところであった。

ベイビ・タクシーを乗り換えてしばらく進むと、次第に道路が渋滞してきた。渋滞の原因は、リクシャーとベイビ・タクシーだ。渋滞は非常に深刻で、いつになったら動き出すか分からないという状況が何回も起こった。シェラトン・ホテルから利用したベイビ・タクシーのガソリンがなくなったというのはおそらく嘘で、運転手は渋滞に巻き込まれないで効率よく金銭を獲得しようとしたのであろう。BIWTCに指定された17時を過ぎ、焦り始めた頃、ショドル・ガットに到着した。リクシャーの町ダッカには30万台のリクシャーがあるという。その集中振りはインドの町と比べても際立っていると思う。これほど多くなると、地域交通に対する貢献よりも、むしろ弊害の方が大きくなっていると思う。リクシャー・ワーラーの生活保障問題とも関わってくるが、リクシャーの大通りなどへの立ち入りを規制し、テンプー(乗合三輪タクシー)の普及を推進するなどの大胆な政策を展開する必要があるのではないだろうか。

ショドル・ガットの船着場は多くの人で溢れていた。船着場使用料を支払って埠頭に出ていくと、大小合わせて数十隻の船がブリゴンガ川の両岸などに浮かんでいた。午後早く見物した河岸はショドル・ガットからは少し離れた場所にあったらしい。クルナに向かうロケット・スティーマーを探し当てると、同人誌に掲載されていた通りの外輪船だ。船の両脇にある水車状のパドルが回転して前進する構造になっているほか、数年前までは蒸気船であったという1920年代建造の年代物だ。噂の船に乗って未知の世界への航海に乗り出すことができるのだと考えると気持ちが昂ってきた。

出発

ダッカ

抜粋

クルナ
ジョショール

ダッカ2

回顧

概要

■クルナまでの1等室の乗船券を買った後、船の中を探索してみた。同乗する日本人はカップルと研究者の3人の若者であり、ヨーロピアンは見かけなかった。また、1等室は2つのベッドが横に並べられているものであった。ちなみに、2等室では2つのベッドが縦に並べられ、3等室では仕切りのない床の上に直接寝るようになっていた。

写真
ロケット・スティーマーから

写真
ロケット・スティーマーから

写真
ロケット・スティーマーから

写真
夕焼け

出航すると、カップルと甲板に出て、港や河岸の様子を眺めた。港を出てしばらくは行き交う船の動きを追いかけていたが、そのうちに辺りには水田のほかに何も見当たらなくなった。次第にたそがれていく中で、夕日に映える川面に目を落とした。すっかり暗くなってからカップルに聞いたところによると、男性はフリーター、女性は学生で、フィリピンとタイを訪ねてきたところであり、バリサルで船を乗り換えてチッタゴンに向かうという。バジェット旅行を数多く経験しているのは男性の方だが、フィリピンやバングラデシュという旅行者の少ない国の訪問を提案したのは女性の方らしい。女性の度胸には感服させられた。

一方、研究者とは食卓をともにした。日本から東南アジアへの企業の海外進出の成功の可能性を大学で研究しており、1年間のうち3か月は海外で過ごすという。東南アジアではフィリピン以外のすべての国を訪ね、A型肝炎とマラリアを患ったことがあるそうだ。調査のために立ち寄ったチッタゴンの民家では大家族の出迎えを受け、肝を潰したとのことだ。企業の海外への進出先としては、日本と同じく国民の自己主張の強くない中国が最も成功の可能性が高く、マレイシアなど中国系国民が経済の実権を握っている国がそれに次ぐらしい。ヴェトナムは経済開放によって貧富の格差が拡大したため開放路線を修正中であること、インドネシアは分離独立の動きがあることが問題であり、バングラデシュは女性の地位が低いため問題外とのことであった。研究のために東南アジアを訪ねる前にバジェット旅行の経験はないとのことであったが、研究が成果を上げるかどうかは、バジェット旅行に慣れることができるかどうかにかかっていると言うこともできそうだ。

部屋は別の乗客との共有のため、就寝時にドアを施錠しないようにと言われていたが、結局は占有することができた。研究者が自分の支払った料金との差異に対して訴えた不満を解消するために乗務員が考えた方便であったかもしれない。

早朝、大雨の中、バリサルに寄港した。まだ夜が明け切らない中で下船していく日本人カップルを気の毒に思いながら見送った。研究者によると、雨が降るのは夜が多いとのことであったが、いつか大雨に打たれることがあるかもしれないと覚悟した。また、川面とほとんど同じ高さにある水田は今にも冠水しそうな状態であった。

1等室には裕福な地元の人も乗り込んでいる。ダッカで政治学を学んでいる学生によると、クルナはチッタゴンと並んで産業が発達しているという。一方、靴磨きも入り込んでおり、サンダルを履いているにも関わらず磨かせてほしいと言い、断ると手を口の辺りに持っていって食事にも困っていることを身振りで示してくる。食堂では、地元の家族とテイブルをともにすることがあった。母親は髪を覆っているヴェイル(ヒジャブ)を脱いでくつろいでいた。自宅にいる感覚なのであろうか。こちらの視線を感じるとヴェイルで髪を覆った。ダッカでは全身を黒いヴェイルで覆い、顔も薄い布で覆っている女性を見かけたが、イスラーム教の戒律の厳しさは宗派によって異なるのであろう。ただし、バングラデシュにもヒンドゥー教徒はいるため、女性がヴェイルで頭を覆っている程度によってイスラーム教の戒律の厳しさを見極めようとすると、判断を誤るであろう。

写真
クルナ市街

写真
モングラ市街

写真
カン・ジャハン廟(バゲルハット)

写真
シャイト・ゴンブス・モスク(バゲルハット)

日中は雨が降り続いていたが、幸いなことに下船時には上がっていた。定刻よりも1時間程度遅れ、バクシーシを要求してきた乗務員を適当にあしらって、すっかり夜の帳が下りたクルナに降り立った。そして、ロウンリ・プラネットで目星を付けたホテルに、リクシャーに乗って向かった。

翌日は、野生動物の生態を観察することのできるシュンドルボンへの手配旅行となった。ホテルのオウナーがガイドを務めてくれたが、拠点となるモングラまでの往復は公共のバスを利用するものであった。モングラで入域許可証を取得した後、貸切の船に乗ってシュンドルボンに向かった。シュンドルボンでは、野生の鹿や猿などを観察することができた。帰路はバゲルハットに立ち寄り、世界遺産に登録されているというモスクなどを見物した。

クルナに戻る直前、船で川を渡ることになる。船の定員は20人程度で、左右に腰掛けが並んで内側を向いて座る形式になっていた。途中、片側の乗客の背中に水がかかり、驚いて数人が席を立って内側に寄ってきた。当然のことながら船は大きく揺れ、転覆しそうになった。非常に危険な状況であり、一部の乗客の軽率な行動に対して腹立たしく思った。

船着場からホテルに戻るために、ガイドを務めるホテルのオウナーが執拗な料金交渉をした後、リクシャーに乗った。ホテルに戻るまでが手配旅行のはずだが、オウナーはホテルまで同行せず途中で帰宅するという。そのため、オウナーとリクシャー・ワーラーが合意した料金を預かることになった。しばらく進むと、リクシャー・ワーラーが降車を促してきた。まだホテルには到着していない。リクシャー・ワーラーはホテルの場所が分かっていないのだ。一方、こちらは現在位置が分かっていない。ホテルに向かうことを執拗に要求し、通行人に道を尋ねてようやくホテルを探し当てた。すると、リクシャー・ワーラーは、オウナーと合意した料金の倍額を要求してきた。拒否すると、通行人を呼び、ホテルまでの経路を説明して、自分の主張の賛同者を得ようとする。多勢に無勢となってきたため、リクシャー・ワーラーの要求通りの料金を支払うことにした。ヴェトナム旅行の際に同様の経験をしていたため、バングラデシュは社会主義国なのかと感じるとともに、オウナーの取った態度に対して残念に思った。

出発

ダッカ

抜粋

クルナ
ジョショール

ダッカ2

回顧

概要

写真
女児(クルナ)

■ジョショールまでは、この旅で唯一の鉄道旅行となった。雨上がりの早朝、クルナ駅に向かうと、数人の女児が集まってきた。イスラーム教国でも、外国人に対する好奇心は変わらないようだ。列車の中でもピーナッツ売りの男児などが入れ代わり立ち代わり好奇心を示してきた。

写真
インド国境付近

写真
インド国境

到着すると、リクシャーに乗ってバス・スタンドに向かい、インドとの国境のあるベナポールに向かうバスに乗った。そして、ベナポールでリクシャーに乗り換え、国境に向かった。国境までの道路には多くのダンプカーが並んでいた。インドからバングラデシュに物資を運送する途中であろう。この旅では残念ながらヴィザを取得していなかったため、国境越えを経験することはできなかったが、国境を間近に眺めることができた。同じ理由で国境を越えることができない人は国境のどちらの側でも多いらしく、ゲイトから一定の距離を置いて双方に人垣ができていた。一方、実際に国境を越える人は数えるほどしかいなかった。

ジョショールに戻った頃は雨が降っていたため、レストランで昼食を取りながら雨宿りをした後、ホテルを探し始めた。

写真
デモンストレイション(ベナポール)

ジョショールとベナポールでは、プラカードを掲げてデモンストレイションのための行進を行っている人を見かけた。国政選挙を控えて親政府か反政府のどちらかの立場で政治的主張を行っているのだそうだ。

出発

ダッカ

抜粋

クルナ
ジョショール

ダッカ2

回顧

概要

■ダッカに戻るための移動は、自らに課した厳しい試練だ。雨上がりの町をリクシャーに乗ってバス・スタンドに向かい、ダッカに向かうバスを探した。そして、同じくダッカに向かう空軍の飛行士とともにバスに乗り込んだ。

バスは、危険な追い越し合いを続けながら走っていく。追い越しを行おうとしているバスは、相手に減速を促すためにクラクションを鳴らし、減速しなかったら追い越す時にクラクションを鳴らすことによって非難の合図を送っている。一方、対向車が追い越しに手間取ってこちらが減速しなければならなくなった場合は、クラクションを鳴らしていない。追い越しを行おうとする自動車に対して寛容な社会なのではないかと感じた。

ジョショールを出立してから3時間程度経つと、パドマ川に差し掛かる。バングラデシュの移動の中でも難所と言ってよいであろう。飛行士に従ってバスを降り、対岸に渡る船に乗る。純粋に渡河のための時間は30分程度であったが、上流にある港に向けてさらに2時間程度をかけて川を遡っていった。壮大な大河を堪能した。対岸に渡ると、再び飛行士に連れられてダッカに向かうバスに乗った。この間、バス会社による案内はなく、外国人単独でバスを乗り換えることはほとんど不可能なように思われた。

写真
ホテルから

写真
ホテルから

写真
ナジラ・バザール

ダッカでは、郊外のバス・スタンドに到着したため、ベイビ・タクシーに乗ってGPOの辺りに戻り、入国時とは異なるホテルに泊まった。ホテルの受付には女性が座っていた。ヒンドゥー教徒であろうが、意外であった。この旅で最も宿泊料金の高いホテルであったが、一時断水や停電があったり、異臭が漂ったりするなど、二度と泊まりたくないと思わせるようなものであった。

出国日は、デリーのチャンドニー・チョウクのように様々な商品を取り扱っているナジラ・バザールに立ち寄った後、セントラル・ダッカから十数キロメートルの距離にあるジア空港まで歩くことにした。市内に必見の観光名所と呼ぶべきものはないため、むしろ下町から山手まで散策し、町の様々な顔を見てみたいと考えたのだ。

チェック・ポイントとしていた国立博物館は定休日に当たっており、また、シェラトン・ホテルを見落としたり、当地で最高級のショナルガオン・ホテルで敷居が高すぎて門を潜ることを躊躇したりしたため、休憩しないまま歩き続けることになった。ファーム・ゲイト地区は、東京で言うと原宿のような町並みであり、バングラデシュで初めて華やかな場所に来たように感じた。この辺りまで来ると、セントラル・ダッカなどで見かけた乞食はいなくなり、裕福と思われる一家が往来するようになってくる。さらに、大使館や品格のある建物が集中し、東京で言うと赤坂のようなグルシャン地区まで来ると、下町の喧騒は全く見られなくなる。ただ、大使館宿舎の軒先の道路にも水溜りができていたり、ごみ収集所に鳥が集まってきていたりするなど、洗練されているとは言い難い光景に出会う。

グルシャン地区の辺りからは疲労が極限に達していたが、ソフトドリンクを続け様に飲みながら何とか空港に到着することができた。6時間程度の行程であった。バンコクのドーン・ムアン空港を経由して翌日に帰国した。

出発

ダッカ

抜粋

クルナ
ジョショール

ダッカ2

回顧

概要

■バングラデシュ人は、ラオス人のような内向的な性格ではないが、インド人のような自信家でもないと感じた。外国人に対する好奇心は旺盛だが、話しかけてくるのは一部の人だけだ。また、自国のことを卑下する人もいる。ただし、これは、日本のような先進国と比べてというよりも、隣の大国インドと比べて貧しいという卑下だと思う。中国に遣隋使や遣唐使を送っていた7世紀の日本と同じで、大国の片隅でその勢力に圧倒されているというのが実情ではないだろうか。

トイレット・ペイパーの使用が一般的でないことについては、それまで訪ねた東南アジアや南アジアの国と同様に持参のトイレット・ペイパーなどを使えば問題ないと考えていた。しかし、この旅では、ホテルのトイレットにトイレット・ペイパーを捨てる場所がなかったこともあり、初めて水による処理を行った。地元との距離が一歩縮まったような気がした。

現地での1日平均の旅行費用(土産費を除く)は約1,700円であった。旅行費用のうち宿泊料金の最高は出国時のダッカの約650円(300タカ)で、最低はクルナの約330円(150タカ)であった。一方、ヨーロッパ旅行以来の私的海外旅行に要した費用を渡航費用などを含めて合計すると、200万円に達した。

外国人旅行者をほとんど見かけないバングラデシュは、秘境と呼ぶことができるかもしれない。ただし、バスなどの交通機関は頻繁に運行しており、移動に困難を極めるということはない。また、確かにインドの田舎だと考えることもできそうだが、民族や言語に共通性を持ちながら宗教が異なるために独立国となっているのはほかにパキスタンやボスニア・ヘルツェゴヴィナぐらいしか例がなく、国と民族の関係について考えさせられる貴重な機会であった。日本語のガイドブックがなくても、苦労して訪ねる価値のある国だと思う。

出発

ダッカ

抜粋

クルナ
ジョショール

ダッカ2

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
11日11:20 空路 15:40 タイ バンコク
16:30 空路 17:40 バングラデシュ ダッカ
12日18:00 水路 13日21:35 クルナ
15日08:30 鉄路 09:35 ジョショール
10:00 道路 11:35 ベナポール
12:30 道路 13:45 ジョショール
16日09:30 道路 15:40 ダッカ
17日20:45 空路 24:00 タイ バンコク
18日04:00 空路 08:40 日本 東京
道路 :道路、 鉄路 :鉄路、 水路 :水路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
バングラデシュ ダッカ Hotel Ramna BD.T 230 1
クルナ Hotel Park BD.T 150 2
ジョショール Hotel VIP Residential BD.T 170 1
ダッカ Hotel Grand Palace International BD.T 300 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
バングラデシュ BD.T 2.17円 21.50
内訳
1,000
内訳
1,492.50
内訳
0 2,900
内訳
日本 JP.\ 1.00円 0 0 0 0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 47 2,175 3,246 0 6,307

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
バングラデシュ 1,000
内訳
1,182 7,596 13,949 7 1,993
日本 0 0 0 0 1 0
通貨計 2,175 2,571 13,949 8 1,744
(注)円換算と日平均は土産費を除く。

出発

ダッカ

抜粋

クルナ
ジョショール

ダッカ2

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

旅べえ > 第1部旅草子 >

←後 / 前→