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中国M

出発

抜粋

成都

漢中

重慶

峨眉山
楽山

成都2

武漢

回顧

概要

■成都(チェンドゥー)は、初回の旅で訪ねたいと思っていて叶わなかった。人口1,000万人を超えるとされる大都市だ。

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成都双流空港

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機場巴士から

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錦江賓館站付近

成都双流空港では、どの路線の機場巴士に乗ればよいのか分かりかねた。路線ごとに巴士乗場がかなり離れていることも問題であった。どうしようか迷ったが、結局、市内に入ってからのことは後で考えることにして、路線を選ばずに乗ることにした。售票処では、横から割り込もうとしてくる男性を押し返しながら切符を買わなければならなかった。機場巴士は立席を認めない方針らしく、售票処のスタッフは車掌に空席を確認しながら切符を売っていた。しかし、切符を手にして乗車してみると、空席はちょうどなくなっていた。それが分かると、車掌は自分用の補助席に座るよう勧めてくれた。考え方次第では運転席横の特等席だ。終点の錦江賓館站で巴士を降りるとタクシー乗車の勧誘が喧しかったが、振り切って進むと人民南路に出た。そして、公共汽車に乗り換えると人民中路にある予約済みのホテルや成都站に向かうことができると分かった。既に21時半頃になっており、ホテルにチェックインすることも考えられたが、まずは成都站に向かうことにした。漢中に向かう当夜の火車に乗ることができないか確かめておくことにしたのだ。訪問希望地が多いため、できれば前日のフライトの欠航による遅れを取り戻しておきたいという思いがあった。しかし、成都站に到着してみると售票処は閉まっており、切符を買うことはできなかった。そのため、ホテルを2泊続けてキャンセルすることはなくなった。

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成都站

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成都站前

翌日、漢中に向かう火車の切符を買うため、地鉄に乗って成都站の售票処に向かった。列に並んでいる人は数人であり、10分程度待っていると順番が回ってきた。しかし、希望する硬臥の切符を買うことはできなかった。そこで、一旦列の最後尾に並び直し、再び順番が回ってくるまでの間に検討した結果、最後に残っていた当夜の快速・軟臥の切符を買うことにした。到着が深夜3時頃になるため站員は心配してくれたが、何とかなるであろうと考えた。硬座であればもっと都合のよい時刻に到着する便があったようだが、この旅では臥舗に拘ることにしたのだ。次いで、漢中からの帰路便について相談した。窓口に「全国各地火車票取售(全国各地の列車切符取り扱い)」と記されていたこともあり、乗車站でなくても切符を買うことができるのではないかと推測したのだ。すると、案の定、翌夜の快速・硬臥の切符を買うことができた。乗車地以外で切符を買う初めての経験となった。どの便にどのような空きがあるのか、端末のディスプレイに表示して見せてくれるため、理解が容易になる。車中泊が続くことになるため、漢中から戻った日は入国日と同じホテルに泊まることにした。入国日と帰国日を除く6日間のうち、前半の大まかな旅程を確定させたことになる。

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武侯祠博物館(三義廟)

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武侯祠博物館(孔明苑)

午後になって、公共汽車に乗って武侯祠博物館と杜甫草堂を訪ねることにした。武侯祠は、蜀漢(蜀)の丞相諸葛亮(孔明)の祠堂だ。中国各地では関羽(雲長)の人気が高いが、当地では諸葛亮のプレゼンスが高いようだ。死後数十年後の4世紀に建てられ、再建を繰り返した後、14世紀に劉備(玄徳、昭烈帝)を祀る漢昭烈廟と統合されたという。門を入ると広大な敷地に多くの建物が並んでいる。武侯祠には諸葛亮やその子孫が、三義廟には劉備、関羽、張飛(翼徳)が祀られている。孔明苑は広大な庭園だ。そして、恵陵は劉備の墓とされている。劉備は諸葛亮の主君であったのだから、全体が漢昭烈廟などと呼ばれてしかるべきなのに、地元では諸葛亮がこの上なく敬われ、愛されているということであろうか。また、英傑の子孫のほとんどが悲惨な末路を辿ったことを知り、歴史の非情さに思いが至った。

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杜甫草堂(茅屋)

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杜甫草堂(書房)

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杜甫草堂(厨房)

杜甫草堂は、唐代に安史の乱が起こった後、当地に避難してきた唐の詩聖杜甫の住居だ。杜甫と言えば、反乱軍によって幽閉されていた時に詠んだ「春望」が思い浮かぶ。

国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪

国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火(ほうか)三月(さんげつ)に連なり
家書万金に抵(あた)る
白頭掻けば更に短く
渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す

17世紀に平泉を訪ねた松尾芭蕉は、12世紀に源頼朝の圧力を受けた藤原泰衡に衣川の戦いで敗れて自害した源義経に思いを馳せ、「奥の細道」で「春望」を引用して以下のように記している。

さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。

夏草や兵(つはもの)どもが夢のあと

杜甫草堂は、正に深い草木に囲まれていた。暑さが和らぐほどであった。杜甫が住んだ茅屋は奥にひっそりと佇んでいる。長安から難所を通らなければ辿り着かなかった当地で人の世の無常をはかなんだ杜甫の暮らし振りを垣間見ることができたように思う。

出発

抜粋

成都

漢中

重慶

峨眉山
楽山

成都2

武漢

回顧

概要

■漢中(ハンジョン)は、前年に西安からアクセスしようとして果たせなかった町だ。西安と成都の間にあり、西安寄りではあるが、夜行火車で移動することができるのであれば成都からアクセスしても問題ないであろうと考えた。漢中は、紀元前3世紀に劉邦(季、後の漢の高祖)が秦の都咸陽を陥落させた後、事実上楚を率いていた項籍(羽)により封じられ(漢中が中心部から見て西にある辺境であったことから「左遷」の語源ともされる)、中国を統一する拠点とした町だ。そして、劉邦が興した王朝が漢中に因んで「漢」となり、中断を挟んで紀元3世紀までの長期間にわたって政権を維持したことから、「漢」の字が中国の国名、民族名、文化名を指すことになった。

そのような歴史的重要性を持つ町だが、有名な観光名所が少ないためか、観光地としては定着していない。ガイドブックにも掲載されていないため、何の準備もなく訪ねても当地を堪能することは難しい。この旅では、インターネット上の情報に頼ることにした。特に、ガイドブックに掲載されていない中国の観光地を紹介することを目的に掲げているウェブサイトに以前から注目していた。成都のホテルではWi-Fiの接続状況がよくなかったが、スマートフォンで接続を試み、何とかウェブサイトにアクセスして主な観光名所への行き方を書き出しておいた。この情報が大いに役立つことになった。

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漢中站

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南方招待所

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南方招待所

軟臥は初めての利用であった。3段式ではなく2段式の寝台となっているが、それ以外は硬臥とたいして変わらなかった。乗客の中には若いカップルがいた。火車は、残念ながらと言うべきか、定刻通り到着した。1998年のネパール旅行の際のポカラ到着に次ぐ遅い時刻の到着ということになる。そして、站舎は出ていかなければならなかった。出口は進口(入口)と別になっているため、候車室で夜が明けるのを待つというわけにはいかないのだ。どうしようかと考えていると、多くの人が声をかけてきた。宿泊施設の客引きのようだ。少し歩いて人数が少なくなってから壮年の女性に用件を尋ねると、1泊40元(1元は約17.7円)で泊めるという。喜んで連れていってもらうと、招待所であった。通常であれば外国人は泊まることができない。案の定、身分証明証としてパスポートを提示すると、考え込まれてしまった。しかし、最終的には泊めてもらうことができた。ほかに十分な宿泊施設のない町では、外国人を泊めることについての制約が緩くなるのかもしれない。ただ、宿帳上では宿泊者扱いにはならなかったであろう。3人部屋を占有することができた。軟臥で十分に眠ってきたため招待所で眠ることはなかったが、明るくなるまでゆっくりとくつろぐことができるのはありがたかった。ただし、ドアを閉めると自動的に施錠される仕組みになっているにも関わらず鍵を受け取っていないため、共同トイレットに行く時はドアを開け放しておく必要があった。

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歴代英傑像

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石門桟道風景区

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石門桟道風景区

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石門桟道風景区付近

朝になって、勉県(ミェンシェン)を訪ねるため、漢中站に向かって左側(西方向)にある長征客運汽車站に向かった。件のウェブサイトの情報から、当地では観光名所が集中している勉県と石門桟道風景区を訪ねようと考えていた。汽車站にはそれらの位置を示した案内図が掲げられており、ありがたかった。しかし、勉県に向かう汽車の切符は売ってもらえなかった。理由は分からなかった。仕方なく、公共汽車に乗って向かうことのできる石門桟道風景区を先に訪ねることにした。この決断は、本来はあまり適当ではなかったように思う。当夜は当地に滞在しない以上、遠くの観光地を先に訪ねることが旅の鉄則であろうし、石門桟道風景区は営業開始前である可能性もあった。しかし、到着してみると、幸いなことにちょうど営業を開始したところであった。

汽車停留所から石門桟道までは距離があり、通路の両側には楚漢戦争や三国時代などを題材にした絵画や英傑像などがえんえんと並べられていた。鴻門の会、赤壁の戦い、出師表、泣いて馬謖を斬る、北伐などの故事が扱われていた。劉邦や漢(前漢)の武帝(劉徹)の巨大像に続いて、歴代英傑として、秦の始皇帝、李世民(唐の太宗)、趙匡胤(宋の太祖)、チンギス・カン(成吉思汗、テムジン、モンゴル帝国の太祖)、朱元璋(明の太祖)、康熙帝(清の聖祖、愛新覚羅玄Y)、孫文(中華民国臨時大総統)、毛沢東(中国共産党主席)、ケ小平(ドン・シャオピン、中国共産党中央軍事委員会主席)の像が現れた。古代の英傑と近現代の指導者を同列に扱うのはいかにも社会主義国らしい。また、褒以(周の傾国とされる)と沈魚落雁・閉月羞花(同じく傾国とされる春秋時代の呉の西施、漢の王昭君、後漢の貂蝉、唐の楊貴妃)の像もあった。

以前視聴した中国ドラマ「大漢風〜項羽と劉邦」では、漢中に封じられた劉邦が、断崖絶壁によって孤立した地形を活かし、桟道を巧みに活用しながら項籍と対峙していく様が描かれていた。どのような地形なのかと気にかかっていた。褒河対岸には、現在でも宝鶏(バオジー)に向かう主要道路が断崖絶壁に張り付くように走っている。周囲と孤立した地形がよく分かった。桟道は、どこまで進んでも目にすることができず、諦めかけた時、対岸に現れた。観光用に復元されたものだが、簡素な作りは当時の雰囲気をよく伝えているのではないかと感じた。劉邦にとって心強い味方であったのも理解することができる。帰路は少し歩いて付近の町並みを確認してから公共汽車に乗った。
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石門桟道風景区

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武侯祠

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武侯墓

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武侯墓から

市内に戻ると、再び長征客運汽車站に向かったが、やはり勉県に向かう汽車の切符を売ってくれない。その代わり、汽車に乗ることのできる場所を聞き出すことができ、その後、数人の人に尋ねて、ようやく汽車に乗ることができた。站前路を西に進むと突き当たる天漢大道沿いであった。

勉県汽車站は、和平中路という繁華街に面している。当地で最も賑やかな通りのようで、漢中よりも華やいでいると感じるほどであった。汽車停留所では、武侯祠や武侯墓に向かう公共汽車の路線を確認することができた。まず、武侯祠に向かった。停留所の場所は分かりづらかったが、武侯祠賓館と武侯祠停車場(駐車場)が目印となって汽車を降りることができた。成都の武侯祠ほどではなかったが、やはり広大な敷地に諸葛亮が祀られていた。次に、武侯墓を目指そうとしたが、公共汽車がいつまで待っても来ないため、やむを得ずタクシーに乗って向かうことにした。やはり広大な敷地を有しており、その中に墓石や陵墓があった。3世紀に劉備が曹操(魏の武王、武皇帝、太祖)軍の夏侯淵を敗死させ漢中の支配を確立した戦いのあった定軍山が近かったが、訪ねる余裕はなかった。帰路は公共汽車に乗って帰ることができた。勉県汽車站に戻る直前、漢水を渡った。漢中の名前の由来になった由緒正しい川だ。結局、汽車停留所の案内は、武侯祠に向かう路線が延長になり、武侯墓に向かう路線の番号が変わったのにともに修正されておらず、また上下線の説明板が取り違えられている場合もあるということが分かった。信を置くことのできない代物であったのだ。
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武侯祠から


出発

抜粋

成都

漢中

重慶

峨眉山
楽山

成都2

武漢

回顧

概要

■重慶(チョンチン)は、20年近く前に四川省から独立した。面積は北海道と同程度で、人口は何と3,000万人を擁するとされる。日中戦争中は、南京陥落後、武漢に続いて国民政府の首都が置かれたことで有名であり、三峡クルーズの起点となる町でもある。

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成都東站

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成都東站

漢中から戻った日に日帰りで訪ねようと考え、CRH(動車組)の出発する成都東站に向かった。站名板がはるか上方に掲げられている巨大な站舎だ。不必要に大きいように感じるが、中国やCRHの威厳を示すためなのであろうか。售票処には長い列ができており、一旦は列に並ぶことを躊躇したが、20分程度待っていると順番が回ってきた。漢中を訪ねた時と同様に往復で切符を買うことにした。帰路は2等座の切符を買うことができたが、往路は出発時刻を優先したためか無座(立席)になってしまった。無座と言っても、通常の切符と同料金であり、空席に座ることは許されているであろうと考えてしばらく座っていたが、乗務員に制されてしまった。それならば、僅かでもよいからディスカウントする必要があるのではないかと感じた。

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朝天門付近(再開発中)

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嘉陵江/長江

重慶北站に到着すると、朝天門(チャオティエンメン)を訪ねるため、地鉄に乗った。まだ小什字までしか開通していないため、長江(チャンジャン、揚子江、ヤンズージャン)と嘉陵江(ジアリンジャン)の合流地点までしばらく歩くことになる。朝天門広場(チャオティエンメン・グアンチャン)に連なる一帯は、大規模な再開発中であった。繁華街から階段を降りていくと川面の高さに近づいていく。北側を流れる嘉陵江と南側を流れる長江のどちらも壮大な流れを見せていた。三峡下りの宣伝があちらこちらで見られ、時間があればと悔やまれた。

滞在時間が5時間程度あれば主な観光名所を訪ねることはできるのではないかと考えていたが、市内移動のために予想以上の時間を費やした。三峡、町、抗日運動の展示がある重慶中国三峡博物館を訪ねたかったが、どこからどの公共汽車に乗ることができるのか、全く分からなかった。そこで、牛角沱站からタクシーの乗車を試みたが、次々と乗車を断られた。重慶中国三峡博物館に向かうことのできない何らかの理由があったのか、そうではないのに乗車を拒否されたのか、事情を理解することはできなかった。
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嘉陵江/長江


出発

抜粋

成都

漢中

重慶

峨眉山
楽山

成都2

武漢

回顧

概要

■峨眉山(アーメイシャン、行政執行上は楽山に含まれる市)は、初回の旅をするために買ったガイドブックに水墨画のような筆使いで俯瞰図が描かれているのが目に留まった。仙人が住むという伝承を絵画風に仕立てたものであろう。仙人になりたいと懇願した杜子春が仙人に連れていかれた山でもある(芥川竜之介著「杜子春」)。神秘的な山のように感じられ、いつか登りたいと考えてきたが、募る思いをついに叶えることができるわけだ。

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成都旅游集散中心

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成都旅游集散中心

重慶を訪ねた翌朝、新南門汽車站とも呼ばれる成都旅游集散中心(バス・ターミナル)に向かう公共汽車を探して天府広場まで歩いたが、見つかりそうになかったためタクシーに乗って向かうことにした。到着すると、ロビーは大勢の人が溢れていた。售票処の優先窓口には、「老弱病残孕軍警優先購票窓口」と記されていた。年配者、子供連れ、病人、身体障害者、妊産婦、軍人、警察官が優先して利用することのできる窓口のようだが、そうではないと思われる人が大勢列を成していた。また、以前、列に並ばない人に対して切符を売る站員がいた理由が分かったような気がした。なお、ハンディキャップを抱えた人を意味する言葉が直接的すぎるように思う。

何とか入手した汽車の切符には19時20分発と記載されていて焦ったが、汽車は頻発するため、どの汽車に乗ってもよいのだという。ガイドブックでは汽車は峨眉山市内に向かうと説明されていたが、峨眉山市内に立ち寄った後、そのまま峨眉山風景区に向かってくれた。ただし、追加料金の支払いが必要であった。

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峨眉山旅游客運中心付近

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黄湾収費站付近

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眺望

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山道

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純陽殿

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五体投地

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清音閣

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飲食店

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万年寺

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香山休閑荘

報国寺(バオグオスー)から2日間をかけての登山を始める。意気揚々と出発したが、失敗を重ねてしまった。

最大の失敗は、拠点間の移動に必要な時間を念頭に置いていなかったことだ。日本語のガイドブックでは、何の注釈もなく2日間の行程を例示していた。しかも、1日目は報国寺周辺を往復するだけなので、実質1日で登下山を行うことになる。標高約3,100mの山なので、この時点で不思議に思わなければならないところであった。ガイドブックの行程は、帰路に標高約1,000mの万年寺から清音閣を経由して両河口まで徒歩で下りるほかは、汽車と索道(ケイブル・カー、日本語ではロウプウェイ)を利用することを想定していると思われる。頂上近くまで自動車道が開通しているのだ。一方、初回の旅の際に利用した版では、自動車道は報国寺から万年停車場辺りまでしか開通していなかったのではないかと思う。そして、基本的に徒歩で登り下りするものだという先入観があり、最新版にはあまり目を通していなかった。誤解したのは理解力不足の謗りを免れないが、交通機関の利用区間と徒歩移動区間を区別しないで行程を示すガイドブックの編集も呆れたものだと思う。ほかに詳細な案内がないと入山することができない代物のように映る。もっとロウンリ・プラネットに頼るべきであった。ロウンリ・プラネットでは、頂上付近まで汽車に乗って上り、報国寺まで休憩時間を除いて10時間をかけて徒歩で下りる2日間コースや、同じく20時間をかけて徒歩で全行程をカヴァーする3日間コースなどが紹介されており、頂上付近まで登山するという計画は非現実的というほどではなかったが、行程が非常にタイトだという自覚がないため、しばらく報国寺付近でうろうろするという愚を犯してしまった。

2番目の失敗は、道路標識を見て、報国寺から自動車道を進んでしまったことだ。黄湾収費站に到着すると、徒歩で先に進むことはできないと言われた。自動車道を進んでしまったのは間違いだとしても、地図上では両河口と清音閣を経由して万年寺方面に登ることができそうにも見える。そうではなく、黄湾収費站から先は自動車専用になっているのであれば、地図や道路標識にそのように表示しておいてほしいものだ。仕方なく汽車に乗って報国寺に引き返すことにした。時間のロスは1時間程度であった。

3番目の失敗は、昼食後、善覚寺を訪ね、時間を節約しようとして、地元の人が下りてきた裏の山道を進んでしまったことだ。先の行程を考えると、善覚寺を訪ねたこと自体、褒められたことではないであろう。それも、本道上の寺だとの誤解によるものであった。山道を進むと次第に途切れがちになり、心細くなってきた。しかし、方向を間違えないように進んでいくと、何とか人里に出ることができた。道幅は広くなり、自動車の乗り入れもされていた。純陽殿付近であった。

石段を進んでいくと、神水閣付近で五体投地を行いながら巡礼している一行に出会った。さすがに四川省だ。ティベット人が住んでいるのだ。地元の人にとっても珍しいらしく、一緒に見守っていた。

登山者にはあまり出会わなかったが、清音閣辺りからよく見かけるようになってきた。ただ、万年寺方向から下山してくる人が多いようであった。日本語のガイドブックが紹介している行程を辿っているのであろう。この辺りでは、行程が進んでいないことを自覚するようになっていた。登山開始時は仙峰寺を経由する迂回路を取ることも検討していたが、とてもそれどころではなかった。

疲労が蓄積してくる中、夕方になって万年寺に到着すると、多くの人が訪ねてきていた。万年停車場から万年索道に乗って往復するトゥアー客のようだ。報国寺から万年寺まで道に迷ったものの約13kmの移動のために6時間半を要したのに対し、万年寺から頂上付近の雷洞坪(レイドンピン)まで約22kmも残っていた。また、2日後に楽山大仏を見物したいと考えており、その後、夕方には成都から武漢に向かう飛行機に乗らないといけないという制約もあった。そのため、翌日のうちに楽山に到着していることが望ましく、不可能な場合でも報国寺までは下りておく必要があった。非常に厳しい条件であり、行程の遅れが深刻なため、善後策を検討した。
  • 最初の選択肢は、当地に宿泊し、翌日、万年索道に乗って万年停車場まで下った後、汽車に乗って頂上付近に向かうというものだ。しかし、当日の登山の意味がなくなるような気がして敬遠された。
  • 2番目の選択肢は、当日のうちに次の宿泊可能拠点と思われる標高約1,900mの華厳頂辺りまで登っておくというものだ。しかし、暗くなってからの宿泊先の確保が難しいという問題がある。
  • 3番目の選択肢は、当地に宿泊し、翌早朝、登山を再開するというものだ。
消去法により3番目の選択肢を選び、当地で宿泊先を探すことにした。ロウンリ・プラネットでは宿泊先を寺院に頼るとよいと説明されていたため、万年寺の售票処で尋ねてみたが、応対してもらうことができなかった。そのため、参道に戻ってどうしようかと思案した。そして、参拝者の中に男子学生を見つけて相談してみた。日本の人気歌手グループのメンバーの写真をスマートフォンの待ち受け画面にしていた。中国でも流行しているのであろうか。報国寺から一人で登山してきたと言うと、「勇敢だ。」と言われてしまった。トゥアー客のようで、ガイドは離れた場所にいたようだが、わざわざ宿泊施設の場所を尋ねてきて、ロッジを紹介してくれた。宿泊施設を確保することができると、まだ明るいことが気にかかる。当地は西に寄った位置にあるため、遅くまで明るいのだ。最善の決断をしたはずではあるが、宿泊施設の心配がなくなると、今度は明るいうちに当日の登山を終了して当地での宿泊を決めたことを後悔してしまうのは、人間の性(さが)というものであろうか。

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夜景

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華蔵寺

翌早朝、辺りが漆黒の闇に包まれている中、出立した。道を間違えないかという心配はあったが、道を間違えた場合は遠からず行き止まりに突き当たるはずだと考え、自信を持って歩を進めていった。夜景や月明かりが素晴らしかった。6時半頃通りかかった寺院では、宿泊先がないのかと心配してもらった。そのうちに明るくなってきたが、前日よりも傾斜が急になり、疲れが限界に近くなってきた。朝食休憩などを取ったり、洗象池で猿と戯れたりしながらなんとか登っていった。

気にかかるのは、金頂(ジンディン)と呼ばれる頂上付近に雲がかかっていることであった。実際、頂上に近づくにつれて天侯が悪くなっていった。雷洞坪からは汽車に乗ってきた人と合流し、山道が混み合ってきた。金頂索道に乗って13時頃には金頂に到着したが、案の定、視界は優れなかった。華蔵寺では、目の前にある四面十方普賢金像でさえ、上部の形が分からないほどなのだ。金頂は元々曇りがちとのことであり、やむを得ないであろう。雷洞坪から汽車に乗って報国寺に戻った。そして、峨眉山旅游客運中心で楽山行汽車に乗り換えた。
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山並み

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山並み


出発

抜粋

成都

漢中

重慶

峨眉山
楽山

成都2

武漢

回顧

概要

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岷江

■楽山(ラーシャン)の肖覇旅游車站に到着すると、汽車を乗り換えて市内に入った。ロウンリ・プラネットを頼りに宿泊先を探したが、なかなか見つからない。それなりの宿泊料金となっているホテルでさえ外国人を泊めないと言われることがあった。その後、ホテルは楽山港のある浜江路(ビンジャンルー)に集中していると判断し、探し当てることができた。

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楽山大仏

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楽山大仏

翌日は、楽山大仏の見物から始まる。間近から見る方法と游船から眺める方法がある。最初は間近から見たいと考え、汽車停留所に向かったが、汽車がなかなか来ない。諦めて、游船から眺める方法に切り替えた。すぐに出発すると言われていたが、30分程度待たされた。最小催行人員に満たなかったためであろう。

楽山大仏は、岷江沿いの岸壁を利用した世界最大の磨崖仏で、凌雲寺の一部となっている。8世紀の唐の玄宗の治世に治水のために建立が始められ、完成までに約90年を要したという。同時代に建立された東大寺盧舎那仏の5倍の71mという高さだ。体積は125倍程度ということになるのであろうか。間近からは大仏の一部分しか見ることができないが、游船からは全体を眺めることができる。壮観であった。時間の制約がある中で、結果的によい選択をしたのではないかと思う。

出発

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成都

漢中

重慶

峨眉山
楽山

成都2

武漢

回顧

概要

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天府広場付近

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火鍋

■成都旅游集散中心へは、楽山の肖覇旅游車站から汽車に乗って午前中に到着することができた。

タクシーに乗って天府広場に戻ってくると、当地でのマスト(見逃すことのできないものやこと)に取り掛かることにした。火鍋(フゥオグゥオ、鍋料理)だ。大勢の客が食事をしている火鍋店に入って火鍋を注文すると、ボウルを渡され、食材を自由に選んで入れるよう促される。そこで、不足しがちな野菜を中心にボウルに入れていった。調理に当たって辛くならないよう依頼していたが、それまでに経験したことのないような辛さであった。さらに唐辛子を勧めてきたのはいたずら心からであろう。汗が玉のように吹き出すなど、てんてこ舞いであった。四川料理の洗礼だ。ただ、味は格別であった。

出発

抜粋

成都

漢中

重慶

峨眉山
楽山

成都2

武漢

回顧

概要

■武漢(ウーハン)は、長江両岸に広がり武漢三鎮と呼ばれた武昌、漢口、漢陽の3つの町が統合された町だ。日中戦争中は南京陥落後、一時国民政府の首都が置かれた。現在は湖北省(フーベイション)の省都となっている。重慶に続き、夏の暑さのため南京とともに三大火炉(かまど)と呼ばれる町の訪問となった。

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旧日清汽船漢口支店

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旧江漢関

成都双流空港から1時間半のフライトで武漢天河空港に到着したのは、宵であった。乗合ワゴンに乗って漢口站に向かい、地鉄に乗り換えて予約済みのホテルを目指した。既に夜の帳は下り、翌朝の出発は早かったが、旧漢口租界の様子を一瞥しておきたいと思い、地鉄に乗って向かった。そして、旧台湾銀行漢口分行、旧日清汽船漢口支店、旧江漢関、旧花旗銀行漢口分行、旧上海匯豊銀行漢口分行、旧新泰大楼と、江漢路と沿江大道に沿って連なる建物を見物していった。ライトアップされ、華やかな歴史を誇っているようであった。

翌早朝、タクシーに乗って金家敦客運站に向かい、空港行汽車を探したが、見つかりそうになかったため、屋台で朝食を済ませると、再びタクシーに乗って空港に向かった。上海浦東空港では、またも乗換客に対する案内が的確に行われなかった。乗り換えに失敗した乗客さえいたのではないかと思う。

出発

抜粋

成都

漢中

重慶

峨眉山
楽山

成都2

武漢

回顧

概要

■現地での1日平均の旅行費用は約5,800円であった。旅行費用のうち宿泊料金の最高は武漢の約3,000円(169元)で、最低は漢中の約710円(40元)であった。

中国は、前回の東南アジア旅行の際に立ち寄ったことを含めて14回目の訪問であり、タイと並んで最も訪問回数の多い国となった。直近のタイ訪問は2009年であり、その時点で中国は3回しか訪ねていなかったことを考えると、その後の中国訪問の集中は顕著だ。それにも関わらず、今後訪ねたい候補として挙がる町は、開封、大同、フフホト(呼和浩特)、周荘、朱家角、紹興、寧波、哈爾浜、敦煌、ウルムチ(烏魯木斉)、トルファン(吐魯番)、カシュガル(喀什)、九寨溝(ジウジャイゴウ)、麗江(リージャン)のほか、ティベットのラサ、シガツェ(日喀則)、ギャンツェ(江孜)と枚挙に暇がなく、感服せざるを得ない観光大国だ。辺境の町が多いため、すぐに訪ねることは難しそうだ。

出発

抜粋

成都

漢中

重慶

峨眉山
楽山

成都2

武漢

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 福岡
10日14:30 空路 15:25 中国 上海
17:40 空路 20:35 成都
11日18:35 鉄路 12日02:50 漢中
12:30 道路 13:30 勉県
17:00 道路 18:10 漢中
20:50 鉄路 13日06:00 成都
10:05 鉄路 12:15 重慶
17:05 鉄路 19:15 成都
14日07:05 道路 09:40 峨眉山
11:35 徒歩 18:00 万年寺
15日04:30 徒歩 12:00 雷洞坪
14:30 道路 16:05 峨眉山
16:30 道路 17:25 楽山
16日09:35 道路 11:45 成都
16:30 空路 18:10 武漢
17日07:40 空路 09:10 上海
10:35 空路 13:35 日本 福岡
徒歩 :徒歩、 道路 :道路、 鉄路 :鉄路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
中国 成都 正福草堂コ馨客桟 CN.\ 98 1
漢中 南方招待所 CN.\ 40 1
成都 正福草堂コ馨客桟 CN.\ 98 1
万年寺 香山休閑荘(楽山市峨眉山) CN.\ 150 1
楽山 聖羅堡酒店 CN.\ 160 1
武漢 宜必思酒店 CN.\ 169 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
中国 CN.\ 17.7円 5
内訳
331.50
内訳
1,062.50
内訳
0 515
内訳
通貨計 JP.\ 1.00円 88 5,853 18,759 0 9,093

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
中国 715
内訳
0 2,629 46,416 8 5,802
通貨計 12,624 0 46,416 8 5,802

出発

抜粋

成都

漢中

重慶

峨眉山
楽山

成都2

武漢

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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