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概要

■連合王国(UK、イギリス、イングランド、英国、正式名称はグレイトブリテン・北アイルランド連合王国)では、初めての外国ということもあって何もかもが新鮮であった。出発日の宵にはロンドン(倫敦)のヒースロウ空港に到着し、現地に駐在している旅行代理店の日本人スタッフの出迎えを受けて、送迎バスに乗ってロイヤル・ナショナルというホテルに向かった。そして、ホテルのロビーでスタッフから解散前の最後の説明を受けた後、周辺を散策した。左側通行の道路に合わせてメルツェデス・ベンツ(ダイムラー・ベンツ)などの外国車もステアリング・ホイール(ハンドル)が右側座席にあることには感心した。見慣れない景観を目の当たりにして、旅への期待が膨らんできた。

翌日から2日間、同行の友人とではなく、偶然に泊まり合わせた大学の別の友人と二人でケンブリッジとロンドンのイングランド2都市を観光した。

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タワー・ブリッジ

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ロンドン塔

ロンドンでは、まず、バッキンガム宮殿、ウェストミンスター修道院(アビー、寺院)、タワー・ブリッジなどの観光名所を見物した。バッキンガム宮殿からウェストミンスター修道院に向かう途中にあるセイント・ジェイムズ・パークの景観も素晴らしいものであった。その後、ロンドン塔で友人と別れ、ヴィクトリア駅まで歩いた。ルートにはあまり拘らなかったが、途中でシティ(金融街)、セイント・ポール大聖堂、ナショナル・ギャラリ(国立美術館)、ピカディリ・サーカスなどを見物することができ、数時間をかけての楽しい散策であった。旅慣れた旅をすることができるかどうかは、どの程度地元に溶け込めるかということにかかっていると思う。その意味で、マーケットで果物を買ったりグリーン・パークやハイド・パークを何の当てもなく歩いたりしたことは、よい思い出になっている。地図を横目で見ながら進んでいくと、見所は向こうの方から飛び込んできてくれる。とりわけ、ウォータールー橋からテムズ川を挟んでビッグ・ベン(国会議事堂の時計台)やウェストミンスター修道院を望む眺めは格別であった。

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キングズ・カレッジ

方々に伝統を感じさせる首都の町並みもよいが、連合王国は郊外も見逃すことができない。ケンブリッジに向かう列車に乗ると、すぐに広々とした田園風景に出会う。国土は日本と同じように狭くても、調和のある利用が行われているのであろう。ケンブリッジ大学はその素晴らしい環境の中にあった。キングズ・カレッジやトリニティ・カレッジなど多くのカレッジは立派な中庭を持ち、高く聳える学舎は歴史を感じさせる。ただ、当日が日曜日に当たっており、地元の学生との出会いがなかったことは残念であった。その代わり、スイスでスキーをするという若いオーストラリア人男性と親しくなった。

ロンドン2日目に行った最初のホテル探しには、かなり苦労した。ホテルはなるべく早い時刻に探すべきだという旅の原則を忘れていたためだ。ケンブリッジ観光の後、大英博物館(ブリティッシュ・ミュージアム)でエジプト・ミイラなどの見物までして、ホテルを探し始めた時には日が暮れてしまっていた。前日に泊まったホテルや大英博物館に近いブルームズベリーに目星を付けてみたが、多くのホテルの玄関には「NO VACANCY(空室なし)」という札が掲げられており、折しも降り出した小雨の中をさまようことになった。このような状況になると、ケンブリッジに同行した友人達の部屋が最初から確保されていることが急に羨ましく思われてくる。必死の思いで数軒のホテルを訪ね、何とか適当なB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト、朝食付民宿)を見つけることができた。この経験は、新しい町に到着して最初にするべきことは宿泊先の確保だという重要な教訓になった。

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■フランスは、多くの日本人にとって、ヨーロッパ諸国の中でも特に憧れの国ではないかと思う。しかし、日本人の熱い思いとは裏腹に、フランス人が日本人を見る目はどこか冷めたところがあるようだ。

連合王国では個別に観光した友人とヴィクトリア駅で待ち合わせると、当日の朝に予約したフェリーに乗ってニューヘイヴンからイングランド海峡(ドーヴァー海峡)を渡った。寒さが身に染みる深夜、ヨーロッパ大陸に上陸すると、ディエップのイミグレイション(出入国管理事務所)に並ばされる。フランス人とブリティッシュ(連合王国国民、イギリス人)は第三国人とは別の列に並ぶことになっているが、その審査を終えた入国審査官は第三国の国名を告げ、その順に審査を始めていった。ヨーロピアン(ヨーロッパ系の人、コーカソイド、俗称は白色人種、白人)などが次々と審査を受け、そのうちに審査を待っている旅行者のほとんどが日本人という状態になってしまう。ここに至って、ようやく審査官は「ジャポン」と呼んでくれた。しかし、笑みを浮かべながらすぐにそれを取り消したのだ。そもそも第三国人を国籍別に審査することの効率性は疑わしく、優先順位の決定も恣意的だと感じていたが、この時点で審査官が日本人をからかっていることは明白になった。そして、そこには敵愾心のようなものさえ感じられた。

また、パリ(巴里)では、日本人と見るや否やフランス語訛の英語で話しかけてくる男性と出会った。しきりに「キャー」と言うため何を言っているのかと思っていると車(car)のことで、日本車の輸出攻勢を詰っているのであった。

このような国民性は、紳士淑女の雰囲気が漂うブリティッシュとは対照的だ。シャルル・ド・ゴール元フランス大統領がいみじくも言ったように、イングランド海峡は広かった。フランスには昔から中華思想があり、自国の文化に対する高い誇りのため日本の経済的成功を素直に受け入れることができない人がいるのではないかと思う。しかし、そこには国家は技術のみによって繁栄するものではないというような確固とした信念があり、国は富んでもフランスを始めとして欧米諸国の文化を一途に崇拝する日本人に対する蔑視も影響しているのであろう。日本が経済一辺倒の体質から脱皮しようとする時、精神的な面でフランス人に学ばなければならない点は多いのではないだろうか。

パリのサン・ラザール駅に到着すると、セーヌ川の中洲シテ島の南側に広がるサン・ミシェルにホテルを決め、2日間でパリ市内とヴェルサイユを観光した。

パリでは、ノートルダム大聖堂が聳え立つシテ島からコンコルド広場、エトワール凱旋門を経由してエッフェル塔まで歩き、首都の町並みを少しは身近に感じることができた。エッフェル塔では、展望台まで歩いて登ったほか、シャイヨー宮の近くからの眺めを堪能した。また、夜になってホテル周辺を散策した。

ヴェルサイユへは、RER(高速地下鉄)を利用し、リヴ・ゴーシュ(左岸)駅に降り立った。ブルボン朝の財政を傾けてまで建てられたヴェルサイユ宮殿は華麗の一語に尽きる。広々とした庭園も羨ましい限りであった。

入国時は非英語圏で旅行することに不安を感じていたが、英語が通じなくても会話集を見ながら最低限の会話をすることはできるという自信がついてきた。

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■スペイン(エスパーニャ)は、最も印象に残っている国のうちの1つだ。パリのオーステルリッツ駅から、当日の朝に予約した夜行列車に乗った。この旅でクシェット(簡易寝台)を利用した唯一の区間だ。クシェットでは予めパスポートを預けておく乗務員が出入国手続を代行してくれるため、安眠のうちにピレネー山脈を越えることができた。すると、そこにはフランスの田園風景とは打って変わって荒涼とした丘陵が広がっていた。そして、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)のようにアフリカとまでは言わないまでも、英仏などから連想される繊細というイメイジのヨーロッパとは趣を異にする文化が待ち受けていた。

スペイン人は非常に陽気で、旅行者にも親切だ。尋ねた場所を知らない場合は、ほかの人に聞いてでも教えてくれる。5日間にわたって、特別市の首都マドリード(マドリッド、馬徳里)のほか、国家統一の中心となったカスティージャ・ラ・マンチャ州の州都となっている古都トレド、イスラーム教の情緒が色濃く残るアンダルシア州のコルドバ、州都セビージャ、グラナダの三大都市、カタルーニャ州都となっている商都バルセロナを観光した。アンダルシア州はこの旅で唯一温暖な気候に恵まれた地域であった。また、他国と比べて物価が安かったこともあり、旅を満喫することができた。列車の予約が必要な場合があることは不便であり、シエスタ(午睡)の習慣には戸惑ったが、多くの旅行者が魅せられるのも頷くことができる国柄だ。

マドリードでは、中心部に当たるプエルタ・デル・ソルにホテルの部屋を確保することができたため、レティーロ公園から王宮、スペイン広場までの見物は容易であった。プラド美術館にはキリスト(クライスト)教に関連した絵画が多く、その知識が乏しいことは恨めしかった。パブロ・ピカソの「ゲルニカ」が展示されている別館も見物した。また、マヨール広場では夜の盛り上がりに驚かされた。

トレドは、マドリードから日帰りで訪ねた。首都の近くにありながら、都が置かれていた15世紀から時が流れていないのではないかと思わせる景観を呈していることには驚かされてしまう。タホ川に架かる13世紀に築かれた石の橋アルカンタラが町の入口であり、そこから城壁に守られた要塞都市の全景を眺めることができる。全く見知らない町でありながら懐かしさを覚えてしまうのはなぜであろうか。一方、町の中には、第二次世界大戦前に戦われたスペイン内戦の名残を留めるアルカサルなども存在し、現実の厳しさを感じさせられる。

アンダルシア州へは、2日間の一人旅となった。友人は、夜行列車が出発するアトーチャ駅まで見送りにきてくれた。アンダルシア州は、イスラーム教勢力が最後まで残っていた地域であるだけに、その関連の建物が多い。イスラーム教勢力最盛期の後ウマイヤ朝の都コルドバのメスキータ(モスク、イスラーム教寺院)や、爛熟期のセビージャ王国の都セビージャのヒラルダの塔など、時を経てキリスト教徒とイスラーム教徒の合作となった建物は感慨深いものがある。

コルドバは、小道が入り組んでいるため、何回も道を尋ねなければならなかった。ようやく到着したメスキータでは、その簡素な外観と独特の装飾が施された内部を堪能することができた。それからしばらくの間、公園のベンチに座って安ワインを飲みながらイスラーム教国の時代に思いを馳せた。また、年配の男性と親しくなった。英語は通じなかったが、コインの交換をするなど楽しい一時を過ごした。その後、セビージャに向かった。

セビージャ(セビーリャ、セビリア)では、階段の代わりに坂を上って階上に向かう形式になっているヒラルダの塔のほか、黄金の塔(トーレ・デル・オロ)、スペイン広場などを見物した。スペインもこの辺りまで足を伸ばすと温暖な気候が際立ってくる。また、スペインでは元々遅い日の入りがさらに遅くなっている。スペインで日の入りが遅いのは、西に寄った位置にありながらヨーロッパとの一体感を高めようとして標準時をパリなどと統一しているためなのだが、遅い日の入りによって、かえってヨーロッパ中心部から離れた地域まで来ていることを実感させられた。

当地と東方(コルドバ方向)の町を結ぶ列車の発着は、コルドバ駅(正式名称はプラザ・デ・アルマス駅)が受け持っている。地元では専ら通称の駅名を使っているらしく、正式名称は通用しなかった。また、ヨーロッパでは、1つの町に複数のターミナル駅が存在する場合、当地のように出発する列車の進行方向にある町の名前を駅名とすることがある。日本に当てはめてみると、上野駅を大宮駅、新宿駅を甲府駅、天王寺駅を和歌山駅などと呼んでいるようなものだ。これは、地元の人にとっては便利なのかもしれないが、部外者にとっては馴染みづらいものであった。駅では、夜行列車を待っている間に若いアイルランド人男性と親しくなった。

この旅の旅程を決めるためには、3年前に3週間の旅程で同じく訪欧した姉の意見を参考にした。ケンブリッジ、グラナダ、西ドイツのフュッセンなどを観光したのは、その推薦によるところが大きい。そして、それらは期待に違わぬものであった。グラナダは、イベリア半島でのキリスト教徒のレコンキスタ(国土復興運動)が大詰めを迎え、イスラーム教勢力の衰退が決定的になった13世紀に成立したナスル朝の都だ。そして、クリストフォロ・コロンボ(クリストファー・コロンブス)がアメリカ大陸に到達し、スペインを中心とする大航海時代が幕開けを告げた1492年に滅亡している。そのような政治的基盤の脆弱性にも関わらずアルハンブラ宮殿という素晴らしい資産が残されたのは、歴史の妙であろうか。

宮殿の広い敷地内には、ライオンのパティオ(中庭)やパルタルの庭など見所が目白押しだ。ヘネラリフェ(離宮)は庭園の手入れが行き届いており、方々に水が巡らされて自然と調和した素晴らしい造形美が形成されていた。当地を追われたイスラーム教国最後の王の嘆きが聞こえてくるようだ。アルカサバ(城塞)にあるベラの塔から眺めた白を基調とした町並みや雪を抱いた山々は、スペインと聞いて最初に連想するものとして頭に焼き付いている。

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サグラダ・ファミリア

グラナダからバルセロナに向かう夜行列車では、ヨーロッパを40日間にわたって旅行するという日本人女子学生と乗り合わせた。旅程はほとんど決めていないという。バルセロナのサンツ駅で友人と待ち合わせ、3人で市内見物をした。サグラダ・ファミリア(聖家族教会)はアントニ・ガウディによって19世紀に建築が始められ、完成までにあと200年程度を要するという。日本では考えられないスケイルの建物に感心させられることしきりであった。モンジュイックの丘に登って市街を一望した後、市街に戻ってゴシック地区、マダム・タッソーの蝋人形館、ピカソ美術館などを見物した。

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■イタリアに向けて、バルセロナのテルミノ駅から夜行列車に乗った。スペインとの国境にあるフランスのセルベール駅で列車を乗り換えた後、バルセロナ観光をともにした女子学生とは南フランスで別れた。モナコでカジノを楽しむのだそうだ。イタリアに入国すると、トスカーナ州のピサ、州都フィレンツェから、ラツィオ州都でもある首都ローマ(羅馬)などを経てカンパーニア州都ナポリまで、4日間にわたって順にイタリア半島を南下していった。都市間の移動は、連日のように夜行列車に乗っていたスペインとは異なり、滞在していた町を朝のうちに出発して次の町に午前中に到着するという余裕のあるものであった。ホテルもピサからローマまですべて駅の近くで簡単に見つけることができた。旅にも慣れてきて、昼頃までに市内見物を済ませると午後は洗濯や靴洗いに専念するという日もあった。ただ、寒波が襲来しており、ギリシャとともに、比較的温暖だと思われている地域で寒さに震えなければならないということは意外であった。また、スペインほど安い物価を享受することはできなかった。

ピサに到着すると、ピサ中央駅からバスに乗ってドゥオーモ広場に向かった。斜塔(トーレ・ペンデンテ)を見物したが、想像以上に傾いていることに驚かされた。ガリレオ・ガリレイが落下の法則や振り子の等時性を発見したことに関連したエピソウドでも有名だ。

15世紀にルネサンス(文芸復興)が開花したフィレンツェ(フローレンス)では、ドゥオーモやメディチ家礼拝堂などを見物した。その後、革製品が並べられているノミの市で財布を買ったり、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅(SMN駅、フィレンツェ中央駅)近くにあるフィレンツェ大学のメンザ(学生食堂)で昼食を取ったりした。

ハイライトのローマには、コロッセオやヴァティカン市国のサン・ピエトロ大聖堂など歴史的な建物が目白押しだ。映画「ローマの休日」によって有名なスペイン階段からトレヴィの泉を経由して映画「終着駅」の舞台となったテルミニ駅まで歩いたが、小道が入り組んでいて方向感覚が掴みづらかった。コロッセオまで来ると、遥かな町の2,000年前の闘技場と世界史で教えられた建物が目の前に立っているという事実に感動を覚えた。かつて大観衆を熱狂させたというのも理解することができる堂々たる構えだ。

宵になって、スペイン広場近くの商店街で姉への土産とする鞄を物色した。ある程度まとまった金銭を使うことは、バジェット旅行(貧乏旅行)に徹することとは異なる楽しみだ。店員との交渉はなかなか思うようにはいかなかったが、数軒の店を訪ねて何とか手頃な鞄を探し当てることができた。

ナポリからは、ヴェスヴィアーナ駅を起点としている私鉄を利用してポンペイ遺跡の見物に出かけた。その後、いよいよバルカン半島に向かうことになる。イタリア北部観光を予定していた友人はギリシャのアテネまで同行することを示唆してくれたが、イタリア、ギリシャ間を往復することは友人にとって非効率的であるため、別行動をすることにしてもらった。友人はポンペイ遺跡の見物を中断して、ナポリ中央駅まで見送りにきてくれた。この時点でちょうど旅程の半分が消化された。

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■ギリシャ(ギリシャ語名はヘレニズムと同語源のエラダ)観光に当たっては、日本でもよく知られているヨーロッパ中心部との相違に対して期待と不安が混在していた。長靴の形をしたイタリア半島の踵の部分に位置するブリンディシからギリシャのパトラ(パトラス)に向けて、アドリア海を渡る船旅となる。船内は座席位置によって寒暖の差が激しいということに気付かず夜間は寒さに震えていたが、太陽が昇ると船が上陸するバルカン半島やアドリア海に浮かぶ島々を見渡すことができ、クルージングの気分を味わうことができた。

19時間程度の乗船の後、パトラで列車に乗り換え、首都アテネのペロポネソス駅に到着したのは、ナポリを出立してから2日目の夜であった。しかし、途中で列車にホテルの客引きが乗り込んできたため、駅の近くで簡単にホテルを決めることができた。客引きは、マドリードでもフランスからの列車が到着するチャマルティン駅まで出張してきており、特に違和感を抱くことはなくなってきている。列車に乗り合わせた日本人男子学生と部屋を共有することにした。モロッコやエジプトなどを観光しているという。

翌日、同室の男子学生とアクロポリスの丘に登り、紀元前5世紀に建てられたパルテノン神殿を見物した。かなり荒廃が進んでいるが、なお古代アテネの最盛期を偲ばせるために十分な構えだ。夕方にはアクロポリスの丘を望むことのできるリカヴィトスの丘に登った。古代文明の遺物の多くは大英博物館などに移されているのだが、文明を生んだ地勢、気候、民族などを知らないとその文明を理解したことにはならないと思う。できることなら遺物を元に戻し、遺跡の修復を図ってもらいたいものだ。

夜になって、ロンドンで泊まり合わせた友人達のホテルを訪ねた。ロンドンで泊まり合わせた時に当地ではオモニア広場の近くにあるホテルに泊まることを確認しておいたのだ。同じトゥアーに参加している女子学生達と観光をともにして、旅行を満喫している様子であった。

リカヴィトスの丘に登った時にトルコはイスタンブル周辺が大雪だということを聞き、予定を変更してユーゴスラヴィアに向かおうかとも考えたが、アヤソフィア(ギリシア語名アギア・ソフィア)を見たいという思いを断ち難く、結局イスタンブルに向かう夜行列車に乗ることにした。列車が出発するラリッサ駅は、ペロポネソス駅と同じ場所にあるにも関わらず、なぜか駅名が異なっている。また、列車の行き先はコンスタンディヌーポリと、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の都であった時の都市名が表示されており、ギリシャ人の彼の地に対する未練が感じられた。この区間の交通が不便なのも、ギリシャ、トルコ間の不仲が原因かもしれない。列車は最初から遅れ気味であり、トウマス・クックの鉄道時刻表では長時間停車することになっていたテッサロニキ(サロニカ)での途中降車は断念せざるを得なかった。

翌日になると列車は思うように進まなくなり、宵になってアレクサンドルーポリ(アレクサンドルポリス)駅で降ろされることになってしまった。壮年のブリティッシュ、若いイタリア人、日本人学生二人という4人の男性とともに駅の近くにあるホテルのドミトリ(合部屋)に泊まり、復旧を祈りながらベッドに入った。ベッドの数が1つ足りなかったため、イタリア人は持参のシュラフザック(寝袋)に入って寝ることになった。ギリシャでは移動日を含めて3日間を費やしたことになる。

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■トルコ(テュルキイェ)方面の天候が気にかかるが、夜が明けても列車の運行の見通しは立たず、昼頃に通りかかったバスに乗り換えることにした。このバスはアテネ−イスタンブル間を1日で結ぶもので、通常1日半を要する列車と比べて所要時間は短い。また、出入国手続に際してはそれぞれ車外に出てイミグレイションに並ぶため国境を越えているという実感が高まり、趣が感じられた。しかし、休憩所などでの停車時間は長く、ケシャンでは2時間も停車していたが、それがイスタンブル方面の道路事情によるものなのか、あるいは単に通常の休憩なのか、全く説明がなかった。また、夜になると車内は急速に寒くなっていき、外も一面雪景色となった。

イスタンブル到着は、当初の予定よりも1日近く遅れ、深夜2時半頃であった。雪が降りしきる中、タクシーに乗って空室のあるホテルを探してもらい、アレクサンドルーポリに留まったブリティッシュを除く前日の同宿者4人がドミトリのベッドに入った時には4時頃になっていた。アクサライ近くの安宿街ラーレリにあるホテルだ。イタリア人は東南アジアへの航空券を買うために当地に来たのだと言っていた。

イスタンブルは、欧亜の両大陸に跨るほかに例を見ない交通の要衝であり、ガラタ橋の近くまで来るとボアジチ(ボスポラス)海峡を挟んでアナトリア半島(小アジア半島)が間近に見える。正にここからアジアが始まっているのだ。また、ギリシャ人の植民都市ビザンティオン(ビザンティウム)、東ローマ帝国の都コンスタンディヌーポリ(コンスタンティーノポリス)、オスマン朝の首都イスタンブルと、時とともに支配民族、機能、名称が変わり、幾多の歴史を経験してきた町でもある。ヨーロッパの古代から中世への移行に際して大きな役割を担った東ローマ帝国がコンスタンディヌーポリ陥落によって滅亡したのは、ヨーロッパが中世と決別する端緒となる英仏百年戦争終結と同じ1453年のことだ。キリスト教世界から見れば、時に西ヨーロッパ諸国との対立もあったとは言え、中世ヨーロッパの発展を見守ってきた町だと言ってよいのではないだろうか。現在は、イスラーム教国でありながら西洋を模範とした近代化を進め、日本とも同系民族の国という意識が見られるトルコで経済の中心地として機能しており、同国最大の人口を擁する。

小雪の舞う市街を、雪を踏みしめながら見物した。スルタンアフメット・ジャミイ(通称はブルー・モスク)のほかシュレイマニエ・ジャミイなど多くのモスクは円天井のドームと周囲の尖塔の調和が見事に取れている。アヤソフィアはギリシャ正教の総本山として建てられたものだが、東ローマ帝国の滅亡後はモスクとして使われ、現在は博物館となっている。外観が茶褐色であることが特徴だが、スルタンアフメット・ジャミイと比べるとむしろ見劣りしてしまう。それにも増して、大聖堂という由緒を持つにも関わらず、ほかのモスクと同じように4本の尖塔に囲まれ、それらとは異なる自らの出自を語ろうとしてくれないことにある種のショックを受けた。見事にイスラーム教文化に同化されてしまったことに寂寥感を抱いてよいものなのか、あるいは歴史の理と悟るべきなのか、しばらく考え込んでしまったほどだ。ただ、モスクとしての役割から解放された現在、内部には聖母子のモザイク画などが復元されており、ステンド・グラスとともに見応えがあった。

前後するが、グランド・バザールからの帰路、詐欺に騙されるという失態を演じてしまった。まず、男性に「チェインジ・マネー」と闇両替を持ちかけられ、人通りの少ないモスクの敷地内に連れていかれた。トルコでの闇両替にはあまりメリットはなく、社会勉強のつもりであった。後で考えると、この時に提示された交換レイトがあまりにもよいことを警戒するべきであった。USドル(アメリカ合衆国ドル、米国ドル)の持ち合わせがあまり多くない旨を伝えると、日本の紙幣を見せてほしいと言われた。既に1万円札を持っていることを知られていたため、仕方なくそれに応じた。ちょうどその時、建物の陰から別の男性が現れ、警察官だと知らされた。正に違法行為の最中であるため、気が動転してしまった。そして、警察官に気付かれないように小さく折り畳んで返された1万円札を急いでポケットに隠した。折り畳む動作は少し不自然であり、返された紙幣の手触りは元の1万円札とは異なっているように感じられたが、警察官の関心が同宿の男子学生の所持金に移った時も1万円札を確認しようという気持ちは起こらなかった。しばらくすると警察官は闇両替商と話をしながら立ち去っていったため、安堵しながらそれを見送った。その後、やおらポケットに手を入れて紙幣を取り出してみると、出てきたのは何と1,000トルコ・リラ札、円に換算して200円程度の紙幣であった。男子学生も1万トルコ・リラ札を2枚抜き取られていることが分かった。急いで二人を追ったが、既に人影はなかった。もちろん、第2の男性は警察官などではなく、最初の男性の仲間であったのだ。あまりにも手際のよい所業に茫然となってしまった。ホテルに戻る途中でも別の男性に闇両替を持ちかけられ、この種の詐欺が横行していることを知らされた。

翌日は、大雪になっていた。トプカプ宮殿を見物してオスマン朝の栄光に思いを馳せた後、オーストリアのウィーンまでの切符を買うためにシルケジ駅に向かった。危惧していた通り列車は運休であったが、客引きからバスを利用することができると聞き、旅行代理店に直行した。ミュンヘン行バスを列車と比べて割安な料金で予約した後、市内バスに乗ってバス・ターミナルのトプカプ・ガラジュに連れていってもらった。しかし、大雪のためバスも不通になり、近くにあるホテルに泊まる羽目になった。イスタンブル到着が予定よりも遅れたため既にベオグラード観光を断念していたが、この時点で、ナポリで別れた友人と約束した日時にウィーンに到着することさえできなくなってしまった。後で耳にした話によると、当日もバスは運行されており、乗車することができなかったのはオウヴァー・ブッキング(座席数以上の予約引受)のためかもしれないという。シルケジ駅で約束してもらったはずのバス料金のディスカウント(値引き)が履行されなかったこともあり、旅行代理店に対する不信感が高まった。

夜が明けると、雪は小降りになっていた。同行のトルコ人と200トルコ・リラの朝食を済ませるとトプカプ・ガラジュに戻ったが、バスが出発したのは午後になってからであった。乗客の大半はトルコ人で、そのほかに西欧人がいた。日本人が乗車することは少ないようで、独特の赤いパスポートが珍しがられた。しばらく道路は渋滞していたが、郊外に出ると積雪はあまり多くなく、バスは快調に走り始めた。運転は二人交代で行われていた。当地ではあまりよい思い出は残らなかったが、気候のよい時期に再訪してみたいという思いは強い。

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■東ヨーロッパ諸国は、西ヨーロッパ諸国とバルカン半島南部のギリシャなどを遮るように位置している。

ブルガリアは、フランスとともに、日本でヴィザを取得しておいた国だ。その国境に到着したのは深夜であった。まず、バスを降りてトルコ出国手続を行ったが、イミグレイションには長い列ができており、寒さに震えながら1時間半も待たされることになった。トルコ人はマナーが悪く、多くの人が割り込みをしていた。半ば割り込みに成功した人が新たに割り込もうとしてくる人を非難することによって自分は列に残ろうとしている様は、見ていて滑稽であった。一方、ブルガリアの入出国、ユーゴスラヴィアの入国に際しては入国審査官がバスに乗り込んできたため、出入国手続は簡単に終わった。首都ソフィアなどを足早に通り過ぎていった。

ユーゴスラヴィアには、1つの国家、2つの文字、3つの宗教、4つの言語、5つの民族、6つの共和国、7か国との国境があると言われており、民族の多様性からモザイク国家と呼ばれる。セルビア共和国に属する首都ベオグラードでは小気味よく並んでいる赤い屋根の家々が印象的であった。次いで、クロアティア共和国、スロヴェニア共和国と、ユーゴスラヴィア連邦内の共和国を進んでいった。目の前の町を素通りしなければならないことは非常に残念で、東ヨーロッパ諸国はいつか訪ねてみたいという思いが募った。そのうちに2回目の夜を迎えた。ギリシャ出国以来5日間が経っていた。

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■オーストリア(エースターライヒ)へは、仮眠をしている間に入国してしまっていた。10番目の訪問国となる。東西ヨーロッパの接点だと考えていただけに、出入国手続を行わなくてもよいということは意外であった。列車への乗り換えとなるグラーツへは、深夜に到着した。バスには35時間も乗っていたことになる。そして、翌朝になってようやくウィーン南駅に到着した。友人との約束よりもちょうど1日遅れていた。しかし、落ち合うことができなかった場合は翌日の同時刻に同じ場所で再び待ち合わせることにしていたため、1時間後には9日振りに友人と再会することができた。グラーツから乗った列車は本来はイスタンブルからの連絡があるもので、当日はブルガリアから運行されていたのではないかと思う。グラーツに向かっていたバスの中では、トウマス・クックの鉄道時刻表を何回も見返しながら、並走していると思われる列車の位置に思いを巡らせた。最終的にはバスがグラーツに3時間半程度先着し列車に乗り換えることができたが、友人と再会することができるかどうかの瀬戸際であったわけだ。

友人は、ナポリで別れた後、ミラノからヴェネツィア(ヴェニス)と観光していたが、途中で風邪を引いて寝込んでいたという。集合日までの残る4日間は、ドイツ系言語圏を中心に観光することにした。

当地でも残雪が見られたが、イスタンブルと比べるとかなり暖かく感じられた。トラム(路面電車)に乗って旧市街に入り、ハプスブルク朝の権勢を伝える王宮ホーフブルク、美術史美術館(クンストヒストリシェス・ムゼウム)、シュテファン大聖堂などを見物した。その後、シェーンブルン宮殿に向かった。落ち着いた雰囲気の中に気品が感じられた。

当地では、専ら友人に案内してもらうことになった。先着していた友人の方が首都の町並みに対する知識がはるかに豊富になっていたためだ。同じ条件の下にあったバルセロナと同様に気軽に市内見物をすることができた。しかし、残念なことに、両市の町並みや交通機関に対する印象はほかの町よりも希薄なものになっている。これは、主体的に市街を歩いたり列車に乗ったりすることが少なかったためであろう。旅では苦労して歩き回ってこそ思い出が鮮明に脳裡に焼き付けられるのだという思いを強くしている。

長い旅も大詰めを迎え、ウィーン西駅からトゥアーの集合地の西ドイツに向かった。

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概要

■ベネルクスと総称され、ルクセンブルクとともに1つの政治・経済圏に含められるベルギーとネーデルラント(オランダ)では、西ドイツ南部の観光の後、残った1日を利用してそれぞれの首都を観光した。両市ともあいにくの雨であったが、暖かいことはありがたかった。

ベルギーのブリュッセル(ブラッセル)は、EC(ヨーロッパ共同体)の本部がある町だが、大都市ではなく、簡単に市内見物をすることができる。まず、グラン・プラスで市庁舎、王の家(メゾン・デュ・ロワ)、ブラバン侯の館、ギルド・ハウスなどを見物し、華やかであったフランドル(フランダース)文化の一端を垣間見た。その近くにある男児像(小便小僧、マンネケン・ピス)は非常にかわいらしいものであった。その後、当夜西ドイツのケルンに滞在する友人をブリュッセル中央駅に見送り、三度(みたび)別行動になる。王宮やサン・ミシェル大聖堂などを見物しながらブリュッセル北駅まで歩いた。ブリュッセル公園は手入れが行き届いていた。道路標識はフラマン語(ネーデルラント語)とワロン語(フランス語)の2か国語で併記されており、複数民族国家の問題点が窺われた。午後になって、アムステルダムに向かう列車に乗った。

ネーデルラントのアムステルダムへは、夕方になって到着した。ベネルクス域内ではパスポート・チェックがなく、国境を越えたという意識が生じないほど移動が楽だ。東京駅のモデルとなったアムステルダム中央駅は風格が感じられた。王宮のほかに特別な観光名所は少ないが、落ち着いた感じの黒褐色の家が運河に囲まれて並んでおり、独特の町並みが形成されていた。

出発

連合王国

フランス

スペイン

イタリア

ギリシャ

トルコ
抜粋

東ヨーロッパ

オーストリア

ベネルクス

西ドイツ

回顧

概要

■西ドイツ(ドイツ連邦共和国)では、バイエルン州のフュッセンとアウクスブルクを観光し、前述したようにベルギーとネーデルラントに立ち寄った後、特別市のハンブルクとニーダーザクセン州都ハノーファーを経由してヘッセン州のフランクフルト(正式名称はフランクフルト・アム・マイン)に向かった。トゥアーの集合地だ。ウィーンを出立してから3日間連続して夜行列車に乗ることになった。

フュッセンに到着すると、バスに乗ってノイシュヴァンシュタイン城に直行した。アルプスに近いこともあってイスタンブルに劣らない大雪になっていたが、山の中腹にある城を目指して歩いている途中で眼下に広がった雪景色は素晴らしい眺めであった。ノイシュヴァンシュタイン城は白鳥城の名の通り白く美しい城で、しばらく見とれていた。悲劇的な最期を遂げたバイエルン(バヴァリア)王ルートヴィヒ2世の情熱が感じられた。本当はさらに高い山に登ってノイシュヴァンシュタイン城を見下ろすことのできる場所に立ちたかったのだが、大雪のため断念した。ホーエンシュヴァンガウ城にも立ち寄った後、次第に小さくなっていくノイシュヴァンシュタイン城を振り返りながら当地を出立した。

夕方になってアウクスブルクに到着し、市庁舎やフッガー屋敷など中世を偲ばせる町並みを楽しんだ。ロマンティック街道にあるこれらの町では、観光の目玉となる名所もさることながら、町並みがよく保存されていることに感心させられた。

アムステルダムからは、アーメルスフォールト駅で乗り換えてハンブルク中央駅に到着した。ハンブルクではアルスター湖を見物したいと考えていたが、深夜である上に雨が降っていたため断念し、駅前を散策しただけで、連合王国の現王室の出身地ハノーファーに向かうことにした。

旅行中、荷物を少しでも軽くするため、ガイドブックのうち訪問を終えたか訪問を予定していない町の解説を順に破り捨てており、ハノーファーに到着した時点で手許に解説の残っている町はフランクフルトだけであった。そのため、当地の案内を捨ててしまったと後悔した。しかし、帰国後に分かったことだが、実際には最初から当地の解説は掲載されていなかったようだ。必見の観光名所は少なく、外国人旅行者を見かけることも少ない静かな町だが、かえってゆっくりとくつろぐことができた。小雨が降る中、市庁舎やマルクト教会などを見物した。また、東ドイツ(ドイツ民主共和国)との国境近くまで来たことになる。

午後になって、フランクフルト中央駅で友人と待ち合わせ、Sバーン(都市鉄道)に乗って中心部とフランクフルト・ライン・マイン空港の中間地点にある集合場所のアラベラ・ホテルに向かった。ロンドンで別れたトゥアーの参加者とも再会することができた。そのうちの一人は、南はマドリードから北はスウェーデンの首都ストックホルムまで旅行したと言っていた。ホテルはSバーンの駅から遠く立地に不満が残ったが、ロンドン1泊目以来の中級ホテルに無条件で泊まれることは帰国を控えて旅の疲れを癒すためにはありがたかった。パウルス教会やゲーテの家の見物、日本資本の百貨店でのウィンドウ・ショッピングなどをほどほどに済ませると、早々に帰国の準備に取り掛かった。ただ、ウィーンでドナウ(ダニューヴ)川を見逃したのに続いて、当地でライン川を見物することができなかったのは、残念であった。

翌日、Sバーンに乗ってフランクフルト空港駅に向かい、フランクフルト・ライン・マイン空港を出立した。そして、モスクワのシェレメチェヴォ第2空港でトランスファー(乗り換え)を行った後、機中で1泊し、フランクフルト・ライン・マイン空港を離陸してから15時間半程度で成田空港に到着した。シェレメチェヴォ第2空港と成田空港では、着陸時に乗客から拍手が起こった。これは、フライトの安全性を疑っていることを意味し、航空会社に対する侮辱となるため、マナー違反であろう。

出発

連合王国

フランス

スペイン

イタリア

ギリシャ

トルコ
抜粋

東ヨーロッパ

オーストリア

ベネルクス

西ドイツ

回顧

概要

■以上が、旅の概要だ。西はセビージャから東はイスタンブルまで旅行したことになる。旅程はほぼ予定通りであった。4週間という長期間のトゥアーに参加したのは、西ヨーロッパ諸国だけではなく周辺の文化も見てみたいという思いが強かったためだ。その意味では、モロッコ、東ヨーロッパ諸国、ベルリンなどを旅行することができなかったことは残念であった。しかし、スペインのアンダルシア州、ギリシャ、イスタンブルなどでは、ヨーロッパ中心部では見ることのできない文化を堪能することができたように思う。アンダルシア州やローマでは物乞いにも出会った。これらの先進国に物乞いが目につくほど存在しているということは予想外であった。

当初はパッケイジ・トゥアーに参加することも考えていたが、自由旅行を決断してよかったと思う。友人と二人で旅行し途中で数回の別行動をすることになったが、これは理想的な旅の形式であったのではないだろうか。

夜行列車では、ユーレイル・パスだけで乗車することのできるコンパートメント(向かい合った座席ごとに区切られた車室)を多用した。コンパートメント内のリクライニング・チェアーをすべて手前に引き出すと向かい合った座席の隙間がなくなり、ドアを閉めると小さな部屋が出来上がる。その居心地のよさは日本の座席とは比べようもなく、十分にくつろぐことができた。バルセロナからピサまで18時間半程度を、アテネからアレクサンドルーポリまで20時間半程度を要するなど長時間乗車が多かったが、特に苦痛は感じなかった。

列車に乗っていると、様々な人と出会うことができる。マドリードに向かう列車では、年配のフランス人夫妻、スペインを2か月にわたって旅行するという日本人女子学生と乗り合わせ、スペインの話題などで話が弾んだ。スペインでは、英語は通じなかったが、地元の人と簡単な挨拶を交したり菓子の交換をしたりした。ブリンディシに向かう列車では、徴兵で召集される若い男性と親しくなった。アテネに向かう列車では、日本人学生の男女数人と乗り合わせ、トランプなどに興じた。このように、列車は単に移動手段であるに留まらず、旅を一層楽しくする場を提供してくれたように思う。市内移動のための地下鉄路線網も充実していた。

1日平均の移動は、移動しなかった日を含め、時間にして9時間半程度、距離にして約500kmという強行日程であった。そのため、旅のハプニングは、以下のように時間に関係することが多い。

ロンドンでは、ケンブリッジ観光を間際になってから決め、地下鉄(アンダーグラウンド、テューブ)に乗ってリヴァプール・ストリート駅まで急いだ後、列車に駆け込み乗車をすることになった。

パリでは、マドリードに向かう列車の出発時刻が迫っていたため、ルーヴル美術館を見物する時間をほとんど取ることができなかった。結局、ギリシャで発掘された「ミロのアプロディーテー(ヴィーナス)」とレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」しか鑑賞することができなかった。当地に滞在していた友人と待ち合わせていたが、申し訳ないことをしてしまった。また、オーステルリッツ駅の切符売場ではなかなか切符を売ってもらうことができず苛立ったが、外国ではほかの作業を行っている人に声をかけても仕方がないのだと教えられた。

セビージャからグラナダに向かう途中では、深夜の乗り換えとなるリナレス・バエサ駅に到着してから目が覚め、乗換駅だと確認することができないまま、既に動き始めていた列車から飛び降りる羽目になった。これは、同じコンパートメントに乗り合わせた女性が連れていた乳児がなかなか泣きやまず、出発後しばらく寝つかれなかったことが災いしたようだ。

イタリアでは、列車の遅れのため苦労させられた。ナポリではポンペイ遺跡の見物をすることがほとんどできなかったほか、ブリンディシではパトラに向かう船の乗船手続所を走り回って探すことになってしまった。若いイラン人男性に教えてもらって乗船することはできたが、パスポートにイタリアの出国スタンプが押されないままであった。そのため、船内では無事にギリシャに入国することができるかどうか不安を抱くことになった。

ブルガリアでは、有料であることに気付かないままトイレットに入ってしまい、現地通貨の持ち合わせがなくて迷惑をかけた。

ウィーンからフュッセンに向かう途中では、ミュンヘン中央駅とカウフボイレン駅での乗換時間がほとんどなく、プラットフォームを走り回った。

ブリュッセルでは、ブリュッセル北駅での降車を見合わせた後、降車しようと考えていたブリュッセル中央駅を列車が通過したため、降り損なってしまったかと慌てた。しかし、この列車はブリュッセル南駅に停車したため、事なきを得た。

このようなハプニングは、自由旅行とは切っても切れない関係にあるものであろう。そして、今ではそれぞれが楽しい思い出になっている。

このようにハプニングもあったが、予想していたよりは気軽に旅行することができた。これは、日本と比べて物価が安かったことや旅行者のための施設が整備されていたことなどが影響しているように思う。現地での1日平均の旅行費用(土産費と詐欺による被害を除く)は約2,700円であった。食費を節約するためにハンバーガー・ショップなどもかなり利用した。一方、旅行中に円高が進行していたこともあり、USドルなどの未使用のトラヴェラーズ・チェックの再両替に伴う手数料と為替差損は合わせて1万円近くに達した。ホテルはロンドンを除いて現地に到着してから簡単に探すことができ、旅行費用のうち一人当たり宿泊料金についても最高でロンドンの約3,500円(14ポンド)、最低でアレクサンドルーポリの約620円(500ドラクマ)と、リーズナブルであった。治安に対しては特に不安を感じなかったが、アムステルダムでは強盗に襲われたという日本人男子学生と出会った。旅に出たらある程度の用心は必要だということであろう。

ヨーロッパの様々な文化を堪能することができたこと、予約に拘束されず気の向くままに旅行することができたこと、地元の人とも親交を温めることができたこと、いくつかのハプニングにもそれなりに対処し得たことなどはよい経験になったと考えている。時に感じた不安を和らげてくれた「ノウ・プロブレム(問題ない)」という言葉は、最も印象に残っている言葉だ。最初のうちは、友人との間に旅の主導権の取り合いがあった。パリのホテルでは、どちらも自分が共同バスの利用方法を尋ねにいくと主張して喧嘩になるということがあった。しかし、旅を進めていくに従って、友人の語学力に一目置くようになる一方、逆にプランニング力を評価してもらうようになるなど、次第に相手の得意な分野に対して相互に敬意を表するようになっていったようだ。フランクフルトでは帰国が間近に迫っていることが残念でならなかったが、それもこの旅が気に入ったためであろう。

出発

連合王国

フランス

スペイン

イタリア

ギリシャ

トルコ
抜粋

東ヨーロッパ

オーストリア

ベネルクス

西ドイツ

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
21日13:00 空路 17:00 ソヴィエト連邦 モスクワ
19:00 空路 19:45 連合王国 ロンドン
22日09:35 鉄路 11:00 ケンブリッジ
14:20 鉄路 15:40 ロンドン
23日20:40 鉄路 21:55 ニューヘイヴン
22:55 水路 24日03:30 フランス ディエップ
04:30 鉄路 06:25 パリ
25日12:00 鉄路 13:00 ヴェルサイユ
15:00 鉄路 16:00 パリ
17:45 鉄路 26日10:00 スペイン マドリード
27日09:20 鉄路 10:45 トレド
13:20 鉄路 14:50 マドリード
23:00 鉄路 28日05:45 コルドバ
13:55 鉄路 15:55 セビージャ
23:00 鉄路 1日03:15 リナレス・バエサ
03:20 鉄路 08:00 グラナダ
15:40 鉄路 2日09:10 バルセロナ
19:50 鉄路 22:10 フランス セルベール
3日00:00 鉄路 14:20 イタリア ピサ
4日07:50 鉄路 08:55 フィレンツェ
5日06:50 鉄路 10:15 ローマ
6日07:15 鉄路 09:45 ナポリ
14:20 鉄路 21:25 ブリンディシ
22:25 水路 7日17:30 ギリシャ パトラ
18:30 鉄路 22:40 アテネ
8日23:10 鉄路 9日19:40 アレクサンドルーポリ
10日12:00 道路 11日02:30 トルコ イスタンブル
13日15:00 道路 15日01:00 オーストリア グラーツ
04:30 鉄路 07:20 ウィーン
16日00:15 鉄路 07:05 西ドイツ ミュンヘン
07:10 鉄路 07:55 カウフボイレン
08:00 鉄路 09:00 フュッセン
15:15 鉄路 16:35 カウフボイレン
16:40 鉄路 17:10 アウクスブルク
21:55 鉄路 17日08:05 ベルギー ブリュッセル
13:20 鉄路 16:10 ネーデルラント アムステルダム
20:35 鉄路 21:10 アーメルスフォールト
21:40 鉄路 18日03:15 西ドイツ ハンブルク
05:05 鉄路 07:35 ハノーファー
10:05 鉄路 13:25 フランクフルト
19日11:20 空路 16:40 ソヴィエト連邦 モスクワ
19:05 空路 20日10:40 日本 東京
道路 :道路、 鉄路 :鉄路、 水路 :水路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
連合王国 ロンドン Royal National 1
Tudor House Hotel GB.£ 14 1
フランス パリ Hotel St. Michel FR.F 101 1
スペイン マドリード Hostal Soledad ES.P 900 1
イタリア ピサ 不詳 IT.L 16,000 1
フィレンツェ 不詳 IT.L 15,500 1
ローマ Pensione Magenta IT.L 15,000 1
ギリシャ アテネ Delta Hotel GR.D 650 1
アレクサンドルーポリ 不詳 GR.D 500 1
トルコ イスタンブル Hotel Buyuk Keban TR.L 6,500 1
TR.L 5,000 1
不詳 TR.L 3,500 1
西ドイツ フランクフルト Arabella Hotel 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
US.$ 157円 0 3
内訳
0 0 0
連合王国 GB.£ 251円 1.38 4.55
内訳
26.70 0 1.20
フランス FR.F 26.4円 0 95.80
内訳
150 0 28
スペイン ES.P 1.30円 572 3,972
内訳
2,760 0 1,405
イタリア IT.L 0.127円 1,450 43,100
内訳
17,200 0 8,350
ギリシャ GR.D 1.24円 134 865
内訳
2,270 0 200
トルコ TR.L 0.204円 200 8,660
内訳
40,250 0 50
オーストリア AT.S 12.4円 13.50 106
内訳
0 0 30
西ドイツ DE.M 89.1円 1.95 37.89
内訳
0 0 5.50
ベルギー BE.F 4.35円 53 126
内訳
0 0 0
ネーデルラント NL.G 86.0円 0.50 8.50
内訳
0 0 0
ソヴィエト連邦 SU.R 222円 0 0 0 0 0
日本 JP.\ 1.00円 0 0 0 0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 2,098 23,598 27,453 0 5,052

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
0 0 3
内訳
連合王国 14
内訳
0 47.83 12,005 3.0 4,002
フランス 101
内訳
0 374.80 10,349 2.0 5,174
スペイン 900
内訳
0 9,609 12,516 5.0 2,503
イタリア 46,500
内訳
84,800 201,400 14,823 4.0 3,706
ギリシャ 1,150
内訳
0 4,619 5,725 4.0 1,431
トルコ 15,000
内訳
0 64,160 13,076 3.5 3,736
オーストリア 0 0 149.50 1,859 1.6 1,162
西ドイツ 0 63.50 108.84 4,039 2.8 1,442
ベルギー 0 0 179 778 0.5 1,557
ネーデルラント 0 0 9 774 0.5 1,548
ソヴィエト連邦 0 6.62 6.62 0 0.1 0
日本 0 0 0 0 1.0 0
通貨計 17,742 17,904 75,942 28.0 2,712
(注)円換算と日平均は他国通貨での支払いを含み、土産費を除く。

出発

連合王国

フランス

スペイン

イタリア

ギリシャ

トルコ
抜粋

東ヨーロッパ

オーストリア

ベネルクス

西ドイツ

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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