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韓国

出発

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釜山

扶余

ソウル
慶州

釜山2

回顧

概要

■釜山(プサン)では、日本のテレヴィジョン放送を受信することができるという。日本、特に西日本からは非常に近い町なのだ。港の前を走っている道路の両側には近代的なビルディングが並んでいる様が目につく。看板がハングル(コリア文字)で書かれていなかったならば異国の町にいるということを感じないかもしれない。当地には滞在しなかったが、ソウルほどの大都市ではないこの近代都市を、韓国旅行のゲイトウェイとして往路、帰路とも大いに利用した。

一方、ハングルについては、ガイドブックを見て少し勉強したぐらいでは読み方を覚えることさえできなかった。読むことができないということは、漢字ではよく知っている地名や旅には必須の「旅館(ヨグァン)」というような言葉でさえすぐには分からないということを意味し、ヨーロッパや中国ではなかった不安感を覚えることになる。

まず、大田までの当夜のムグンファ号(特別急行列車)の切符を買うために、関釜フェリーでコリア語を教えてもらった男子学生とともに地下鉄に乗って釜山駅に向かった。切符売場には少し列ができていたが、中国旅行の際と比べるとはるかにスムーズに切符を買うことができた。その後、セマウル号(超特別急行列車)に乗ってソウルに向かうという男子学生と駅で別れ、荷物をロッカーに預けて市街に出かけた。ヨーロッパ旅行の際には観光名所にまで大きなバックパックを持ち歩いていたが、旅慣れてくると、どのようにして荷物を軽くするかということを最初に考えるようになるようだ。

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太宗台

当地で最も印象に残っている観光名所は太宗台(テジョンデ)だ。最初に見物したチャガルチ市場(シジャン)で活気に圧倒された後、バスに乗って向かうことにした。観光案内所が休館であったため市内地図を入手することはできなかったが、通行人に尋ねて何とか太宗台に向かうバスに乗ることができた。中国旅行の際と同様に筆談を試みたが、漢字を解さない人が多いため、ガイドブックに観光名所の名前がハングルで併記されていない場合は意思の疎通に苦労する。太宗台は、コリア半島の東南端に位置する釜山のさらに東南端にある。遠くポルトガルから連なるユーラシア大陸と日本の接点だと言ってよいであろう。周回道路を歩いていくと海が見渡せるようになり、さらに進むと断崖絶壁が待ち受けている。日曜日に当たっていたこともあり、多くの人が繰り出していた。

手頃な岩の上に座り、しばらく瞑想にふけった。コリアは、歴史上、中国、インド、ヘレニズム(ギリシャ)など実に多くの大陸文明を日本に伝えるという役割を果たしてきた。その意味で、日本の師と言うことができないまでも先輩格に当たるわけだ。また、高麗がモンゴル軍の一隊として参加した13世紀の元日戦争(元寇、モンゴル襲来、文永・弘安の役)と16世紀の壬辰・丁酉の和乱(豊臣秀吉がコリア出兵をした文禄・慶長の役)で戦火を交じえたが、それ以外の時期は今世紀前半まで長らく友好関係を維持していたということも忘れてはならないであろう。対馬海峡は、日本とコリアの交流のために何ら障害ではなかったのだ。

夕方から竜頭山公園にある釜山タワーに上り、次第に夜の帳が下りていく市街を見下ろした。次いで、新市街の西面(ソミョン)に出かけた。活気に満ちた奥行きのある町だという印象を受けた。

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概要

■扶余(プヨ、泗ン)は、百済(ペクチェ、くだら)最後の都が置かれていた町だ。しかし、鉄道が通じていないため、大田でバスに乗り換えることになる。大田駅へは深夜の到着となり、しばらく駅で時間を費やした後、忠清南道庁舎や市庁舎などを見物しながら西大田駅の近くにあるバス・ターミナルに向かった。そして、扶余に向かうバスに乗った時には辺りはすっかり明るくなっていた。田舎道を走り、論山(ノンサン)を経由して1時間半程度で到着した。

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五層石塔

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石仏座像

古都であるにも関わらず、国の滅亡から1,300年を経て、外見は普通の田舎町と変わらないものになっていた。メイン・ストリートでさえ道路に水溜りができているのだ。北側のロウタリ近くにある旅館にチェックインすると、市内見物に出かけた。最初は不安であったが、市街を歩いていると大都市よりもかえって気楽に過ごすことができることに気付いた。町を守っているのは、釜山などのように豊臣秀吉による日本軍を撃退した李舜臣将軍ではなく、新羅(シルラ、しらぎ)軍と戦った階伯将軍像だ。国宝の五層石塔や愛らしい石仏座像のある定林寺址(ジョンリムサジ)、百済滅亡の悲話伝説を持つ王宮跡の扶蘇山(プソサン)、水北亭、離宮跡のある宮南池(クンナムジ)などを見物したが、百済の時代を思わせるのどかな雰囲気があちらこちらで感じられた。扶蘇山から白馬江(ペンマガン、白村江)を見下ろしていると、百済の時代にタイム・スリップしてしまったように思われてくるほどだ。韓国を1か月にわたって旅行しているという若い日本人男性も、慶州とともに当地を景勝地として絶賛していた。

百済と友好関係にあった日本は、7世紀の百済の滅亡に際してその復興支援のために出兵して失敗した後、百済の仇敵であった新羅とは疎遠な仲であったという。歴史的事情が民族的感情に及ぼす影響は奇妙なもので、現在でも新羅の都であった慶州よりも扶余に親近感を抱いてしまう。アメリカ合衆国(米国)の一部では、アフリカ諸国の外交官や留学生に対しては抱かない差別感情を、アフリカ系アメリカ人(アメリカ合衆国国民)に対してはその貧富に関わりなく抱くことがあるそうだ。かつての奴隷の子孫であるためだという。日本でも、第二次世界大戦までの併合が念頭にあってコリアを格下に見ているとしたら、日本が行った行為についての理解が不十分だと言わざるを得ないのではないだろうか。これは、併合時代にコリアにおける収支が赤字であったこととは別の問題だ。日本とコリアの相互理解は、歴史の再咀嚼から始めたいものだ。

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市街(奥は国立中央博物館)

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景福宮

■ソウルは、漢江(ハンガン)の北側に位置することに由来する漢陽(ハニャン)から漢城(ハンソン)に改称され、日本への併合時代には京城(キョンソン)とされた。「京城」という言葉は留めるべきではないという認識のようだが、現在でも京釜線のように名残がある。

前日に予約したバスに乗って移動し、竜山(ヨンサン)バス・ターミナルに到着した。昌徳宮(チャンドッグン)の近くにある旅館にチェックインすると、すぐに市街に出かけた。大韓旅行社のオフィスで翌日の板門店トゥアーのリコンファーム(予約再確認)を行ったり、中心部から離れた場所にある清涼里(チョンニャンニ)駅で慶州までの翌日の夜行列車を予約したり、板門店トゥアーに参加するための革靴を買ったりするなどの用事のために忙しかったためだ。観光に費やす時間は犠牲にせざるを得なかったが、徳寿宮(トクスグン)、光化門(クァンファムン)、大日本帝国朝鮮総督府の建物が使われている国立中央博物館などを見物することができた。李朝の正宮であった景福宮(キョンボッグン)は若い日本人男性とともに見物したが、壮大なものであった。また、民族衣装のチマ・チョゴリを着た女性を見かけた。ただ、ほかの故宮の多くは扶余の国立博物館に続いて定休日に当たってしまったため、見物することができなかった。

人口1,000万人を擁し、オリンピックを成功させたばかりのソウルは、予想していたよりもはるかに近代的な都市であった。市街には高層ビルディングが林立し、地下鉄の整備も進んでいる。また、明洞(ミョンドン)では日本の繁華街と全く変わらない洗練された店が軒を連ねていた。日本と事情が異なっているのは屋台の数が多いことぐらいであろうか。低価格志向の東大門市場(トンデムン・シジャン)にも足を運んだが、とにかくスケイルが大きく、また活気に溢れていた。

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望拝壇

板門店(パンムンジョム)訪問は、特定のトゥアーに参加することが条件になっており、一般国民の参加は許可されていない。参加したトゥアーは日本で予約しておいたもので、多くの日本人のほかヨーロピアンなどが参加していた。ガイドは英語で説明するチーフの男性と日本語で説明する女性の二人が担当しており、バスが出発すると板門店の歴史的経緯や現状、トゥアーの概要や規則などを交互に説明していった。フィリピン軍参戦記念碑などコリア戦争に関わる施設などを見物しているうちに緊張感を覚えてきた。そのうちに、バスは臨津江(イムジンガン)に架かる自由の橋を渡る。そこから先は一般国民の立ち入りが禁止されており、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)にいる離散家族のことを思ってか多くの人が集まっていた。片側通行になっている橋の右手には、コリア戦争時に破壊されたという鉄道橋跡が無惨な姿を晒している。非武装地帯に入って、まず、北朝鮮が造ったとされる南侵第3トンネルを見物した。軍事分界線のすぐ手前まで潜ったことになるわけで、その先は北朝鮮側に繋がっているのだと考えると否応なく緊張感が高まる。次いで、アドヴァンス・キャンプ(前方基地)でブリーフィングを受け、当地で何が起こっても責任を問わないと書面で誓約してから待望の板門店見物となった。

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自由の家

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軍事停戦委員会本会議場(奥は北朝鮮の板門閣)

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帰らざる橋

当地には軍事分界線上にいくつかの会議場が配置されており、その中央にあるのが軍事停戦委員会本会議場、南北軍が軍事分界線を監視するために建てたのがそれぞれ自由の家、板門閣だ。軍事停戦委員会本会議場に大勢で入場することはできないため、トゥアー参加者は2つのグループに分けられ、先に自由の家の展望台に上ることになった。展望台からは目の前に板門閣をはっきりと見渡すことができる。北朝鮮の兵士が望遠鏡を持ってこちらを監視していた。次いで、軍事停戦委員会本会議場に入場した。会議場内では、マイク・コウドが軍事分界線を表している。1回だけこの軍事分界線を越えて北朝鮮側に入ることができたが、それだけでは実感が湧かない。板門閣の向こうにはどのような世界が広がっているのか気にかかった。会議場の外に出ると、韓国側の軍事分界線を守備する国際連合と北朝鮮双方の兵士が正に対峙していた。高麗の都であった開城(ケソン)も同じ京畿道に属し至近距離にあるのだが、軍事分界線の北側にあり訪ねることができないのは残念だ。

国際連合軍の招待という形式を取っているためか、トゥアーでは韓国側の宣伝もかなり行われた。ガイドは北朝鮮を容赦なく非難し、同じ民族の国家に対する共感は全く聞かれなかった。一般国民レヴェルでは全く対立感情がないとしても、国家レヴェルで南北が和解することは容易ではなさそうだ。また、忘れてならないのは、日本による領土併合がなかったならばコリア半島の分断はなかったであろうということだ。トゥアーでは、第二次世界大戦での日本の降伏があと1週間早ければソヴィエト連邦軍のコリア半島進駐はなかったであろうという推測を聞かされたが、日本人としてはさらにコリアの悲劇の根源になっている事情について考えてみてもよいのではないだろうか。

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旅人宿(左奥)/荘旅館(右)

■慶州(キョンジュ、金城)は、1,000年にわたって新羅の都であった町だ。清涼里駅からトンイル号(急行列車)に乗り、翌朝4時頃に到着した。韓国は国土が狭いため都市間の移動は容易なのだが、移動時間があまりにも短いため夜行列車に乗っても中途半端な時刻に目的地に到着し、時間を持て余してしまう。夜が明けるのを待ってバス・ターミナル近くの安宿街に向かった。1泊目は簡易宿泊施設の旅人宿(ヨインスク)、2泊目はその近くにある多少高級な荘旅館(チャン・ヨグァン)に泊まった。

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太宗武烈王陵

当地では、屋根のない博物館という形容にふさわしく、市街を歩いているだけで多くの遺跡に出会う。新羅王室誕生の伝説を持つ鶏林(ケリム)、新羅最初の王宮の半月城(パノゥオルソン)、世界最古の冷蔵庫とされる石氷庫(ソクピンゴ)、離宮の雁鴨池(アナプチ)、国立慶州博物館、五陵(オヌン)、太宗武烈王陵(テジョンムヨルワンヌン)などを見物した。最初に見物した古墳公園(コブン・コンウォン)で近くの土産店の店長の案内を受け、後で24,000ウォン(1ウォンは約0.190円)のネックレスを買うことになった。東洋最古の天文台とされる瞻星台(チョムソンデ)や韓国最古のパゴダ(仏塔)が残る芬皇寺(プンファンサ)など素朴な遺跡が多いが、どれも年代を感じさせるものであった。また、扶余と比べるとはるかに発展した町なのだが、少し足を伸ばすと田畑が広がっており、のどかな雰囲気を楽しむことができる。途中で観光コースから外れて小道を進んでいくと、飾り気のない家が軒を連ねていた。この辺りでは外国人を見かけることが少ないのか、河原で遊んでいた子供達の方にほほえみながらゆっくりと近づいていくと、泣きながら逃げていってしまった。

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仏国寺

昭和天皇の大喪の礼(葬儀)が行われ休日に当たっていた当地での2日目、バスに乗って郊外を訪ねた。高級ホテルの並んでいる普門(ポムン)湖に立ち寄った後、仏国寺(プルグクサ)や石窟庵(ソッグラム)に向かった。仏国寺は堂々たる構えをしており、日本からのトゥアー客も見かけた。石窟庵は、高台にある仏国寺からさらに山中に入った場所にあり、交通の便はよくないが、仏像は目を見張らせるものがあった。

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書出池

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七仏庵

午後になって、市街南方に広がる大聖地の南山(ナムサン)に登ることにした。バス停留所のある統一殿(トンイルジョン)が出発点に当たり、伝説で有名な書出池(ソチュルジ)の辺りからひなびた風情を楽しむことができる。山道をかなり登った所にひっそりと佇んでいる七仏庵(チルブラム)は、市街や仏国寺などとは別の慶州の顔を見せてくれたように思う。しかし、その後、近道を取ろうとしてかえって山中で道に迷い、折しも降り出した雨の中、谷川に沿って草木を掻き分けながら進まざるを得ない事態になってしまった。何とか本道に戻ることはできたものの、日暮れとともに次第に辺りが暗くなっていき、非常に心細い思いで下山を急いだ。ようやく麓の灯火を見つけることができたのは19時頃であり、危うく山中に取り残されるところであった。ジャンパーはすっかり濡れ、スラックスは泥だらけになって、バスに乗ることも憚られるような有り様であった。旅館に戻って入浴すると生き返ったような気持ちになった。このトレッキングについては、開始時刻があまりにも遅かったことや、本道に戻ることができた後に南山縦断を諦めて出発点の方向に引き返すべきではなかったのかということなど、いくつか反省するべき点が残された。また、途中、谷線を下っていくことになったが、断崖に突き当たって進退が極まる可能性があるため、禁忌事項となっているようだ。

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■釜山の高速バス・ターミナルまでは、慶州の高速バス・ターミナルからバスに乗って1時間程度であった。韓国では都市間の移動のためにはバスがポピュラーであり、各都市を結ぶ便が頻繁に運行されている。バス・ターミナルは、交通渋滞を避けて郊外に設置されていることが多かった。また、近代的でよく整備されていたため利用しやすかった。

ソウルの明洞と並ぶ繁華街の光復洞で陶器などの土産を買ったが、中国旅行の際の上海に続いて雨中の買い物となり、かなり苦労した。釜山港に向かう時には荷物はかなり重くなっていた。

翌日、下関港に入港した後、釜山から同行していた若いドイツ人男性が山陰方面に向かう列車の切符をなかなか買うことができず困っていたので手伝ってあげた。下関駅は、国際港の最寄駅であるにも関わらず、切符売場の時刻表が漢数字で書かれている上、駅員は全く英語を話すことができないという有り様であり、日本は外国人旅行者のための環境が整備されていないことを改めて思い知らされた。ドイツ人は、鉄道王国とされる日本で追加料金を必要とする急行列車(エクスプレス)に乗るにも関わらず、約500kmの距離に10時間も要すると聞いて驚いていた。

北九州で小倉城や森鴎外旧宅などを見物した後、神戸行フェリーに乗った。途中、瀬戸大橋のイルミネイションを楽しむことができた。

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■この旅では、食事に苦労した。食堂に入ってもメニューはハングルで書かれていて理解することができない。そこで、ガイドブックに掲載されていたコリア料理の写真を指差すなどして何とか注文した。韓定食(ハンジョンシク)などを食べたが、品数の多さや辛さに肝を潰した。ただ、屋台のうどんの注文は日本語のままで通じ、七味唐辛子の量を控え目にするよう依頼しておきさえすればあっさりとした味であるため、手軽に利用することができた。

旅程は、完全に当初の予定通りであった。これは、都市間の移動が非常に容易であったという面もあるが、板門店の訪問日が指定されていたため旅程が拘束されていたという面もあり、自由旅行という点で物足りない思いが残った。また、この旅で足を運ぶことのできなかった全州(チョンジュ)や光州(クァンジュ)など南西部の町は、次の機会に訪ねたいと考えている。

現地での1日平均の旅行費用(日本国内移動時と土産費を除く)は約2,400円であった。宿泊に際してはコリア式宿泊施設の旅館などを利用し、ソウルの旅館を除いてトゥイン・ルームに一人で泊まったが、旅行費用のうち宿泊料金は最高で扶余などの約2,300円(12,000ウォン)、最低で慶州1泊目の約1,100円(6,000ウォン)と、リーズナブルな水準に落ち着いた。部屋にはオンドルと呼ばれる床暖房が施されており、春を待ち焦がれる「三寒四温」という言葉があるように厳しいことで有名なコリアの冬の夜を暖かく過ごすことができた。部屋に入る時に靴を脱ぐこと、布団は直接床に敷くことなど、日本と共通点がある。オウナーが年配である場合は日本語が通じることも多かった。そして、ホテルとは異なる趣を楽しむことができた。

コリアンに対する印象としては、何と言っても日本人と区別が付かないほど似た顔をしているということが挙げられる。釜山の太宗台では女子学生にコリア語で写真撮影を依頼され、慶州の高速バス・ターミナルでは壮年の女性に釜山に向かうバスの切符売場を尋ねられるということがあった。女子学生は相手が外国人だと分かると気恥ずかしそうにしていた。しかし、こちらも写真撮影を依頼するなど、コリアンに間違えられたことを利用して地元の人と親しくなるということもあった。また、日本人同士が出会っているのに英語で話しかけてしまうという奇妙なことも起こる。

領土併合時、日本政府はコリア半島では日朝同祖論を、日本本土では朝鮮人劣等民族論を唱えていたという。そのような歴史があるため、コリアンと日本人の民族上の異同を軽々しく論じることには慎重でなければならないかもしれない。しかし、体型的にみても似通っているし、言語学的にみても、動詞が文章の最後に置かれる語順、主格を表す助詞の「が」と「は」の使い分けのほか、動詞に続いて置かれ助動詞のように機能する「行く」や「来る」のような基本的な単語の用法、音韻法則も見られる「田(田んぼ)」や「おぶう(おんぶ)」のような基礎語彙など、類似点は顕著だという。したがって、コリアンが日本人と最も近しい民族であることは疑いようのない事実だと言ってよいのではないだろうか。

日本人に対する態度は、非常に友好的であったように思う。短い期間ではあったが、コリアンと身近に接することができたことは有益であった。また、NIES(新興工業地域群)の一角として急速に経済発展が進んでいる韓国の現状を直視することもできた。今後、日韓両国は各々の経済発展に対して相互に重要な役割を担っていくことになるのではないだろうか。現在でも一部の心ない日本人の言動によってコリアンが反日感情を抱いてしまうことがあるのは残念だが、双方とも先入観に囚われずに一人一人が素直な気持ちで相手と接することによって、相互理解に基づいた協力への道が開かれることを期待したい。

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前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 神戸
17日21:30 水路 18日10:50 北九州
11:50 鉄路 12:10 下関
17:00 水路 19日08:30 韓国 釜山
23:55 鉄路 20日03:25 大田
07:15 道路 08:40 扶余
21日07:20 道路 10:00 ソウル
22日21:00 鉄路 23日04:10 慶州
25日09:30 道路 10:45 釜山
17:00 水路 26日08:30 日本 下関
09:30 鉄路 09:50 北九州
21:30 水路 27日10:50 神戸
道路 :道路、 鉄路 :鉄路、 水路 :水路)

訪問地 宿泊先 単価
韓国 扶余 明星旅館 KR.W 12,000 1
ソウル 雲堂旅館 KR.W 8,500 1
慶州 西川旅人宿 KR.W 6,000 1
瑞林荘旅館 KR.W 12,000 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
韓国 KR.W 0.190円 2,000
内訳
18,450
内訳
21,670
内訳
180
内訳
35,190
内訳
日本 JP.\ 1.00円 0 0 0 0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 379 3,499 4,109 34 6,673

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
韓国 38,500
内訳
94,880 210,870 21,996 7 3,142
日本 0 0 0 0 2 0
通貨計 7,301 17,993 21,996 9 2,444
(注)円換算と日平均は土産費を除く。

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春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
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