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インド / ←─後 / 前─→

インド

出発

抜粋

カルカッタ

ブッダガヤー

パトナー

ヴァーラーナシー
カジュラーホー

アーグラー

デリー

回顧

概要

■カルカッタへは、12時間のフライトの後、夜の到着となった。これは、成田空港の出発が定刻より2時間も遅れたためだ。夜の到着はバンコクなどで慣れているとはいうものの、あまり気分のよいものではない。しかも、ダム・ダム空港では、インド人用のイミグレイションは最初から開いているのに、外国人用のイミグレイションはいつまで経っても閉まったままであった。1時間程度経つと、数人のヨーロピアンがインド人用の窓口に並び始めた。そこで、そちらの方に移動してみると、意外と簡単に入国することができた。日本人を含めて多くの人は依然として外国人用の窓口に並んでおり、どうしてそのような状態が放置されているのか全く理解することができなかった。

託送荷物を受け取っている時、二人連れの日本人女子学生に空港内の施設の場所を尋ねられたが、話が噛み合わない。よく聞いてみると、ボンベイのサハール空港と間違えているのであった。成田空港のフライト・ボードの表示が不親切であったため、カルカッタ経由便だということを知らなかったのであろう。カルカッタにいることを教えてあげると二人は慌ててイミグレイションの方に戻っていったが、飛行機は既に離陸していたようだ。ボンベイを経由して東アフリカに向かう予定だと言っていたが、無事に到着したであろうか。

市内まで同行する人をロビーで探すことは難しそうであったため、一人で空港の外に出ていった。すると、ちょうど雨が降り出してきて、不安が増幅してきた。しかも、夜のためか、国際線の飛行機が到着した後だというのに両替所は閉まっていた。その代わり、いかがわしい男性が窓口の外に立ち、札束を持って両替を勧誘していた。闇両替だ。両替を取り扱っているのはUSドルのキャッシュのみで、交換レイトは問題にならないほど悪いように思われたが、ほかに手段もないため仕方なく少額の両替を行った。後で正規の為替レイトと比べてみると、同額のルピーの受け取りに対して4割も多くのUSドルを支払わされていた。

並行してタクシーの乗車を勧誘されたが、最新のガイドブックに掲載されている料金の2.5倍という法外な金額を要求された。こちらは、ガイドブックに掲載されている料金にディスカウントするよう要求し、それまでの旅と同様に双方が提示額を少しずつ修正して提示額のギャップを縮小していくという方法で料金交渉をした。雨の夜で、市内に向かうための交通手段がほかに何もないという状況では圧倒的に不利な交渉であったが、途中で「ファイナル・オファー(最終通告)だ。」と、こちらの返答次第では交渉を打ち切ると脅されたのに対し、同じ言葉で応酬した。

何とか交渉がまとまって市内に向かおうという時になって、今度はUSドルで支払いをすることを要求してきた。しかも、交換レイトは先ほどよりも一段と悪くなっている。入国早々のため交換レイトの計算ができないであろうと甘く見られたようだ。そこで、闇両替商の交換レイトとの相違を質した上、そのレイトも正規のものではないため信用することができないと主張し、何とか闇両替商よりもよい条件になるまで交渉した。しかし、相手のペイスに乗せられ、そこまでで納得してしまった。この時点では正規の為替レイトが分からなかったのだから、本来はUSドルでの支払いを拒否するべきであったのだ。ただ、入国してから間もなくのことであり、不安が脳裏を支配している状況の下では仕方がなかったと言うことができるかもしれない。

タクシーの助手席には、なぜか途中まで運転手の知人が二人乗っていた。車外は暗く、薄汚れた家が見えるだけでほとんど景観を楽しむことはできなかったが、途中で数台のリクシャーが走っている様を見かけた。「リクシャー」という言葉は、日本語の「人力車」が語源らしい。ほかの町では自転車による力車(サイクル力車)のことを意味するが、当地では文字通り人力車のことだ。雨中、リクシャー・ワーラー(自転車漕ぎ、当地では人力車引き)が屋根付の座席に納まった乗客を乗せて一生懸命に走っている姿を見ると、インドが単に貧しいだけではなく貧富の格差の非常に大きい国だということが実感されてくる。1時間程度で安宿街サダル通りに到着した。

タクシーを降りると、バジェット旅行者が愛用していることで有名なホテル・パラゴン(大真珠)を目指した。薄暗い道路にたむろしている人に道を尋ね、足早に歩を進めた。小道を入っていくとホテルの看板が目に入った。門を入ると受付があったが、その先は屋根のない通路になっており、両側にドミトリが向かい合っている。指定されたドミトリには3人の日本人男子学生が泊まっていた。中央アジアからパキスタンを経由して北部のアムリトサルからインドに入国した人や、東アフリカ訪問の経験がある人など、相当な強者達だ。北部やネパールを1か月以上にわたって旅行し、帰国を間近に控えている人が多かった。驚いたことに、ドラッグ入りの饅頭を食べたりLSDなど聞き慣れないドラッグの話をしたりしていた。インドについていろいろと教えてもらったり、逆に日本の近況を教えてあげたりした。2泊目は、オーストラリア人男性とヨーロッパ系の女性の二人の若者がドミトリに加わった。

入国翌日から2日間の滞在中は、探索のためほとんど市街を歩き回っていた。当地は連合王国植民地時代の首都であり、見物するに値する観光名所は多いのだが、町の印象があまりにも強烈であるため、あまりそちらの方に足が向かないのだ。前日からの雨は深夜まで本格的に降っていたようだが、夜が明けると上がっていた。当地ではまだ雨季が明けておらず、大雨が降るとホテル周辺は水浸しになってしまうということもあって心配していたが、幸いなことに以後は晴天に恵まれた。

ホテルの前では日本語を話す男児が絵葉書を売っているほか、両足のない男性、リクシャー・ワーラー、ドラッグ売りなどがたむろしている。また、近くにあるごみ収集所には烏が何羽も集まってきており、何とも気味が悪い。しかし、何回も往来しているうちに、そのような環境にも少しずつ慣れてきた。ガイドブックでは、当地をインド旅行の最初の訪問地とすることはカルチャー・ショックが大きすぎるため避ける方がよいと注意されていたが、中心部の大きさが限られているため身近に感じることができた。

ニュー・マーケットの近くを歩いていると、若い男性に呼び止められた。そして、日印談義をしたいと言われ、チャーイ(紅茶)店に連れていかれた。しばらく歓談し、チャーイ代の1.50ルピー(1ルピーは約4.57円)は男性に支払ってもらった。次いで、コットン(綿布)の買い物に同行した。しかし、コットン店の店長は、男性にではなくこちらに商品を見せてくる。男性も商品を買うよう勧めてきた。外国人の義理人情を利用したインド特有の金銭獲得方法だなと思って無視していると、意外と簡単に解放してもらうことができた。ただし、男性にチャーイを馳走になったことはやはり不用意であったと反省させられた。翌日も別の若い男性から同様の呼び掛けを受けたが、今度は同行を拒否することにした。

当地では、列車の予約は鉄道予約オフィスで行うことになっている。ホールは中国に負けないほど多くの人で溢れていた。インド人に交じって申込みを行ったが、要領を得ない。その時、階上に外国人用のオフィスがあることを知らされ、階段を昇っていくと待遇が格段によくなっている。椅子に座って申込みを行うというのは階下では考えられないことだ。また、両替証明書の提示かUSドルのキャッシュによる支払いが条件になっているが、割高になっているわけではない。ガヤーまでの翌日の夜行列車を簡単に予約することができた。ただし、この特権を利用することができない地方の町で列車を予約する時にはどうなるのであろうかと不安が残った。

当地で見物した唯一の観光名所が、町の名前の由来になっているカーリー寺院だ。往路は、ようやく部分開通まで漕ぎつけた地下鉄に乗った。最寄駅で列車を降りて階段を昇っていくと、すぐに同行したいという人が近づいてくる。最初のうちは断っていたが、結局、男児とともに見物をすることになってしまった。本来はヒンドゥー教徒以外は立入禁止らしいが、この規則は完全に形骸化しているようだ。到着すると、僧侶が現れて案内をするという。そして、山羊の断頭台を見物したり、祈祷をしてもらったりした。しかし、最後になって、祈祷料として400ルピーを当然のように要求された。父、母、自分、家族・親戚の幸福を祈るために100ルピーずつ必要だというのだ。実際に祈祷料として支払われたという100ルピー札も見せられた。地元の一般国民にとってはとても支払うことのできない大金であり、もちろんそれは断固として拒否した。すると、今度は花輪代と称する35ルピーの支払いを要求された。目の前に対価があるだけに、それも断るということはできなかった。さらに、案内料として、僧侶に10ルピーを、男児に3ルピーを支払わざるを得なかった。僧侶の説明によると、寺院では貧困層を対象にした炊き出しなどの事業を行っているとのことであったが、金銭の要求の仕方を見ていると偽善としか考えられず、宗教や慈善事業に名を借りて金銭獲得を図るとはと、怒り心頭に発した。ホテルに戻ってからガイドブックの中に寺院のガイドについての注意を見つけたが、後の祭りであった。

見物が終わると、男児は寺院の裏手にある「死を待つ人の家(The home for the dying)」に案内してくれた。ユーゴスラヴィアのマケドニア共和国出身のマザー・テレサ(本名はアグネサ・ボヤジ)が路上生活者などの貧しい病人を介護するために設立した施設だ。旅行中のヴォランティアが患者に食事を運んでいる様を垣間見ることができた。一見したところ、重病ではない患者が多いように思われた。実際、ここで死を迎える人よりも回復して退院する人の方がはるかに多いという。何人に対してもせめて臨終に際しては安楽な場所を提供してあげたいというマザー・テレサの願望は理解することができ、施設で行っている事業の尊さは疑いようもないが、施設の名前があまりにも独善的であることは気にかかった。

帰路は、地下鉄の運行が止まっていた上、小銭が全くなくなってしまったためバスに乗ることもできず、ホテルまで歩いて帰る羽目になった。しかし、市街をそぞろ歩きすることも楽しいもので、様々なことが分かってくる。インド人は概して肌の色が黒いが、中には日本人よりも肌の色の白い人もいる。そして、路上生活者は決まって肌の色の黒い人だ。また、英語で話をする時は、外国人をターゲットにした仕事をしている人を除いて、肌の色の白い人の方が理解してもらうことのできる可能性が高いようだ。このように見てくると、カースト制度は単なる社会的慣習というよりも、人種差別ないし人種支配の要素を持っているのではないかと思われてくる。そのような中で、路上に並べられている雑誌のカヴァーを飾るモデルに肌の色の白い人しかいない様を見ると、何となくもの悲しくなってくる。自分達の民族の肌の色を実際よりも白く感じてしまうということはタイでも見られた現象だが、インドでは明らかにそれが人種の選別を通して行われているのだ。

インドは蒸し暑く、運動靴では歩きづらい。当地で比較的上等な皮のサンダルを買ったが、早くも鼻緒が外れてしまったため、修理をしてもらうことにした。修理業者は路上で簡単に見つけることができる。修理が終わり妻君が要求した10ルピー札を差し出すと、修理業者はありがたそうに受け取った。それによって、支払額が相場をかなり上回っているのを理解することができた。しかし、商品をディスカウントさせることには慣れていても、目の前で行われるサーヴィスをディスカウントさせることは心理的に難しかった。また、貴重な労働に対する対価を支払うという点では、健全なものであったと思う。ただし、このサンダルは、旅行中さらに3回も修理が必要になった。

ハウラー駅は、ガンジス川の支流フーグリー川を渡った場所にある。ガヤーに向かう列車の出発時刻まで時間があったため、歩いて向かった。カルカッタとハウラーを結ぶハウラー橋の近くまで来ると、車道、歩道とも混雑が激しくなってくる。駅は多くの人で溢れていた。構内の食堂では、ヴァーラーナシーに向かうという同宿のオーストラリア人と出会った。プラットフォームに向かうと、ポーターが荷物を運ぼうとして声をかけてくる。「頼むから荷物を運ばせてほしい。」と執拗に迫ってきたが、駅まで1時間もかけて歩いてきた者の荷物を数十メートル運んだだけでティップを貰おうとは、全くの見当違いだ。振り切って列車に向かったが、どの車両に乗るべきなのか分からない。ポーターに尋ねるわけにもいかず、困ってしまった。ようやく乗車すると車内は暗闇であり、今度は座席を探すために苦労した。座席は3人掛けであったが、後から3人連れの男女が割り込んできて窮屈になってしまった。しかし、しばらくすると別の場所に空席を見つけて移動していった。座席は指定制であるのにどういう了見をしているのであろうか。出発して1時間程度経つとほかの乗客が背もたれを起こし始め、初めて寝台であることが分かった。

出発

抜粋

カルカッタ

ブッダガヤー

パトナー

ヴァーラーナシー
カジュラーホー

アーグラー

デリー

回顧

概要

■ブッダガヤー(ボードガヤー)を訪ねるためには、ガヤーを経由することになる。ガヤー・ジャンクション駅へは、定刻よりも30分程度遅れて到着した。駅の近くにあるホテルにチェックインすると、すぐに仏教最高の聖地ブッダガヤーを目指した。ヨーロピアンなどには観光地として定着していないようだが、仏教徒にとっては絶対に見逃すことのできない町だ。しかし、簡単に観光することができるようインフラストラクチャーが整備されているわけではない。

まず、バス・スタンドに向かうまでに苦労した。執拗に乗車を勧誘されたリクシャーを断って最も安い料金を提示したリクシャーに乗ったが、リクシャー・ワーラーが所在地をよく分かっておらず、別のバス・スタンドに連れていかれてしまった。窓口でそれを知った時には既に姿を消していたため、別のリクシャーに乗り換えざるを得ず、かえって高いものについた。

また、ようやく乗ることができたバスはものすごく古い上に超満員であり、屋根の上にもかなりの乗客が乗っていたようだ。当初4人掛けと思われた最後列の座席に座っていたが、次第に乗客が詰めてきて最後には何と8人掛けになってしまった。車掌はバスのドアを棒で叩くことによって運転手に発着の合図を送っていたが、いよいよ混雑してくると、ほとんど車外に身を乗り出し、かろうじてバスに捕まっているという状態になった。1時間程度かかってようやく到着したが、中国旅行の際のように車掌が到着を教えてくれるというようなことはなかった。あまりにも乗客が多いため、一人の外国人に関わっていることはできないようだ。

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マハーボーディ寺院

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菩提樹

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蓮池

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日本寺

ブッダガヤーでは、バスを降りるとすぐに日本語を話す男性に声をかけられた。無料で案内をするという。土産店の店長だそうだ。カルカッタでの経験もあり同行は避けたかったが、拒否することはできず、マハーボーディ寺院(大菩提寺)を案内してもらうことになった。入口で靴を脱ぎ、大理石が敷きつめられて間もないという境内を進んでいった。寺院の裏手には菩提樹が聳えている。紀元前6世紀に仏陀(ブッダ、御仏、釈迦牟尼、シャキヤ・ムニ、釈尊、ガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダッタ)が覚りを得た場所だ。また、近くには仏陀が沐浴したと伝えられている蓮池がある。仏教徒として自然に厳粛な気持ちになってくる。大塔も見応えがあった。当地にはティベット人僧侶などがよく足を運ぶそうだ。

見物が終わると、当然のことながら土産店に連れていかれた。そこでは数珠や仏像などを売っていた。しかし、予想に反して、それらを買うよう執拗に迫られるということはなかった。その代わり、名刺を渡された。土産店の評判を日本で広めてほしいということらしい。そのうちに、インドへは3回目の渡航だという若い日本人男性が訪ねてくる。相当なインド通で、仏陀について鋭い質問を浴びせて店長を圧倒していた。そして、一緒にチャーイを馳走になった。数珠を買うとよい土産になるとは思ったが、仏教の聖地がヒンドゥー教徒によって管理されていることに対する反発もあって、結局は見送ることにした。

土産店を出ると、男性とともに市内見物をした。ブータン寺やティベット寺など国柄を窺わせる各国の仏教寺院や博物館などを見物した。日本寺の壁には仏陀が菩提樹の下で瞑想を続けている様などを描いた絵画が掲げられている。東大寺盧遮那仏像(大仏)など日本に伝わっている安らかな表情はそこにはなく、厳しい苦行を如実に指し示していた。土産店で売っていた仏像も同様のものであった。パキスタンで出土した仏像に基づくものらしい。また、地元の人も参拝のために訪ねてきていた。ヒンドゥー教では仏陀はヴィシュヌの化身とされており、仏教は異教ではないのだ。これは、仏教徒の立場からは全く迷惑なことだ。

次いで、苦行中の仏陀に乳粥を捧げた若い女性スジャータの村に向かった。入り組んだ小道を進んでいくと、ガンジス川の支流ネーランジャラー(尼連禅河)が流れている。川幅は非常に広いが水量は少なく、簡単に渡っていくことができた。村の男児によると、乾季にはブッダガヤーに通学しているが、雨季には交通が途絶してしまうという。そこにはのどかな田園風景が広がっており、前方には仏陀が覚りを得る前に修業をしたという前正覚山を望むことができた。

男性は、サーンチー、ラージギール(往年のラージャグリハ)、ナーランダなどの仏跡を訪ねているという。インドについていろいろと意見交換を行った。男性は、日本人は働きすぎであり、インド人ののんびりとした生活は素晴らしいとの意見であった。

出発

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カルカッタ

ブッダガヤー

パトナー

ヴァーラーナシー
カジュラーホー

アーグラー

デリー

回顧

概要

■パトナーは、古都であると同時に、ガヤーやブッダガヤーを含むビハール州の州都だ。ブッダガヤー観光の翌日に滞在した。ビハール州はインドの中でも貧しい州であり、隣のウェストベンガル州の州都カルカッタのリクシャー・ワーラーには当州出身者が多いという。田舎に留まっていても都会に出ても貧困から逃れることはできないということであろうか。

ガヤーを早朝出発する列車に乗る予定であったが、目が覚めた時には発車30分前になっていた。一旦は乗車を諦めかけたが、思い直して駅へ急いだ。切符売場を見つけることができないままに進んでいくと、いつの間にかプラットフォームに到着してしまった。そのまま列車に揺られ、パトナー・ジャンクション駅の改札口を通り抜けて、結果的に無賃乗車をすることになってしまった。

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パータリプトラ遺跡

到着すると、ガーンディー・マイダンという広場に向かう駅前道路の中程にあるホテルにチェックインし、クムハーラールにあるパータリプトラ遺跡の見物に出かけた。仏陀と同時代のマガダ国のほか、紀元前3世紀に繁栄したマウリア朝、紀元4世紀に興ったグプタ朝の都であった場所だ。中心部から数キロメートルの道程であったが、ほかに方法が思い浮かばなかったためリクシャーに貸切で往復してもらうことにした。線路に架かっている橋の上り坂部分では、重労働を慮ってリクシャーを降りて一緒に歩いてあげた。途中、数台のバスに追い越されてしまった。マウリア朝の遺跡は、ごく一部分ではあったがはっきりと足跡を残していた。一旦ホテルに戻った後、穀物倉庫のゴールガルやガート(沐浴場)などの見物に出かけた。ゴールガルからはガンジス川や町並みを眺めることができた。初めて見るガンジス川はゆったりとした流れを見せていた。

ネパールを目指す外国人旅行者が立ち寄ってカトマンドゥに向かうバスを待つものの、当地は観光地としてはあまり有名ではない。そのため、ミネラル・ウォーターなどの入手が難しいほか、レストランも少ない。ガヤー到着以来、食事は不規則になっていた。そして、疲労も重なって風邪気味になってしまった。

出発

抜粋

カルカッタ

ブッダガヤー

パトナー

ヴァーラーナシー
カジュラーホー

アーグラー

デリー

回顧

概要

■ヴァーラーナシー(ワーラーナシー、バラナシ、別称バナーラス、英語名ベナリース、日本ではベナレスとして認知)へは、体調が悪いまま向かうことになった。体調が回復するまでしばらくパトナーに滞在しようかとも考えたが、外国人慣れした町の方が栄養の補給も容易であり安心なのではないかと考え直し、予定通りヴァーラーナシーに向かう列車に乗ることにしたのだ。銀行での両替のため時間がかかり、列車の出発時刻が迫ってきた。リクシャーに乗って駅へ急ぎ、売場を簡単に見つけることができた1等席の切符を買って、何とか列車に乗ることができた。特等席に当たるA/C(空気調整)クラスに次ぐ1等席は体調のためにも都合がよいのではないかと考えていたが、コンパートメントになっていることを除くと期待したほど上等な座席ではなく、座席指定を受けていなかったため座ることができない危険さえあった。とは言え、客層は2等席とはかなり異なるようで、車内では1ルピーのチャーイの代わりに5ルピーの炭酸飲料を売っていた。ヴァーラーナシーに到着する直前、列車はガンジス川に架かっている鉄橋を渡る。その時、多くの乗客がガンジス川の方を振り向いたようであった。神聖な川なのであろう。

ヴァーラーナシー・カント駅(ヴァーラーナシー・カントンメント駅)に到着すると、すぐにリクシャー・ワーラーの声がかかる。泊まろうと思っているゲストハウスの宿泊料金を偽ったり、類似名のホテルに連れていこうとしたりと、噂に聞く通りの悪徳振りだ。コミッションを期待することのできるホテルに連れていこうとしているのだ。ホテルがリクシャー・ワーラーに支払うコミッションは理不尽なことに宿泊料金に上乗せされるとのことなので、注意が必要だ。何とか目的のゲストハウスに向かわせることに成功したかと思われたが、駅を出ると間もなく、合意した料金は1km当たりの単価だと言ってきた。勝手な言いがかりだ。すぐにリクシャーを降り、通りを流しているリクシャーに乗り換えることにした。こちらの方が、不案内な旅行者を騙そうと駅で待ち構えているリクシャーよりも信用することができるようだ。最初から駅を離れてリクシャーを探せばよかったわけだ。

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ヨギ・ロッジから

ダシャーシュワメード通りに沿ってガンジス川の近くまで来ると、リクシャーを降ろされた。目的のゲストハウスまではまだ少し離れているが、リクシャーに乗ってヴィシュワナート寺院(通称はゴウルデン・テンプル)に向かう参道に入っていくことはできないためだ。前後して日本語を話す男児が現れ、ゲストハウスは満室だという。その言葉は信用せず、予約しているから大丈夫だと切り返した。すると、今度は場所を偽って別のゲストハウスに連れていこうとしてきた。しかし、ガイドブックに地図が掲載されていたため、何とか初志を貫徹することができた。こうして、ようやくゲストハウスにチェックインすることができた。シャワー室は共同ではあるがトイレットと独立しており、安宿であるにも関わらず温水が出るなど、インドで泊まったほかの宿泊施設と比べても満足することができた。指定されたドミトリにはヨーロッパ系の若者が10人程度泊まっていた。

当地では発熱するなど風邪が悪化したため、4日間の滞在中はゲストハウスで療養しながらゆっくりと市内見物をした。日本人旅行者が愛用している久美子の家(クミコ・ハウス)も覗いてみた。ヴィタミンの補給のためには、路上で手動ブレンダー(ミクサー)を回してつくってくれるマンゴー・ジュースを多用した。

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ダシャーシュワメード・ガート

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ダシャーシュワメード・ガート

当地の最大の見所は、ダシャーシュワメード・ガートなどガンジス川沿いに点在する沐浴場だ。多くの人が川の中に入っていた。とても衛生的だとは思われないほど濁っていたが、ヒンドゥー教徒にとっては聖水なのだ。当地での3日目、火葬場のあるマニカルニカー・ガートとの間を小船で往復してもらった。火葬場では焚火が燃えている様をはっきりと見ることができた。途中で上流から流れてくる牛の死体に出会った。当地では、乳児など天寿を全うすることのできなかった人のほか、すべての動物が荼毘に付されることなくそのままガンジス川に流されるのだそうだ。

ヴィシュワナート寺院に向かう参道の両側には巡礼者を対象とした土産店が軒を連ねている。ブッダガヤーの外国人をターゲットにした土産店よりもはるかに好感を持つことができた。当地ではほかの町にも増して飼い主のいない牛や犬を見かける。シヴァの乗り物とされる牛はヒンドゥー教では聖牛とみなされており殺されることはないが、参道に迷い込んで営業の邪魔をすると臀部を叩かれて追い払われており、とても聖牛という扱いは受けていないように思われた。一方、野犬の中には狂犬も多いと言われており、近くを通る時は恐ろしかった。

当地は巡礼の聖地であるばかりでなくシルクの集散地でもあるため、様々な声がかかる。ゴードウリヤーの近くで声をかけられたシルク店に入っていくと、店長は折り畳んだ布地を否応なく次々と広げていった。断ることを難しくするための戦術だ。しかし、こちらもその程度のことでは動揺しないだけの精神力を持ち合わせるようになってきている。また、日本人客が書き残したノウトブックを見せられたが、当店は信用することができると書いている人でも、料金などの数字をひらがなで書いて店長に分からないようにしていた。同胞に対して推薦をするのか注意を喚起するのかは明確にしてほしいと感じた。

ちょうどダシャラーという大祭の最中であり、ガートでは水位が上がった雨季に打ち上げられた土砂を洗い流していた。土砂はかなり高い場所まで打ち上げられており、増水時との水位差に驚かされた。カルカッタで行われるものが最大だが、当地でもドゥルガー(シヴァの妻)の像がガンジス川に投じられるとのことであった。1泊分の宿泊料金を上乗せして支払ってゲストハウスをチェックアウトした夜は、イルミネイションで飾られた道路に多くの人が繰り出していた。

出発

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カルカッタ

ブッダガヤー

パトナー

ヴァーラーナシー
カジュラーホー

アーグラー

デリー

回顧

概要

■カジュラーホーは、マディヤ・プラデーシュ州にあり、デリーとカルカッタを結ぶ鉄道はヴァーラーナシーやアーグラーを含む北隣のウッタル・プラデーシュ州を通っているため、陸路の交通の便はよくない。東部から訪ねる場合はサトナーでバスに乗り換えることになる。前日に買っておいたサトナーまでの夜行列車の切符には何が書いてあるのかほとんど分からなかったが、自分の名前が書かれた紙の貼ってある車両を確認して乗車することができた。寝台を予約しておいたため十分に睡眠を取ることができ、体調はかなり回復してきたようだ。

サトナー到着は定刻より1時間半も遅れた。時刻を降車の目安にしているため、これだけ遅れると問題が生じる。ほかの乗客にまだしばらく到着しないと教えてもらっても、列車が駅に到着する度にサトナー駅に到着したのかと気になって落ち着かなかった。サトナー駅に到着すると、リクシャーに乗ってバス・スタンドに向かった。リクシャー・ワーラーは、料金について、「アップ・トゥー・ユー。(あなた任せでよい。)」と言ってそのまま出発しようとしたが、それではトラブルの原因になるため、「1ルピーだ。」と切り返して料金交渉に引き戻した。

カジュラーホーまでは田園風景が続く。バスの中では、定年退職後2年間で十数か国を訪ねているという日本人男性と親しくなった。ヴァーラーナシーからカトマンドゥまでの1泊付のバス旅行ではさすがに疲れたと言っていたが、矍鑠としていた。気ままな旅をすることができるのは羨ましく思われた。

当地はヴァーラーナシーとは対照的に全くの田舎町であり、2日間の滞在中、ゆっくりとくつろぐことができた。豊かな自然に恵まれており、大都市の訪問が多くなりがちな北部を観光する旅行者にとっては、ぜひ訪問を検討するべき町ではないかと思う。

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パールシュヴァナータ寺院

西の寺院群近くにあるゲストハウスにチェックインすると、自転車で東、南の寺院群に向かった。自転車はゲストハウスのオウナーが用意してくれたが、近くにある貸し自転車店で借りてきたものをマージンを上乗せして又貸しされただけであった。東群ではジャイナ教のシャーンティナータ寺院、パールシュヴァナータ寺院、アーディナータ寺院などを、南群ではヒンドゥー教のドゥラーデーオ寺院を見物した。東群では土産店の店長の案内を受け、南群では寄進を要求されるなど、それまでの経験が繰り返された。翌日に見物した遺跡公園では、広々とした敷地の中に、当地では最大規模のカンダリヤー・マハーデーヴァ寺院、ミトナ像が見事なデーヴィー・ジャグダンベ寺院など、西の寺院群に属する多くの寺院が並んでいた。東群の寺院よりもかなり立派ではあるが、宗教が異なるにも関わらず印象があまり変わらないのは相互に影響を及ぼしたためであろうか。

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カルカッタ

ブッダガヤー

パトナー

ヴァーラーナシー
カジュラーホー

アーグラー

デリー

回顧

概要

■アーグラーに向かう列車が出発するジャンシーまでは、カジュラーホーからの終発バスに乗った。体調は完全に回復していたが、数時間の移動は少し辛かった。長距離の乗車をする人は少なく、バス停留所ごとに乗客は少しずつ減っていく。そして、町や村に到着するとまた満員になるという状態を繰り返していた。

ジャンシー駅でしばらく列車を待つ予定であったが、乗車する予定のなかった定刻遅れの列車に間に合ってしまった。しかし、寝台を予約せずに夜行列車に乗るということは、なかなか厳しいものであった。座席に座っていてもほかの乗客に立ち退くように言われることもあれば、4人用の座席を独占している人もおり、どのような制度になっているのか全く理解することができなかった。また、列車のドアは開いたままになっていることが多く、かなりの寒さであった。

列車は、ジャンシー駅を出発した時点で定刻よりも1時間程度遅れていた。列車によっては途中で遅れを取り戻すこともあるということなので、到着予定時刻を過ぎるとどこを走っているのかが気にかかる。しかし、ほかの乗客は寝ている上、夜間であるため駅を確認することは難しかった。結局、列車は遅れを取り戻すことなく、深夜3時頃にアーグラー・カント駅(アーグラー・カントンメント駅)に到着した。そこで駅のリタイアリング・ルーム(鉄道旅行者のための宿泊施設)に行ってみたが満室であり、待合室では当地までの切符が寝台ではないという理由で利用を断られた。仕方なく、オート・リクシャー(三輪タクシー)にホテルまで連れていってもらうことにした。暗闇の中、どこを走っているのか全く分からず、人里離れた場所に連れていかれて金銭を強奪されないかと不安になってきた。しかし、良心的な運転手であり、最初に訪ねたホテルが満室だと分かると別のホテルを探してくれた。就寝は4時頃であった。ホテルは新市街のモール・タージ通りにあって観光には適さないため、夜が明けるのを待ち、リクシャーに乗って別のホテルに移動した。ホテルの屋上からは、タージ・マハルを間近に眺めることができた。

最初にアーグラー城(アーグラー・フォート)を見物することにしたが、堅固な城というだけで特に華麗だということはない。しかし、ヤムナー川の隣にタージ・マハルを見渡すことができ、ムガル帝国の皇帝であったシャー・ジャハーンが実子アウラングゼーブに幽閉されてこの城で妃の墓タージ・マハルを見ながら晩年を過ごした気持ちはどのようなものであったのかと思いやられた。

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タージ・マハル

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タージ・マハル朝景

そして、いよいよタージ・マハルの見物となる。タージ・マハルを正面に見ながら参道を進んでいくと、強い質感を持ってこちらに迫ってくる感じを受けた。全面が大理石でできているためか、近くまで来ても美しさは変わらなかった。翌朝、出立までの時間を利用して再び見物したが、空が晴れ渡る前の穏やかな光の中に映えるタージ・マハルは、日中とは異なる趣を見せてくれた。

当地でも外国人を狙った悪質な行為が横行している。アーグラー城から利用したリクシャーには、土産店に立ち寄るだけでリクシャー料金を無料にすると持ちかけられた。ともに得をする制度だと言われたが、リクシャー・ワーラーにコミッションを支払ってまで集客している以上、土産店で買い物をするよう執拗に勧誘されることは想像に難くないところだ。また、タージ・マハルでは、輸出入商と称する男性に声をかけられた。「カーペットは輸出数量に規制があり、輸出が難しい。日本への持ち込みを手伝ってくれれば200%のコミッションを支払う。」と持ちかけてくる。悪名高い詐欺であり、ガイドブックによるとこの種の詐欺によって数十万円の損害を被る被害者が続出しているという。詐欺に騙されるということも思慮がないと思うが、悠久の大地インドで賢く儲けようという考え方にも旅の姿勢として疑問を感じる。

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カルカッタ

ブッダガヤー

パトナー

ヴァーラーナシー
カジュラーホー

アーグラー

デリー

回顧

概要

■デリーは、首都機能のあるニューデリーとオウルドデリーなどからなる特別市であり、1つの町とみなすことができる。

アーグラーからの列車は、かなり混雑していた。しばらくは通路に立っていたが、通りかかった若い男性が空いている座席に連れていってくれた。グループで旅行を行っているようだ。インド人らしくガイドブックを勝手に取り上げると、回し読みを始めた。観光名所の写真は特に興味を持って見ていた。その代わり、経由地のマトゥラーの説明などをしてもらった。しかし、残念なことに、グループのうちの一人が新聞紙の陰からこちらのポウチに手を伸ばしてきた。貴重品を盗もうということなのであろう。事前に気付いたため未遂に終わったが、最初に男性が座席を融通してくれた時から犯行が企図されていたのではないかと疑心が生じた。

列車はニューデリー駅行だと思っていたが、到着したのはハズラト・ニザームッディーン駅であった。デリー中心部までは離れており、オート・リクシャーの料金が嵩んだ。

ニューデリー駅に近いパハールガンジに部屋を確保し、3日間にわたって観光した。便利なことにホテル周辺にはメイン・バザールが広がっており、格安レストランが多い。国際電話の発信を取り扱っている店から実家に電話をかけることも簡単であった。カルカッタで投函した絵葉書は届いていたが、パトナーで投函した絵葉書は届いておらず、心配していたと言われた。

写真
ラール・キラー

オウルドデリーにある観光名所としては、ムガル帝国時代の赤い城ラール・キラー(英語名レッド・フォート)がある。当地での2日目、ニューデリー中心部のコンノート・プレイスからバスに乗って向かうことにした。バス路線がどのように張り巡らされているのかは分からなかったが、新旧市街の中心部を結ぶ路線は存在するであろうと考えたのだ。バスを待っている人に尋ねて何とか乗車することができた。料金は1ルピーであった。ラール・キラーはちょうど週に1日の無料開放日に当たっていた。城中は広々としているが、往時の華やかさを偲ばせるものは少ない。次いで、チャンドニー・チョウクなどの旧市街を散策した。メイン・バザールも賑やかだと思っていたが、こちらは人の数がさらに多く、取扱商品も書籍から鶏まで多彩であった。原色が際立つヒンドゥー教の神々のポスターは特に目につくものだ。

郊外にはクトゥブ・ミーナールという塔が立っている。イスラーム王朝として最初にインドを支配した13世紀のインド・マムルーク朝(奴隷王朝との訳は必ずしも適訳ではないと考えられる)の時代に建てられたものだ。出国予定日に訪ねた。バスが出発するニューデリー駅裏のバス・スタンドに向かおうとしたが、なかなか見つからない。数人の人に尋ねて指示に従いながら進んでいくと、何と周辺を一周して元の場所に戻ってきてしまった。このように、尋ねられたことをよく知らなくてもさも確信があるように答えることは、インドでは日常茶飯事だということだ。仕方なく、リクシャーに乗って探してもらうことにした。バス・スタンドに到着してからは難なくバスに乗ることができ、1時間程度で目的地に到着したが、ブッダガヤーに向かう時に利用したバスと同じく車掌に到着を教えてもらうことができず、危うく降り損なうところであった。クトゥブ・ミーナールは、わざわざ足を伸ばして観光する価値のある名所であった。高々と聳える塔や崩れかけてはいるが威厳を漂わせている門などは歴史を感じさせた。

テレヴィジョンが普及していないインドでは、映画が一般国民にとって最大の娯楽になっている。当地に到着した日、ホテルの近くにある映画館に入ってみた。ヒンディー語の映画を字幕なしで上映しているわけだが、単純なストーリである上、演技が非常にはっきりとしているため、ストーリをほぼ完全に理解することができた。ラヴ・ロマンス、勧善懲悪、喜劇が織り交ぜられた上に歌劇も登場するという、いかにもインドらしい映画であった。恋人が語らう場面で交互に歌い出してしまうことには笑ってしまった。観客も芸術とは全く無縁の娯楽として楽しんでいる。映像の中にオート・リクシャーが登場したが、それ以外にインドを連想させるものは全くなかった。一般国民の生活とあまりにも乖離した状況設定が気にかかったが、娯楽の時ぐらいは厳しい現実を忘れたいということであろうか。

帰国便のリコンファームはカルカッタで行っておいたため、旅行中に患わされることがなく、当地では連絡先の報告だけを行えばよかった。コンノート・プレイスからエアポート・バスに乗り、インディラ・ガーンディー空港に到着した。しかし、チェックインしようと思ってふとフライト・ボードを見ると、何と帰国便の出発が翌日になっている。またしてもディレイ(遅延)だ。仕方なく、用意されたバスに乗ってエアポート・ホテルに向かった。ただし、幸いなことに、到着したのはそれまでのバジェット旅行では経験するべくもなかったザ・セントール・ホテルという高級ホテルだ。宿泊のほか、ビュッフェ(自分で好みの料理を皿に取り分ける形式の食事)の夕食、実家への電話連絡まで追加料金不要であり、また予定日に帰国することができなくなったわけではないのだから、少し得をした気分になった。実家には夜になって電話が繋がった。

深夜0時半頃にコールで起床し、空港に向かった。空港では、空港使用料の支払いや託送荷物のセキュリティ・チェック(保安検査)の前にチェックイン・カウンターに並んでしまったため、長時間待った末に最初から並び直すことになり、かなり手間取った。そのため、免税店で買い物をする時間がなくなってしまった。また、未使用のルピーの再両替によって受け取ったUSドルは、正規の両替に際して同額のルピーを受け取るために支払ったUSドルと比べて3割も少なかった。前日時点の予定からさらに1時間程度遅れ、早朝出発した。

出発

抜粋

カルカッタ

ブッダガヤー

パトナー

ヴァーラーナシー
カジュラーホー

アーグラー

デリー

回顧

概要

■インド人は稀有な自信家であるとともに非常に明確な意思表示を行う民族だという印象を受けた。何らかの勧誘を受けた時、忙しいとか体調が悪いとかという理由で断ると、いつであれば都合がよいのかと聞き返してくる。相手の話に関心がないのであれば、はっきりと「ノウ」と言う必要があるのだと思い知らされた。日本人のように相手の感情を気にしたり義理人情に拘泥したりすることなく、合理主義や利己主義に徹する考え方は羨ましくさえ思われた。ただし、ホテルのオウナー、駅員、空港警備員などが客に対して平気でボールペンなどをねだる姿勢には呆れてしまった。

料金交渉をする時は、外国人と見ると相場の数倍から十数倍の支払いを要求してくることもあるため注意が必要だ。そして、値引交渉は困難を極める。日本人を対象にした取引は利益が大きいのか、観光名所では日本語を話す人が散見された。アーグラーの土産店では、広告文に用いる「廉価、高品質」という表現や「いらっしゃいませ」などの挨拶を教えてくれるよう依頼されるということもあった。相手の目的は明白であるため、日本語が通じるからといって心を許すことはできない。しかし、一部の日本語のガイドブックに記されているように日本語を話すインド人に要注意というのも妙な話だ。掲載内容を知っている人もおり、残念がっていた。重要なのは相手の心をいかに見抜くかということではないだろうか。

カースト制度では、その枠外にハリジャン(マハートマー・ガーンディーが呼んだ言葉で「神の子」の意、従来の不可触民)という階級が置かれている。そして、職業はヴァルナ(バラモンを最高位とする階級)とジャーティ(個別の職業と関連付けられた身分)によって固定されているため、ハリジャンは生まれながらにして乞食だということも多い。乞食の数は多く、他国で見かける「にわか物乞い」とは異なり年季が入っていて堂々としている。これについては、乞食が要求する金銭はバクシーシ(喜捨)と呼ばれ、金銭を与える側にこそ恩恵がもたらされるという思想があることも影響しているのであろう。面白いことに、ティップのこともバクシーシと呼ばれていた。バクシーシについては、地元の人も頻繁に行っているため抵抗感はなかった。1回につき20パイサ(0.20ルピー)程度を渡していたが、時には額が少ないと厚かましいことを言われることもあった。カルカッタでは砂利の中にいつまでも顔を埋めて周囲の関心を惹こうとしている男児、ブッダガヤーではハンセン病(癩病)患者である壮年の男性、カジュラーホーに向かうバスの中では骨のように痩せた年配の女性を見かけるなど、様々な乞食と出会った。

カースト制度はヒンドゥー教とも密接に関わっており、インド人にとっては、当面、逃れる術のない楔だと言ってよいであろう。リクシャーに乗っていて目的地がどこにあるか分からない時、自分で通行人に道を尋ねるようリクシャー・ワーラーに依頼されることがあったが、これも上流階級の人と自由に交流することを許さないカースト制度が影響していたのかもしれない。社会的差別は日本を含め多くの国で見られるが、インドでは国の経済発展のためにも深刻な問題であろう。

食事に際しては、当然のことながらカリー(カレー)を食べることが多かった。日本のインド料理店でも食べることができるが、安価であるとともに本場であるため種類が豊富だ。また、カリーとは呼ばず、具の種類によって料理名が付けられている。1品に含まれている具は多くても2種類であり、たとえばじゃがいも(アールー)とグリーンピース(マタル)のカリーはアールー・マタルと呼ばれる。主食となるパンとしては、日本で見かけるナーンは高級品であり、もっと薄いチャパーティの方が主流だ。地元の料理と比較すると日本で食べられているインド料理は贅沢なのだということを再認識した。

現地での1日平均の旅行費用(土産費を除く)は約900円であった。旅行費用のうち宿泊料金の最高はパトナーの約730円(160.50ルピー)で、最低はヴァーラーナシーの約91円(20ルピー)であった。一方、ヨーロッパ旅行以来の海外旅行に要した費用を渡航費用などを含めて合計すると、100万円に達した。

ニューデリー中心部ではエア・インディアのオフィスなど近代的なビルディングを見かけたが、今後インドが近代化していくことは容易ではないであろう。カースト制度などの弊害があまりにも大きいためだ。生産性という概念にも無縁のようだ。銀行では両替のために1時間も要することがあった。その間、数人の銀行員が雑談をしながら手慣れているようには見えない手付きで多すぎると思われる書類に順に記入をしていた。制度が経済発展を妨げている典型だと考えられ、他山の石とする必要があろう。

出発

抜粋

カルカッタ

ブッダガヤー

パトナー

ヴァーラーナシー
カジュラーホー

アーグラー

デリー

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
26日14:20 空路 20:30 インド カルカッタ
28日20:05 鉄路 29日06:30 ガヤー
30日04:45 鉄路 07:30 パトナー
1日11:20 鉄路 15:10 ヴァーラーナシー
4日23:30 鉄路 5日08:00 サトナー
09:10 道路 13:10 カジュラーホー
6日16:45 道路 22:30 ジャンシー
23:00 鉄路 7日02:45 アーグラー
8日12:00 鉄路 15:10 デリー
11日04:50 空路 16:20 日本 東京
道路 :道路、 鉄路 :鉄路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
インド カルカッタ Hotel Paragon IN.R 35.00 2
ガヤー Hotel Saluja IN.R 57.00 1
パトナー Hotel Rajasthan IN.R 160.50 1
ヴァーラーナシー Yogi Lodge IN.R 20.00 4
カジュラーホー Yadav Lodge IN.R 84.00 1
アーグラー Akbar Inn IN.R 80.00 1
Shahjahan Hotel IN.R 80.00 1
デリー Bright Guest House IN.R 70.00 2
The Centaur Hotel 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
US.$ 123円 0 0 4
内訳
0 0
インド IN.R 4.57円 110.45
内訳
1,211.10
内訳
821.75
内訳
0 75.40
内訳
通貨計 JP.\ 1.00円 505 5,532 4,245 0 344

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
0 0 4
内訳
インド 814.50
内訳
779 3,812.20 14,347 16 897
通貨計 3,721 3,558 14,347 16 897
(注)円換算と日平均は他国通貨での支払いを含み、土産費を除く。

出発

抜粋

カルカッタ

ブッダガヤー

パトナー

ヴァーラーナシー
カジュラーホー

アーグラー

デリー

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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