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ラオス / ←─後 / 前─→

ラオス

出発

バンコク

ノーンカーイ

ヴィエンティアン
抜粋

カンチャナブリー

回顧

概要

■バンコクは、3回目の訪問であり、夜とはいっても市内バスなどの運行時間内に到着したことはありがたく感じた。荷物は韓国旅行の際と同じく機内持込にしていたためバッゲイジ・クレイム(託送荷物の受け取り)の必要がなく、入国審査が終わるとすぐに空港の外に出ていくことができた。

カオサン通りに向かうバスの中で、タイを1か月にわたって旅行しており南部のリゾート・アイランドから戻ってきたところだというイタリア人男子学生と親しくなった。タイではチェンマイからの5日間のトレッキング・トゥアーが素晴らしかったと言っていた。到着するとすぐにゲストハウスを決め、再び通りに出てみた。どのレストランでも多くのヨーロピアンがくつろいでおり、その集中振りには改めて驚かされた。

翌日、通りにある旅行代理店でラオスのヴィザ取得について相談したが、取得までに4〜7営業日を要すると言われ、ヴィザ取得は諦めざるを得なかった。その代わり、ラオスの町をメコン川越しに間近に望むことのできる東北を訪ねることとし、ノーンカーイまでの当夜の急行列車の2等席を予約した。

写真
楽宮大旅社

旅程が固まったため、市内見物に出かけた。主な観光名所は既に初回のタイ旅行の際に見物しており、この旅では町並みを楽しむことに意を注ぐことにした。まず、チャイナ・タウン東部にありタイの第一次世界大戦参戦を記念する7月22日(ウォンウィエン・イーシップソーン・カラッカダー)ロウタリに向かった。ロウタリに面してジュライ・ホテル(イーシップソーン・カラッカダー)が軒を構えているほか、近くには有名な楽宮大旅社(サンティパープ・ホテル)がある。ドラッグなどに溺れる長旅の日本人をモデルにした小説の舞台になった中国系旅社であり、日本のテレヴィジョン放送でもドラッグ問題の報道に際して取り上げられたことがある。参考までに1泊120バーツ(1バーツは約4.15円)の部屋を見せてもらったが、小説に書かれているような非常に汚い旅社だという印象は受けなかった。ただ、狭い通路を挟んで左右の部屋がどこまでも続いている様は刑務所の独房のようで、異様な雰囲気であった。

その後、近くにあるフアラムポーン駅に荷物を預けて身軽になり、バスに乗ってスリウォン通りに向かった。市内を縦横に走るバス路線を地図で確認することは難しく、この旅でもバスを自在に乗りこなすという段階までは達しなかった。スリウォン通りは近くを平行に走るシーロム通りとともにビジネス街であり、洗練された店が並んでいる。また、2つの通りの間にある歓楽街パッポン通りや日本料理店が軒を連ねるタニヤ通りは、かなりの賑わいを見せていた。

この旅でも、外国人に狙いを定めた悪質な行為に悩まされた。スリウォン通りで通りかかったトゥクトゥクの運転手には、ビーマン・バングラデシュ航空のオフィスはシーロム通りに移転したと言われたが、信用せずに無視して歩き続けているとやはりスリウォン通りで見つけることができた。また、パッポン2通りでは、入店したバーで不当な料金を請求され、店員に取り囲まれて脅されるということがあった。

パッポン通りからは、ラーチャダムリ通りを経由してヴェトナム旅行の際に泊まったホテルに立ち寄った後、駅に戻った。ノーンカーイに向かう列車では空気調整はなされていなかったが、窓が開いていたため次第に寒くなってきた。そこで襟付きシャツを着ることにしたが、裏返しにすることによって内ポケットのようになった左右の胸ポケットに財布などを入れて防寒のほか防犯の用途にも役立たせることができ、一石二鳥であった。

出発

バンコク

ノーンカーイ

ヴィエンティアン
抜粋

カンチャナブリー

回顧

概要

■ノーンカーイ駅に到着すると、トゥクトゥクに乗ってイミグレイションに向かい、まず展望台からメコン川を見物した。ヴェトナム旅行の際に下流のメコン・デルタで眺めた時と同様に悠々とした流れを見せていた。ただし、当地では国境、それも資本主義国と社会主義国を隔てる国境を形成しているわけであり、地元に与えている意味は全く異なる。1975年にラオスで社会主義政権が成立した時には多くの避難民が命を賭して渡った川だ。その後、少し駅の方に戻ってメコン川沿いのゲストハウスにチェックインした。ゲストハウスから河岸に向かうと、対岸で人が自転車に乗っている様を窺うことができたり、社会主義の宣伝のためと思われる音楽が聞こえてくるなど、ラオスの生活の一部を垣間見ることができた。

次いで、イミグレイションの隣にある旅行代理店でラオスのヴィザ取得について相談した。すると、バンコクで問い合わせた時よりも5割程度高い3,000バーツを要するものの、代理申請によって即日発給が可能だという。そこで、ラオス訪問を決断した。ただ、申請に際して確認した時には当日は日曜日であるものの発給は可能だと言っていたにも関わらず、同じ建物内にあるレストランで朝食を取っている時、翌日11時、14時と、次々と発給時刻の変更を通告してきた。小さな店であるだけに無事にヴィザを取得することができるのかどうか不安になってきたが、どうすることもできない。

シーチェンマイは、ノーンカーイの西数十キロメートルにある小さな町であり、ヴィザの申請を済ませた後、立ち寄ってみることにした。バス停留所でスコールが上がるのを待って、対岸にヴィエンティアンを望むことのできる河岸に向かった。数軒の家が小さく見えるだけであったが、ラオスの首都を目の当たりにしているのだと考えると気持ちが昂ってきた。地元の人は、ノーンカーイのイミグレイションに限らず方々の船着場から自由にメコン川に漕ぎ出しているように思われた。

翌日、帰国便のリコンファームを電話で行った。バンコクでは、閉店時刻を過ぎていたため、ビーマン・バングラデシュ航空のオフィスでリコンファームを行うことができなかったのだ。航空券が通常のフィックス(帰国便の変更不可)ではなく60日間オウプン(帰国便を出発日から60日間以内で変更可能)であったためリコンファームには慎重を期する必要があると考えられ、オフィスを訪ねることができないのは辛かった。こちらの用件は何とか伝えることができたが、相手の最後の説明が聞き取りづらかった。おそらくチェックイン・タイムのことを言っていたのだと思うが、理不尽なことにこちらが確認しようとしているのに勝手に電話を切ってしまった。

再開したラオスとの通商によって潤っているのか、当地では洗練された店が並ぶ商店街を見かけた。食事に際しては、チキン・スープやチキン・カリーなど辛いタイ料理を堪能した。

出発

バンコク

ノーンカーイ

ヴィエンティアン
抜粋

カンチャナブリー

回顧

概要

■ヴィエンティアン(万象)訪問が待ち遠しいが、ヴィザの発給はさらに1時間遅れの15時になるという。抗議すると、ヴィエンティアンで問題が生じているという返事だ。理不尽だと思うが、パスポートを預けたままになっており、抵抗しても無力だ。

イミグレイションの展望台からは船の往来を間近に眺めることができる。船は船籍によってタイかラオスの国旗が掲げられていた。観察していると、ラオスに向かう人の荷物には洗剤や電気機器が含まれていることが多いのが分かった。一方、ラオスから到着した人の荷物は一般に少ないようだ。

ヴィザは16時半頃になってようやく取得することができた。同時に申請した人と同じ紙に記される形式になっていた。すぐにガイドに付き添われ、若い日本人男性二人とともにイミグレイションを通って船に乗り込んだ。船は中央に2列の腰掛けが並び、外側を向いて座る形式になっている。定員は十数人であろうか。折しも降り出した雨は容赦なく船の中に入ってきた。進行方向に向かって左側には、両国を結ぶ完成して間もないミッタパーブ(友誼)橋が見えた。

間もなく対岸のタードゥアに到着し、入国手続を行った。ラオスは、8年前に初めての海外旅行で連合王国を訪ねて以来、20番目の訪問国となる。同行の男性のうちの一人は、ヴィザ取得のためだけに一旦渡航するのだと錯覚しガイドブックを始めとしてほとんどの荷物をノーンカーイのホテルに置いてきていたため、対岸に引き返すことになった。残りの男性、ヨーロッパ系の壮年の男性とともにタクシーに乗ってヴィエンティアンに向かった。日本出国時に訪問を決断していなかったためラオスのガイドブックを持ち合わせておらず、日本人男性がノーンカーイで買ったロウンリ・プラネットという英語のガイドブックをタクシーの中で見せてもらった。ヴィエンティアンのほか、古都ルアンパバーン(ルアンプラバン)など地方にも足を伸ばすとのことであった。

写真
サムセンタイ・ホテルから

到着すると、ゲストハウスの前で降ろしてもらった。しかし、満室であったため、近くにあるホテルを紹介してもらうことにした。ちょうどチェックインしようと思っている時、一旦上がっていた雨が再び激しく降り始めた。宿泊先を確保しておらず地理も全く把握していない新しい町で雨に降られるのは非常に辛いことであり、間一髪であった。ホテルではオウナーに地図をもらうことができ、メコン川に近い中心部にいることが分かった。当地は3日間にわたって見物することにした。

当地での2日目は朝のうち激しい雨が降っていたため観光名所の見物は翌日に延ばすこととし、周辺を散策した。首都とは言っても人口は50万人に過ぎず、タイの田舎町のような印象を受ける。道路にはモウターバイクを始めとしてある程度の車の往来は見られるが、市内に信号が数か所もあれば足りるほどでしかない。バンコクのように街路のあちらこちらでテレヴィジョンを見かけることも少ない。また、メコン川の中州では牛の放牧を行っていた。

ラオスは、ヴェトナム、カンプチアとともにインドシナ3国に含められることが多いが、文化的にはタイ文化圏に属するのであろう。寺院はタイと同じ建築様式で建てられている。市街を走っている交通機関はタイで見られるトゥクトゥクやサームローだ。レストランではタイ料理、ヴェトナム料理、中国料理などを見かけた。また、首都圏ではバーツも通用するようだ。植民地の宗主国であったフランスの影響としては、朝食用のトウストに用いられるフランス・パンや市街で見かけるフランス風アルファベットなどが挙げられようか。

政治的にはヴェトナムとの関係が密接なのであろうが、市街でそれを窺わせるような光景は見かけなかった。そもそも、市街を歩いているだけではラオスが社会主義国であることを示す特徴さえ見当たらないのだ。スーパーマーケットに並べられていた商品は豊富であった。タイから輸入されているのか、ノーンカーイのイミグレイションで見かけた洗剤などの工業製品も並んでいた。ただし、おそらくタイよりも高い価格で売られているのであろう。植民地時代の影響か、トイレット・ペイパーも外国人用としてではなく一般国民用として売られていた。

開放政策の影響もあって英語を話す人は増えていると聞いていたが、市街で地元の人が話しかけてくることは全くなかった。トゥクトゥクの運転手が遠慮気味に声をかけてくる程度であり、こちらに乗車の意思がないことが分かると簡単に諦めて走り去ってしまう。タイでは考えられないことだ。また、非常にもてはやされたヴェトナムとは対照的に、小道に足を踏み入れてもこちらのことを外国人だと認識しているのかどうかさえ分からないような反応なのだ。これは、ラオス人の国民性が内向的であるためなのか、あるいは外国人と接触する機会が全くなく戸惑っているためなのか、よく分からなかった。

3日目も、朝のうちは雨が降っていたが、自転車を借りて市内見物をすることにした。ホテルに近く最初に見物したワット・オントゥでは、若い僧侶が勉強している光景を見かけた。ワット・ホー・パケオやワット・シーサケートは、タイの寺院のような煌びやかさはないが見応えがあった。タート・ルアンは町のシンボルになっている塔だが、近づくことができないのは残念であった。ワッタイ空港にも足を運んだが、首都の空港とは思われないような小さな空港であった。また、メコン川沿いにタードゥアに通じている道路でサイクリングを楽しんだ。

タードゥアへは、バスに乗って戻ることにした。100バーツを支払ってトゥクトゥクに乗ることが一般的だが、それでは平凡すぎて面白くないと感じたのだ。バスはタラート・サオ(朝市)から出発しているという。場所を尋ねる時に初めて地元の人と話をすることができた。タラート・サオでは、衣料品から電気機器まで豊富な商品が広い敷地に所狭しと並べられていた。バス料金は200キープ(1キープは約0.151円)と安い。周囲の乗客にタイに行くと声をかけておいたため、無事に目的地で降ろしてもらうことができた。雨が激しくなってきていたため、ラオスに別れを惜しむ間もなく出発間際の船に乗り込むことにした。ノーンカーイに戻ると、雨が小降りになるのを待ってバス・ターミナルに向かい、バンコクの北バス・ターミナルに向かう夜行バスに乗った。

出発

バンコク

ノーンカーイ

ヴィエンティアン
抜粋

カンチャナブリー

回顧

概要

■カンチャナブリーへは、バンコクから西に向かう。映画「戦場にかける橋」によって一躍有名になったクウェー(クワイ)川鉄橋のある町だ。クウェー川鉄橋は、第二次世界大戦中に日本軍がビルマ(現ミャンマー)、インド進攻作戦の一環として連合王国を始めとする連合軍捕虜や近隣諸国の強制労働者を過酷な労働条件下で使役して短時日のうちにタイとビルマを結んだ泰緬鉄道建設の難関の1つであり、大量の犠牲者を出したことで問題になっている。

到着すると、サームローに乗ってレンタサイクル店に連れていってもらい、自転車を借りてクウェー川鉄橋を目指した。道は少し入り組んでいたが、すぐに到着した。今では静かな流れを見せるクウェー川の上に平凡な鉄橋が架かっているだけで、拍子抜けするほどのどかな雰囲気だ。鉄道橋としてだけではなく道路橋としても用いられており、モウターバイクなども往来している。橋の上には、列車が接近してきた時に備えて数か所に退避所が設けられていた。

次いで、連合軍共同墓地(ウォー・セメタリー)を横目に市街に戻り、JEATH戦争博物館を見物した。第二次世界大戦当時の遺品や写真などが展示されており、日本軍による連合軍捕虜虐待の様が生々しく描写されていた。いかに戦時とは言え、正気の沙汰とは思われないことが行われていたと言わざるを得ないであろう。

当地では、日本人として悔恨の情を感じざるを得ない。日本人は、国内では徴兵、神風特別攻撃隊出撃、空襲、原子爆弾投下などの連想から軍事政権や連合軍の被害者であったという印象を持つことが多いが、アジア各地では明らかに加害者であったのだ。中心部と鉄橋を結ぶ道路から左右に伸びている小道は、「オランダ通り」や「ビルマ通り」など日本軍の被害に遭った連合国や近隣諸国の名前が付けられていた。また、JEATH戦争博物館では、各国からの訪問者を歓迎することをそれぞれの国旗によって示していたが、日章旗(日の丸)は最初に配置されており、当地では日本は加害者として特別な立場に立たされていることを意識させられた。ただし、必ずしも楽しい町と言うことができない当地を訪ねる日本人は少ないのか、日本人だと分かると歓迎してくれるということもあった。

バンコクでは、南バス・ターミナルがカンチャナブリー方面のバスの発着所になっている。バス・ターミナルとの間は往路、帰路とも市内バスを乗り継いだが、ともに交通渋滞に巻き込まれ、途中でバスが全く動かなくなるということがあった。当地では地盤が弱く地下鉄の建設が難しいなどという事情のため代替交通手段はなく、バス・ターミナルが郊外に設置されているだけでは他国のように渋滞から解放されるということにはならないのだ。車内から観察していると、車両の円滑な通行を妨げる右折車が多く、右折可の時間が長すぎるように感じた。今後、交通政策が積極的に展開されることを期待したい。なお、カンチャナブリーに向かう時、北バス・ターミナルからの移動に2時間も要し苛立っていたため、南バス・ターミナルに停車する前に地元の人を見習って降車しようとした。しかし、バランスを崩して転倒してしまった。

カンチャナブリー訪問後、ドーン・ムアン空港に戻るまでにあまりにも時間がかかっため帰国便のチェックイン・タイムに間に合わないのではないかと焦ったが、何とか出発時刻の2時間程度前に到着した。夜になって出発し、翌日に帰国した。シンガポールからは、バンコク・イン、シンガポール・アウトの航空券を利用してミャンマー訪問とマレイ半島縦断を行ったという日本人男子学生と乗り合わせた。軍事政権が支配する社会主義国ミャンマーでは、闇両替を封じるために入国に際して300USドル相当額の強制両替が課されているという。

出発

バンコク

ノーンカーイ

ヴィエンティアン
抜粋

カンチャナブリー

回顧

概要

■現地での1日平均の旅行費用(土産費を除く)はラオスのヴィザ取得のための手数料のために倍増して約2,800円であったが、ヴィザ取得のための手数料を除くと約1,300円であり、実質的にはインド旅行の際に次ぐ割安な旅をすることができたと言うことができる。旅行費用のうち宿泊料金の最高はヴィエンティアンの約620円(150バーツ、正規には6USドル)で、最低はバンコクなどの約330円(80バーツ)であった。

ヨーロッパ旅行以来の海外旅行に費やした日数を合計すると106日と3桁に達した。ヨーロッパ旅行の後はアジア諸国の訪問が続いており、東アジアから南アジアまで7回旅行して7か国を訪ねたことになる。内訳は、NIESが香港と韓国の2か国、ASEAN(東南アジア諸国連合)がタイの1か国、社会主義国が中国、ヴェトナム、ラオスの3か国、その他の発展途上国がインドの1か国となる。

ECの改組によるEU(ヨーロッパ連合)の設立やNAFTA(北アメリカ自由貿易協定)の締結によって政治・経済の統合が図られている欧米諸国と異なり、アジア諸国では政治・経済体制、民族、宗教が複雑に入り組んでおり、国境は重要な意味を持っている。ヨーロッパ旅行の際にはバルセロナからの地中海北岸東進、ブリンディシからのアドリア海横断、イスタンブルからのバルカン半島縦断など陸路、水路を問わず様々な国境越えを経験することができたが、アジアでは国境越えには様々な制約が課される。日中間と日韓間の航海は別として、アジア諸国訪問の際の国境越えは、香港、中国間の移動に次いで、この旅のメコン川横断でまだ2回目だ。ただし、重要な意味を持っているだけに、国境を観察することは興味深い。

2等列車(国によっては3等列車)が当該国の縮図だと言われることがあるが、国境は貿易や外交など当該国と隣接国の国際関係を如実に示していると言うことができないだろうか。特に、政治・経済体制の異なる国を隔てる国境を時間を越えて比較することができたとしたら、興味は尽きないであろう。そして、近年の社会主義国の開放政策によって外国人が国境を越えることが次第に容易になってきていることは大歓迎だ。4年来の希望であったラオス訪問を実現することができたのも開放政策のおかげだ。今後は開放政策をさらに進めることによって、政治主導による社会主義からの決別を図っているヨーロッパの旧社会主義国とは対照的な経済主導による資本主義の導入が実現することを期待したい。そして、入国許可の簡便化、国境の外国人への開放、交通網の整備がさらに進んで、中国、東南アジア、インド間や欧亜間を陸路によって越えることが容易になるとしたら、それに過ぎる喜びはない。

出発

バンコク

ノーンカーイ

ヴィエンティアン
抜粋

カンチャナブリー

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
12日12:00 空路 18:00 シンガポール シンガポール
19:00 空路 20:00 タイ バンコク
13日20:30 鉄路 14日07:30 ノーンカーイ
15日16:20 水路 16:35 ラオス タードゥア
16:50 道路 17:30 ヴィエンティアン
17日14:00 道路 14:30 タードゥア
14:35 水路 14:45 タイ ノーンカーイ
17:30 道路 18日07:00 バンコク
09:20 道路 11:30 カンチャナブリー
13:50 道路 16:15 バンコク
20:15 空路 23:20 シンガポール シンガポール
19日00:40 空路 08:30 日本 東京
道路 :道路、 鉄路 :鉄路、 水路 :水路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
タイ バンコク Dior Guest House TH.B 80 1
ノーンカーイ Rimkhong Guest House TH.B 80 1
ラオス ヴィエンティアン Samsenthai Hotel TH.B 150 2

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
タイ TH.B 4.15円 3,034
内訳
628
内訳
1,064
内訳
0 20
内訳
ラオス LA.K 0.151円 0 2,850
内訳
200
内訳
0 600
内訳
日本 JP.\ 1.00円 0 0 0 0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 12,581 3,036 4,442 0 174

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
タイ 547
内訳
300 5,593
内訳
19,957 5.1 3,913
ラオス 0 0 3,650 2,543 1.9 1,339
日本 0 0 0 0 1.0 0
通貨計 2,268 1,244 22,500 8.0 2,813
(注)円換算と日平均は他国通貨での支払いを含み、土産費を除く。

出発

バンコク

ノーンカーイ

ヴィエンティアン

抜粋

カンチャナブリー

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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