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東南アジア

出発

メトロ・マニラ

抜粋

シンガポール

ジョホールバル
バタム

シンガポール2

回顧

概要

■メトロ・マニラ(馬尼刺)は、首都圏として位置付けられており、旧市街の首都マニラのほか、1976年まで首都であったケソン・シティ、新市街のマカティなどから成っている。

ニノイ・アキノ空港では、面白いことに、送迎のために空港に来た多くの人がイミグレイションの中まで入ってきていた。空港から貸切のワゴンに乗ってマカティに向かい、アヤラ・センターにあるホテル・インターコンティネンタルにチェックインした。周辺には近代的な高層住宅が林立しており、発展途上国だという印象は全く受けないし、治安もよいという。

移動に際しては、ガイドに同行してもらった。青年海外協力隊員として当地に派遣され、任期が終わった後も当地に留まって地元の女性と結婚した壮年の日本人男性だ。フィリピン人は外観を重視し、第二次世界大戦後に存在した反日感情の解消は政府による賠償よりも有志による教会再建などの具体的な事業によって達成された面が大きいと評していた。フィリピンを心から愛しているようであった。チェックイン後、ロビーに再集合して米国軍記念墓地(アメリカン・セメタリ)を訪ねた。十字架の形をしたキリスト教徒の墓標と星の形をしたユダヤ教徒の墓標が無数に立てられていた。ガイドは、当地での第二次世界大戦の戦闘状況を詳しく説明してくれた。

翌日から2日間、メトロ・マニラのパッシグ、ケソン・シティ、モンテンルパなどを訪ねた。

カラオケ・バーに繰り出した夜は、ちょうどローマ教皇(法王)ヨハネ・パウロ2世が来訪しており、繁華街では営業を自粛している店もあった。接客係の女性のほとんどが日本語で歌を歌うことができるようであった。隣に座った女性の多くが、日本の地方で出稼ぎをするためにヴィザの申請をしているとのことであった。また、フィリピン料理の夕食を堪能したレストランでは、民族舞踊の上演が行われていた。

夜に一人でマニラ中心部に出かけることもあった。しかし、ホテルを出て道路を歩いていると、急に不安を覚えることになった。それまでの移動はワゴンによっていたため、市街を主体的に歩くということがなかったのだ。マニラ中心部のエルミタを縦断しているマビニ通りまでタクシーを利用せずに向かおうと決心したが、地元の足となっているジプニー(荷台が座席に改造された乗合トラック)の乗り方が分からない。路線はボディに記されているというものの、猛然と走ってくるジプニーの行き先を確認することなどとてもできない。しばらくは歩いていたが、エルミタの南方との間を結んでいるヒル・プヤット通りまで来ると、意を決してそちらの方向に向かっているジプニーに乗ることにした。最初のうちは予想に反して英語を話す乗客が見つからなかったが、後から乗車してきた若い女性が英語を話すことが分かると、マビニ通りに行きたい旨を伝えた。残念ながら女性の方が先に降車すると知らされたが、若い男性に案内を依頼してくれた。そして、ジプニーを2回乗り換え、ようやくマビニ通りに到着することができた。ジプニーは、外観を重視するフィリピン人の気質を反映して念入りな装飾が施されている。料金は1.50フィリピン・ペソ(1フィリピン・ペソは約4.30円)とバスよりも安いが、最初のジプニーで女性の依頼に応じて乗り換えを手伝ってくれた男性が2台目のジプニーで自分の料金を断りなく上乗せするということや、3台目のジプニーで前方の乗客に料金の支払いを代行してもらった時に釣銭が返ってこないということもあった。

マビニ通りにある両替所などには警備員がいてものものしい雰囲気を醸し出していたが、多くの若者がコンサートなどに繰り出しており、日本料理店も軒を構えていた。本来はもっと散策してみたい地域だ。帰路、ジプニーに乗ってヒル・プヤット通りとの交差点まで戻ったところで乗り換えに手間取っていると、母親と同伴の女児が声をかけてくれた。見過ごすわけにはいかないので手伝ってあげるようにと母親が言っているという。そして、アヤラ・センターに直接戻ることのできるバスの利用を勧めてくれた。

当地でも経済発展に伴って交通渋滞が起こるようになっているようで、自動車は車線を無視して走っていた。列車は一般国民の足には全くなっておらず、線路際に不法に建てられた住居の住人が線路を生活の場として使っているようであった。バンコクのような深刻な渋滞になる前にLRT(高架鉄道)などの整備が必要かもしれない。

出国日は、出立までの時間を利用して市内見物をした。車内からリサール公園を見物した後、1987年にアメリカ合衆国に亡命したフェルディナンド・マルコス元大統領夫妻の豪華な生活を彷彿とさせるマラカニャン(マラカニアン)宮殿を訪ねた。ローマ教皇の来訪によって道路が渋滞していたためスペイン植民地時代の城壁に囲まれたイントラムロスに入ることは断念し、質素な住居が立ち並ぶ地域を通過して土産店に立ち寄った後、ニノイ・アキノ空港に向かった。

出発

メトロ・マニラ

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シンガポール

ジョホールバル
バタム

シンガポール2

回顧

概要

■シンガポール(新嘉坡)のチャンギ空港は、ラオス旅行の際にトランジットを行った時にも感じていた通り、経済発展にふさわしい整備が行われているほか、花壇で華やかに飾られており、心を和ませてくれる。

移動に際しては、メトロ・マニラと同じく貸切のワゴンを利用した。ガイドは、福建語、広東語、北京語、マレイ語、英語、日本語など数か国語を操るという中国系の若い女性だ。ホテルは、中心部にあるザ・ウェスティン・プラザだ。チェックインを済ませると、日程の打ち合わせを行った。

翌日の日曜日は、ガイドに市内を案内してもらうことになった。ただ、その前に、至近距離にあるマレイシアのジョホールバルを訪ねようと思い立ち、早朝一人でホテルを出発した。そして、シンガポール市内見物のための集合時刻である9時半頃にはホテルに戻ることができた。市内見物が終わると、同行者のうちの一人とインドネシアのバタム島に渡ることとし、ガイドに港まで送り届けてもらった。

シンガポール市内では、チャイナ・タウン、ヒンドゥー教のスリ・マリアマン寺院、セントーサ島とその対岸のマウント・フェーバーなどを見物した。シンガポールのシンボルになっているマーライオン(海のライオン)は、シンガポールという名前の由来がサンスクリット語の「ライオンの町」であることに由来するのであろうが、特に必見の観光名所とは思われない。しかし、中国系(華人、かつての華僑)、マレイ系、インド系などの民族が混在し様々な宗教が信仰されている当地では、ほかに町のシンボルとするべき適当なものがないのであろう。

当地に対する印象としては、既に先進国か発展途上国かという次元を越えて経済発展が進んでいるということが挙げられる。市街には周辺の景観を考えた高層住宅が至る所に林立しており、緑地の整備も進んでいる。国土の8割は国有とされているということで、高速道路の建設も縦横無尽のようだ。産業構造の高度化のためには、外国資本の誘致が進められている。一方、政治的には、地元に対する利権誘導の誘因から選挙での投票が与党候補者に集中し、議会はほとんど一党制と変わらない状況だという。また、言論、出版、報道に対する統制も厳しいようだ。このように国家主導の経済運営、権力の集中、自由の制限が徹底していることに対して、シンガポールは世界で唯一成功した社会主義国だという揶揄があるほどだ。善きにつけ悪しきにつけSF(空想科学小説)に登場する都市のようなのだ。ただ、同様の揶揄を受けることのある日本でも、産業振興政策が重視され、自由民主党政権が長期間続いていたわけであるし、許認可行政が遂行されていることを考えると、状況はあまり変わらないのかもしれない。顕著な相違点は、日本では見られない国土政策が効を奏していることであり、羨ましい限りであった。

当地にも東南アジアらしさが残っていないわけではない。トライショー(サイド・カーを客席としたサイクル力車)はその1つだ。ただ、既に観光化しており、料金はタクシーよりも高いという。また、帰国前日にオーチャード通りでのウィンドウ・ショッピングや夜行動物の生態を観察することのできるナイト・サファリを楽しんだ後、一人でMRT(地下鉄)に乗ってリトル・インディアに足を運んだが、そこでは洗練されたビルディングが並ぶほかの地域と様相が一変していた。ほかの東南アジア諸国の下町で見かける町並みと変わらないのだ。当地でも複雑な民族問題が存在するのかもしれないと感じた。帰路はホテルまで歩こうとしたが、それまでの移動をワゴンに頼っていたため、ホテルを見つけることができず通り過ぎてしまい、タクシーに乗って戻らざるを得なかった。ただ、途中、安宿街など活気に溢れた下町の風情を楽しむことができた。

食事に際しては、中国料理店に入ることが多かった。高級レストランで海鮮料理などを堪能したり飲茶(ヤムチャ)の昼食を試してみたりする一方、ホーカーズ・センター(屋台街)で夕食を済ませる日もあるなど、様々な趣向を楽しんだ。ホーカーズ・センターでは座席によって店が指定されることがないため同時に多くの店で注文することができ、便利であった。マレイ料理のサテ(串焼)などのほか蛙の唐揚げも注文した。

出発

メトロ・マニラ

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シンガポール

ジョホールバル
バタム

シンガポール2

回顧

概要

■ジョホールバルは、ジョホール水道を挟んでシンガポールの対岸にあるマレイシア南端の町であり、ジョホール・コーズウェイと呼ばれる橋で結ばれている。MRTの始発列車の運行開始前であったため、タクシーに乗ってバス・ステイションに向かった。そして、6時頃になってジョホールバルに向かうバスに乗って出発した。出入国手続はそれぞれ車外に出て行うが、入国手続に際して出入国カード(EDカード)に必要事項を記入している間にバスが出発してしまっていた。バスは頻繁に運行されているため後続のバスに乗ればよいのだと分かったが、シンガポールでジョホールバルまでのバス料金を支払った時に切符を受け取っていなかったため焦った。バス・ステイションに到着した7時頃には辺りはすっかり明るくなっていた。

当地は、シンガポールと人的にも物的にも密接な関係を持っており、メイン・ストリートでは車の往来が激しい。しかし、イスラーム教国の町であるためか、シンガポールと比べると雑然としているとの印象を受けるとともに生活臭を感じる。英語が通じることも少ないようだ。インド寺院などを見物した。シンガポール市内見物のための集合時刻が迫っており早々に当地を出立しなければならないことは残念であった。シンガポールとの間を結ぶバスの料金は往路が1シンガポール・ドル(約75.6円)であるのに対し帰路は1リンギット(約45.3円、通称はマレイシア・ドル)と方向別運賃格差が生じており、両国の経済格差を示しているようで興味深かった。

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メトロ・マニラ

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シンガポール

ジョホールバル
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回顧

概要

■バタム島は、インドネシアのリアウ諸島州に属し、多くの島から構成されている同国の中で最もシンガポールの近くに位置する。シンガポールとの間に30分間隔で定期船が運航されており、30分程度で到着する。シンガポールでのゴルフのプレイ料金が高いため、当地でプレイしようとゴルフ・バッグを担いで乗船している日本人もいた。波は比較的荒かった。港に到着するとタクシーを貸切で利用することとし、日本の占領時に名付けられたというナゴヤに向かった。

小さな島であるにも関わらずシンガポールとの通商や出稼ぎによって潤っているようで、かなり発展した町であった。同行者は価格の研究に熱心なようであった。当地ではシンガポール・ドルが通用するため両替は行わなかったが、スーパーマーケットでルピアで価格表示されている炭酸飲料の支払いをシンガポール・ドルで行うことによってルピアの為替レイトを確認すると、生活用品や高級衣料などの価格をチェックしていた。また、果物の王と言われるドゥリアンが路上で売られていたため試してみたが、当たり外れが大きいようで、美味というには程遠い味であった。帰路を急いだため、シンガポールで往復切符を買ったシンガポール籍の船には乗らず、出航間際であったインドネシア籍の船の切符を買い直した。

出発

メトロ・マニラ

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シンガポール

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バタム

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回顧

概要

■シンガポールで最後に見物した観光名所は、ホテルの前にある戦争記念公園だ。出国日に見物した。中央には第二次世界大戦犠牲者の慰霊碑が建てられている。4か国語で碑文が刻まれていたが、そのうち中国語で「日本軍による被害に遭った人の数は分からない。」と強い調子で訴えられていたことが印象的であった。また、終戦の日は1945年8月15日ではなく、18日となっていた。おそらく、日本が降伏したという情報が伝わるまでの間、当地では依然として戦闘が続いていたのであろう。3日間の差異ではあるが、戦争の加害者としての日本の立場を反省する時、このような点も忘れてはならないのだと感じた。

午前中にチャンギ空港を出立した。成田空港でバッゲイジ・クレイムを行っている時、当日、神戸で地震が発生し数百人が死亡したということを知らされ、唖然とした。当日の早朝発生したものだが、帰国便の中で流されていた日本のニューズは前日に録画されたものであり、帰国するまで分からなかったのだ。後に阪神・淡路大震災と呼ばれるようになったこの地震による死者は6,000人に上り、1923年の関東大震災に次ぐ第二次世界大戦後最悪の大惨事となった。

出発

メトロ・マニラ

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シンガポール

ジョホールバル
バタム

シンガポール2

回顧

概要

■出発前に風邪を引き、それが癒えないまま出発することになったため、フィリピンでは辛かった。程よい暑さはありがたかったが、建物やワゴンなどの中の冷房が強すぎることは迷惑であった。また、水に当たって下痢になってしまった。フリー旅行の際には歯磨きに際してもミネラル・ウォーターを用いるなど生水を飲まないように気を付けていたが、団体行動をしていると、高級レストランで出される炭酸飲料に入っている氷や水などに対して油断してしまうようだ。ただ、同行者に貰った抗生物質を服用することによって、風邪の症状を含めて体調が回復した。抗生物質の服用は、風邪の症状が悪化した中国旅行、インド旅行の際に次いで3回目だ。さらに、シンガポールでも、高級レストランでの食事が体に合わなかったのか、軽い下痢になった。

両国における国際経済情勢の概要は以下の通りだ。

フィリピンでは、電力不足による停電問題はほとんど解消したが、道路や通信などのインフラストラクチャー(社会基盤)の整備が課題となっている。一般労働者の供給は豊富で定着率は高く、その資質に対する評価は高いが、優秀な技術者や管理者は不足気味だ。最近は他国からの投資ラッシュの中で日本からの投資の相対的ウェイトは低下しているが、自動車や家庭電気機器などを製造している既進出の大企業からの要請に対応して、部品メイカーの進出が進んでいる。

シンガポールでは、政府が産業構造の高度化を目指しており、労働集約型企業の進出は望んでいないが、研究・開発部門の誘致には積極的だ。一方、地元企業のアジア地域展開による地域融合化政策の下で、民間企業の海外投資に対して税制や資金面で優遇措置を講じている。既に人手不足や高賃金に悩まされており、国内には管理部門や高付加価値部門などを残し、工場をジョホールバルを中心としたマレイシアやインドネシアのバタム島に移す企業が増えている。日本は最大の投資国の座をアメリカ合衆国に譲ったが、既進出企業が拡張投資に際して高付加価値化を行う動きが見られる。

出発

メトロ・マニラ

抜粋

シンガポール

ジョホールバル
バタム

シンガポール2

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
11日09:45 空路 13:15 フィリピン メトロ・マニラ
14日15:40 空路 18:50 シンガポール シンガポール
15日06:00 道路 07:00 マレイシア ジョホールバル
08:10 道路 09:15 シンガポール シンガポール
14:35 水路 14:10 インドネシア バタム
16:10 水路 17:50 シンガポール シンガポール
17日10:15 空路 17:25 日本 東京
道路 :道路、 水路 :水路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
フィリピン メトロ・マニラ Hotel Intercontinental(マカティ) 3
シンガポール シンガポール The Westin Plaza 3

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
フィリピン PH.P 4.30円 20
内訳
159.50
内訳
13
内訳
40
内訳
0
シンガポール SG.$ 75.6円 1.50
内訳
15.50
内訳
73.60
内訳
0 11.50
内訳
マレイシア MY.R 45.3円 0 3
内訳
1
内訳
0.90
内訳
0
インドネシア −円 0 0 0 0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 200 1,994 5,666 213 869

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
フィリピン 40
内訳
256 528.50 1,173 3.7
シンガポール 5.10
内訳
53.10 160.30
内訳
5,595 3.0
マレイシア 0 0 4.90 222 0.1 2,218
インドネシア 0 0 0 2,510 0.2 12,050
通貨計 558 5,117 9,499 7.0
(注)円換算は他国通貨での支払いを含み、土産費を除く。

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メトロ・マニラ

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春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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