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ヨルダン

出発

アンマーン

抜粋

イルビッド

ペトラ
アカバ

ドゥバイ

回顧

概要

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コンフォート・ホテル・スイーツ

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コンフォート・ホテル・スイーツから

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日本料理朝食

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アラビア料理朝食

■アンマーン(アンマン、旧称はラバ、ラバト、ラバト・アンモーン、フィラデルフィア)のクイーン・アリア空港に到着すると、同行者とともに送迎車に乗ってホテルに向かった。当地ではダウンタウンから西に向かって並んでいるサークル(円形交差点、ドゥワール、ラウンドアバウト)が目印とされることが多いが、第6サークル(ドゥワール・アッサーディス)と第7サークル(ドゥワール・アッサービウ)の間にあるアップタウンだ。高級住宅街に属するようだ。

ヨルダンの14日間の滞在期間の多くはアンマーンで活動し、5日目に北部イルビッドを日帰りで、9日目から南部アカバを3日間の日程で訪ねた。週末に当たっていた7日目はペトラに旅行した。アンマーン東部のマルカを訪ねる機会もあった。

ホテルの浴室にはバスタブが付いていた。また、アカバ訪問までの8泊は応接室が付設された部屋を割り当てられた。朝食は、部屋まで届けられた。海外では初めて受けるサーヴィスだ。西洋料理とアラビア料理から選ぶことになっており、週2回は日本料理を選ぶこともできた。日本料理の調理のためには、当地滞在の日本人の指導を受けていると聞いたが、米飯の水加減に問題があったり、味噌汁が温かくなかったりするなどの問題があった。そのため、日本料理を選ぶことのできる日でもほかの料理を食べたくなることがあったが、そのような日でも気を利かせて「今日は日本料理の日ですよ。」と言いながら日本料理が届けられ、ありがたいようなありがた迷惑のような複雑な気分であった。また、事前に聞いていた通り、ランドリ・サーヴィスが毎日追加料金不要で提供された。日本から持参する荷物を軽くすることができてありがたかった。

受入先は、手配車に乗って20分ぐらいの距離だ。しかし、Googleマップによると、第8サークル(ドゥワール・アッサーミン)の西側にあって、それほどの距離はないように見える。観察していると、第8サークルを縦断しているキング・アブドゥッラー2世通りを横切ることが難しく、迂回するため走行距離が長くなっていることが分かった。直線距離はそれほど長くない。3日目に第7サークルまで、4日目に第8サークルまでと歩行距離を伸ばし、5日目には受入先まで歩いて向かうことができた。30分ぐらいの距離であった。手配車に乗って東部のマルカも訪ねた。

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イラク・アミール

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シタデル

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ローマ円形劇場

手配車に乗って向かった西部郊外のイラク・アミールは、紀元前3世紀頃に建設されたヘレニズム様式の宮殿跡であり、ユダヤ人の手によるものだという。当時の宮殿の骨格がよく保存されていることに感心した。、ダウンタウンにあるシタデル(アンマーン城)は、ジャバル・カラアという丘の上にあり、周囲を見渡すことができる。2世紀にローマのマルクス・アウレリウス・アントニヌスの命令で築かれたヘラクレス神殿跡がある。敷地内にあるヨルダン考古学博物館も訪ねた。ローマ円形劇場は同じく2世紀にアントニヌス・ピウスの治世に築かれたもので、道路から眺めることができる。中に入ると、古代遺跡なのに最上段まで登ることができるようになっている。

後述するペトラ旅行の翌日も引き続き週末であり、マイクロバスに乗ってダウンタウンに向かった。行き先は分からなかったが、東に向かうバスはダウンタウン中心部を目指しているのではないかと考えた。現在位置はGoogleマップで確認することができるため、目的地から逸れてしまっても問題ないと安心していた。結果的にヨルダン博物館の近くで降ろされた。予想通りだ。ダウンタウンの中心部にあるフセイニ・モスクやローマ円形劇場などを見物した後、第1サークル(ドゥワール・アウワル)から第6サークルまで順に辿ってホテルに戻った。第6サークルまでえんえんと上り坂が続いた。3時間程度の行程であった。

出国日は、出立までの時間を利用して、バスに乗ってダウンタウンに向かった。経由地はマイクロバスと多少異なっていたが、ローマ円形劇場の近くで降りることができた。ニンファエウムなどを見物した後、丘の上を通ってホテルに戻った。アブドゥーンという街であったようだ。丘の上の生活はどのようなものであろうかと興味深かったが、高級住宅街のようであった。やはり3時間程度を要した。
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プリンセス・バスマ通り付近

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アブドゥーンの丘から眺めた東方

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ザ・ガラリア・モール

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サラダ

滞在中、アラビア料理のほか、中国料理、メキシコ料理などを堪能した。シャワルマ(グリルした肉を削ぐなどしてパンで挟んだ料理、トルコ料理のドネル・ケバブ)、ホテル近くのザ・ガラリア・モール内のフード・コートにあるサラダ・バー、ベイカリーのパンも試した。奥まった住宅地にあるコリア料理店へは、マレイシア滞在中に知己となった関係者に案内してもらい、旧交を温めた。

アンマーンは、非常に丘の多い町だ。そのため、視界が大きく開ける場所があり、目を楽しませてくれる。首都ではあるが、ダウンタウンにもアップタウンにも高層ビルディングは多くなく、3〜5階建ての建物が多かった。

出発

アンマーン

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イルビッド

ペトラ
アカバ

ドゥバイ

回顧

概要

■イルビッドは、北部最大の町だ。内戦下のシリアとの国境から約20kmの距離にある。過激派と当局の間で銃撃戦が起こったこともあり、以前は当地訪問には慎重であったが、その後、国境の街だけが危ないわけではないとの判断の下で、当地訪問を決断していた。

アンマーンからは手配車に乗って2時間程度の距離だ。アンマーンの郊外に出ると順調に走ることができた。シリアとの国境方面も見渡すことができたが、国境は視界に入らないとのことであった。国境方面には見所もあるようだが、国境付近は外務省から不要不急の渡航中止要請(危険度2)が発出されるなどしており、当地よりも北に足を踏み出すことはもとより念頭になかった。

出発

アンマーン

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イルビッド

ペトラ
アカバ

ドゥバイ

回顧

概要

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スィーク

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エル・ハズネ/スィーク

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エル・ハズネ

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ローマ円形劇場

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エッ・ディール

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大神殿

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王家の墓

■ペトラへは、ホテルで予約した自動車に乗って、同行者とともに向かった。トゥアー料金は、現地での待機時間に関わらず一定だとのことで、見物時間を確保するために朝食後すぐの出発となった。

当日は、金曜日であった。ヨルダンでは金曜日と土曜日が週末(厳密には週休日)となっている。宗教別の週休日について整理すると、以下の通りだ。
  • ユダヤ教では天地創造時の神の安息を記念して土曜日(厳密には金曜日の日の入りから土曜日の日の入りまで)を安息日とし、イスラエルでは週休日は金曜日と土曜日だ。
  • キリスト教では1世紀にイエス(日本語古名イエズス)・キリストが復活したとされることを記念して日曜日を主日とし、(一部のキリスト教ではユダヤ教と同じく土曜日を安息日とするが、)キリスト教国とその影響を受けた国では週休日は土曜日と日曜日だ。
  • イスラーム教では7世紀にムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがヒジュラ(聖遷、マッカでの布教を一時断念した上でのマディーナへの移住)を行ったことを記念して金曜日を集団礼拝日とするが、イスラーム教国では、前述のキリスト教国の影響を受けた国を含め、週休日は木曜日と金曜日、金曜日と土曜日、土曜日と日曜日の3通りに分かれている。
ワディ・ムーサ市街には、様々なホテルが建っている。ペトラ遺跡を日帰りで見物するのが簡単ではないためだ。入場料金は外国人料金で50ヨルダン・ディナール(呼称はJD、1ヨルダン・ディナールは約167円)と非常に高い。2日券は55ヨルダン・ディナール、3日券は60ヨルダン・ディナールと、追加的に支払う費用は低く抑えられ、滞在期間の長期化を促す仕組みになっていることは興味深い。また、ヨルダンへの日帰り旅行者の入場料金は90ヨルダン・ディナールとされている。イスラエルからの入国者を意識しているわけだが、パスポート・チェックを行っていないため、適用対象になる人はいないと思う。一方、地元の人の入場料金は1ヨルダン・ディナールだ。外国人は何と50倍の料金を支払うことになっているわけだ。

ペトラ要塞を築いたのは、紀元前2〜1世紀に香料などを商うキャラバン(隊商)交易によって栄えたナバテア(ナバタイ)王国だ。紀元2世紀にローマに併合されている。

遺跡は非常に広大だ。入口付近には、方形の岩が横たわっている。精霊が宿るとされるジン・ブロックスだ。4本の尖塔が立つ遺跡は王の墓オベリスクだ。そのうちに道はスィークと呼ばれる峡谷を通るようになる。道の両側には水路跡が残っている。かなり長い。そして、峡谷を抜けると、クライマックスのエル・ハズネだ。視界が開けると同時に目の前に現れる美しい石窟に息を呑む場面は、映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」にも登場する。紀元前1世紀に開削されたもので、宝物殿と呼ばれているが、当時は葬祭殿として使われていたのではないかという。

多くの墓が連なるファサード通りを抜けるとローマ円形劇場に至る。この辺りで、ロバ乗りの勧誘が喧しくなった。少なくとも往路は応じるつもりはなかったが、先は高台になっており、ロバに乗っていけば諦めていた最奥地のエッ・ディール(エド・ディル)まで向かうことができるという。そこで、勧誘に応じることにした。最初は振り落とされないかと怖かったが、こつを掴むと楽しむことができるようになった。エッ・ディールは、修道院と呼ばれているが、開削時の用途は分からないという。

その後、カスル・ビントまで下ったところで、ロバを降りた。そして、凱旋門(テメノス・ゲイト)、ペトラ遺跡で最大規模の建造物である大神殿(グレイト・テンプル)、ニンファエウム、王家の墓(ロイヤル・トゥーム)などを見物しながら引き返した。

日帰りではあったが、十分に堪能することができた。ただし、メイン・トレイルだけを巡ったという状態であり、見所はまだまだありそうだ。

出発

アンマーン

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イルビッド

ペトラ
アカバ

ドゥバイ

回顧

概要

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モーヴェンピックから

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イーラ遺跡

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ヨルダン側から眺めたエイラット(奥)

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ヨルダン側から眺めたタバ

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サウディアラビア国境

■アカバは、南部の要衝だ。内陸国とみなされがちなヨルダンだが、唯一当地で外海に面している。

アンマーンからは手配車に乗って5時間程度の距離であり、イルビッドのように日帰りで訪ねることは現実的ではない。アカバに向かう途中、左手にワディ・ラムの西端が現れた。

予約したホテルは、アカバ湾に面した中心部にあった。周辺は随分華やいでいるとの印象を受ける。人口や経済の規模でははるかに上回るアンマーンよりも当地に住んでみたいという希望を持たせてしまうような雰囲気を醸し出しているのだ。ホテルからは、アラビア半島とエジプトのシナイ半島を隔てているアカバ湾を望むことができた。その先にはイスラエルのエイラットがはっきりと見えている。また、水路を進むと、アジアとアフリカを隔てている紅海(レッド・スィー)だ。

当地での2日目の朝、ホテルの外に出てビーチを目指そうとしたが、プライヴェイト・ビーチばかりであった。パブリック・ビーチは郊外に出ないとないのかもしれない。そのうちに、泊まっているホテルは通りの陸側にあるが、連絡通路で海側と繋がっており、プライヴェイト・ビーチを持っていることが分かった。周辺にパブリック・ビーチがないのであれば、プライヴェイト・ビーチを持たない限り高級ホテルにはなり得ないのであろう。当地はサウディアラビア人にとっての避暑地となっているが、まだビーチで泳ぐことができるほど暖かくないためオフ・シーズンとのことであった。

3日目の朝は、イーラ遺跡を見物した後、イスラエルとの国境を目指そうとタクシーに乗って向かったが、パスポートを所持していなかったため途中で追い返された。当日は、南部郊外のマリン・パークを訪ねることになっており、紅海越しにエジプトのタバを眺めたり、さらに南に向かってサウディアラビアとの国境を見物したりした。国境に向かっている途中、ほとんど自動車を見かけなかった。ヨルダンからの陸路国境越えは一般的ではないのであろうか。緩衝地帯があるため、サウディアラビア領を直接目にすることができたわけではないが、目の前の丘を越えると、技術者などとして滞在する場合を除き、非イスラーム教徒にとって最も入国の難しいサウディアラビアの領土が広がっているということに満足して当地を後にした。

当局は当地を観光地として発展させたいと考えているようだが、物流拠点としての役割を重視してもよいのではないかと思う。

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アンマーン

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ペトラ
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ドゥバイ

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概要

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ブルジュ・ハリファ付近

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ブルジュ・ハリファ

■ドゥバイ空港での乗換時間は5時間程度であった。夜ではあったが、同行者ともどもドゥバイを訪ねたことがなかったため、市内に入ることにした。メトロに乗って世界最高層ビルディングのブルジュ・ハリファを訪ねた。その時点での世界最高層ビルディングの訪問は、定義にもよるが、シカゴのシアーズ・タワー(現ウィリス・タワー)、クアラルンプールのペトロナス・トゥイン・タワー、台北の台北101に次いで4回目だと考えている。どのぐらい高いのか見当が付かない。

高層ビルディングだけでなく、街全体が近代的であるように思われる。空港職員やメトロの乗客に外国人が多いことも特徴だ。人口の4分の3が外国人だというのだから当然であろう。タクシーに乗ってゴウルド・スーク(市場)に向かったのは日付が変わる頃であったから閉店時刻を大幅に過ぎていたが、一瞥した後、空港に戻った。

出発

アンマーン

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イルビッド

ペトラ
アカバ

ドゥバイ

回顧

概要

■それまでの旅では、予約済みの宿泊施設がGoogleマップ上に描き込まれることが多かった。しかし、今回の渡航では自ら予約したわけではないため、そのようなことは起こらないはずであった。ところが、アカバ付近の地図を眺めていると、予約済みのホテルが描き込まれていた。ただ、宿泊日が間違っている。原因を調べてみると、ホテルと自動車の手配結果を同じGmailで受信しており、Googleマップが宿泊日だと表示した期間は自動車の手配期間であった。GoogleがGmailの内容を無断で利用しているのではないかと感じられ、気持ち悪さを禁じ得なかった。

現地での1日平均の滞在費用(土産費を除く)は約14,000円であった。滞在費用のうち宿泊料金の最高はアンマーンの約12,000円(70.18ヨルダン・ディナール)で、最低はアカバの約10,000円(60ヨルダン・ディナール)であった。外国人をターゲットにした商品やサーヴィスの価格は日本よりも高い。ホテルではいろいろと気を遣ってくれたが、料金の割にサーヴィスが行き届いているとまでは言うことのできない状態であった。なお、30年前の初回のヨーロッパ旅行以来の成田空港での離着陸回数が100回に達した。

ヨルダンはブリティッシュの紳士淑女の気風を受け継いでいるのであろうか。スーパーマーケットのキャッシュ・レジスターの列に並んでいると購買品数の多い前の客が先に通させてくれたり、横断歩道のない道路を横断するために立っていると自動車が停止して先に通させてくれたりすることがあった。思わず好きになってしまう国民性だ。

また、周辺に治安が定まらない国を控えている中で、ヨルダンの治安は例外的に安定している。そして、非産油国としてはそれなりの所得水準を保っている。過激派の侵入を国境で食い止めるとともに国内から過激派組織の信奉者を出さないようにすることによって社会の安定を保ち、経済発展に繋げていくことが課題であろう。

出発

アンマーン

抜粋

イルビッド

ペトラ
アカバ

ドゥバイ

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
3日22:00 空路 4日04:55 アラビア人首長国連邦 ドゥバイ
08:05 空路 09:35 ヨルダン アンマーン
8日08:30 道路 10:30 イルビッド
12:45 道路 14:45 アンマーン
10日07:30 道路 10:30 ペトラ
15:30 道路 18:50 アンマーン
12日13:30 道路 17:50 アカバ
14日12:30 道路 17:45 アンマーン
17日16:55 空路 21:40 アラビア人首長国連邦 ドゥバイ
18日03:15 空路 17:15 日本 東京
道路 :道路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
ヨルダン アンマーン Comfort Hotel Suites JO.D 70.18 8
アカバ Movenpick Resort & Residences JO.D 60.00 2
アンマーン Comfort Hotel Suites JO.D 70.18 3

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
ヨルダン JO.D 167円 8.90
内訳
261.65
内訳
10.80
内訳
0 130
内訳
アラビア人首長国連邦 AE.D 41.7円 0 0 37
内訳
0 0
日本 JP.\ 1.00円 0 0 0 0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 1,490 43,797 3,349 0 21,761

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
ヨルダン 891.98
内訳
18.65 1,321.98 218,162 13.8 15,809
アラビア人首長国連邦 0 0 37 1,541 1.2 1,284
日本 0 0 0 0 1.0 0
通貨計 149,307 3,122 219,704 16.0 13,731
(注)円換算と日平均は土産費を除く。

出発

アンマーン

抜粋

イルビッド

ペトラ
アカバ

ドゥバイ

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概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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