旅べえ > 第5部旅草子 >

←後 / 前→


ロシア

出発

ハバロフスク

ビロビジャン

ウラディオストク
抜粋

回顧

概要

写真
国際線ターミナル

写真
モウテル・アストリア

写真
モウテル・アストリア

写真
ムラヴィヨフ・アムールスコヴォ通り

写真
アムール川

写真
ウスペンスキー教会

写真
プレオブラジェンスキー大聖堂

■ハバロフスクやウラディオストクは、東京よりも西にあるのに、日本よりも1時間進んでおり、不思議な気分になる。機内では、指定された座席に座らない乗客がおり、フライト・アテンダントもそれを黙認していた。ハバロフスク空港(ノーヴイ空港)に到着すると、イミグレイションに並ぶことになるが、当初、それほど時間はかからないであろうと思われた。しかし、列がなかなか前に進まない。観察していると、入国手続のためにロシア人は3分ぐらい、日本人は5分ぐらい要しており、中には10分ぐらい要している人もいた。それだけ時間をかけて何を調べているのか分からず、旧ソヴィエト連邦時代のレッド・テイプ(文書万能主義)が残存しているのではないかと感じた。入国者数がもっと多ければ、とても捌くことはできていないであろう。

ようやく入国を果たしたが、何と両替所がない。かろうじてATMが設置されており、ルーブルを引き出すことができたが、所持する金種が1,000ルーブル(1ルーブルは約2.03円)札しかないようでは、バスに乗ることも憚られた。買い物をして小額紙幣を入手したいところだが、小売店が1軒もないのだ。タクシーに乗ることは敬遠されたため、国際線ターミナル・ヒルディングのようには見えない貧弱な建物を後にし、市内に向かう方向に進んでいった。すると、大きなビルディングが目に留まった。国内線ターミナルであった。中に入ると、国際線ターミナルよりは利用客が多いようで、小売店で小額紙幣を入手することができた。そこで、国際線ターミナルに引き返して市内に入るためのトロリ・バスを待つことにした。車内では、乗務員が入れ代わり立ち代わり3人乗ってきて、それぞれバス切符の点検をしていった。何と非効率的なのかと呆れた。

予約したホステルは、ハバロフスクT駅の近くにあるとされていた。Googleマップを利用して最寄りのバス停留所で降りるとホステルに向かおうとしたが、見つからない。宿泊予約サイトの地図は正確ではないようだ。仕方なく電話をかけてみたが、案の定、英語が通じない。しばらく押し問答をした後、切られてしまった。日本とほぼ同経度にあるのに標準時が1時間進んでいることや高緯度にあることにより、20時半頃になっても明るさが残っていたが、この頃には暗くなっており、不安を煽った。待ち合わせなのか、傍らに立っている若い女性に声をかけると、片言ではあったが、英語が通じた。そして、ホステルに電話をかけてもらった。ホステルから事情を聞いた女性は、タクシーで向かうことを勧め、タクシー会社に電話をかけてくれた。しかし、メイ・デイを含む3連休の翌日に当たっており、休暇をほかの町で過ごした人のUターン・ラッシュなのか、道路は渋滞しており、タクシーは到着しそうになかった。そのうち、女性が自分の自動車をタクシー代わりにして連れていくと申し出てくれた。ほかに方法もないため、申し出に従うことにした。宿泊予約サイトの地図では駅の南東約1kmにあることになっていたが、実際には駅の南西約1kmにあることが分かった。また、到着したのは確かに予約した宿泊施設であったが、施設名は異なっていた。2014年5月の中国旅行の際の深川の宿泊施設と同様、いずれかの当局の規制を逃れるために宿泊予約サイトに実際の施設名と住所を伝えていないのであろうか。宿泊予約後、宿泊予約サイトからだけでなく、宿泊施設からの直接の連絡があった場合は要注意ではないかという思いを強くしている。宿泊施設では、ドミトリに案内されたため、追加料金を抑えつつ個室になるよう交渉した。

翌日は、セリシェヴァ通り、アムールスキー並木通り、レニナ(レーニン)広場で接続するカルラ・マルクサ(カール・マルクス)通りとムラヴィヨフ・アムールスコヴォ通り、レニナ通りと、市内を南北に縦断する4つの通りを行き来した。ヨーロッパ風の町並みが続いていたが、メイン・ストリートであるムラヴィヨフ・アムールスコヴォ通りを除くと商店の数は少なく、また通りからは何を商っているのか分かりづらい場合が多かった。最大の見所はアムール川であろうか。上流は中露国境となっており、中国語名は黒竜江(ヘイロンチャン)だ。哈爾浜も遠くないのだ。遠くに望むことのできる山並みは中国領であろうかと、訪問から間もない地に思いを馳せながら見つめていた。屋根が印象的な教会もアムール川沿いに建っている。また、ムラヴィヨフ・アムールスキー公園やディナモ公園は、第二次世界大戦後に捕虜となった日本人シベリア抑留者が造営に携わったものだという。比較的富裕な層は、並木通りと名付けられている谷線上の通りではなく、セリシェヴァ通りなど稜線上の通りに住むことが多いように感じた。

出発

ハバロフスク

ビロビジャン

ウラディオストク
抜粋

回顧

概要

写真
ハバロフスクT駅

写真
シナゴーグ

写真
礼拝堂

写真
移住時の書籍

■ビロビジャンは、ハバロフスクの西に広がるユダヤ自治州の州都だ。ハバロフスク観光を1日で終えたため、当地での3日目は列車に乗ってエクスカーションを行うことにした。駅の時計や時刻表はモスクワ時間に従っているため、注意が必要だ。ハバロフスクT駅の窓口で、3等車の往復切符を買おうとしたが、売ってくれず、理由も説明してくれなかった。そこで別の窓口に向かうと、手続きを進めてくれた。また、ウラディオストクまでの切符を受け取ることもできた。しかし、改札はいつまでも閉鎖されたままだ。駅員に尋ねると、改札は私鉄列車の駅のように見えていた隣の建物にあるという。慌ててそちらに向かった。列車はノヴォシビルスク行であったが、隔日でモスクワ行となるようであった。切符購入時、乗車時に続いて乗車中もパスポート・チェックを受け、中国よりも厳しい管理ではないかと感じられた。また、到着まで切符を預かり、到着時に注意喚起してくれるサーヴィスは中国と同じだ。

ユダヤ自治州は、1920年代にヨシフ・スターリン(本名はヨシフ・ジュガシヴィリ)共産党書記長がユダヤ人の移住を進めたことに起原を持つが、インフラストラクチャーが整備されていない土地での生活は困難を極めたという。そして、1930年代にユダヤ人に対する迫害が行われ、ソヴィエト連邦の崩壊を経てユダヤ人は減少した。現在、ユダヤ自治州におけるユダヤ人の比率は数パーセントに過ぎないという。

ビロビジャンは小さな町なので、簡単に観光することができる。最大の見所はシナゴーグ(ユダヤ教の教会)だ。中に入ると、小さなキッパー(ユダヤ教の帽子)を被らせてもらい、礼拝堂、移住時に持ち込まれたイディッシュ語(ドイツ語の一種)の書籍、蓄音機などを案内してもらった。

当地を訪ねた多くの人は、パレスティナ問題に対する見解に関わらず、当地における弱者としてのユダヤ人について思いを致すことになるであろう。

出発

ハバロフスク

ビロビジャン

ウラディオストク
抜粋

回顧

概要

写真
ウラディオストク駅

写真
客船ターミナルから

写真
アレウーツカヤ通り

写真
スヴェトランスカヤ通り

写真
ロシア革命英傑像

写真
第二次世界大戦英傑像

写真
ホステル・アルバット11付近

■ウラディオストクは、「東方を征服せよ」の意で、文字通りロシアの東方支配の拠点として機能している町であり、太平洋艦隊本部が所在する。日本とは、19世紀のシベリア鉄道敷設、第一次世界大戦時のロシア革命に対するシベリア出兵、第二次世界大戦時の日本人に対するシベリア抑留などで関係している。ウラディオストク駅とメイン・ストリートのスヴェトランスカヤ通りを結ぶアレウーツカヤ通りには日本人町が形成されていたという。付近にはロシア革命英傑像や第二次世界大戦英傑像が立っている。また、少し離れた場所には、日本人関係者によって第二次世界大戦終戦50周年記念碑が立てられている。シベリア抑留に対する恨みもあるであろうのに、「再び歴史の過ちを繰り返さないことを誓い・・・」と、感情を抑えた表現を用いていることが印象的だ。長い歴史を振り返ると、自然と厳粛な気持ちになる。

■ウラディオストク駅へは、ビロビジャンを訪ねた日にハバロフスクT駅から夜行列車に乗り、翌朝の到着となった。駅舎とプラットフォームは、ハバロフスクT駅と同様、離れた場所にあった。構内のカフェテリアで朝食を取ったり、隣接する客船ターミナルから金角湾に架かる黄金橋(ザラトーイ・モースト)を見物したりして時間を費やした後、予約したホステルに向かった。ホステルはスヴェトランスカヤ通りの1筋北という絶好の場所にあり、比較的簡単に見つけることができた。しかし、暗証番号式の門扉を開けることができない。仕方なく、敷地内にある小売店の店員に依頼して開けてもらった。簡単に電話をかけることのできない外国人旅行者に対する配慮に欠けていると感じた。ホステルが面しているアドミラーラ・フォーキナ通りは自動車通行の規制が行われるとともに洒落た店が立ち並んでおり、今後、中心繁華街になる可能性があると思う。そのような場所に安宿を求めることができるのは、当地がもっと発展する前のしばらくの間だけではないかと考えながら滞在した。

ウラディオストクは、ハバロフスクと同様、坂が多い。ハバロフスクでは主な通りが稜線上にあるため高低差を意識することが少ないが、当地では意識することが多い。そして、眺望に恵まれた場所がある。ホステルにチェックインした後は北部にある丘陵に上り、ポクロフスキー聖堂などを見物した。また、午後になって東部にあるイーグルズ・ネスト(鷹の巣)展望台に上り、客船ターミナルからとは異なる角度から黄金橋を眺めた。

入国してしばらくの間、駅のカフェテリアなどは利用していたが、レストランに入ることは憚られた。しかし、せっかくのロシア旅行なのだから、日本ではなかなか経験することのできない料理を堪能しようと気持ちを切り替えた。そして、ハバロフスクではウクライナ料理店でキエフ・チキン・カトレットを、当地では北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)直営コリア料理店で冷麺を、ジョージア(旧称はグルジア)料理店で野菜バーベキューを注文した。いずれもガイドブックに掲載されていたレストランだ。そして、足を運ぶ価値の大いにあるレストランであった。北朝鮮直営コリア料理店に足を運ぶのは、前回のカンプチア渡航の際のシェムリアップ以来12年振り2回目だ。シェムリアップでは歌や踊りが披露されるなどエンターテインメントに力点が置かれていたが、当地ではいたって普通の接客であった。また、客の大部分を占める韓国人に対しては愛想を振る舞っていたが、日本人に対しては、言葉の問題もあるのであろうが、無愛想なことが多かったように思う。ホステルから徒歩で往復した。しかし、帰路、人通りのない夜道で若く体格のよい男性と行き違った後、治安面の不安から駆け足のピッチを少し上げた途端、段差につまずいて大きく転んでしまった。そして、要人が来訪していたのか、アレウーツカヤ通りで20mおきに配置されて車道を警護していた警察官に出血を見咎められた。ホステルでは十分な手当てを受けることができず、出国時にウラディオストク空港の応急処置室で手当てを受けたが、帰国後、処置が遅緩かつ稚拙だとクリニックで指摘を受けることになった。

帰国前日は、南部のコリア料理店の先にあり、トカレフスキー灯台が設置されているシコータ半島先端との間を往復し、のどかな風景を堪能した。

帰国便が出発するウラディオストク空港へは、アエロエクスプレスが運行しているが、割高であるとともに運行本数が少ないため、バスに乗って向かうことにした。フライト時間は2時間程度と、国内線と変わらないようなものであった。
写真
客船ターミナルから

写真
イーグルズ・ネスト展望台から


出発

ハバロフスク

ビロビジャン

ウラディオストク
抜粋

回顧

概要

写真
ウラディーミル・レーニン像(ウラディオストク)

写真
レニナ広場(ハバロフスク)

写真
カルラ・マルクサ通り(ハバロフスク)

■ロシアは45番目の訪問国であり、訪問国の面積を足し上げると、世界の総面積の半分に達した。世界の総面積の1割を占めるロシアの訪問によって、訪問国の面積割合は一気に押し上げられた。もとより、国の一部を訪ねたからと言って、その国全体を理解したということにはならないが、一定の節目ではある。

高緯度であるため、前回の中国旅行に続いて寒さに悩まされるのかと杞憂していた。実際には、確かに最低気温は1桁台であったが、最高気温はハバロフスクでは20℃台半ばに達し、防寒対策と防暑対策の両方が必要になるという有り様であった。ただ、冬枯れが広がっており、植物にはまだ冬だと認知されているようであった。

ソヴィエト連邦の崩壊時、ニューズ報道でウラディーミル・レーニン(本名はウラディーミル・ウリヤノフ)像が引き倒される映像を目にしたが、引き倒されていない像もあるのだと理解した。また、レニナ広場、カルラ・マルクサ通り、レニナ通りなど、ロシア革命に関連した人物の名前が地名に冠されている。予想外のことであった。社会主義革命に対する評価は一様ではないのかと感じた。

現地での1日平均の旅行費用(土産費を除く)は約5,000円であった。旅行費用のうち宿泊料金の最高はウラディオストクの約3,400円(1,700ルーブル)で、最低はハバロフスクの約2,000円(1,000ルーブル)であった。

前年に安倍晋三総理大臣とウラディーミル・プーティン大統領の会談が行われ、日露双方が相手国民に対するヴィザ発給条件を緩和したばかりであった。しかし、ヴィザ申請のために全旅程のホテルや交通機関のヴァウチャーと受入確認書を要求するのであれば、十分に緩和が行われたとはとても言い難い。韓国人はヴィザ取得が免除されているためか、日本人よりもはるかに多く見かけた。相互主義のため、日本人に対するヴィザ取得の免除には簡単に踏み切ることができないのであろうが、国内の観光産業の振興と、制度を実態に近づけるという観点から、少なくともさらなるヴィザ発給条件の緩和について決断を下してもらいたいものだ。

出発

ハバロフスク

ビロビジャン

ウラディオストク
抜粋

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
2日14:35 空路 18:25 ロシア ハバロフスク
4日08:25 鉄路 10:45 ビロビジャン
13:30 鉄路 16:20 ハバロフスク
19:35 鉄路 5日06:55 ウラディオストク
7日13:25 空路 14:20 日本 東京
鉄路 :鉄路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
ロシア ハバロフスク Motel Astoria RUB. 1,000 2
ウラディオストク Hostel Arbat 11 RUB. 1,700 2

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
ロシア RUB. 2.03円 80
内訳
5,038
内訳
4,145.70
内訳
0 50
内訳
通貨計 JP.\ 1.00円 162 10,204 8,397 0 101

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
ロシア 5,400
内訳
200 14,913.70 29,803 6 4,967
通貨計 10,938 405 29,803 6 4,967
(注)円換算と日平均は土産費を除く。

出発

ハバロフスク

ビロビジャン

ウラディオストク
抜粋

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

旅べえ > 第5部旅草子 >

←後 / 前→