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中国

出発

香港

広州

西安

抜粋
北京

上海

回顧

概要

■香港(ホンコン、北京語名シャンガン、広東語名ヒョンゴン)は、中国自由旅行のゲイトウェイだ。中国は自由旅行を希望する外国人に対して門戸を開放し、外国人が自由に訪ねることのできる開放都市を増やしているが、自由旅行のためのヴィザや中国までの格安航空券を日本で取得することは難しい。そこで、日本から簡単に渡航することのできるこの連合王国の植民地で旅支度を整えることが中国自由旅行のための一般的な方法になっている。中国旅行を全うすることができるかどうかは、当地での旅支度如何にかかっているのだ。

啓徳(カイタク)空港(香港空港)は中心部に近く、摩天楼の間を通り抜けるようにして着陸する。空港の外に出ると予想以上の暑さに驚かされた。九竜(ガウロン、英語名カウルーン)半島にある高級ホテルごとに停車していく機場巴士(エアポート・バス)に乗り、半島の先端にある尖沙咀(チムシャツォイ)に向かった。安宿街であるため、巴士(バス)を降りるとすぐに客引きに声をかけられる。最初の勧誘は断って、次に声をかけてきた客引きと交渉を成立させた。こうして、バジェット旅行者が愛用している重慶大厦(広東語名チョンキン・タイハー、英語名チョンキン・マンション)という雑居ビルディングの一角にあるゲストハウス(安宿)に腰を落ち着けることになった。ただし、安宿ばかりでは辛いため、3泊目は北に向かった油麻地(ヤウマテイ)にあるYMCAに移動した。

中国のヴィザ取得はゲストハウスで代理申請を受け付けていたため問題なかったが、交通機関の確保は全く思うようにいかなかった。ゲストハウスのオウナーの妻君に付き添われて中国資本の中国旅行社を訪ねたが、希望していた四川省(シチュアンション)都の成都(チェンドゥー)のほか、西安など主だった都市へのフライトはすべてかなり先まで満席という状況であった。火車(フゥオチャー、列車)の座席の確保さえ難しく、とりあえず3日後の広州までの火車を予約することにした。入国が容易になった台湾からの帰省者と日本人など外国人旅行者が押しかけていることが原因だと言われた。

このように、事前に想定していた旅程を変更しなければならないどころか以後の予定が全く立たない事態になり、どうしてよいものか途方に暮れてしまった。しかしながら、当地に滞在している間は中国に入国してからのことを心配しても仕方がないと割り切り、3日間の滞在を楽しむことにした。

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香港島

香港島にあるヴィクトリア・ピークへは2回上り、百万ドルの夜景を堪能した。最初は巴士に乗って上ったが、辺りがたそがれていく中で高層ビルディングが放つ光が次第に映えてくる様に見とれていた。眼下には近代都市を一望することができる。従兄弟もかなり気に入ったらしく、2回目に上った時にピーク・トラム(ケイブル・カー)の山頂站(ジャン、駅)からさらに実際の山頂まで登っていくほどであった。

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旧九竜站時計台

九竜北方の新界(サンガイ、英語名ニューテリトリー)には落馬洲(ロッマアザウ)国境展望台や万仏寺(マンファッジー)などの観光名所がある。火車に乗って向かったが、途中で見渡すことのできた新界の住宅街では高層住宅が林立しており国土の狭さを感じさせる一方、計画的に配置され自然との調和も図られているように感じられた。上水(ションスイ)站で巴士に乗り換えると、次第に人の住んでいる気配がなくなってくる。落馬洲には何回も道に迷った末に到着した。そこからは中国領をはっきりと見渡すことができたが、のどかな田園風景が広がるだけで国境を感じさせるようなものは何もなかった。これは、中国の開放政策によって両地域の関係が緊密になってきているためかもしれない。帰路は九竜站から尖沙咀東(チムシャツォイ・イースト)を経由してゲストハウスに戻った。九竜の町並みにもかなり慣れてきたようだ。尖沙咀にある旧九竜站時計台、香港歴史博物館、香港芸術館(ヒョンゴン・ガイソッグン)なども見物した。

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南中国海

香港島南部へも巴士に乗って向かい、マーケットで賑わう赤柱(チェチュウ、英語名スタンレイ)や水上生活者(蛋民)が依然として残っている香港仔(ヒョンゴンジャイ、英語名アバディーン)などを見物した。山から見下ろす海岸線や南中国海(南シナ海)に浮かぶ島々の眺めは素晴らしく、心が洗われる思いであった。

九竜と香港島の間にはMTR(地下鉄)が通じているが、ほかにフェリーを利用することもできる。フェリーは見晴らしがよい上に料金も安く、地元の人、外国人を問わず多くの人が利用していた。香港が経済発展を続けても、ぜひ存続させてほしいものだ。

ポルトガルの植民地となっているマカオ(澳門、アオメン)にも足を運びたかったが、中国のヴィザ取得のためにパスポートをゲストハウスに預けており、断念せざるを得なかった。

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香港

広州

西安

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北京

上海

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概要

■広州(グアンジョウ)に向かう火車が出発する九竜站へは、MTRと火車を乗り継いで向かった。站は中国本土を目指す人で溢れていた。並ぶ場所を間違えたこともあって火車に乗り遅れそうになったが、何とか間に合った。火車は深川(シェンジェン)での乗り換えのない直通列車であり、出入国手続はそれぞれ九竜站、広州站で行うため、国境を苦労して越えるということはなかった。しかし、田園風景の中を走っている時、ついに大中国にやって来たのだと気持ちが昂ってきた。日時、ゲイトウェイ、交通手段とも当初の予定とは異なるが、待ちに待った中国入国だ。ヨーロッパ旅行の際にはロンドンで緊張していたが、この旅では香港の啓徳空港に着陸した時よりもむしろ広州站に到着した時の方が緊張感が高かったのではないかと思う。

入国手続を終えて広州站の站舎を出ていくと、広大な站前広場に群衆がひしめき合っている。初めて接する中国のスケイルの大きさに圧倒されるばかりであった。出口の近くではタクシー(的士、出租汽車、チューズー・チーチャー)の乗車や闇両替などを執拗に勧誘される。それを必死に振り切って市街に出ていった。しかし、両替所や火車の售票処(ショウピイアオチュー、切符売場)がどこにあるのかさえ分からず、途方に暮れてしまった。その時、コピー・ライターをしているという若い日本人男性と出会い、両替を取り扱っている中国銀行が大きなホテルの中にあることを教えてもらった後、男性が泊まっていた華僑酒店(フアキアオ・ジウディエン)というホテルにチェックインした。流花湖公園(リウフアフー・ゴンユエン)の近くにある。3人部屋のドミトリ(多人房、ドゥオーレンファン)とのことであったが、十分に調度の整った部屋を従兄弟と占有することができた。越秀公園(ユエシウ・ゴンユエン)にある五羊石像などの見物も男性とともにした。孫文(スン・ウェン、中山)を記念する中山記念堂(ジョンシャン・ジーニエンタン)では多くの人が太極拳を行っている様を見ることができた。途中、ドアの代わりに簡単な仕切りがあるだけの公衆トイレットも見物した。旅慣れた人に教えてもらいながら中国旅行を始めることで人心地がついた。

夕方、珠江(ジュージャン)の近くまで来ると、食堂の机が軒先まで張り出されて並んでおり、多くの人が涼を取りながら食事を楽しんでいた。そのうちの1軒に入り、ほかの客が食べている皿を順に指差していって野菜炒めなどの料理を注文した。「食在広東(食は広東にあり)」という言葉に恥じない味であり、十分に堪能することができた。ただ、注文の中に山と積まれた唐辛子の料理が含まれており、あまりの辛さにてんてこ舞いであった。珠江までの往路は歩いていたが、帰路は途中で雨が降ってきたためタクシーに乗ることにした。

翌日、当地を出立するために火車ではなく飛行機を利用することとし、フライトを予約するためにタクシーに乗って中国民航(CAAC)のオフィスを訪ねた。また満席ではないかと危惧しながら窓口に近づいていくと、香港の時とは打って変わって空席のある便が目白押しであった。旅程が遅れていたため成都訪問は諦め、西安までの当日のフライトを予約した。火車の售票処は多くの人で溢れていて国内旅行者の多さを窺わせたが、飛行機はまだ特権階級の乗り物なのであろう。出発時刻が迫っていたためタクシーに乗って急いでホテルに戻り、広州白雲(バイユン)空港に向かった。

フライトを予約するための交渉の過程で、中国語を話すことができなくても筆談によって最低限の意思の疎通を行うことはできるという自信がついた。

当初は訪ねる予定のなかった当地には、1日滞在しただけであった。広東省(グアンドンション)の省都ではあるが特に必見の観光名所というものがないため、緊張感を解きほぐすためにはかえってよかったのではないかと思う。この旅もようやく軌道に乗ってきたようだ。

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香港

広州

西安

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北京

上海

回顧

概要

■西安(シーアン)は、周代は鎬京、漢代以降は長安と呼ばれ、漢、唐を始めとして歴代十数の王朝が延べ1,000年にわたって建都した中国最大の古都だ。また、遥かローマに通じるシルク・ロウドの起点でもある。現在は陝西省(シャーンシーション)の省都となっている。

広州白雲空港を離陸してから2時間程度で西安西関空港に到着し、旅程の遅れを取り戻すことができた。いよいよ憧れの町の観光が始まる。その町並みは、平城京や平安京の模範であることにふさわしく、区画整理が行き届いている。また、市場を始めとして町は活気に満ちているのだが、一方で行き倒れの男児や物乞いを見るにつけ、華やかであった長安はどうなってしまったのかと嘆かれた。

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西安站

站前の一等地にある解放飯店(チエファン・ファンディエン)というホテルにチェックインした後、すぐに市街にある火車の預售処(ユイショウチュー、切符予約販売所)に出かけた。広州と同じく多くの人で溢れていたが、30分程度並んで北京までの明后天(明後日)の快客(急行列車)の硬座(インツオ、2等座席)を予約することができた。20.50元(ユエン、1元は約34.6円)であった。希望していた硬臥(インウオ、2等寝台)は満席であったが、筆談によって自ら預售(予約販売)を受けることができたことに満足した。ただ、従兄弟は、硬臥を予約することができなかったため不満であったようだ。裏に火車指定をした紙が貼ってある硬券を手に市内見物に出かけた。

広州では超満員の状態で走る公共汽車(ゴンゴン・チーチャー、市内バス)に乗ることを躊躇してしまったが、当地では大いに利用した。中国ではバスを含め自動車のことを汽車(チーチャー)と呼ぶ。

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秦始皇陵から

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華清池

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華清池

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華清池

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華清池

某記念日に当たっていた当地での2日目、東部郊外に出かけた。ホテルからは日帰りトゥアーが出発していたが、近郊汽車(郊外バス)を利用することにした。その方が気楽に観光することができると考えたためだが、実際には予想以上に苦労した。朝から降っていた雨は香港のスコール(熱帯地方特有の一時的な雨)のように激しいものではなかったが、それまでとは打って変わって涼しい天候になってしまった。そのためもあって出発が遅れ、午後になってようやく公共汽車に乗って南門(ナンメン)遠郊汽車站(郊外バス・ターミナル)に向かった。近郊汽車は座席指定だが、乗客がそれを無視して座るため座席がなくなってしまっていることには閉口した。そして、座席を譲ってもらおうとすると、自分の座席には別の乗客が座っているからその人に要求するようにと言われるのだ。しかし、そのような主張に従っていてはいつになっても交渉が終わらないため、こちらの要求を繰り返した。周囲の乗客もこちらに理があることを認めてくれた。こうして、ようやく座席に座ることができたが、どうして最初から指定された座席に座らないのかと訝しく思った。この時点で、日帰りトゥアーの出発時刻と比べて6時間も遅れていた。30分程度で臨潼(リントン)に到着したが、目指す秦始皇陵(チンシーホアンリン)がどの方角にあるのかさえ分からず、雨が降り続いていることもあって心細くなってきた。乗車を勧誘されたタクシーは断ったが、以後は観光名所ごとに地元のトゥアー・バスを探して便乗させてもらわざるを得なかった。

秦始皇兵馬俑坑博物館や秦始皇陵は想像を絶するスケイルであった。兵馬俑坑をその一部に含む秦始皇陵はどこまで広がっているのか実感することができないほどであり、秦の始皇帝(贏政)の強大な権力や永遠の生への執着が偲ばれた。また、紀元前3世紀にこのように多くの巨大な兵馬の埴輪が造られたことには感服するばかりだ。次いで、白居易(白楽天)の「長恨歌」の中で詠われている唐の玄宗(李隆基)と楊貴妃のラヴ・ロマンスが展開された華清池(ホワチンチー)を見物した。広大な庭園を巡っていると、紀元8世紀に営まれた華やかで美しい宮廷生活の一端が垣間見えるようであった。しかしながら、始皇帝の強権が秦の滅亡を、そして玄宗の華美が唐の没落を引き起こす契機になったことを考えると、これらの素晴らしい造形物も、かえって人間のはかなさを指し示しているように思われてくるのだ。

観光を終えた頃には日が暮れかかっていた。市内に戻るための近郊汽車の終発便は既に出発してしまっている。そこで、また地元のトゥアー・バスに便乗を依頼したが、運転手にこちらの苦境を見透かされてしまい、かなり高い料金を請求された。そして、このような状況では値引交渉をすることは難しかった。日帰りトゥアーの料金は、入場料金別で一般的なものが5元、高級なものが25元であり、片道1.10元の近郊汽車を利用することによって費用を節約することができると考えていたが、当日の交通費を合計すると高級なトゥアーの料金に近い額に達してしまった。何とか市内に到着すると、ホテル内のレストランで従兄弟に某記念日を祝ってもらった。

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大雁塔

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大雁塔から

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小雁塔

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南門

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陝西省博物館

市内では、唐の高僧玄奘(三蔵法師)が天竺(インド)から持ち帰った経典を翻訳するために建てられた大雁塔(ダーイエンター、慈恩寺、ツーエンスー)のほか、同じく義浄に因む小雁塔(シャオイエンター、薦福寺、ジエンフースー)、南門、鐘楼(ジョンロウ)、鼓楼(グーロウ)などを見物した。陝西省博物館へは、買い物をすることを期待した近くの土産店の店長の手引きによって割安な人民料金(ロウカル・プライス)で入場することができた。町の豊かな歴史にふさわしく、随所に観光名所が姿を現す。モスクの清真大寺(チンジェンダースー)には多くのイスラーム教(回教)徒が礼拝をするために訪ねており、国際都市であった長安の面影を偲ぶことができたように思う。また、玄奘や義浄に限らず、古くは漢の時代から多くの隊商が洋の東西を越えて往来したシルク・ロウドの起点に立っているのだと考えると、先人の後を追ってさらに敦煌(ドンホアン)などの西域に足を向けたいという旅心が湧き上がってくる。従兄弟も同じ気持ちのようであった。この旅では残念ながらそれらの町を訪ねることはできなかったが、いつか道祖神に誘われて彼の地に足を踏み入れることがあるかもしれないと自らを納得させた。

3日間の滞在を終えると、この旅で唯一の本格的な火車旅行によって北京に向かうことになる。西安站では案内板を見てもどこに並んだらよいのか全く分からなかったが、数人の人に尋ねて何とか改札を受け、火車に乗ることができた。硬座車は、3人掛けの直角椅子が向かい合って並べられたものであった。北京まで20時間を要する火車旅行の始まりだ。車内は通路にまで乗客が溢れ、世辞にも乗り心地がよいと言うことはできなかった。雨中の西安郊外観光が祟って風邪気味であったため、空気が澱んでいることは辛かった。それでも睡眠を取ることはできたが、従兄弟はなかなか寝つかれなかったようだ。座席が狭いだけに、ヨーロッパ旅行の際のイスタンブルからのバス旅行の時よりも厳しい状況にあったと言うことができるかもしれない。

深夜、同じく古都の洛陽(ルオヤン)を通りかかった。当地を訪ねることができなかったのを残念に思いながら、火車の進行とともに小さくなっていく町の灯火をしばらく眺めていた。

車内では、ほかではできない経験をすることができた。仮眠をした後、中国の縮図とも言われる車内をゆっくりと見回してみる。寝ている人、食事をしている人、いつまでも雑談をしている人など様々だが、車内の環境に拘らないたくましさが感じられた。周囲の乗客は最初から二人の異邦人を興味深く見ていたようだが、そのうちに筆談が始まった。会話をすることもできない異邦人が自国の文字を書く様を見て、ほとんどの乗客が驚く。国籍や職業などについての簡単な意思の疎通は苦もなく行うことができた。ただ、日中間の所得や物価の格差があまりにも大きいため、生活費についての話はなかなか噛み合わなかった。最後に、それまでよりも長い文章の書かれた紙を渡された。完全に解釈することはできなかったが、以下のような内容であったのではないかと思う。「中日経済交流の拡大を期待する。しかし、独り日本が経済発展をしていくことは大いに恨めしい。」それに対してどのように返事をしてよいか分からず、座は急に静かになってしまった。

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北京

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概要

■北京(ベイジン、ペキン)は、13世紀の元のフビライ・ハンの時に初めて統一中国の都となるまでは地方都市または地方政権の都であった。元の時代には大都と呼ばれ、マルコ・ポーロが「東方見聞録」によってその様子をヨーロッパに伝えている。

到着は夕方であった。西安で若い日本人男性に推薦されたホテルにタクシーに乗って向かったが、空室がないと断られた。そこで、ガイドブックの中から数軒のホテルを選び、手配を依頼した。ほとんどのホテルが満室であったが、燕京飯店(イエンジン・ファンディエン)というホテルを手配してもらうことができた。天安門(ティエンアンメン)から西の中国人民革命軍事博物館に向かう途中の復興門(フーシンメン)外にある。当地では一般に中級のホテルが不足しているようだ。

翌日は、上海までの交通機関の確保やその翌日の万里長城(ワンリーチャンチョン、八達嶺、バーダーリン)観光の申込みなどに多くの時間がかかった。まず、外国人専用售票処に向かおうとしたが、北京站の改札口の中にあるということに気付かず、なかなか場所が分からなかった。また、窓口では帰国に間に合う上海までの火車はすべて満席だと言われ、困惑してしまった。しかし、いかにもバジェット旅行者らしい若い日本人男性と居合わせ、行き先を手前の南京(ナンジン)に変更すると空席があるかもしれないとアドヴァイスしてもらった。南京から上海までの移動は容易だという。ただ、第二次世界大戦(太平洋戦争)に先立つ日中戦争(旧称は日華事変)中に日本軍が多くの中国人を殺害したとされる現場を直視する自信がなかったため、行き先は上海と南京の間にある蘇州(スージョウ)とした。こうして、ようやく4日後の軟臥(ルアンウオ、1等寝台)を予約することができた。しかし、日程的に上海など華中の観光がほとんどできなくなることから不満が残った。そこで、軟臥と料金のあまり変わらない飛行機を利用することとし、中国民航のオフィスで上海までの2日後のフライトを予約した。そのため、火車の切符の払い戻しが必要になったが、售票処に戻って紙に「解約」と書いて示しても通じなかった。幸いなことに、今度は、居合わせた日本人の女子留学生に切符の払い戻しのことを「退票」というのだと教えてもらうことができた。しかし、何と售票処に払い戻しのための通貨がなく、しばらく待たされることになった。そこで、切符は二人連れの日本人男子学生に売り渡すことにした。

夕方になって、ようやく観光する時間を取ることができた。上海に次ぐ人口1,000万人を擁する首都のシンボルとなっている天安門広場(ティエンアンメン・グアンチャン)や中山公園(ジョンシャン・ゴンユエン)などを見物した。天安門広場は、これが広場かと目を見張らせるほど広大なものであり、南端から歩き始めたが、なかなか北端に到着しなかった。広場では多くの人が散策を楽しんでいた。門楼に毛沢東(マオ・ツォートン)の画像が掲げられている光景はいかにも社会主義国らしい。故宮(グーゴン)は既に閉館しており、残念ながら見物することはできなかった。

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定陵

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万里長城

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万里長城

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居庸関

万里長城は、トゥアーに参加して観光することにした。前日から風邪が悪化していたため、気楽に観光することができるのはありがたかった。また、行程も効率的に組まれており、個人では1日で見物することができない観光名所を訪ねることができる。当日は起床が遅れたため、タクシーに乗って集合場所の前門(チエンメン)に急いだ。トゥアーは日本車を利用した高級なもので、日本人を始めとして外国人客も多かった。午前中は、神宗万暦帝の定陵(ディンリン)や成祖永楽帝の長陵(チャンリン)など明十三陵(ミンシーサンリン)を見物した。国家財政を傾けたという定陵は非常に豪華なものであった。

午後になって、待望の万里長城見物が始まる。長城は、中国統一前の秦が匈奴に対して備えた防壁に始まり、明がモンゴルの再侵入に備えて拡充するまで2,000年にわたって造られたもので、全長2,400kmに達するという。長城に到着すると、向かって右側の方に進んでいった。月から見える唯一の建造物とも言われる長城は、山々の稜線に合わせて果てしなく続いており、スケイルの大きさに驚かされる。正に奇跡と呼んでよいのではないだろうか。急坂を登った場所にある城楼から見渡すことのできる景観にしばらく見とれていた。集合時刻が決まっており、あまりゆっくりと見物することができないのは残念であった。帰路、西夏文字解読の手がかりとなった居庸関(ジュイヨングアン)という関所跡に立ち寄って帰った。

3日間の滞在中に2回、従兄弟の希望に従って、北京飯店(ベイジン・ファンディエン)内にある日本料理店に足を運んだ。寿司や雑炊などを注文したが、なかなかの味だ。商社員などがよく利用しているようであった。また、客の中に公共汽車を利用する人はほとんどいないと思われ、店員に最寄りの汽車停留所について尋ねても反応は鈍かった。

当地では、イスタンブルに続いてまたも詐欺に騙されてしまった。北京站の近くで持ちかけられた闇両替に応じ、相手に紙幣を数えてもらって別れた。しかし、後で数え直してみると、中程の部分が2つ折りにされており、1枚の紙幣が2枚として数えられていたことが分かった。もちろん、紙幣は自分で数えるべきであったのだ。不足額はちょうど闇両替の差額に等しい40元であったため、考え方次第では損害はなかったと言うこともできる。しかし、いずれにしても軽率な行動であったことは間違いなく、大いに反省した。

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概要

■上海(シャンハイ)虹橋(ホンチャオ)空港へは、北京首都空港から飛行機に乗って2時間程度で到着した。体調は完全に回復した。滞在日数を伸ばすために神戸までの乗船券をキャンセルして中国民航で帰国することも考えていたが、かなり先まで満席であった。出国日までの残る滞在日数が5日間と確定したため、蘇州訪問は諦め、華中では上海のほか浙江省(ジャージャンション)都の杭州を観光することにした。上海站で中国人民に交じって杭州までの切符を買うために並んでいたが、窓口に掲げられている札は次々と「有(ヨウ、空席あり)」から「没有(メイヨウ、空席なし)」に変わっていき、空席があるのは客(普通列車)だけになってしまった。しかし、先にホテルを探そうかと思っている時に従兄弟が候車室(ホウチャーシー、待合室)内に外国人専用售票処を見つけ、当夜の快客・軟座(ルアンツオ、1等座席)の切符を買うことができた。杭州站でも同じ方法によって上海までの火車を予約した。

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上海雑技団(パンダの曲芸)

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上海雑技団(パンダの曲芸)

杭州に向かう火車の出発は深夜であったため、出発までの時間を利用して市内見物に出かけた。南京路(ナンジンルー)は中国最大の繁華街であり、近代的な店が軒を連ねていた。北京などとともに特別市(厳密には直轄市)とされ、人口1,000万人を超える大都市の面目躍如だ。人民公園(レンミン・ゴンユエン)の前まで来ると、雑技(サーカス)の切符を買うよう、だふ屋に勧誘された。上海雑技団の名声を知らないまま、適当にディスカウントさせて軽い気持ちで入場した。人と動物の曲芸が交互に行われたが、とても人間技とは思われない曲芸やよく調教された愛らしい動物の曲芸の連続に感嘆することしきりであった。日本では考えられないパンダの曲芸を見ることもできた。

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西湖

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西湖

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西湖

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杭州飯店

杭州(ハンジョウ)へは、翌朝の到着となった。清々しい朝だ。西湖(シーフー)を抱く南宋の都(臨安)は、「天に極楽、地に蘇杭。」と、蘇州と並び称される地上の楽園の名に恥じない町であった。西安の持つ歴史性と桂林(グイリン)の持つ景観を兼ね備えているとされる当地で、旅の疲れを癒しながらゆっくりとくつろぐことができた。

ホテルは、西湖北岸にある杭州飯店(ハンジョウ・ファンディエン、英語名シャングリラ・ホテル)に決めた。中国ならではの豪華なホテルだ。設備、サーヴィスとも申し分なかった。西湖は、春秋時代の呉の夫差を夢中にさせた西施に例えられ、「朝によし、夕によし、雨の日もまたよし。」と詠われている。2日間にわたって、湖畔や堤などの西湖十景を見物した。当地に到着した日の夕方には本当に雨が降ってきた。どの眺めも素晴らしく、心が洗われる思いがした。特に、三潭印月(サンタンインユエ)と呼ばれる湖中の島は格別であった。島の中に島中の湖と呼ばれる池があるのも面白い配置だ。霊隠寺(リンインスー)や飛来峰(フエイライフオン)にも足を運んだ後、六和塔(リウハーター)に向かい、潮の影響で1年間に1回だけ大逆流を起こすという銭塘江(チエンタンジャン)を丘の上から眺めた。

上海に戻ると、浦江飯店(プージャン・ファンディエン)に泊まることにした。帰国のために乗船する中日国際輪渡有限公司の鑑真が出港する上海港の近くにあり、バジェット旅行者が愛用しているホテルだ。杭州観光前に町に馴染んでいたため余裕を持って站を出ることができたが、公共汽車の混雑がすさまじいものであることも分かっていたため、ホテルまではタクシーを利用することにした。ホテルではドミトリに泊まったため、前日入港した鑑真に乗って日本から到着したばかりの数人のバジェット旅行者と泊まり合わせ、いろいろと情報交換を行うことができた。また、旧城内の中心にある豫園(ユーユエン)などを見物した。かつての繁華街は、名園を囲んで南京路とは異なる賑わいを見せていた。

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上海港

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上海港

出国日は、大雨であった。台風の影響らしい。この旅では北京を除くすべての町で雨に降られたことになる。午前中は、南京路で土産の買い物をした。百貨店があまりにも近代的なことに驚きながらネクタイや人形などを買った。

午後になって、港に向かった。港では、雨水で水浸しになっていたイミグレイションで出国手続をすることになった。鑑真は予定よりも少し遅れての出航となる。貴賓室、特別室に次ぐ1等室を予約していたが、室内が広々としており、来日の際の苦難のせいで視力を失った鑑真の時代には望むべくもなかった快適な船旅を楽しむことができた。中国船籍なのだが、乗客はほとんど日本人だ。同室になったのは、壮年の男性と、往路も鑑真を利用したという男子学生であった。船内では日本料理を食べることができ、支払通貨は日本円となっている。

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鑑真

乗船2日目の夕方には鹿児島県、3日目の朝には四国地方のテレヴィジョン放送を受信することができ、ほとんど帰国した気分だ。3日目には日本への通話も国内通話になったため、実家に電話をかけた。紀伊水道に入ると船の両側に陸地を見渡すことができ、帰国が間近であることを実感する。しばらくすると、見慣れた神戸の町が前方に次第にはっきりと姿を現してきた。出航から約2日後、神戸港神戸ポートターミナルに入港し、母と叔母の出迎えを受けた。

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概要

■この旅で最も苦労したことは、交通機関の確保だ。都市間の移動にはできるだけ火車を利用したかったが、旅程の都合から飛行機を2回利用せざるを得なかった。火車は満席であることが多いため、それぞれの町に到着してみないと次に向かう町を決めることができず、帰国後の勤務が控えている社会人としては辛いところであった。また、都会と田舎を組み合わせた変化のある旅程を組むことができなかったのも残念に思う。そのため、西安で出会った日本人男子学生と、北京に続いて上海でも再会するというハプニングも起こってしまった。

市内移動のためには、公共汽車や無軌電車(トロリ・バス)のほか、市内と空港の間の移動を中心にタクシーも利用した。ヨーロッパでは地下鉄などの路線網が張り巡らされていたため市内バスにはほとんど乗らなかったが、中国では公共汽車や無軌電車を大いに利用した。運行頻度は高く、2両連結で運行しているものもあって、輸送能力は高い。また、路線は市内地図で簡単に確認することができる。しかし、上海を始めとしてどの町でもほとんどが超満員の状態で走っており、油断をしていると乗り損なってしまうというすさまじいものであった。一方、降車に際しては予め行き先を告げておいた乗務員が到着を教えてくれるため、安心して乗車していることができた。料金についても、タクシーが外国人料金で約10元を要するのに対し、距離によって5分(0.05元)〜1角(0.10元)と非常に安く、自転車と並ぶ人民の足になっていた。北京で開通していた地鉄(ディーティエ、地下鉄)は3角と割高であった。

通貨制度も複雑なものであった。中国には、一般に流通している人民幣(レンミンピー)と、外貨から両替した時に受け取る外貨兌換券(FEC)という2種類の通貨が存在する。これは、人民幣に対する為替管理を行うことによって、外貨を国内に蓄積することを目的としている。それらの通貨の価値は、公式にはその額面によって規定されている。しかし、輸入品などを自由に買うことのできる外貨兌換券に対する需要は多い。そこで登場するのが闇両替(ブラック・マーケット)であり、外貨兌換券を持っている外国人との間で通貨の交換が行われていた。交換レイトは、外貨兌換券100に対し、広州では人民幣150、杭州では同180の割合であった。また、別の外貨獲得政策として、外国人に対して人民よりも高い料金を要求する外国人料金の設定がある。たとえば、列車料金は人民料金の約2倍、航空料金は約3倍であり、観光名所の入場料金の中には16倍というものさえあった。興味深いことに、香港人と台湾人に対しては同胞として人民料金が適用されていた。この通貨制度と料金制度が組み合わさって、価格体系は外国人にとって複雑なものとなっている。以下のように、人民幣で支払いをした方が有利な場合と、そうでない場合があるのだ。
  • まず、宿泊料金、航空料金、タクシー料金、北京や上海など大都市発の列車料金、一部の観光名所の入場料金など料金に対する規制が厳しい場合は、外貨兌換券でないと受け取ってもらうことができず、人民幣を持っていても無意味だ。
  • また、百貨店での買い物や交渉による料金決定など料金に対する規制が緩い場合は、両通貨とも受け取ってもらうことができるものの支払額は外貨兌換券の方が少なくて済む。これは、外貨兌換券に対する需要の方が多いことに基づいた市場原理に近い価格設定であり、人民幣で支払いをしてもあまり有利にはならない。
  • 一方、汽車料金や市街の店での買い物など外国人の利用があまり想定されていない場合は、両通貨での支払額が等しくなっており、人民幣で支払いをした方が有利だ。外国人が人民幣で支払いをしようとすると渋い顔をされることもあるが、拒絶されることは少ない。また、外貨兌換券で支払いをしても釣銭は人民幣で受け取ることになる。
  • そして、地方都市発の列車料金や一部の観光名所の入場料金など料金に対する規制が中途半端な場合は、支払額はむしろ人民幣の方が大幅に少なくなる。これは、外国人料金の適用の可否が支払通貨によって判断され、人民幣で支払いをすることによって外国人料金の適用を免れることができるためだ。この場合は、人民幣による支払いが二重の意味で有利になるわけだ。
旅行中の1日平均の旅行費用(土産費を除く)は約4,700円と、ヨーロッパ旅行の際よりもかなり高くなってしまった。ヨーロッパ旅行の際にはユーレイル・パスを持っていたため交通費があまり必要でなかったという事情はあるが、物価が安いはずの中国への旅としては費用が嵩んだように思う。旅行費用のうち一人当たり宿泊料金についても、最高で杭州の約3,700円(106元)、最低で上海の約690円(20元)と、ヨーロッパ旅行の際とほぼ同じ価格帯であった。これは、社会主義経済下で外国人料金が設定されていたことによる影響が大きい。高価な商品と安価な商品の格差が大きすぎるのだ。その意味では、旅行者のための環境が整備されているとは言い難かった。

「没有」という悪名高い言葉にも閉口した。文字通りの意味は「ない」だ。しかし、外貨獲得のためにより高額の商品を売ろうとするためなのか、在庫管理技術が不十分なためなのか、あるいは単に販売意欲の低さから生じる気まぐれのためなのか分からないが、実際には商品が残っているにも関わらずこの言葉を発している場合が多いようなのだ。この事実を理解し、それに対処するか、あるいは納得してしまうのは、よほどの中国通でないと難しいであろう。従兄弟ともども、割り切れない思いが残った。ただし、外貨兌換券での料金支払を要求された時にこの言葉で応酬するなど、こちらで利用させてもらうこともあった。

一方、意思の疎通のためには、筆談が非常に便利であった。ホテルのフロントなどを除くと英語が通じないためヨーロピアンは苦労していたが、中国人と漢字を共有する日本人は有利な条件下にある。「我要去〜(ウォーヤオチュイ〜、〜に行きたいのですが)」や「多少銭(ドゥオシャオチェン、いくらですか)」などの構文を覚えておけば、ほとんどの場面に応用することができるのだ。筆談によって意思が通じなかったのは、独特の言い回しがある切符の払い戻し(退票)と荷物(行李)保管の依頼に際しての2回だけであったと言ってよい。その代わり、地元の人と言葉を交すことはむしろ少なくなってしまった。上海站で售票処の場所を教えてもらった時、北京語(普通話、標準語、マンダリン)の「謝謝(シエシエ)」ではなく上海語の「謝謝儂(シャヤノン)」という言葉で謝意を述べると非常に喜ばれたが、このことは、地元の人との交流のためには意思が通じるだけでは不十分だということを示していると思う。しかし、会話をするということになると、四声(4つのイントネイション)を持つ中国語は難しい。西安のレストランで注文した料理が来なかった時、会話集を見ながら同じ言葉を何回も繰り返してようやく催促だと理解してもらうことができたが、それが中国語らしい中国語を話した唯一の例だと言うことができるかもしれない。その意味では、中国旅行のための準備は不足していたようだ。

中国の印象を一言で表現すると、スケイルの大きさと、小事に動じないたくましさということになるであろうか。近代化に向けての課題は多いと思うが、現状に対して悲観することなく前向きに生活しているように感じられた。この旅では中国の一端に触れることができただけであったが、もし将来再訪する機会があったとすると、経済発展の進んだ中国に出会うことができるのではないかと期待している。

出発

香港

広州

西安

抜粋
北京

上海

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 大阪
20日09:50 空路 12:15 香港 香港
22日
23日08:15 鉄路 11:50 中国 広州
24日11:00 空路 13:10 西安
26日20:35 鉄路 27日16:45 北京
30日09:35 空路 11:35 上海
31日01:25 鉄路 06:10 杭州
2日07:25 鉄路 12:50 上海
3日15:00 水路 5日12:20 日本 神戸
鉄路 :鉄路、 水路 :水路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
香港 香港 La Chine Lodge HK.$ 75 2
YMCA International House HK.$ 181 1
中国 広州 華僑酒店 CN.\ 22 1
西安 解放飯店 CN.\ 45 2
北京 燕京飯店 CN.\ 57 3
杭州 杭州飯店 CN.\ 106 2
上海 浦江飯店 CN.\ 20 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
香港 HK.$ 18.1円 114.60
内訳
239.90
内訳
230.90
内訳
2
内訳
0
中国 CN.\ 34.6円 59.55
内訳
307.23
内訳
797.92
内訳
0 70.10
内訳
日本 JP.\ 1.00円 0 2,320
内訳
0 0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 4,132 17,285 31,776 36 2,425

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
香港 331
内訳
34 952.40 16,605 3.3 5,032
中国 515
内訳
367.70 2,117.50 60,528 12.2 4,961
日本 200
内訳
12,000 14,520 2,520 1.5 1,680
通貨計 23,999 25,334 79,652 17.0 4,685
(注)円換算と日平均は土産費を除く。

出発

香港

広州

西安

抜粋
北京

上海

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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