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中国B

出発

大連

丹東

抜粋

瀋陽
承徳

北京

回顧

概要

■大連(ダーリエン)周水子空港へは、福岡空港から飛行機に2時間程度乗って夕方に到着した。入国手続を終えると、すぐに男性に声をかけられた。タクシーの運転手だ。取り合うつもりはなかったが、両替所が見つからない。仕方なく、運転手に従っていった。そして、両替所は何と階上の出発フロアにあることが分かった。有名な観光地ではないため、国際空港とは言っても自国民優先の構造になっているのであろう。しかも、トラヴェラーズ・チェックを受け付けていないため、窮地に陥る可能性もあった。運転手は英語があまり上手ではなく、販売店の店員を介して乗車の勧誘をしてきた。そして、交渉が成立し、市内のホテルまで乗車することになった。

当地は、天津(ティエンジン)と並んでホテルが割高だという。そこで、安価なホテルを運転手に紹介してもらうこととし、大連站の近くにあるホテルにチェックインした。一昔前までは立派なホテルであったらしく、それまでの旅で支払った宿泊料金と比べて遜色ない料金であったが、メインテナンスの悪さが目立った。チェックインした時に筆談によって浴室を使うことができないのは理解していたが、実際にはさらに水道を使うこともできなかった。チェックインの前に実際に部屋を確認しておくべきであったと後悔した。

部屋で休憩した後、周辺を散策した。重要な港町であるとともに経済開発区に指定されており、街路には、「北方の香港」として、翌年に一国二制度の下で連合王国から中国に返還されることになっている町を目標にするというスロウガンの書かれた看板が掲げられてあった。しかし、物価の高い大都市という印象が先に立ってしまい、中心部の見物は見送った。

市内には旅順(リュイシュン)があり、1914年に起こった日露戦争の激戦地であった二〇三高地(アルリンサン・ガオディー)も至近距離にある。軍港があるため外国人は一帯への立ち入りを認められていなかったが、帰国後、前月から外国人にも開放されていたと知り、情報不足を残念に思った。

出発

大連

丹東

抜粋

瀋陽
承徳

北京

回顧

概要

■丹東(タンドン、旧安東)は、大連から黄海北岸を東進した北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との国境にある町だ。

大連とは直接鉄道で結ばれていないため、汽車(バス)を利用することにした。汽車の出発時刻は正確には分からなかったが、早朝出発するとのことであったため、夜が明ける前に大連のホテルをチェックアウトした。そして、汽車站(バス・ターミナル)の方に向かって歩いていると、ちょうど路上に停車していた汽車の集客が始められた。こうしてタイミングよく丹東に向かう汽車に乗ることができた。早朝の出発であったためか始発站から乗っていた乗客は少なかったが、市内をゆっくりと走るうちにかなりの数になった。

ロウンリ・プラネットには、この区間の汽車は暴走と言ってよいほどのスピードで走るため、汽車に乗ることは命を賭けるギャンブルをするようなものだと書かれていたが、それまでに経験した走行と比べて特に危険だという印象を受けなかった。もしかすると、それまでの旅によって危険認識のための感覚が鈍くなってきたのであろうか。

7時間程度乗車し、午前中に到着した。当地を訪ねた目的は、中朝国境を見物することだ。市街を歩いているとハングルの看板が掲げられている店が散見され、文明の接点に来ていることが実感される。

長途汽車站(長距離バス・ターミナル)から鴨緑江(ヤーリュージャン、コリアではアムノックガン)に向かって歩くと、鴨緑江公園に出会う。対岸の町は北朝鮮の新義州(シニジュ)だ。中朝国境上には丹東と新義州以外に大都市はなく、また新義州は北朝鮮の首都の平壤(ピョンヤン)から比較的近いため、中朝間の通商の重要拠点となっている。鴨緑江には橋が架かっており、ロウンリ・プラネットによると週2便の火車と週4便の汽車が走っているという。旅行雑誌に中朝国境を越えて北朝鮮に密入国した手記が掲載されていたため、もしやと考えていたが、川幅は広く、また、大都市であるため、そのようなことはとても不可能なようであった。中朝国境での一般国民レヴェルの通商を目の当たりにするという目的のためには、日本海側の図們江(トゥーメンジャン、コリアでは豆満江、トマンガン)が狙い目であったかもしれない。また、日本では北朝鮮に自由旅行を行ったという話を聞かないが、ロウンリ・プラネットによると、中国人は渡航に際してヴィザは不要とされており、ヨーロピアンは北京で北朝鮮のヴィザを取得することができるという。日本人の扱いはどのようになっているのか、知りたいところだ。

写真
鴨緑江

公園に到着すると、すぐに眺望のよい場所に向かった。新義州は大都市ではあるが、中国側から見物することができるのはその辺境であり、市街は林の向こう側に隠れているようであった。見渡すことができたのは、工場を始めとするいくつかの建物だけだ。煙突の1つからは煤煙が吐き出されていた。ただし、かつて中国の深川(シェンジェン)が指摘されていたように、対外的に経済活動を誇示するためのショウ・ウィンドウとしての役割を担っているのかもしれないと疑念が残った。

次いで、船に乗って北朝鮮の生活を間近に眺めることにした。前の便が出航した直後であったためか、最初は船に乗客が一人もいなかった。スタッフに出航時刻を問い合わせると、「50」という返事を返してきた。何を意味しているのかしばらく理解することができなかったが、最小催行人員50人ということのようであった。乗客が集まるまでいつまでも待たなければならないのだ。地元の人は事情をよく理解しているらしく、しばらくは一人も乗客が乗ってこなかった。事実上定時運行とあまり変わらないわけで、船の中で1時間も待たされた身としては、部外者にとって分かりづらい制度だと感じずにはいられなかった。

写真
鴨緑江から眺めた丹東

船は、まず川を少し遡った後、方向転換をし、北朝鮮領に近づきながらゆっくりと下っていく。途中で橋の下を通るが、平行して未完成の橋が架かっているのが分かる。中国側は完成しているのに北朝鮮側は橋脚を除いて作業が行われていない。訝しく思っていたが、コリア戦争時に中国の介入を抑えるためにアメリカ合衆国が破壊した古い橋であった。北朝鮮側の河岸まで約10mという至近距離に近づいたところで、船は再び方向転換をし、河岸と平行に遡っていく。モウターボウトを貸切で利用しているトゥーリストもいたが、そちらは北朝鮮側の河岸まで数メートルしか離れていない場所を疾走していた。

写真
鴨緑江から眺めた新義州(北朝鮮)

河岸には数隻の船が繋留されていたが、実用に供されていることが不思議なほどの古さであった。その先では、子供達が水遊びをしていた。または、水浴びであったかもしれない。船の前を通り過ぎる時、船内で作業を行っていた男性が手を振ってきた。こちらも手を振ったが、招かざる客に日常生活を覗き見られる気持ちはどのようなものであろうかと思いやられた。

観光化している国境としては、中国との国境にある香港の落馬洲、北朝鮮との軍事分界線にある韓国の板門店、ラオスとの国境にあるタイのノーンカーイを見物してきた。板門店は北朝鮮側も観光化している。すべて政治・経済体制の相違が背景にあったが、板門店を除くと、中国やラオスの開放政策のため、国境見物はあまり意味を持たなくなってきている。それらと比べると、政治・経済体制が同じであるはずの中朝国境の見物が中国側でこれほど活況を呈しているということは意外であった。船の乗客は、物見遊山の中国人が占めているのだ。中国は北朝鮮を資本主義国の侵攻から守った友好国とは言え、開放政策によって高度経済成長が続く中国と鎖国体制を続ける北朝鮮との経済格差は従来になく高くなっている。渡航に際してヴィザは不要とされているのに至近距離にある新義州を訪ねて交流を図ろうとせず、国境付近のコリアンの貧しい生活に対して断りもなくカメラのレンズを向ける態度は、豊かになった自らの生活を誇示しようとする姿勢から来ており、非礼と映るのではないかと感じた。

北朝鮮では、金日成(キム・イルソン)国家主席が亡くなった後、子供の金正日(キム・ジョンイル)労働党書記が事実上指導者の地位を世襲し、イラクのサッダーム・フセイン体制と並ぶ血縁による独裁体制を強めている。この間、経済発展が全く行われていないばかりか、NPT(核拡散防止条約)脱退によるIAEA(国際原子力機関)の核施設査察の拒否、日本人拉致疑惑の発生などと続き、キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長体制と並んで国際的孤立が強まっている。最近では、水害による食糧不足のため、アスファルトの道路を開墾しようとしたり野草を採取したりしている平壤市民の窮状が報道された。政権は崩壊間近という予測もあり、予断を許さない状況だ。

その後、帰国便のリコンファームのために中国国際航空のオフィスを訪ねたが、頼りない手続きであった。当地に国際空港がないためか、英語を満足に話すことのできるスタッフがいなかったためだ。そのため、リコンファームが無事に完了したのかどうか、確信を持つことができなかった。なお、オフィスはCAACという旧中国民航の略称を使っており、中国国際航空が旧中国民航の分割会社の1つであることが確かめられた。

出発

大連

丹東

抜粋

瀋陽
承徳

北京

回顧

概要

■瀋陽(シェンヤン)は、17世紀に満洲族の後金(後に清として中国を統一)の都として盛京となった後、今世紀前半には満洲国最大の都市として奉天と呼ばれた町だ。現在は、大連や丹東を含む遼寧省(リャオニンション)の省都となっている。

丹東で適当なホテルが見つかりそうになかったため、強行日程になるが丹東には滞在せずに瀋陽に向かうことにした。そして、丹東站から客(普通列車)の硬座に乗って、深夜0時半頃に瀋陽站に到着した。そして、すぐにタクシーの乗車を勧誘された。そして、指定したホテルは閉鎖されたと言われ、仕方なく運転手が勧める近くのホテルに泊まることにした。宿泊料金は高かったが、大連のホテルと比べると出費に見合うだけの価値はありそうであった。ただし、運転手にコミッションが支払われたようだ。不注意であったが、運転手が勧めるホテルにチェックインしたことよりも、深夜に新しい町に到着する旅程を組んだことを反省するべきであろう。

写真
瀋陽故宮博物院

夜が明けると、站で翌日の火車を予約した後、無軌電車に乗って瀋陽故宮博物院に出かけた。北京の故宮のモデルになったとのことで、規模は小さいが見応えがあった。次いで、公共汽車に乗って北陵公園を訪ねた。17世紀の愛新覚羅ホンタイジ(太宗)の墓であり、とても個人の墓とは思われない規模であった。数時間をかけて園内を巡った。また、大都市の市街に自然がこれほど残されていることにも感銘を受けた。残念であったのは、公園の中に遊園地が併設されていたことだ。

なお、帰国後、日本のアジア侵略の歴史を顧みながら日本人がこの地域を訪ねる場合は、やはり日本語のガイドブックを持参するべきであったと後悔した。当地には、日本の旧関東軍による張作霖爆殺現場や、九一八事変(満洲事変)の引き金となる事件の起こった柳条湖(旧説では柳条溝)など、太平洋戦争の前史となった現場があるのだが、ロウンリ・プラネットでは全く取り上げられておらず、この旅では訪ねることができなかったのだ。また、近くにある撫順(フーシュン)には旧関東軍が一般国民約3,000人を虐殺したことを示す平頂山殉難同胞遺骨館が、満洲国の首都とされ現在は吉林省(チーリンション)の省都となっているた長春には日本によって擁立された清の「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀の住居跡の偽皇宮陳列館が、黒竜江省(ヘイロンチャンション)都の哈爾浜(ハーアルビン)には旧関東軍が細菌などを使って人体実験を行ったことを弾劾する侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館があり、事前に関係資料に目を通していれば、この旅の旅程は異なったものになっていたかもしれない。

翌朝、河北省(ハーベイション)の承徳に向かう快客の硬座に乗った。瀋陽に向かう火車の中では、乗車率が低かったせいか、初回の旅の際よりも華やいだ感じがしていたが、混み合ってくると、やはり雑然としてきた。ロウンリ・プラネットによると、瀋陽から北京まで9時間程度、その間にある承徳から北京まで5時間程度とのことであったため、長くても5時間程度の乗車かなと考えていたが、瀋陽と承徳のちょうど中間点にある朝陽(チャオヤン)に到着するまでに7時間も要した。しかも、朝陽站を過ぎるとすぐに火車が停車した。前方の踏切で事故が起こっているらしく、多くの乗客が様子を窺うために車外に出ていった。そして、しばらくすると火車は朝陽站に戻ってしまった。火車が再び動き始めたのは、最初の出発から1時間半も後のことであった。問題の踏切付近では徐行運転をしていたが、トラックが横転していた。

宵になって、同じボックス席に乗り合わせた壮年の男性と親しくなった。男性はそれまで同じボックス席に座っていた壮年の女性と話していたが、女性が降車しボックス席の乗客が二人だけになってからこちらに話しかけようとして、日本人であることに気付き興味を示してきたのだ。就学期に第二次世界大戦終戦を迎えたようで、片言の日本語を話すことができた。そして、暇にまかせて筆談を交じえた会話を長々と続けた。男性は、記憶に残っている日本語の言葉を口に出しては正確な発音と意味を確認し、往時を懐かしんでいるようであった。その中には、なぜか「先生が学生に経過を調べろと言った。」というようなかなり具体的な言葉も含まれていた。偽満洲国の時期に日本語を学習したが、忘れてしまったという。言葉を忘れたと言う時には必ず笑い、往時の日本に対する印象は悪くないように感じた。もちろん、これは満洲国樹立を過去の事件と位置付けて日本人を許そうとする余裕が男性にあったからかもしれない。男性は遼寧省菅口に住む医師で、「乳腺疾病診断与(と)治療」という医学書を出版するために北京に向かう途中だという。厚い原稿を見せてもらった。旅游省に勤務している公務員の息子と会社の経理を担当している娘がおり、それぞれに自分の孫(「内孫」の意か)と外孫がいるという。途中で天皇の名前を尋ねられ、答えられなくて困った。外国人と親しくしようとするならば、天皇の名前は優先的に覚えておくべき基本事項に含まれるようだ。

出発

大連

丹東

抜粋

瀋陽
承徳

北京

回顧

概要

■承徳(チョンダー)站に到着したのは、日付が変わる頃であった。火車には17時間も乗っていたことになる。利用した火車が特快(特別急行列車)でなかったことと、朝陽站近くで起こった事故のために時間がかかったのであろうが、予想乗車時間を12時間も上回るという信じられない事態であった。それなりに熟達した旅行者と自負している身としては恥ずかしいと思う。

写真
市街

親しくなった男性も当地に滞在すると言うので、一緒に站舎を出た。男性は站前旅館に連れていってくれたが、外国人ということで利用を断られた。そこで、男性とともにタクシーに乗ってホテルを探してもらった。1軒目は宿泊料金が高すぎるため断り、2軒目で納得してチェックインした。それでも站前旅館の数倍の料金だ。部屋には応接室が付設されていたが、設備などを勘案するとリーズナブルな料金だという印象は受けなかった。男性は站前旅館に戻って泊まったのではないかと思うが、翌朝、別れの挨拶をするために部屋を訪ねてきた。

写真
避暑山荘

当地は清の皇室の別荘として有名であり、見所は当地の大半を占めると言うこともできる避暑山荘(ビーシューシャンジュアン)だ。ホテルはその門の近くにあることが分かった。広大な敷地をゆっくりと巡った。華北で都市の喧騒を逃れて田舎町を訪ねたい時には、最適の町であろう。

出発

大連

丹東

抜粋

瀋陽
承徳

北京

回顧

概要

■北京に向けて、午後早く承徳を出立することにした。そして、切符を買うために避暑山荘の見物の前に站に向かった。站との往来には公共汽車を利用することが一般的だが、朝の清んだ空気を吸うために歩いて站に向かった。河原では多くの人が太極拳を行っていた。切符は当日販売しかないとのことであり、満席になる可能性がないため安心であった。既に北京や天津を取り囲むように位置している河北省まで来ているのだから、翌朝に北京に到着する次の火車を利用することも考えられたが、帰国便のチェックイン・タイムが早かったため、当日中に北京に戻っておくべきだと判断したのだ。これは、前回の東南アジア旅行の際の教訓を肝に銘じていたためだ。利用したのは特快の硬座であったが、なぜか乗客は日本の閑散期の列車のように少なかった。特快の利用は初めての経験であったため断言をすることはできないが、追加料金が高いため、まだ一般国民にとって気軽に利用することのできる火車とはなっていないのかもしれない。全く見慣れない光景であった。

宵になって、北京站に到着した。個人でホテルを探すと苦労すると思い、站の改札口の手前で見かけた旅館紹介所でホテルを紹介してもらうことにした。当然のことながら、ここでも中国人と外国人に対して異なる宿泊先を紹介していた。そして、東単(ドンダン)にあるホテルを紹介してもらった。

ホテルへは歩いて向かい、持参した地図を見ながらようやく辿り着いた。中国元が底を突いていたため両替を行おうとしたが、ホテルでは両替を取り扱っていないという。外国人宿泊客のためのサーヴィスを提供していないのならば、何のための外国人用ホテルなのかと不満を感じた。仕方なくスタッフの案内に従って両替を行うために北京飯店で両替を行ったが、宿泊客を除いてトラヴェラーズ・チェックは受け付けていなかった。この旅ではトラヴェラーズ・チェックは役立たなかったことになる。

北京飯店では、旧館の東隣に非常に豪華な新館が建てられていた。旧館も豪華だと感じていたが、それが見劣りがしてしまうほどの豪華さだ。当地にはこの新館に匹敵する豪華な外国資本のホテルが数えることができないほど建てられているという。また、目の前の東長安街の往来は激しい。物乞いもいるとは言え、全体として華やかだという印象を受けた。

翌朝、公共汽車に乗って、機場巴士の出発する中国国際航空のオフィスに向かおうとしたが、オフィスは見つからなかった。そこで、仕方なく、北京首都空港へはタクシーに乗って向かうことにした。オフィスを探している途中、道路に面した建物が一斉に立ち退きをしている一帯を通った。道路の拡幅工事を行っていたわけだが、社会主義国では市街の区画整理は容易だなと感心した。

空港は、多くの乗客で溢れていた。何とかチェックインを済ませることはできたが、イミグレイションの前には長い列ができていた。空港には帰国便の出発時刻の2時間程度前に到着していたが、イミグレイションを通過した時には出発間近になっていた。しかも、長時間待ったにも関わらず、イミグレイションで出国審査を行ってパスポートに出国スタンプを押すということはなかった。訝しく思っていたが、出国手続はトランジットを行う上海虹橋空港で行うということが後で分かった。それならば、北京首都空港ではイミグレイションを通らずに搭乗口に行くことができるようにしておいてもらいたいものだ。搭乗待合室には同じ飛行機を待っている乗客が一人もいなかったため焦ったが、さらに遅れてきた乗客数人を待った後、航空会社のスタッフに出発間際の飛行機に連れていってもらった。

出発

大連

丹東

抜粋

瀋陽
承徳

北京

回顧

概要

■旧満洲の現状を確認するというこの旅の目的を考えると、実際の訪問の対象は散漫になってしまったと言わざるを得ない。バジェット旅行者の間では、一般に旅の情報は現地で入手するのが新鮮だとして、出発前にガイドブックだけを見て旅程を固定することを嫌う傾向があるが、この旅の目的は単なる観光ではなかったのだから、もっと準備をして出かけるべきであった。

ただ、地元を最もよく理解する方法は地元の人と対話をすることだとすると、就学期に日本による支配を経験した男性と長時間にわたって筆談を交じえた会話をすることができたのは、望外の幸いであった。

中朝国境の観察も興味深いものであった。北朝鮮の様子を国境の外側から覗くことは、初回の韓国旅行の際の板門店に次いで2回目であったが、この旅では地元の人の生活の一端を垣間見ることができた。北朝鮮は、軍事拡張の一方で食糧援助要請をするなど、凍土の共和国という印象が強まっている。パッケイジ・トゥアーに参加してその現状を確認する価値があるかもしれない。また、中朝国境は、コリアンと同じアルタイ語のトゥングース語族に属する民族が、紀元前1世紀に高句麗を、7世紀に渤海を、12世紀に金を、17世紀に後金を建国したとされている地域であり、満洲の歴史と深く関わり合っていると言ってよいであろう。

現地での1日平均の旅行費用は約4,000円であった。旅行費用のうち宿泊料金は最高で瀋陽の約3,600円(280元)、最低で大連の約2,300円(180元)と、アメリカ合衆国滞在の際を除くと最も高い価格帯であった。

中国を旅行することの難しさは相変わらずだが、大国であるだけに、周辺文化を含めると見所は非常に豊富だ。東南アジアとの国境地域、中朝国境地域というように訪問が続いたが、同様に非常に興味深い地域として、南アジアとの国境地域にあるティベット(西蔵、シーツァン)自治区、南アジアや中央アジアなどとの国境地域にある新疆(シンジャン)ウイグル(維吾爾、ウェイウーアール)自治区がある。

出発

大連

丹東

抜粋

瀋陽
承徳

北京

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 居住地
27日09:00 道路 11:15 福岡
15:30 空路 16:30 中国 大連
28日04:40 道路 11:40 丹東
17:30 鉄路 29日00:30 瀋陽
30日07:00 鉄路 24:00 承徳
31日14:30 鉄路 19:15 北京
1日10:00 空路 11:30 上海
12:20 空路 14:45 日本 福岡
17:00 道路 19:30 居住地
道路 :道路、 鉄路 :鉄路、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
中国 大連 長江賓館 CN.\ 180 1
瀋陽 遼寧華都賓館 CN.\ 280 2
承徳 民政賓館 CN.\ 200 1
北京 渤海飯店 CN.\ 269 1

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
中国 CN.\ 12.9円 2.90
内訳
198.60
内訳
399.40
内訳
0 57
内訳
通貨計 JP.\ 1.00円 37 2,568 5,164 0 737

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
中国 1,209.50
内訳
0 1,867.40 24,145 6 4,024
通貨計 15,639 0 24,145 6 4,024

出発

大連

丹東

抜粋

瀋陽
承徳

北京

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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