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アメリカ合衆国 首都

出発

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日程
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ワシントンDC

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住居

■1995年11月第2週、アメリカ合衆国(合衆国、USA、US、アメリカ、米国)に向けて旅立った。12回目の海外渡航にして初めての海外滞在であり、143日間を合衆国で過ごすことになった。

約5か月の滞在期間のうち最初の約4か月は受入先のあるワシントンDC(ワシントン・コロンビア特別区)に拠点を置いて主に東部で活動し、最後の約1か月は西部で活動するという計画を立てた。

初めての海外滞在であるため、情報収集は入念に行った。まず、入国から出国までの各時点での様々な見聞が綴られた経験者の体験談は、体系的なものではなかったが、実生活に基づいた情報として非常に重宝した。また、歴史地図やガイドブックを買い、合衆国の領土の変遷や1861年に起こった南北戦争時の各州の立ち位置などを確認しながら、50州の名前と場所を覚えるとともに、ワシントンDCなど東海岸の町を始めとして多くの町についての解説を興味深く読んだ。宿泊料金などの物価高、町の治安問題、自動車の保有を前提にした交通体系に悩まされそうだとの印象を持った。渡航のための重要な準備として、活動に耐えるような語学力の向上ということもあったが、こればかりはどこまで成果が上がったのか分からなかった。

10月下旬に受入希望先から受け入れの連絡があった後、航空券やヴィザなどの準備を慌ただしく行った。ヴィザ取得については、旅行代理店を経由すると所要日数を短縮することができると分かったが、1年間オウプンの往復航空券を格安で手配してもらった地場の旅行代理店では取り扱っていなかったため、別途大手旅行代理店に代理申請を依頼した。

出発前の2週間ほどは、連日のように職場の壮行会が行われて忙しかった。出発前日に挨拶回りをした時、幹部から合衆国が国を挙げて産業振興に取り組んだ時の底力を過小評価しないようになどと激励の言葉をかけてもらった。ぜひ成果を上げようと意欲が高まった。

出発当日、朝から精力的に荷造りに取り組んだが、多くの本やパーソナル・コンピューターなどを持参するため、スートゥケイス(約30kg)、ボストンバッグ(約20kg)、デイパック(約10kg)、アタッシェケイス(約5kg)の4つに詰め込むことになり、重量は約65kgとなった。太平洋線は荷物の制限が緩く、この程度であれば追加料金不要で搭乗することができる。ただし、成田空港に運ぶために非常に苦労することになった。最寄駅までは、しばらく歩いた後、通りかかったタクシーに乗ることができ、駅に到着すると、階上にある改札口に上るためにはエレヴェイターを利用することができたが、プラットフォームへの階段を降りる時は荷物を2回に分けて運ばなければならないほどであった。荷物の一部を別送品(アンアカンパニイド・バッゲイジ)として送ることを考えるべきであったかもしれない。

空港でチェックインを済ませた後、見送りにきた同僚と待ち合わせた。デイパックとアタッシェケイスは機内持込にするため、依然として身軽になったわけではなかった。留守中の差配を依頼し、宵に出発した。フライトは、ユナイテッド航空のシカゴ経由ワシントンDC行だ。

時差の関係で時刻が遡り、また東京−シカゴ間の世界最速記録を樹立して、午後早くシカゴのオヘア空港に到着した。合衆国では、経由便の場合、トランジットであっても最初に寄航した空港で入国手続を行わなければならず、一旦託送荷物を受け取る必要があるため、ノンストップ便でない限りワシントンDC行であることのメリットはない。経由空港で託送荷物の受け取りを怠りしばらく荷物の受け取りをすることができなかったという体験談もあり、注意が必要だ。重い荷物を受け取って入国手続を済ませた後、世界最多の発着便数を誇る空港の巨大な構内を移動するためにシャトル鉄道を利用して国内線のターミナルに向かった。

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■ワシントンDCのダレス空港へは、宵に到着した。そして、シカゴに向かう飛行機に乗り合わせオヘア空港で行動をともにした若い日本人女性と一緒にタクシーに乗って市内に入った。当地からロンドンに向かい、連合王国に半年間程度滞在する予定だという。また、合衆国ではミシガン州に滞在した経験があるとのことで、冬の厳しさを強調していた。タクシーの運転手によると前日に初雪が降ったとのことで、正に冬が訪れようとしていた。

渡航後1週間は、事前に手配を依頼しておいたホテルに泊まることにしていた。メトロ(地下鉄)のデュポン・サークル駅の北にありニューハンプシャー・アヴェニューに面したザ・カーライル・スイーツだ。チェックインを済ませると、職場や実家などに無事に到着したことを伝えた。14時間の時差がある日本では渡航翌日の午前になっていた。

渡航直後は様々な手続きが必要なので、宿泊先はダウンタウンに確保すると便利だ。デュポン・サークル駅はダウンタウンの便利な場所にある。ただ、タクシーで乗りつけたため、ホテルが駅の近くにあるのかどうか分からない。そのため、不安から腰が重くなってしまった。渡航2日目のブランチ(昼食兼用の遅い朝食)をホテルで済ませると、地番を確かめながらデュポン・サークルの方に向かって歩いていった。すると、5分程度でデュポン・サークル駅に到着した。もっと早く行動を始めていればよかったと後悔した。

その後、アパートメントを探すという作業に取り掛かった。深夜にならないと眠ることができず、翌日に朝寝坊をするなどという時差呆けに悩まされながらの作業であった。まず、書店で売っているワシントン・ポストを買ってアパートメントの情報を入手しようとした。アパートメントのレンタルの情報は豊富であったが、情報が多すぎて使いこなすことは難しそうであった。そこで、不動産会社を利用することができないかと思い、デュポン・サークル駅の西にありエンバシ・ロウ(大使館通り)と呼ばれているマサチューセッツ・アヴェニューに面した日本大使館に有益な情報がないか確かめるためを訪ねることにした。デュポン・サークル駅からは歩いていくことのできる距離だ。しかし、不思議なことに門が閉まっていた。ドアフォンを押して大使館内の人と話してみると、ヴェテランズ・デイ(退役軍人記念日)のため祝日であることが分かった。ガイドブックではヴェテランズ・デイは翌日とされていたが、土曜日に当たっていたため振替休日になっていたのであろうか。いずれにしても、翌週にならないと大使館で情報を入手することはできないと分かった。

仕方なくデュポン・サークルの方に戻って、コネティカット・アヴェニューに面したアパートメント・サーチという不動産会社に相談することにした。そこでは情報のデイタベイス化が進んでおり、パーソナル・コンピューターのディスプレイに物件が画像付きで紹介されていた。デュポン・サークルなどのワシントンDC中心部はレンタル料金が高い上に物件が品薄であり、アーリントンなどのヴァージニア州北部やベセスダなどのメリランド州南部が主な選定対象になるようだ。

相対的に安価なアンファーニシュト(家具なし)は一般に6か月未満のレンタルが難しいと言われているが、ファーニシュト(家具付き)についても6か月未満のレンタルを認めている適当な物件はなかなか見つからなかった。6か月レンタルすることも考えたが、メリランド州のチェヴィチェイスに月単位でレンタルを認めているアパートメントを探し出してもらった。

翌日、メトロに乗ってフレンドシップ・ハイツ駅に行き、紹介してもらったアパートメントを訪ねた。そして、部屋、周辺の環境とも満足したため仮契約することとし、セキュリティ・デポジット(保証金)などを支払った。

フレンドシップ・ハイツ駅は、ワシントンDC中心部のメトロ・センター駅から北西に向かうメトロのレッド・ラインの列車に乗って7番目の駅であり、ちょうどワシントンDCとメリランド州の境界線上に位置する。アパートメントのある駅の北側はメリランド州であり、モントゴメリ・カウンティ(郡)のチェヴィチェイスが広がっている。駅前にはショッピング・モールが展開されており、周辺は全米でも屈指の高級住宅街とのことだ。

アパートメントは、駅からウィスコンシン・アヴェニューを北に3分程度歩いた場所にある。改装してあるためか、1964年築という割には古く見えなかった。

部屋は最上階の16階(13階が欠番であるため実際には15階)にあり、ファーニシュトのステューディオ(ベッド・ルームが独立していないアパートメント)だ。合衆国では、寝室が独立して初めて1ベッド・ルーム、2ベッド・ルームズなどと呼ぶようだ。ステューディオとは言っても、日本では考えられないぐらいの広さだ。また、ザ・カーライル・スイーツと同じぐらい清楚であるように思われた。南側には大きなバルコニが張り出している。そして、ベッド、寝室用品、バス用品、洗面用品、テイブル、ダイニング用品、冷蔵庫、台所用品、クローゼット、照明スタンド、テレヴィジョン、電話機などが備え付けられており、セントラル・ヒーティングになっている。ファーニシュトという形式は、毎日のベッド・メイキングがないだけでホテル暮らしと大きく変わらないと言ってよいであろう。生活を始めるための準備は最小限でよく、合衆国での生活を順調に軌道に乗せていくことができそうであった。

レンタル料金は、レンタル期間が3か月以上6か月未満の場合、光熱費込で1か月1,040ドル(USドル、米国ドル、1ドルは約104円)と、リーズナブルであるように思われた。

仮契約の3日後の午後になって、審査が終わり入居が可能になったという回答があった。そこで、ホテルの残りの予約をキャンセルして、チェックアウトすることにした。手数料なしでキャンセルすることができ、5日半分の宿泊料金を支払った。宿泊料金は1日当たり91.90ドルと決して安くはなく、早目にアパートメントに移りたかったのだ。

入国時と同じ荷物を抱えてタクシーに乗り、アパートメントに向かった。そして、日割計算をした当月分のレンタル料金を管理室で支払って晴れて入居となり、合衆国での生活が始まった。

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■生活を軌道に乗せるための準備は、1か月程度続いた。

アパートメントには、各階にランドリ(洗濯)室がある。また、屋上にはプールがあるが、残念ながら冬季はオウプンしていないようであった。便利であったのは、地下にあったコンヴィニエンス・ストアだ。壮年のコリアン女性が働いており、クリーニングやコピーも受け付けていた。至れり尽くせりの環境であった。

生活のための情報を入手するためには、日本大使館で紹介してもらったジャパン・インフォメイション・アンド・カルチャー・センター(日本情報文化センター)を訪ねた。ファラガト・ノース駅の西にあり21番ストリートに面している。アメリカ人スタッフに対応してもらい、ワシントン日本商工会が発行したワシントン生活情報誌などをもらった。ワシントン生活情報誌は、どちらかと言うと家族同伴で自動車を保有している人を対象にしているが、かなり詳しい体系的な情報を得ることができるため、重宝した。また、センター付属の図書室には、日本の本、雑誌、新聞などが置かれていた。滞在期間がもっと長ければ、日本の情報を入手するために通っていたかもしれない。

チェッキング・アカウント(当座預金)の開設は容易であった。アパートメントと同じビルディングにあるファースト・ユニオンを利用することにした。アパートメントと提携しているらしく、入居の時にパンフレットを渡されていた。担当の銀行員は副業として週末はアパートメントに勤務しており面識があったためか、非常に簡単にチェッキング・アカウントを開設することができた。また、入店時に営業時間を過ぎていたにも関わらずわざわざドアを開けて迎え入れてくれたことはありがたかった。信用問題のためにチェッキング・アカウントの開設が遅れたという体験談もあったため、あまりにも簡単に手続きが終わって拍子抜けした。当日は仮の小切手帳を渡され、後日正式な小切手帳とクレディット機能付のキャッシュ・カードが郵送されてきた。キャッシュ・カードのクレディット機能は便利であったが、一般のクレディット・カードと比べると利用に制約があるようであった。

チェッキング・アカウントの開設が済んだため、日本からの送金が無事に行われさえすれば金銭面の心配はなくなるはずであった。送金のためには、合衆国滞在に備えて日本で預金口座を開設したシティバンクを利用することにしていた。そして、送金依頼状の送付を母に行ってもらった。ところが、いつまで経ってもチェッキング・アカウントの残高が増えない。仕方なく国際電話によって問い合わせると、些細なことで送金手続が着手されていなかった。既に持参したキャッシュを使い果たしトラヴェラーズ・チェックも残り僅かになって手持ちが不如意になってきていたため、国際業務は得意であるはずなのにと不信感を持った。電話連絡の後、しばらくすると送金が行われ、チェッキング・アカウントの残高は約2万ドルとなって、小切手の振り出しやキャッシュの引き出しを自由に行うことができるようになった。

生活のために必要な用品がほとんど備え付けられている中で手続きを行う必要があったのが、電話とケイブル・テレヴィジョン(CATV、有線テレヴィジョン)の加入だ。

電話の加入については、首都圏を受け持っているベル・アトランティックのオフィスに電話をかけて申込みを行おうとしたが、録音された音声の会話のスピードが早すぎて、何回繰り返しても理解することができなかった。そこで、アパートメントの管理室のスタッフに連絡を依頼することにした。その後、スタッフの指示に従ってベル・アトランティックのオフィスで加入料金とセキュリティ・デポジットを支払った。接続のための工事は、サンクスギヴィング・デイ(感謝祭、11月第4木曜日)に伴うヴァカンス期間のため遅れた。

ケイブル・テレヴィジョンの加入の申込みも面倒であった。電話をかけると、少ないスタッフで対応するためか、ヴォイス・メイル(留守番電話)に用件を録音する方式になっている。そして、相手からの連絡を待つのだが、こちらが留守にすることが多いためか連絡がない。そこで、連絡先をアパートメントの管理室とし、スタッフに伝言を受け取ってくれるよう依頼した。接続のための工事前は受信状態の悪い地上波放送を視聴することができるだけであったが、工事後は受信状態がよくなり、追加申込みを行ったオプションを含め、視聴可能なチャンネルは64、番組ごとに契約可能なペイ・パー・ヴューのチャンネルは3となった。映画専門のチャンネルが4と多く、ハリウッド映画を安上がりで楽しむことができるようになった。ただ、当然のことながら字幕はなく、ストーリを問題なく理解することができたというわけではない。

AAA(American Automobile Association の略でトリプルAと発音、アメリカ自動車協会)への入会は、合衆国で日常的にドライヴをする場合は必須だ。ロウド・サーヴィスを受けることができるほか、州ごとのガイドブック、州や町ごとの地図を貰うことができる。また、ホテルやレンタカーの料金が割引になることもあるなど、会費の割にサーヴィスは非常に充実している。日本のJAF(日本自動車連盟)に相当し、JAF会員は入会の必要はないようだ。メトロ・センター駅の西にあり15番ストリートに面している。すぐに入会し、ニューヨーク州旅行について相談した。

新聞は、ワシントン・ポストを購読した。英字新聞は配達をしてもらわないとなかなか読む意欲が湧かない。地元の新聞の様々な紙面に目を通すことによって合衆国の文化の一端に触れたいと思い、購読を決断した。ただ、日曜日には200ペイジを超える膨大な紙面から必要な情報を取捨選択することは難しかった。

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住居

■合衆国滞在中の活動は、アパートメント、ホテル、交通機関など生活の手配を含めて手厚い支援を受ける方法と、受入交渉だけを依頼する方法があった。前者によると、手続きの進行は早く、合衆国での活動や生活に不安がある場合は有用であろうと思う。しかし、活動の自由度は少ない。そこで、後者によることとしていたのだ。

そのため、日程はすべて自分で立てていくことになった。当初、受入先が部内だけは面会の手配を行ってくれる様子であったためそれを待っていたところ、いつまで経っても手配がなされず、出足をくじかれてしまった。ただ、これは受入担当者の責任ではなく、面会のアポイントメントをなかなか取ることができないという事情によるものであったようだ。合衆国でも、日本と同じく、通常の職務と関係のない仕事はできるだけ避けようとする傾向があるようで、面会に応じてくれるよう受入担当者が熱心に説得しても、何かと理由を付けて断られる場合が多いようなのだ。この問題に対する唯一の対処方針は、自ら面会のアポイントメントを取るように心掛けるということであった。そして、受入先の部署ごとの業務の概要を頭に入れると、テレフォン・ディレクトリ(電話番号簿)を見て関係のありそうな部署に電話をかけることにした。セクレタリ(秘書)から担当者まで電話が繋がると、本人からの直接の依頼であるため断りづらいのか、簡単に面会に応じてくれる場合が多かった。ただ、紹介に優るものはないため、ある部署に面識のある人ができたら、その部署内の担当者はその人に紹介してもらうようにした。

受入先を除く訪問先は、ある程度、日本で紹介してもらっていたが、ほかに、書店で買った名鑑を見て電話をかけることが多かった。その場合、受付から、場合によってはパブリック・リレイションズ(渉外部)を経由して、担当部署に電話を繋いでもらうことになるわけだが、ディレクター(部課長)などに電話が繋がると、快く面会に応じてくれる場合が多かった。面会は、ディレクターやヴァイス・プレジデント(副社長、日本の取締役程度に相当)などに応じてもらった。

ただし、このことは、面会のアポイントメントを取ることが容易だということを意味しない。まず、受付から担当部署に電話を繋いでもらうために訪問の意図を伝えなければならないが、これが一苦労であった。これは、語学力の問題もあるが、受付の段階でできるだけ不審者を排除しようとモニタリングしていることも影響している。何とか担当部署に電話を繋いでもらったとしても、担当者が不在の場合が多い。セクレタリがいる場合はよいが、日本のように席の近い同僚が代わりに電話に応答するという慣行はないため、多くの場合、ヴォイス・メイルにメッセイジを残すことになる。しかし、面識のない者がここでメッセイジを残しても後刻連絡のある可能性は低い。なお、担当者のセクレタリに用件を伝えることができれば後刻連絡のある可能性がかなり高く、そのことには感謝した。そして、電話をかけ直す場合、担当者の直通電話番号が分からないため、再び受付に訪問の意図を伝えるというプロセスを辿ることになる。そのようなことにならないように、担当者に電話を繋ぐ前に担当者の直通電話番号を教えてくれるよう受付に依頼しても、その依頼に応じてくれることはほとんどなかった。これは、担当者に電話を繋ぐことは了承しても、こちらを完全に信用したわけではないため、直通電話番号まで教えることはできないということであったと思う。

ここまでの交渉で苦労するのは、脈絡のない数字の羅列になる電話番号を聞き取ることと、担当者の名前が聞き慣れないものである場合にそのスペルを確認することだ。合衆国は移民の国であるため、誰もがアングロ・サクソン系の名前を持っているわけではないのだ。アルファベットの聞き取りはネイティヴ・スピーカーにとっても難しいらしく、「B as boy(boyの頭文字のB)」、「Z as zoo(zooの頭文字のZ)」などと言いながらスペルを確認していた。また、セクレタリと話をした場合など、担当者の名前を聞いてもそれが男性なのか女性なのか分からず、敬称(Mr.やMs.)を間違えて付けてしまうこともあった。

一方、ほかの人に紹介してもらって直接担当者に電話をかける場合は、紹介者を尋ねられることが多い。人のネットワークを大切にする社会のためであろう。そして、快く面会に応じてくれる場合が多かった。

なお、一部では、インターネットやコンピューター通信を利用したEメイル(電子メイル)を面会のアポイントメントを取るために利用するようになってきていたようだ。そこで、渡航してから通信用のモデムを買い、インターネットなどへの接続を試みたが、仕様が微妙に異なるためか、接続時や接続中にハングアップすることが多く、実用に供することはできなかった。

このように、面会の前段階で大いに苦労することになったが、企業の受付やセクレタリとの交渉などもアメリカ文化を理解するために欠かせないことであり、また語学力のトレイニングにもなると心得て、文献などはある程度アパートメントに持ち帰って読むという覚悟をしたため、特に後悔はしなかった。

受入先は、レッド・ラインのジュディシアリ・スクウェア駅の近くにあり、かなり大きなビルディングであった。アパートメントからレッド・ラインを利用して直通で往復することができた。そして、受入部署である国際部門の中にブースで仕切られて個室のようになっているスペイスを与えられた。受入先や訪問先などでは面会に丁重に対応してもらった。ただし、早口で話されると語学力のなさが響いてくる。この点は最後まで苦労したが、「習うよりも慣れろ」の精神で切り抜けた。もちろん理解度は相手の話し方によって異なったが、たとえば話の途中で「capital intensive (資本集約的)」などキーワードが耳に入れば、その後の数分程度は相手の話したいことを予想することができ、理解が容易になるということがあった。

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■日本出国から帰国までの主な日程を週別に記すと、以下の通りとなる。合衆国滞在中、面会した関係者は100人に達した。

第1週(11月第2週)日本出国、合衆国入国、
ワシントンDC滞在開始
第2週(11月第3週)政府シャットダウン(6日間)、
アパートメント入居、両親訪米
第3週(11月第4週)ニューヨーク州旅行(6日間)
第4週(11月第5週)受入開始
第5週(12月第2週)受入先での活動開始
第6週(12月第3週)外部での活動開始、
第2回政府シャットダウン(21日間)
第7週(12月第4週)ピッツバーグ訪問(4日間)、
アトランティック・シティ旅行
第8週(12月第5週)中央アメリカ旅行(10日間)
第9週(1月第1週)第2回政府シャットダウン終了
第10週(1月第2週)豪雪による政府閉鎖(合計4日間)
第11週(1月第3週)合衆国滞在の中日
第12週(1月第4週)五大湖地方訪問(8日間)
第13週(2月第1週)ワシントンDC市内見物
第14週(2月第2週)西部訪問日程決定、
アパートメント退去準備開始
第15週(2月第3週)東部訪問(5日間)
第16週(2月第4週)アトランタ訪問(5日間)
第17週(2月第5週)受入先退去
(3月第1週)アパートメント退去、西部訪問(23日間)
・テクサス州訪問
第18週(3月第2週)・コロラド州訪問
第19週(3月第3週)・カリフォルニア州訪問
第20週(3月第4週)・ワシントン州訪問
第21週(3月第5週)西部訪問終了、ハリスバーグ訪問、
合衆国出国、帰国

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■合衆国に滞在していた期間は、ほとんど冬であった。滞在中のワシントンDCの気候を振り返ってみた。

渡航直後の11月第2週には、空が晴れ渡っていても空気は冷たく、コウトを着ている人が多かった。それでもまだ冬の訪れを感じただけであったが、すぐに本格的に冷え込んできた。

11月第3週には、かなり冷え込んできた。夕方のシャワー(通り雨)が雪に変わり、道路上に溶け残った雪を見ることができた。報道によると、隣のヴァージニア州ではトルネイド(竜巻)が発生したとのことだ。最低気温は31Fと氷点下になったようだ。換算式は、摂氏表示温度=(華氏表示温度−32)×5/9だ。

11月第5週には、夜のシャワーが雪に変わり、駅に向かう途中の舗装されていない地面が薄く雪化粧をしていた。その後は、空が晴れ渡り、コウトが必要でないぐらい暖かい日が続いた。

12月第2週には、当地らしい寒さが戻ってきて、日中でもコウトが欲しいぐらいであった。また、かなりの雪が降った。

12月第3週には、外出時、コウトを着ても寒いと感じる日があったが、最高気温が華氏十数度(約−10℃)しかなかったという。当地の天気予報が天候よりも気候の報道に力点を置いていることも分かるような気がする。翌日の予報がsunny (晴)やrainy (雨)の代わりにcold(寒い)という日本では考えられないものになることがあるのだ。バッファロー空港は大雪のため閉鎖されたそうだ。前季は暖冬であったというが、当季は本格的な寒波が到来するのではないかと不安になった。

1月第2週には、雪が降り続き、かなりの積雪になった。そして、幹線道路にもほとんど自動車が走っていない状態になり、ほとんどの小売店が閉まった。前日にスーパーマーケットで買い物をした時、通常よりも客が多くそれぞれの購買品数も多かった理由が遅れ馳せながら分かった。気温もかなり下がっており、本格的な冬が到来したという印象を受けた。翌日の新聞によると、積雪は16インチ(1インチは約25.4mm)を記録したという。ボストンからワシントンDCまでの空港が閉鎖になったほか、政府が豪雪のために閉鎖されることになった。企業や学校もほとんどが閉鎖になったようだ。そのうちに幹線道路はある程度のスピードで走ることができるようになったが、政府の閉鎖は解除されなかった。一方、小売店は営業時間を短縮して営業を再開したが、スーバーマーケットではしばらく前まで大安売りをしていたパンがすべて売り切れており不安であった。ただ、その後、小売店の営業時間は少しずつ長くなっていった。

政府の閉鎖は4日目に解除された。メトロはそれなりの頻度で列車を運行していたように思われたが、自動車から切り替えた人がかなりの数に上ったのか、ラッシュ・アワーの混雑は相当なものであった。ファラガト・ウェスト駅では帰宅ラッシュのために入場制限が行われていた。いくらメトロが整備されているとは言え、ワシントンDCも道路交通によって支えられている町であったのだ。また、通勤ラッシュに慣れていないためか、後続の乗客が乗車することができるよう車両の中程に進んだりほかの乗客に通り道を譲ってもらって乗車しようとする乗客は少なく、日本のように列車が超満員になるということはないようであった。後で聞いた話によると、チェヴィチェイス周辺の道路は走行可能になっていても、奥地で道路の復旧が進んだのはずっと後のことであったという。そして、翌日に再度の降雪があり、大規模なものではなかったが、まだ道路が完全に復旧していない状態であったため大きな影響を受けることになった。政府は再び閉鎖され、豪雪による閉鎖は合わせて4日間に上った。一方、スーパーマーケットのパン売場には商品が戻ってくるなど、平常化に向けた動きも見られた。

1月第4週には、政府の閉鎖をもたらした雪は一部を残してほとんど溶けていたが、数日間降り続いた雨と気温の上昇による急速な雪解けによって、ポトマック川が氾濫を起こした。ワシントンDC発祥の地ジョージタウンは川沿いの地域で浸水の危険に晒されたという。五大湖地方訪問中に雪はすっかり溶けてなくなっていたが、2月第1週には、辺りは再び白銀の世界に戻った。

2月第2週から第3週にかけては、快晴の日が続いて寒さが緩んだり、雨が降っても比較的暖かったりするという状況であった。しかし、東部訪問中に大雪が降ったようで、かなりの雪が解けずに残っていた。

2月第4週には、当地では珍しく本格的な雨が降り、傘を持ち歩いていないため閉口した。第5週に入っても、暖かい日が続き、コウトを着ずに出勤していたが、そのうちに寒気が戻り、3月第1週になって、辺りが再び雪化粧をしている中、西部訪問に出かけた。

3月第5週に西部訪問から戻った時も、本格的な春の訪れはまだ先のようで、雪の中、帰国便に乗るためにダレス空港に向かうことになった。当地で買った書籍など不要になった荷物は国際宅配便を利用して日本に送り返していたが、悪天候は辛かった。ちなみに、午前中に出立し、シカゴのオヘア空港でトランジットを行って、翌日の夕方、成田空港に到着した。

当地に住んでいる日本人によると、当季の特徴として、雪は多かったが、最高気温が華氏十数度(約−10℃)という日が続きポトマック川が完全に凍るということはなかったため、例年と比べて特に寒かったというわけではないそうだ。

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ワシントンDC

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住居

■ワシントンDC(華盛頓)は、首都ではあるが、ニューヨークのような巨大都市とは異なり、落ち着いた佇まいの住みやすい町ではないかと思う。当地に本拠を置くメイジャー・リーグ・ベイスボール(MLB)球団はなく、最寄りの球団はメリランド州のボルティモア・オリオールズだ。週末などを利用して市内の様々な場所を訪ねた。

渡航2日目の夜にデュポン・サークルに出かけてみると、深夜まで営業していたり24時間営業であったりする店が多かった。人の往来が絶えないため、その辺りでは治安上の問題は少ないことが分かった。また、予想以上にアフリカン(アフリカ系の人、ネグロイド、俗称は黒色人種、黒人)の姿を見かけることと、人種間の交流も行われているように思われることが印象的であった。

写真
国会議事堂

3日目は、アパートメントの仮契約を済ませた後、全国の鉄道路線網をカヴァーしているアムトラック(アメリカ鉄道旅客輸送公社の通称)のターミナルとなっているユニオン駅に向かい、ショッピング・モールなどを見物した。さらに、国会議事堂(キャピトル)、ワシントン記念塔(モニュメント)、チャイナ・タウンなどを散策した。

4日目は、メトロ・センター駅に出かけた。前日はユニオン駅からメトロ・センター駅まで、当日はメトロ・センター駅からデュポン・サークル駅まで歩いたので、合わせて東のユニオン駅から西のデュポン・サークル駅まで歩いたことになる。ワシントンDCの地理的な大きさを肌で実感することができ、かなり身近に感じられるようになった。

12月第3週に、それまで足を運ぶことのなかったフレンドシップ・ハイツ駅北東部を散策した。ワシントンDCとメリランド州の境界を成すウェスタン・アヴェニューに沿って歩いていった。すると、大きな庭を持った一戸建ての家が延々と続く。羨ましい限りだ。途中には一軒の店も見当たらず、バスの運行が平日だけであったり途中からは歩道がなくなったりするなど、自動車の所有を前提にした町づくりが行われていた。ワシントンDCの北にあるメリランド州のシルヴァースプリングに立ち寄りたかったが、ロック・クリーク・パークまで来たところで方向が分からなくなったため断念した。

次の週末に、シルヴァースプリングまでの散策を敢行した。ロック・クリーク・パークの巨大な雑木林の中では川が蛇行して流れており、丘陵はかなりの傾斜があってチェヴィチェイスとの間に大きな壁を形成していた。また、鹿が棲息していたり、週末に車両の通行を規制してジョギング・コースを設けたりするなど、単なる公園というよりも自然保護園と読んだほうがふさわしいように感じられるほどの規模であった。ロック・クリーク・パークの中で道を間違えてかなり南寄りの場所に出てしまったが、出発してから1時間半程度で何とかシルヴァースプリングに到着することができた。チェヴィチェイスやその北隣のベセスダなどと同じく上品な町づくりが行われているようであった。メトロはベセスダ以北と同様に地上を走っていた。

1月第3週に、フレンドシップ・ハイツ駅の南隣のテンレイタウンAU駅の辺りまで散策している時、南に向かうバスが通りかかったため、乗ってみることにした。それまで、当地で市内バスに乗った経験は、デュポン・サークル駅でフレンドシップ・ハイツ駅に向かうバスを見かけて飛び乗ったことぐらいしかなかった。ジョージタウンでバスを降りて、周辺を散策した。メトロのアクセスが悪くそれまで訪ねることが難しかったジョージタウンが急に身近に思われてきた。

写真
ホワイト・ハウス

ワシントンDC出立が1か月後に迫った2月第1週に、観光名所を1日で見物していった。ワシントン生活情報誌にも、思い立った時に観光しておかないと、そのうちに出国日が近づいてきて観光しないまま帰国することになってしまうと注意されていた。白銀の世界の中、ホワイト・ハウス(大統領府)の見物から始めた。大統領官邸でもあるが、1階の部屋は公開されている。気品が感じられた。

次いで、スミソニアン協会の博物館を、国立アメリカ歴史博物館(ナショナル・ミュージアム・オヴ・アメリカン・ヒストリ)、国立自然史博物館(ナショナル・ミュージアム・オヴ・ナチュラル・ヒストリ)、ナショナル・ギャラリ(国立絵画館)、航空宇宙博物館(ナショナル・エア・アンド・スペイス・ミュージアム)の順に見物した。博物館は中心部にひしめくように建てられており、どこを訪ねればよいか迷ってしまう。国立アメリカ歴史博物館では、決して平坦ではなかった合衆国の発展の歴史を実感することができる。国立自然史博物館では、ネコ科やイヌ科など科ごとに分類された多くの哺乳類の展示が印象的であった。ナショナル・ギャラリは、建物を含め、保守的な西館と革新的な東館が対置されており、見所が多かった。地下のカフェテリアで昼食を取った。

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エノラ・ゲイの胴体前部

航空宇宙博物館は、宇宙に向けての人類の夢の歴史が展示されていると言ってよいであろう。その中で、物議を醸したのが広島に原子爆弾を投下した戦闘機エノラ・ゲイの展示だ。当初、原子爆弾による被害の状況を示す証拠も同時に展示される予定であったが、退役軍人などの反対に遭って中止された。その結果、エノラ・ゲイは第二次世界大戦で日本本土決戦を回避し、日本人を含め戦死者の数を抑えることに役立ったということだけが強調される結果になってしまった。実際にそのような効果があったのだとしても、また太平洋戦争が日本によるパール湾(真珠湾)攻撃によって始まったことを考慮するとしても、原子爆弾による日本の一般国民の被害から目を背けることは間違っていると思う。日本の降伏を促すためであれば原子爆弾の海上への投下などによる示威行為で十分であったのではないか、間隔を開けずに長崎にも原子爆弾を投下したのはなぜなのかということなど、疑問点は多い。自国民であるか否かに関わらず一般国民の犠牲を最小限に抑えようとする姿勢の欠如は、その後、コリア戦争での原子爆弾の投下計画の浮上、ヴェトナム戦争での農村への無差別爆撃へと繋がっていったのではないかと考えている。原子爆弾は本当に戦争抑止力として機能しているのか、真の国際平和のためには何が必要なのかなど、国際的に議論していかなければならない問題は多いのではないだろうか。

さらに、国立ホロコースト記念博物館を見物した。第二次世界大戦中のドイツによるユダヤ人の大量虐殺を糾弾しているのだが、当時の映像はあまりにも生々しく、人類の愚かさを思うと悲しくなってきた。ナツィス(国家社会主義ドイツ労働者党)の狂気は戦争という異常な状況の下で発現したわけだが、全体主義による狂気はその後もカンプチアなどで繰り返されている。当時の経験が活かされていないわけで、陰鬱な気分はなかなか解消しなかった。

この時点で既に暗くなりかけていたが、最後に、リンカーン記念館とヴェトナム戦争戦没者慰霊碑を見物した。リンカーン記念館はライトアップによって美しく映えていた。一方、ヴェトナム戦争戦没者慰霊碑では所々に献花がなされていた。傍らの兵士の像は苦しい戦闘の状況を訴えかけており、第二次世界大戦後長らく絶頂期にあったアメリカ人の自信を一気に失わせたヴェトナム戦争に対する悔恨の情を示しているかのようであった。

書店については、クラウン・ブックスやBダルトンなどの系列店が各地に店舗を展開している。また、大型書店としては、ファラガト・ノース駅の西にありKストリートに面したボーダーズ・ブックス&ミュージックや、ファラガト・ウェスト駅の階上にある社会科学系の専門店のシドニ・クレイマー・ブックスが豊富な品揃えを誇っており、大いに利用した。さらに、ファラガト・ノース駅の階上には、日本経済新聞と読売新聞の衛星版を売っている書店があった。

政府刊行物は、ユニオン駅の北にありノース・キャピトル・ストリートに面したガヴァメント・プリンティング・オフィス(政府刊行物室)で買うことができる。品揃えは豊富であった。

日本料理店は、時々利用した。主な店は、デュポン・サークル駅の西にありPストリートに面した肴のほか、ジョージタウンにあるジャパン・イン、テンレイタウンAU駅の北にある与作、ベセスダ駅の北にある蛸と、それぞれウィスコンシン・アヴェニューに面した店だ。日本人だけでなく多くの地元の人が利用している店が多く、料金は日本と比べると高いのであろうがリーズナブルであり、なかなかの味であった。また、各国のエスニック料理を試すこともあった。

当地の住所表示は国会議事堂を中心になされているが、都市の機能的な中心はかなり西にあるホワイト・ハウスの辺りにあり、一般に安全と言われている北西部の中でも本当に安全なのはホワイト・ハウスの北西部だとされるそうだ。渡航3日目にチャイナ・タウンなどを散策した後、そのままホテルまで歩いて戻ろうと考えていたが、次第に辺りが暗くなってきた。そして、人通りのない場所でアフリカ系の男性にクォーター硬貨(25セント硬貨、0.25ドルに相当)が欲しいと言われた。それは断ったが、心細くなってきた上に雨が降ってきたため、マウント・ヴァーノン・スクウェアUDC駅からメトロに乗ってデュポン・サークルに戻った。後で分かったことだが、治安のよくない場所に踏み込んでいたらしい。渡航直後にオリエンテイションを受講する機会もあったのだが、百数十日しかない貴重な滞在期間のうちの数日をそのために充てるべきだとは考えず、見送っていたのだ。ただ、危険に対する嗅覚は日常的に養っておく必要があるようだ。

出発

到着

生活

活動

日程
気候

ワシントンDC

抜粋

住居

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チェヴィチェイス市街

■チェヴィチェイスの含まれるメリランド州南部は、ワシントンDCの奥座敷と呼ばれる。

まだアパートメントに入居する前に、アパートメントの前を走っているウィスコンシン・アヴェニューを北に向かって歩いた。高級住宅街や雑木林の中をかなり歩いた末に到着したのは、フレンドシップ・ハイツ駅の北隣のベセスダ駅であった。それによって、チェヴィチェイス周辺の景観を知ることができた。ベセスダは、チェヴィチェイスから徒歩30分程度の距離にあり、その後も時々散策した。金網で囲われている雑木林の中には野生の鹿を見かけ、またゴルフ・コースもあった。

合衆国滞在が決まった後、地下鉄サリン事件のため職場への足が乱れた日、合衆国滞在の経験者に合衆国での生活について説明してもらった。ベセスダは、経験者が住んでいた町であり、憧れを抱きながら説明を受けていた。経験者は、相対的に安価なアンファーニシュトのアパートメントをレンタルし、家具は別にレンタルするという意欲的な取組みを行ったとのことであった。実際にベセスダを訪ねてみると、チェヴィチェイスよりも少し大きな町のようであったが、同様に高級住宅街としての気品に満ちていた。

12月第2週に、メトロに乗ってモントゴメリ・カウンティの役所があるロックヴィルを訪ねた。フレンドシップ・ハイツ駅からレッド・ラインの列車に乗って北に向かうと、終点の近くにある。駅前は幅広い道路が走っているだけで、ショッピング・モールと呼ぶことのできるようなものは見当たらなかった。それどころか、土曜日の夕方という日時のためかほとんど人影が見当たらず、自動車の走っている通りの近く以外は薄暗くて怖いという感じがした。ショッピング・モールは別の場所にあるのであろうが、駅前がこれほど閑散としているということは意外であった。

チェヴィチェイスは、アパートメントの近くにドラッグ・ストアのCVSファーマシやスーパーマーケットのジャイアントなどが集まっているチェヴィチェイス・センターがあるほか、フレンドシップ・ハイツ駅の階上にチェヴィチェイス・パヴィリオンが店舗を展開させているショッピング・モール銀座であり、非常に便利だ。また、周辺にはヘクツ、ノイマン・マーカス、サクス・フィフス・アヴェニューなどの大型小売店が立ち並んでいる。高級なアパレル関係の店が多いことが特徴だ。

チェヴィチェイスのこのような店舗網にも関わらず、またワシントンDCのどの駅でも、駅周辺のショッピング・モールで見つけることができないのが電気機器販売店だ。携帯用のカセットテイプ・レコーダーを売っている店さえ見つけることができないのだ。そこでワシントン生活情報誌に当たってみると、電気機器販売店は郊外のショッピング・モールに集中していることが分かった。大型電気機器を取り扱っているため、自動車社会では郊外にあった方が便利なのかもしれない。そして、ベセスダ駅からバスに乗って、モントゴメリ・モールに向かった。モントゴメリ・モールは、広大な土地を贅沢に使ったもので、駅前で見かけるショッピング・モールとは規模を異にしていた。多くの人が買い物をしており、これがアメリカというものなのかなと感じた。

なお、3月第5週に西部訪問から戻った後は、既にアパートメントを退去していたため、ヴァージニア州のアーリントンにあるエコノ・ロッジというモウテルに5泊した。宿泊料金は1日当たり約6,300円(60.37ドル)であった。

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