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アメリカ合衆国 地方

地方

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ニューヨーク州

ペンシルヴェニア州
五大湖地方

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■合衆国は、広大な国であるとともに、州によって法律・制度や経済状況が大きく異なる。できるだけ多くの州や町を訪ねることが多様性を持つ合衆国を理解するために役立つのではないかと考え、12月第4週に4日間の日程でピッツバーグを、1月第4週から8日間の日程で五大湖地方(シカゴ、デトロイトなど)を、2月第3週に5日間の日程で東部(ニューヨーク、ボストンなど)を、2月第4週から5日間の日程でアトランタを、3月第1週から23日間の日程で西部(ダラス、デンヴァー、ロスアンジェルス、サンフランシスコ、シアトルなど)を、3月第5週にハリスバーグを訪ねた。また、両親と11月第4週に6日間の旅程でニューヨーク州を、一人で12月第4週に2日間の旅程でアトランティック・シティなどを、12月第5週から10日間の旅程で中央アメリカを旅行した。合衆国滞在中に30州と1特別区(ワシントンDC)を訪ね、合衆国以外に4か国を旅行したことになる。

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ニューヨーク州

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■11月第3週から第4週にかけて、ニューヨーク(紐育)などを訪ねる目的で、帰国日を除いて10日間の旅程で両親が訪米してきた。第4週はサンクスギヴィング・デイに伴うヴァカンス期間に当たっており、第5週からの受入先での勤務の始まる前であったため、よい機会ではないかと両親に訪米を勧めたのだ。

まず、両親を出迎えるために、ワシントンDCのダウンタウンでレンタカーのチェックアウト(借出)を行った後、アパートメント周辺で試運転をしてみた。次いで、アパートメントの前を走っているウィスコンシン・アヴェニューをベセスダまで北上したりジョージタウンまで南下したりした。それによって自動車の運転について見通しが立ったため、一旦自動車を路上に駐車してアパートメントで休憩していた。ところが、その時、交通違反切符を交付されることになった。30ドルの罰金であった。

気を取り直して、ダレス空港に向かった。まだ時間が早かったこともあり、自動車の運転の練習を兼ねてチェヴィチェイスとの間を往復した。右側通行の道路に合わせてステアリング・ホイールが左側座席にあることは問題にならなくなっていたが、ラッシュ・アワーに当たったこともあり、首都圏を循環しキャピタル・ベルトウェイと呼ばれるインターステイト・ハイウェイ(州間高速道路)495号などでは多くの自動車が高速で走っており、かなり戸惑った。

両親の乗ったロスアンジェルス発のユナイテッド航空の飛行機は、霧のため、予定よりも1時間程度遅れて到着した。父にとっては初めての国際線の飛行機旅行で、母にとっては国内線を含めても初めての飛行機旅行であった。そのため、ロスアンジェルス空港でのトランスファーには苦労したようだ。入国手続に際して一旦託送荷物を受け取る必要がないよう荷物をすべて機内持込にしてもらっていたが、巨大な構内をシャトル・バスに乗って移動するために時間を要したという。

ダレス空港での待ち合わせに際してもハプニングがあった。待ち合わせ場所の確認が不十分であったのだ。待ち合わせ場所は所定の場所としか示し合わせていなかったが、ダレス空港では、合衆国のほかの空港と同様に送迎者が搭乗待合室まで入ることができる。そして、実際に搭乗待合室で派手に出迎えを受けている乗客を目の当たりにして、両親はそこが待ち合わせ場所だと考えたという。搭乗待合室から出口に向かうために、外見上は列車のように見えるモウビル・ラウンジというバスに乗らなければならないことも事情を悪くしていた。また、残念に思うのは、出口にいる空港警備員に事情を説明しても、何の対応も取ってくれなかったことだ。飛行機到着の1時間後に無事に両親を出迎えることができた時には安堵した。

両親のために予約しておいたモウテルはアパートメントの近くにあり、チェックインが終わると、両親にアパートメントを見てもらった。両親は、調度の整ったアパートメントや日本と品揃えのあまり変わらないスーパーマーケットを確認して安心したようだ。

翌日から2日間、レンタカー、タクシー、メトロを利用して、ジョージタウン、国会議事堂、チャイナ・タウン、ワシントン記念塔や、ヴァージニア州アーリントンのアーリントン国立墓地(ナショナル・セメタリ)などを案内した。ホワイト・ハウスやナショナル・ギャラリなどは、暫定予算の期限切れに伴う政府のシャットダウン(閉鎖)のため、中に入ることができなかった。

両親訪米5日目から、6日間の旅程で、ニューヨーク州のナイアガラフォールズとニューヨークを訪ねた。両親は、日米間の往復のために利用した格安航空券がゾウン制運賃の適用対象になっていたため、日米間の単純往復と同一料金でこれらの町を訪ねることができるという恩恵を受けていた。父は風邪気味であったが、前日の休養で体調は回復に向かっているようだ。

ダレス空港まではタクシーを利用し、空港から飛行機に乗ってバッファローに向かった。飛行機はプロペラ機であった。合衆国では、飛行機の路線網が細かく張り巡らされている代わりに、乗客の少ない路線では小型機の利用もあるようだ。プロペラ機の利用は、ヴェトナム旅行の際に国内移動のために利用して以来のことだと思う。プロペラ機に乗ったことのない母は、当然のことながらかなり不安であったようだ。バッファローに近づいて飛行機が高度を下げると、雪化粧をしている町が次第に大きく見えてきた。

バッファロー空港からナイアガラフォールズに向かうためには、タクシーと料金のあまり変わらないレンタカーを借りることにした。そして、ナイアガラフォールズのダウンタウンに入る前にホースシュー・フォールズ(カナダ滝)を見物したいと考え、バッファローの近くで早々に国境のナイアガラ川に架かっている橋を渡ってカナダに入国することにした。出国ゲイトは見当たらず、そのまま入国ゲイトに向かうことになる。入国ゲイトでは、簡単に通り抜けていく地元の自動車とは異なり、隣接する事務所に行くようにと指示を受けた。ただし、両親に自動車の中で待っていてもらい、3人分のパスポートを持って事務所を訪ねると、簡単にパスポートに入国スタンプを押してくれた。

ホースシュー・フォールズは、実に壮大なものであった。奥にアメリカン・フォールズ(アメリカ滝)を望むこともできた。冬の到来のため既にオフ・シーズンに入っており人影はまばらであったが、しばらく寒さに耐えてホースシュー・フォールズを間近で見物していた。夕方になって隣接するレストランに入り、様々な色にライトアップされるホースシュー・フォールズのイルミネイションを楽しんだ後、合衆国側に予約しておいたモウテルに向かった。ニューヨーク州旅行中は、宿泊料金の節約のため、すべてトゥイン・ルームにコット(エクストラ・ベッド)を追加するという形式で予約した。
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アメリカン・フォールズ/ホースシュー・フォールズ

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ホースシュー・フォールズ

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アメリカン・フォールズ

■翌日、レンタカーを運転してバッファロー空港に戻る途中、再びホースシュー・フォールズを訪ねた時には、滝の裏まで続いているトンネルに入り、強大な水の落下エネルギーを実感した。

バッファロー空港からは、ロチェスター空港でトランスファーを行ってニューヨークに向かい、ジョン・F・ケネディ空港からマンハッタン中心部のミッドタウンまでタクシーを利用した。宿泊先は、ベスト・ウェスタン・プレジデントというモウテルだ。運転手が住所を間違えたのか、最初は治安の悪そうな場所に連れていかれたため不安になった。しかし、ブロウドウェイなど多くの観光名所の集中するミッドタウンに到着すると、さすがに華やかであった。部屋は狭く、宿泊料金は非常に高かったが、世界に冠たるニューヨーク中心部であるだけに仕方がないであろう。モウテルは非常に繁盛しており、受付では宿泊客の往来が絶えなかった。

7日目は、サンクスギヴィング・デイに当たっており、テレヴィジョンでパレイドの放送をしていたが、そのパレイドはミッドタウンで行われているものであり、モウテルの窓から階下に眺めることができた。

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自由の像

その後、地下鉄やタクシーなどを利用して、自由の像(スタチュー・オヴ・リバティ、自由の女神像、正式名称は世界を照らす自由)やエンパイア・ステイト・ビルディングを訪ねた。ニューヨークの地下鉄路線網の複雑さは東京やワシントンDCの比ではなく、進行方向の異なる列車が同じプラットフォームに入線してくるため注意が必要だ。残念ながら駅はワシントンDCのような清潔さが保たれているわけではなく、母はワシントンDCとの落差に驚いていた。

自由の像のあるリバティ島へは、マンハッタン南端からフェリーに乗ることになる。ニューヨークのシンボルであるだけではなく合衆国の自由のシンボルでもあるだけに、目に焼き付けようと様々な角度から眺めた。

エンパイア・ステイト・ビルディングでは、最上階の102階は工事中であったため上ることができなかったが、86階展望台から世界の首都の中心部マンハッタンの隅々を眺めることができた。イースト川とハドソン川に挟まれたマンハッタンの地形がよく分かった。
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エンパイア・ステイト・ビルディングから

■翌日は、タクシーを利用して国際連合本部(ユナイテッド・ネイションズ・ヘッドクォーターズ)やメトロポリタン美術館を訪ねた。

国際連合本部は、トゥアーに参加して内部を見物する形式になっている。日本語トゥアーはしばらく待たなければならないようであったため、英語トゥアーに参加することにした。中国人スタッフに案内されて安全保障理事会会議場などを見物した。国際平和、人権尊重、経済発展など、全世界の抱えている問題は大きいと説明される。国際連合は、超大国の意向に左右されて、残念ながら十分に指導力を発揮しているとは言い難いが、問題の解決のための努力を続けてもらいたいものだ。

メトロポリタン美術館は、ロンドンの大英博物館、パリのルーヴル美術館と並んで世界三大ミュージアムに数えられ、ヨーロッパ絵画を始めとして広いフロアに所狭しと並べられている美術品の一端を垣間見るだけで終わってしまった。

モウテルはW(西)48番ストリートに面し、ブロウドウェイと8番街(アヴェニュー)の間にあって、タイムズ・スクウェアや5番街のショッピング街などに近い。市内見物のためには絶好の場所にあったと言うことができる。夜になって一人でショッピング街に出かけ、ネオン・サインが映える町並みを見物した。

ミッドタウンに滞在した3日間のうち2回の夕食は、モウテル近くにある2軒の日本料理店で取った。寿司や天麩羅のように海外で典型的な日本料理と考えられている料理よりも、うどんや御浸しのような日本の家庭料理の方が懐かしく、舌鼓を打った。

両親の出国前日には、レンタカーを借りて、ニューヨークの東に伸びるロング島を訪ねることにした。見物が終わっていないニューヨークの観光名所はまだ数え切れないぐらい残っていたが、長旅のため両親が疲労気味なので、ドライヴの方が楽に観光することができるのではないか、また郊外の観光も取り入れた方が趣向が変わって興味深いのではないかと考えたためだ。ニューヨークを出てしばらく走ると、後方に摩天楼を眺めることができるようになる。このように町並みを遠くから眺めてみるということは、町の様子を全体として理解するために役立つように思う。

ロング島中央部のガス・ステイションで給油を行い、支払いのためにキャッシャー(キャッシュ・レジスター)に行くと、スタッフに「どこに向かっているのか。」と尋ねられた。「まだ決めていない。これから決めなければならない。」と答えると、ロング島東部のリヴァーヘッドと北部のポートジェファーソンという2つの町のどちらかがよいのではないかと示唆してくれた。既に午後になっており、当地では日の入りが早いため、リヴァーヘッドよりも近いポートジェファーソンをドライヴの目的地とすることにした。ポートジェファーソンは港町であり、ニューヨークの喧燥を離れてゆっくりとくつろぐためには絶好の町ではなかったかと思う。昼食では新鮮な海老料理を堪能した。

その後、翌日の両親の出立に備えて予約しておいたエアポート・ホテルのJFKエアポート・ヒルトンに向かった。チェックインした後、ジョン・F・ケネディ空港までの道路の下見をしたが、夜であったことと道路が複雑に立体交差していたことから方向感覚が掴みづらく、エアポート・ホテルであるにも関わらずなかなか空港に辿り着くことができなかった。

翌日は、両親を空港に送り届ける日だ。ところが、ホテルをチェックアウトしようとロビーに下りてみると、レセプションに団体客が詰めかけており、いつになったら対応してもらうことができるか分からないという状況であった。そこで、チェックアウトを後回しにして、先に空港に向かうことにした。宿泊者が全員搭乗予定であったとするとどういう結果になっていたであろうかと思う。両親は初めての西洋への旅に満足したようであった。帰路はサンフランシスコ空港でトランスファーを行うことになっていたが、ロスアンジェルス空港と比べるとはるかに小規模なので、比較的スムーズに事が運んだようだ。

両親を見送り、ホテルのチェックアウトを済ませると、マンハッタンに戻ってレンタカーのチェックイン(返却)を行った。ワシントンDCまでは、アムトラックと、全国のバス路線網をカヴァーしているグレイハウンドのどちらを利用するか決めていなかったが、レンタカーの営業所からは、グレイハウンドの発着するポート・オーソリティ・バス・ターミナルの方が、アムトラックの発着するペンシルヴェニア駅よりも近かったため、グレイハウンドを利用することにした。所要時間は約4時間半とのことであったが、サンクスギヴィング・デイに伴う行楽ラッシュに巻き込まれ、シルヴァースプリングを経由してワシントンDCに到着するまでに6時間を要した。ワシントンDCのバス・ディーポ(グレイハウンドの発着所)に到着した時には辺りは暗くなっており、駅の方向を確認すると、事件に巻き込まれないよう足早に家路を急いだ。

ニューヨーク州旅行中の一人当たり宿泊料金の最高はニューヨーク3泊目の約7,200円(68.62ドル)で、最低はナイアガラフォールズの約3,500円(33.56ドル)であった。

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ニューヨーク州

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■12月第4週には、4日間の日程でペンシルヴェニア州のピッツバーグを訪ねた。

往復は、グレイハウンドを利用することにした。出発時点になってもアポイントメントが満足に取れておらず、帰路の日程に柔軟性を持たせておきたかったためだ。グレイハウンドは、飛行機と比べると割安であったが、所要時間約5時間のピッツバーグまでが所用時間約10時間のボストンまでよりも料金が高いことを納得するのは難しかった。理論的には、ボストンまでは航空料金が割安なため、バス料金も対抗するために割安にせざるを得ないのであろう。

バスは、オハイオ州のクリーヴランド行であり、満員であった。到着は深夜3時半頃であった。見知らぬ町への深夜の到着は緊張感が高い。幸いなことに、バス・ディーポ内のレストランで夜食を取るなどしながら、夜が明けるのを待つことができた。

夜が明けると、AAAを訪ねて地図やガイドブックを貰い、ホテル探しに取り掛かった。しかし、手頃なホテルはなかなか見つからず、仕方なくダウンタウンにあるヒルトン・アンド・タワーズに泊まることにした。合衆国滞在中に泊まった一人当たり宿泊料金の最も高いホテルだ。

当地には、鉄鋼業の衰退に対する対応を迫られた歴史があるし、部門ごとの売却と買収を繰り返している大企業も存在する。当地でアポイントメントを追加するなどして精力的に訪ねた。特に当地での2日目は、吹雪の中での訪問であった。

ピッツバーグ訪問後、ハリスバーグ訪問を希望していたが、アポイントメントを取ることができなかった。そこで、既に借りていたレンタカーを利用し、ハリスバーグに立ち寄ってからニュージャージ州のアトランティック・シティに出かけた。

ピッツバーグ訪問中の宿泊料金は1日当たり約12,000円(118.05ドル)であった。

ハリスバーグは、帰国直前の3月第5週に訪ねることができた。帰路、ウェストヴァージニア州のマーロウエに立ち寄った。

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ニューヨーク州

ペンシルヴェニア州
五大湖地方

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■1月第4週から第5週にかけて、8日間の日程でイリノイ州のシカゴやミシガン州のデトロイトなどの五大湖地方(合衆国での呼称はミッドウェスト)を訪ねた。

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モウテル

ワシントンDCのダレス空港を朝に出発することになっていたため、早朝アパートメントを出発した。そして、シカゴのオヘア空港でトランスファーを行って、午前中にウィスコンシン州のミルウォーキーに到着した。利用したのはユナイテッド航空だ。アポイントメントまで時間があったため、ホワイトフィッシュベイやグレンデイルに立ち寄った。その後、グレイハウンドに乗ってシカゴに向かい、オヘア空港でレンタカーを借りた。そして、郊外のシャウンバーグにあるモウテルに2泊した後、サウスホランドにあるモウテルに移動した。

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モトロウラ社

到着翌日から2日間、ホフマンエステイツ、シャウンバーグ、エルジンと、郊外を訪ねた。郊外と言っても中心部から数十キロメートル離れていることも多く、レンタカーの利用は欠かせない。ただし、3日目は雪が降り、アポイントメントの時刻に遅れて先方に迷惑をかけることになった。

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シアーズ・タワー(中央)

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シアーズ・タワーから

当地での最終日は、観光に充てた。世界最高層ビルディングのシアーズ・タワーに上ったほか、ハイランドパークやインディアナ州のゲイリを訪ねることができた。当地にはシアーズ・タワーのほかにも高層ビルディングは多いが、駐車場か空地か分からないような低利用地もある。全体として非常に高度な土地利用が行われているとの印象は受けなかった。

当地はウィンディ・シティとして知られており、風の影響もあると思うが、ワシントンDCなどよりも一段と寒く感じる。地元の人は、ワシントンDCなどではコウトのほか手袋を着用しているぐらいだが、当地では耳を被う帽子が必需品になっているようだ。

デトロイトに向かうためのフライトの出発時刻が早かったため、シカゴでの最終日はモウテルには泊まらず、オヘア空港で夜を明かそうと考えていた。しかし、チェックインしない限り自動販売機も見当たらず、次第に心細くなってきた。そこで、夜が明けるまでバス・ディーポで待つことにした。

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ジェネラル・モウターズ社

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フォード・モウター社

デトロイト・メトロポリタン空港(デトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港)に到着すると、再びレンタカーを借りた。ジェネラル・モウターズ社の自動車であった。ほかの町では日本車があてがわれることもあるが、当地ではそのようなことは決して起こらないであろう。オハイオ州のトレドでアウトレット・モールなどを見物した後、当地に滞在している関係者に手配してもらったホテルにチェックインした。郊外のサウスフィールドにあるラディソン・プラザ・ホテルだ。

翌日から3日間、フラットロック、ディアボーン、トロイと、郊外にある訪問先に向かった。交通渋滞に巻き込まれてアポイントメントの時刻に遅れるということもあった。ランシングやイーストランシングにある訪問先を含め、関係者がアポイントメントを取ってくれたりアテンドしてくれたりすることが多く、アポイントメントの取り付けなどに苦労している中では例外的に恵まれた訪問であった。

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ヘンリ・フォード博物館

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カナダ側から眺めたデトロイト

合間を縫ってディアボーンにあるヘンリ・フォード博物館を見物したほか、デトロイト川対岸にあるカナダのウィンザーへも2回足を運ぶことができた。当地は、自動車産業の停滞のため、ピッツバーグなどと同じくダウンタウンの荒廃が進んでしまった。しかし、ウィンザーから眺めていると、再開発計画のシンボルであるルネサンス・センターを中心に輝きを放っているようにも見える。ルネサンス・センターが起爆剤となって再生が円滑に進んでいくことを願わずにはいられなかった。

五大湖地方訪問中の宿泊料金の最高はサウスフィールドの約9,500円(91.16ドル)で、最低はサウスホランドの約7,000円(66.93ドル)であった。

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五大湖地方

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■2月第3週には、5日間の日程でニューヨークやボストンなどの東部を訪ねた。

航空券はボストンからの帰路分のみ準備をし、往路については、当初はグレイハウンドを乗り継いでボストンに向かおうと考えていた。しかし、途中の日程が立て込んできたため、交通機関の確保について心配しなくてもよいようにワシントンDCでレンタカーをワン・ウェイで借りてボストンで返却することとし、レンタカー最大手のハーツに電話をかけて予約した。通常は他社と比べてレンタル料金の割高なハーツだが、ワン・ウェイの場合は全国にネットワークを広げている規模の利益を活かすことができるため割安になるようだ。また、AAA会員割引が適用された。

出発前日、レンタカーを借りてアパートメントまで運転した。排気量1.8L程度のミディアム・サイズを借りたが、車幅が広くて運転に神経を使うことになった。また、ハンド・ブレイクの代わりに左足で踏むパーキング・ブレイクがあることやヘッド・ライトが自動点灯になっていることなど、乗り慣れている日本車との構造の差異に戸惑った。そして、無事にボストンまで辿り着くことができるかどうか不安になってきた。

深夜3時頃にアパートメントを出発し、ニューヨークに向かった。途中、デラウェア州のウィルミントンやペンシルヴェニア州のフィラデルフィアに立ち寄った。ワシントンDCからボストンまで、基本的にインターステイト・ハイウェイ95号を北上することになる。

インターステイト・ハイウェイの路線番号は順番に並べられている。路線番号が2桁以下の偶数番号路線は東西に走り、特に下1桁が0の路線は原則として合衆国を横断する一方、奇数番号路線は南北に走り、特に下1桁が5の路線は同じく縦断する。3桁の路線は、下2桁の路線番号が同じ路線の都市循環道路(上1桁が偶数の場合)または分岐(上1桁が奇数の場合)だ。たとえば、ワシントンDC周辺には95号が走り、循環道路として495号、95号から分岐してダウンタウンに向かう路線として395号がある。主なインターステイト・ハイウェイは、以下の通り主要都市を結んでいる。

■ニュージャージ州までは順調に到着したが、ニューヨークに差し掛かった辺りで交通渋滞に巻き込まれた。訪問先はニューヨークの北にあるスカースデイルにあったため、すぐにはニューヨークに入らず、右手にワールド・トレイド・センターやエンパイア・ステイト・ビルディングなどの高層ビルディングをハドソン川越しに眺めながらしばらくニュージャージ州内を北上し、対岸がマンハッタン北部となってから橋を渡ることにした。そこでも少し渋滞が起こっていたが、このようにマンハッタン中心部を迂回することによって何とかアポイントメントの時刻までに訪問先に到着することができた。

その後、公衆電話を利用することがあったが、手がかじかんでダイアルをスムーズに押すことができないほどの寒さであった。ニューヨークに戻る途中、マンハッタン北部でアフリカンが多く住むハーレムを通ることになった。必ずしも整備の行き届いていないアパートメントなどの前を通ると、自然に身構えてしまう。商店街を走っていると、急に男児が飛び出してきた。慌ててブレイク・ペダルを踏んで最悪の事態は免れたが、これは無謀な肝試しであったようだ。こちらは肝を冷やした。一方、マンハッタン中心部では道路が渋滞しており、強引な運転をするタクシーなどを避けながら走らなければならなかった。

ミッドタウンでも訪問先に向かった後、日本書店に立ち寄ったり、両親訪米時に利用した日本料理店で鍋焼うどんを食べたりした。

宵になって、インターステイト・ハイウェイ78号を西進し、ニュージャージ州のプリンストンに向かった。プリンストンではモウテルが全く見つからず、一時はプリンストン駅の駐車場で夜を明かそうかと考えたが、郊外のハイツタウンでようやくモウテルを見つけることができた。

2日目は、雪の歓迎を受けた。夜が明けた時には雪は既に上がっていたが、夜のうちに多くの雪が降ったようで、自動車は雪に埋まっているという状態に近かった。ただし、道路は除雪作業が進んでおり、ドライヴのために問題はなかった。プリンストンにある訪問先までの経路を電話で問い合わせたが、理解することができなかった。困っていると、何と先方がモウテルまで来て先導することを申し出てくれた。非常にありがたい申し出であった。

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ベスレヘム・スティール社

その後、ペンシルヴェニア州のベスレヘムを訪ねた。訪問先のビルディングはダウンタウンでひときわ高く聳えており、ハイウェイを出る前にそれと分かった。

ベスレヘムからは、最終目的地のボストンに向かった。ニューヨークからベスレヘムまではボストンに背を向けて走っていたわけで、日程としては非効率的だが、アポイントメントの都合上やむを得なかった。交通渋滞に巻き込まれないようニューヨークを大きく迂回するルートを走った。そして、コネティカット州に差し掛かった辺りで睡魔に襲われたため、サジントンにあるモウテルに泊まることにした。

3日目は、移動日としていた。そして、プロヴィデンスに立ち寄って、雪の中に聳えるロウドアイランド州会議事堂を見物した。そこから再び北上し、ボストン郊外のケンブリッジにあるモウテルに向かった。チェックインが終わると、自動車の中からボストンの市内見物をした。

4日目は、T(地下鉄)を利用して、ケンブリッジなどを訪ねた。Tは、ダウンタウンにある駅と列車がともに老朽化しており、ボストンの歴史を感じさせた。

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マサチューセッツ工科大学

午前中からちらついていた雪は午後になると吹雪いてくるようになり、大いに悩まされた。面接が終わると、まず、多くの学舎を持つケンブリッジのマサチューセッツ工科大学周辺を歩いた。ボストンとケンブリッジを隔てるチャールズ川は完全に凍り、その上に多くの雪が積もっていた。

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ボストン茶会事件船

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旧州会議事堂

次いで、Tに乗ってボストンに向かい、吹雪の中、1776年に起こったアメリカ独立戦争の契機となったボストン茶会事件船(ボストン・ティー・パーティ・シップ)や旧州会議事堂(オウルド・ステイト・ハウス)などを見物した。ほかの町にはない歴史を持つボストンの町並みをゆっくりと見物していたかったが、体が凍てついてしまったためモウテルに引き上げることにした。

5日目の朝は、2日目と同様に雪に埋もれている自動車の除雪をするという作業から始まった。レンタカーを返却するロウガン空港まで走らなければならなかったが、道路は雪が積もってスリップしやすくなっていた。そこで、モウテルの隣のショッピング・モールの広い敷地を利用し、運転中にすばやくステアリング・ホイールを切ってスリップさせた自動車の体勢を立て直す練習をした。空港に向かう途中、自動車の中からハーヴァード大学を見物したが、連合王国の同名の町ケンブリッジを思い起こさせる気品が感じられた。その後、案の定、道路でスリップしたり、駐車中の自動車を避けようとして深雪に踏み込んでしまい車輪が空転して立ち往生したりするということがあった。出発前の練習は、少しは役立ったようだ。また、空港に向かうトンネルの入口がなかなか見つかなかったこともあり、空港に到着した時にはチェックイン・タイムを過ぎていた。

幸いなことにと言うべきか、飛行機の出発は雪のため朝から見合わされており、空港は出発を待つ乗客で溢れていた。ただ、予約していたのはUSエアのシャトル便であったため輸送能力は高く、運航が始まった後は次々と搭乗することができるようになった。結局、予定よりも2時間程度遅れて出発したが、ニューヨークのラ・ガーディア空港で乗換時間なしでトランスファーを行うことができたため、ワシントン・ナショナル空港到着は予定よりも1時間程度遅れただけであった。

東部訪問中の宿泊料金の最高はケンブリッジの約8,700円(83.37ドル)で、最低はハイツタウンの約4,100円(39.22ドル)であった。

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ニューヨーク州

ペンシルヴェニア州
五大湖地方

東部

南部

西部
■2月第4週から第5週にかけて、5日間の日程でアトランタなどの南部を訪ねた。

出発当日は、外部での面接を終えた後、そのままアトランタに向けて出発した。ワシントン・ナショナル空港を宵に出発し、メンフィス空港でトランスファーを行って、夜になってウィリアム・ハーツフィールド・アトランタ空港に到着した。利用したのはノースウェスト航空だ。その後、地下鉄に乗って市内に入り、モウテルにチェックインした時には深夜になっていた。

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アトランタ市街

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CNNセンター

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ワールド・オヴ・コカ・コウラ

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フレンチ・クォーター

翌日から2日間、訪問先に向かったり、ショッピング・モールのアンダーグラウンドやワールド・オヴ・コカ・コウラを見物したりした。CNNセンターでは、有名なアンカーが原稿の検討をしている様を見ることができた。アンカーの多くはニューズ番組の制作にも携わっているとのことであった。当地の気温は60F(約16℃)程度であろうか。コウトを着なくても全く寒さを感じないぐらいの暖かさだ。また、市内では夏のオリンピックに備えて至る所で工事が行われていた。

その後、週末を過ごすために、レンタカーを借り、インターステイト・ハイウェイ20号を西進してルイジアナ州のニューオリンズに向かった。途中、アラバマ州のバーミングハムに立ち寄った後、夜になってミシシッピ州のメリディアンのモウテルに泊まった。

翌日の午後になって、ニューオリンズに到着した。アトランタでは暖かいと感じていたが、当地では暑いと感じるぐらいの陽気だ。気温は80F(約27℃)に達しているかもしれない。フランスとスペインによる支配の歴史を持つニューオリンズでは、ヨーロッパの雰囲気を醸し出すフレンチ・クォーターと近代的な摩天楼の対照的な配置を楽しむことができた。ミシシッピ川の壮大な流れも確認した。

観光を終えた後、通りかかった男性に自動車の前輪のタイアの空気圧が低くなっていると指摘された。そこで、レンタカーの系列店を探したが、ニューオリンズ・モイサン空港では見つからず、その付近で見つけた系列店は土曜日の午後であったため閉店時刻を過ぎていた。ようやく系列の自動車販売店を見つけて相談したが、原因を確認せずいきなりレンタル中の自動車の管理は利用者の責任だと断じられ、驚かされた。とりあえず教えてもらったタイア修理店を訪ねて修理を依頼した。修理は3時間程度で終わったが、空気圧の低下は自動車の整備不良が原因だと考えられ、割り切れない思いが残った。修理店から受け取った領収証はレンタカーの営業所に渡したが、最終的に返金はなされなかった。

アトランタへの帰路は、インターステイト・ハイウェイ10号を東進し、フロリダ州に入った後、夜になってペンサコウラのモウテルにチェックインした。今回の訪問で初めて浴室にバスタブが付いている部屋だ。

最終日は、カリブ海を見物した後、一路アトランタを目指した。アトランタでオリンピック・エクスペリエンスを見物した後、宵にウィリアム・ハーツフィールド・アトランタ空港を出立し、メンフィス空港でトランスファーを行って、夜になってワシントン・ナショナル空港に到着した。

南部訪問中の宿泊料金の最高はアトランタの約9,000円(85.88ドル)で、最低はメリディアンの約2,200円(20.80ドル)であった。

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ニューヨーク州

ペンシルヴェニア州
五大湖地方

東部

南部

西部
■3月第1週から第5週にかけて、23日間の日程で、ダラス、デンヴァー、ロスアンジェルス、サンフランシスコ、シアトルなどの西部を訪ねた。

合衆国滞在の最終局面であり、出発に際してアパートメントを退去することにした。そのため、出発に先立って、荷物の一部を日本に送り返すための国際宅配便の手配やケイブル・テレヴィジョンの解約などの手続きに追われた。滞在期間が短いため、この種の手続きは非常に慌ただしく感じる。

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ヌエボラレード市街

辺りが雪化粧をしている中、アパートメントを退去し、メトロに乗ってワシントン・ナショナル空港に向かった。かなり多くの荷物を日本に送り返していたため、渡米した時と比べると身軽であった。シカゴのオヘア空港でトランスファーを行い、午後になってダラス・フォートワース空港に到着した。利用したのはユナイテッド航空だ。気温は66F(約19℃)と、最適な気候だ。テクサス州での移動のため6日目までレンタカーを借りた後、週末を利用し、インターステイト・ハイウェイ35号を南下してメキシコ(メヒコ)との国境まで足を伸ばすことにした。そして、国境にあるラレードのモウテルに泊まり、翌日はメキシコのヌエボラレードにレンタカーを乗り入れた。メキシコ訪問は2回目だが、小さな川を越えただけで雰囲気が完全に変わることに驚かされた。また、市街は狭く、少し走ると郊外になる。合衆国再入国に際しては、麻薬犬を用いた検査が厳しく行われていた。そして、サンアントニオに立ち寄った後、オースティンまで戻ってモウテルに2泊した。当地は暖かいとは言え、朝晩は冷え込んだ。

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デル・コンピューター社

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エクソン社

4日目に郊外のラウンドロックを訪ねるなどした後、ダラスに向かい、郊外のアーヴィングにあるモウテルに2泊した。宵になって、ダラスの町並みを見物するためにドライヴした。摩天楼のイルミネイションが美しかったが、高速道路が縦横に走っている大都市で暗くなってからドライヴをすることは非常に難しかった。翌日は、寒波が襲来して厳しい寒さになる中、面接に向かった。テクサス州に到着してから日中は冷房し夜間は暖房するということが多かったため、意外であった。面接が終わると、フォートワースまで足を伸ばそうと考えた。ダラスとはトゥイン・シティとされている。しかし、予想以上に距離があり、途中で引き返すことになった。

6日目は、早朝モウテルをチェックアウトし、寒さに震えながらダラス・フォートワース空港に向かった。そして、2時間程度のフライトの後、午前中にデンヴァー空港に到着した。開港したばかりの空港は近代的な設備が整っていた。レンタカーの在庫のない会社もあり、オン・シーズンであることが分かる。バジェットでフォードのコントゥアーを18日間借りて、いよいよ西部大移動の開始だ。郊外のレイクウッドにあるモウテルに2泊し、コロラド州政府の訪問に向かった。ダラスよりも寒いと覚悟していたが、予想していたほどの寒さではなかった。等温線がテクサス州付近で南に下がっており、デンヴァー、ダラス、ワシントンDCがどこも40F(約4℃)程度になっているらしい。

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ヴェイルから眺めた山並み

8日目は、ヴェイルでスキーを楽しんだ後、インターステイト・ハイウェイ70号を西進してユタ州に入っていたが、夜になってガソリンがなくなってしまった。車外に出て通りかかる自動車に救援を求めようとしたが、高速道路であることもあり全く停車してくれない。安易に停車すると犯罪に巻き込まれる恐れもあるため、当然のことかもしれない。仕方なく西に向かって歩き始めたが、次の町は約30マイル(1マイルは約1.61km)離れていることが分かっていたため気が重かった。30分程度歩いた時、幸いなことにタンク・ローリが停車してくれた。後方に放置してあった自動車にも気付いていたという。そして、サライナまで連れていってもらった。救われた思いであった。サライナに到着してタンク・ローリを降りると、自動車に乗ったAAAのスタッフがちょうど通りかかり、ガソリンを買って自動車を放置した場所に戻り給油するまで手伝ってくれた。この区間では隣接するガス・ステイション間の距離が110マイルもあるのだという。このようなことにはかえすがえすも注意が必要だということであろう。深夜2時半頃になっていたため、サライナにあるモウテルに泊まった。

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グレンキャニオン

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グランドキャニオン

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ラスヴェガス市街

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ゴウルデン・ゲイト・ブリッジ

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サンフランシスコ市街遠景

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メキシコ国境

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シャスタ

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航空博物館

夜が明けると、気を取り直し、アリゾナ州のワーウィープマリーナにあるグレンキャニオンを経由してグランドキャニオンに向かった。到着した時には夕方になっていたが、太陽はまだ高く、自然が織り成す圧倒的な驚異を十分に堪能することができた。夜になってネヴァダ州のラスヴェガスに立ち寄った後、インターステイト・ハイウェイ15号を南下してカリフォルニア州のロスアンジェルスに向かっていたが、深夜になったため、目的地まで百数十マイルを残してバーストウのモウテルに泊まった。

10日目は、午前中にアポイントメントが入っており、ロスアンジェルスに向かう途中の道路が少し渋滞していたため心配したが、何とか約束の時刻に間に合った。面接が終わると、チャイナ・タウンにあるモウテルにチェックインした。気温は70F(約21℃)程度であろうか。最適な気候だ。翌日は、モウテルをチェックアウトした後、面接までの時間を利用して高級住宅街のビヴァリヒルズに立ち寄った。その後、ロスアンジェルスのダウンタウンから約40マイル離れたアーヴィンに向かったが、交通渋滞に巻き込まれて予想以上の時間を要した。結局、1時間遅れてしまった。その後、サンフランシスコ郊外のシリコン・ヴァレイに向かったが、睡魔に襲われたため、早々にベイカーズフィールドにあるモウテルに泊まることにした。

12日目は、午前中にシリコン・ヴァレイに到着した。そして、レッドウッド・シティにあるモウテルに3泊することとし、サニーヴェイルでの面接に向かった。サクラメントにあるカリフォルニア州政府も訪ねた。サンフランシスコへも2回足を伸ばし、フィッシャーマンズ・ワーフやゴウルデン・ゲイト・ブリッジなどを見物した。坂道の多い風情豊かな町であり、本来はもっとゆっくりと訪ねてみたいところだ。

15日目は、太平洋岸を走ってロスアンジェルスに戻った。サンタモニカのビーチを眺めた後、ユニヴァーサル・シティのユニヴァーサル・ステューディオ・ハリウッドを訪ね、バック・トゥー・ザ・フューチャー、バックドラフト、フリント・ストウンズなどを題材にしたアトラクションを楽しんだ。

その後、メキシコとの国境に向かった。そして、サンディエゴのうち国境近くのサンイシドロという一角にあるモウテルに2泊し、中心部やメキシコのティファナを訪ねた。ティファナは、合衆国と比べた経済格差は感じられたものの、合衆国の一般の町では見られない華やかさが漂っており、それと比べるとアメリカ人は禁欲的な生活を送っているように思われた。

17日目は、三度ロスアンジェルスに向かった。そして、ダウンタウンにあるモウテルに2泊し、リトル東京などを見物した。

19日目は、午前中に面接を終え、リトル東京で昼食を取った後、インターステイト・ハイウェイ5号を一路北上した。途中までは数日前にドライヴをした区間であり、壮大ではあるが単調な景観が続くため長く感じた。目安にしていたオレゴン州に到着することはできず、夜になってウィードにあるモウテルに泊まった。シャスタが美しい稜線を描いていた。

翌日は、オレゴン州のポートランドに立ち寄った後、カナダまで北上した。ヴァンクーヴァーではモウテルが見つからず、郊外のバーナビにあるモウテルに泊まることになった。そして、オリンピアにを訪ねたり、シアトルにある航空博物館を見物したりした。

21日目は、インターステイト・ハイウェイ90号を東進してデンヴァーに向かった。アイダホ州のケロッグに立ち寄った後、モンタナ州への峠越えに取り掛かったが、雪のため苦労した。モンタナ州に入ることはできたが、目安にしていたビュートに到着することはできず、夜になってミズーラにあるモウテルに泊まることになった。ビュートからは、シャイアンを経由してデンヴァーに戻る予定であった。

持参した州別地図帳の表紙裏には、シャイアン近くにあるネブラスカ州のキンボールからビュートまでヒッチ・ハイクをする男性を主人公とした小説(ジョー・コットンウッド著、三谷貞一郎訳「アメリカ大逃走」、晶文社発行、1981年)が引用されており、そこに以下のような一節があった。

男は考えこむような目付になった。「ビュートね。ええと、80号線をシャイアンまで行く。そこから右へ折れて25号線をバッファローまでだ――ワイオミング州のね――それから左折して90号線をずっとまっすぐ行けば、ビュートに着く。それとも80号線をずーっとソルトレイクまで行って15号線を北上するかな。……だが、もしおれがあんたなら、ローリンズで右へ入るな。グリーン山脈を越え、スイートウォーター河まで行って、ジョディの牧場でちょいと一服、それからコディとイエローストーンを抜けていくんだ。おいおい、おれがあんたを自分で連れて行く気にならんうちに、とっとと出ていってくれんか……」

ほぼ小説の逆ルートをドライヴすることになるわけだ。今回の渡航でこれほど長距離のドライヴをすることに影響を与えたかもしれない小説の主人公あるいは主人公にビュートまでのルートを説明するガス・ステイションの主人になり切ってドライヴを楽しむことができるかもしれないと期待していた。しかし、希望は叶わなかった。

22日目にその事故は起こった。インターステイト・ハイウェイ90号とヘレナに向かう道路の分岐点を過ぎてビュートに向かう途中のことだ。事故の前に伏線はあった。まず、前夜は暗くて気付かなかったが、追越車線には残雪があり、注意して運転する必要があった。しかし、そのことに気を留めず、高速で運転を続けていた。そして、トラックを追い越そうとしている時、雪のためにタイアが流れ、車体がトラックに接近してきた。慌ててステアリング・ホイールを切ると、スリップして中央分離帯に飛び出し、おそらく半回転して反対方向を向いて止まった。追越車線は単なる雪道ではなく、アイス・バーンになっていたのだ。

幸いなことにと言うべきか、損傷はなかったため、気を取り直して運転を続けた。追越車線が非常に危険であることは十分に分かったため、走行車線しか走らないことにした。しかし、残念ながら、走行車線も注意して運転しなければならないということは念頭になかった。走行車線がアイス・バーンになっている区間もあったのだ。そして、再びタイアが流れた。慌ててブレイク・ペダルを踏むと、大きくスリップして道路横の傾斜面に転落し、横転(転覆)してしまった。

何ということだ! ついに大事故を起こしてしまった!

不思議なことに、自動車が転落しようとしている間、生命の危険ということは考えなかった。ただ、ドライヴを続けることができなくなったなと感じていた。天地が逆になった自動車のドアは開かなかったが、何とか窓から脱出することができた。そのうちに、通りかかった人がハイウェイ・パトロウルを呼んだり応急手当をしたりしてくれた。不幸中の幸いと言うべきか、ほかの自動車などとの接触はなく、転落したのが雪の上であったため、手指に切創を負っただけであった。しかし、自動車は大破してしまった。アナコンダという町らしい。

ハイウェイ・パトロウルの尋問を受け、AAAに自動車のレッカー移動をしてもらった後、ビュート空港からデルタ航空の飛行機に乗り、ソルトレイク・シティ空港でトランスファーを行ってデンヴァー空港に戻った。ソルトレイク・シティからはファースト・クラスを利用することになった。なお、この区間にはビジネス・クラスの設定はない。雪のため出発は定刻よりも1時間程度遅れ、夜の到着となったが、結果的に当初の予定よりも早く到着することになった。そして、シャトル・バスに乗って郊外のオーロラにあるモウテルに向かった。

最終日は、夕方にデンヴァー空港を出立し、シカゴのオヘア空港でトランスファーを行って、夜になってワシントン・ナショナル空港に到着した。そして、レンタカーを借りて、アーリントンにあるモウテルに向かった。

軽傷を負っただけの自損事故であり、大破した自動車の損害は自動車保険で補償されたが、場合によっては生命に関わる大事故になりかねないところであった。日本であればアイス・バーンになった高速道路は閉鎖になっていたであろうが、自己責任の上に自由が保障されているのが合衆国なのだということを認識しておかなければならなかったのであろう。事故現場からAAAのオフィスに連れていってもらう間にも、路肩に踏み入れて立ち往生している数台の自動車を見かけた。ヴァンクーヴァー訪問後に合衆国に再入国した時、入国審査官に「よく運転できるね。」と声をかけられ、「地図があるからね。よい地図が。」と得意になって答えていたが、自信過剰であった。また、オリンピアではAAAのスタッフが参考になる話をしていたが、もっとよく聞いておくべきであった。稚拙な運転技術を含め、反省しなければならないことは多い。ただ、ワシントンDCに戻るとすぐに運転を再開しているのだから、事故はトラウマにはならなかったようだ。

長期間の日程となった西部訪問中の宿泊料金の最高はカリフォルニア州出立時のロスアンジェルスの約7,700円(74.10ドル)で、最低はバーストウの約2,300円(22ドル)であった。

地方

抜粋

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ペンシルヴェニア州
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南部

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春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
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