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サンサルバドル

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グアテマラ・シティ

タパチュラ

メキシコ・シティ

■1995年12月第5週から1月第1週にかけて、10日間の旅程で隣国の中央アメリカに出かけた。クリスマスに伴うヴァカンス期間を利用したものだ。訪問先に中央アメリカを選んだのは、せっかく合衆国に滞在しているのだから、日本から訪ねることの難しい国を訪ねたいと考えたためだ。合衆国における活動について説明してくれた先輩も、滞在中にキューバを訪ねていた。

当初、最も訪ねたいと考えていたのは、エルサルバドルとニカラグアだ。冷戦が佳境に入った1980年代にそれぞれ親米政権と親ソヴィエト連邦ゲリラ、親ソヴィエト連邦政権と親米ゲリラが内戦を戦った舞台であり、現状を確認してみたいと思ったのだ。そして、中央アメリカ縦断ということも考えたが、ニカラグアなどのヴィザの取得は難しそうであった。そこで、エルサルバドルを中心に旅程を組み立てようと考えたが、旅行代理店に連絡した時には、首都サンサルバドルまでの空席があるのはファースト・クラスだけという状況になっていた。また、エルサルバドルでは暴動が起こっているということを聞かされた。落胆したが、とりあえずテクサス州西部のエルパソまでのコンティネンタル航空のフライトを確保することにした。そして、エルパソからは飛行機やバスなどを利用して、メキシコのほか、可能であればほかの中央アメリカ諸国を訪ねたいと考えていた。

その後、エルパソは確かにメキシコとの国境の町だが、メキシコ中心部からはかなり離れていることに気付いた。そこで、ラレードなどテクサス州南部の町、モンテレイなどメキシコ北東部の町、メキシコの首都メキシコ・シティなどをゲイトウェイにすることができないか再確認してみたが、かなり割高であった。エルパソまでのフライトの経由地となるテクサス州東部のヒューストンでさえエルパソまでの航空券よりも料金が高いのだ。それでもメキシコ・シティまでの距離がエルパソよりも短いヒューストンをゲイトウェイにすることは考えられたが、メキシコとの国境までの距離であればエルパソの方が圧倒的に短く、メキシコの方を向いていない大都市よりもメキシコ文化圏と一体となっている国境の町をゲイトウェイにした方が、交通機関の確保などいずれを取ってもスムーズにメキシコに入国することができると考え、予約の変更は行わないことにした。

エルパソ空港に到着すると、ダウンタウンに向かう市内バスを探すため、空港を出ていった。エアポート・バスの料金がタクシーと変わらないぐらい高いとされているためだ。しかし、バスは全く走っておらず、諦めてタクシーに乗ろうと思って空港に戻ることにした。すると、今度はタクシーも見つからない。飛行機の到着時刻を外してしまったためであろうか。どうしようかと思っている時に市内バスが到着し、難を免れることができた。

バスの乗客は、ほかにメキシコ人男性一人だけであった。ダウンタウンに到着すると、メキシコ人に案内されてバス・ターミナルに向かい、そこからリオ・グランデ川対岸にあるチワワ州のシウダー・フアレスのバス・ターミナルに向かうバスに乗った。バス料金は、メキシコ人の依頼に応じて、メキシコ人の分も負担することにした。国境では、自ら出頭しない限り、イミグレイションを素通りすることになってしまう。トゥーリスト・カードを受け取る必要があるため、イミグレイションに立ち寄るよう運転手に依頼しておく必要があった。

シウダー・フアレスのバス・ターミナルを出立し、クリスマスに一昼夜バスに揺られてメキシコ・シティに向かった。夜であったこともあり、シウダー・フアレスではエルパソとの文化的な相違をあまり感じなかったが、バスの窓から外を眺めていると、荒野を走っていることに気付いた。夜が明けると、それは砂漠であったのだと分かった。時々集落に出会い、道路は立体交差になっているが、洗練された合衆国の文化と比べた文化水準の落差が印象的であった。かつてのベルリンの壁もその両側でこれほどのコントラストを見せていたであろうかと考えてしまうほどだ。

レストランでの注文が難しそうであったため、昼食はスナックなどを食べていたが、夕食に際してはほかの乗客が注文を手伝ってくれた。

深夜にメキシコ・シティの北バス・ターミナルに到着すると、まず、帰路のバスを予約した。大晦日の夜に当地を出発して元旦にシウダー・フアレスに戻ることになり、メキシコ・シティ以南での滞在は6日間となることが確定した。

夜が明けてからメトロに乗ってベニート・フアレス空港に向かったが、サンサルバドルなど中央アメリカに向かうフライトを扱っているカウンターはいつまで経っても閉まったままであった。インフォメイションでサンサルバドルに向かうフライトの出発時刻を確認すると、午後だという。しばらく時間があるため、市内にある旅行代理店を訪ねてフライトを予約することができないか尋ねることにした。コンピューター上ではペンディングになっており、コンファームを貰うことはできなかったが、電話で十分に空席があることを確認してもらい、空港に引き返した。

この間、日本大使館に電話をかけて、暴動が起こっているというエルサルバドルの状況を聞いた。すると、暴動についての言及はなかったが、地方都市のほかパン・アメリカン・ハイウェイは危険であり、訪問を避けるようにとのことであった。外務省の海外危険情報は観光旅行自粛勧告(危険度2)となっていたのではないかと思う。エルサルバドルからメキシコまでの帰路はパン・アメリカン・ハイウェイを走るバスを利用しようと考えていたが、議論しても仕方がないため、早々に電話を切った。

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グアテマラ・シティ

タパチュラ

メキシコ・シティ

■サンサルバドルのコマラバ空港まで、グアテマラ・シティを経由するタカ航空のフライトを利用して向かった。グアテマラ・シティからのフライト時間は30分程度であった。帰路はバスに乗って通過しようと考えていたこの危険区間の距離が短いことが分かり、少しは気が楽になった。市内から約40kmも離れているサンサルバドル空港に到着すると、タクシーに乗って、どうしてそのような辺境に空港を建設したのかと訝しく思いながら、果てしなく続く丘陵を通り抜けていった。日本の国際協力によって建設されたとのことなので、日本の担当者が現地の実情を知らずに企画したのかと勘ぐってしまう。

サンサルバドルは、メキシコ・シティと比べても2段階程度経済発展が遅れているとの印象を受けた。暖かいこともあり、東南アジアを思い起こさせるが、東南アジアと比べると活気がない。露天商は街灯に明かりを頼っており、街路が暗いこともそのような印象を受けた要因の1つとして挙げられると思う。

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カテドラル

翌朝、カテドラルやメルカド・セントロなどを見物した。メルカド・セントロでは、路上に延々と露店が続いていた。市内の交通量は少なく、東南アジアで例えると、ヴィエンティアンのようにのんびりとした町だ。また、合衆国でロウ・エンドとされているマクドナルドがハイ・エンドとして扱われていることは興味深かった。

内戦の痕跡は、特に見当たらなかった。ただし、経済発展が順調に進んでいないことが内戦の痕跡だと言うことができるかもしれない。一方、内戦時に地方から避難民が流入してきたため、これでも町の規模は拡大したのだという。

その後、グアテマラ・シティに向けて出発する前に立ち寄ったショッピング・モールのメトロ・セントロは、当地で唯一、洗練された雰囲気を醸し出していた。

グアテマラ・シティに向かうバスに乗り、午前中にグアテマラとの国境に到着した。エルサルバドル出国に際しては、出入国カードの記載がすべてスペイン語でなされていたため困ったが、ほかの乗客に教えてもらいながら必要事項を記入することができた。一方、グアテマラ入国に際しては、パスポートに記載されている事項を入国審査官が転記するだけの手続きであった。危険だとされるパン・アメリカン・ハイウェイを無事に通過し、午後早くグアテマラ・シティに到着した。

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グアテマラ・シティ

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メキシコ・シティ

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グアテマラ・シティ市街

■グアテマラ・シティ(シウダー・デ・グアテマラ)市内に到着する直前、高台から市内を一望することができた。当地の全貌を把握することができたように感じ、気分を落ち着かせることができた。バス・ターミナルから市内までは、バスに乗って向かうことにした。目指すは、安宿が集中するソナ(ゾウン)1だ。バスの運行経路は分からなかったが、概ね北に向かうことは間違いなさそうであったので、東西に走る通りの名前を紙に書き、それを車掌に見せてバスに乗り込んだ。そして、ほぼ目的地に近い場所でバスを降りることができた。バスの運行経路が分からない以上、具体的な場所を指定すると乗車を断られる可能性が高く、最善の指定をすることができたように思う。

ホテルを決めると、バスに乗ってアンティグアに向かった。石畳が続き、古都らしく落ち着いた佇まいの町だ。カテドラルやラ・メルセー教会などを見物した。街路では電器店にテレヴィジョンが陳列され、フットボール(合衆国や日本などでの呼称はサッカー)の試合の放送が映し出されていたが、その前には多くの人が集まっていた。日本では力道山が活躍していた1960年代に見られた光景であろうか。当地でゆっくりとくつろぎたかったが、暗くなるとともに雨が降ってきたため、早々にグアテマラ・シティに戻らざるを得なかった。

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中央政庁

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カテドラル

翌朝は、グアテマラ・シティの市内見物をした。中央政庁やカテドラルなどの見所はソナ1に集中している。グアテマラの首都は、サンサルバドルとは異なり、かなり大きな町だという印象を受ける。活気もある。しかし、ホテルやレストランなどに「エル・ドラド(黄金郷)」や「コンキスタドール(征服者)」という名前が付けられているのを見かけ、疑問に思った。スペイン人によるマヤ文明征服の歴史は、先住民族大量虐殺の歴史であったはずだ。歴史を重ねるうちに征服者と被征服者の混血は進んだのであろうが、現在でも先住民族に対する根深い差別は残っているという。したがって、国民の中には、スペイン人の征服の歴史を自分達の歴史として肯定的に受け入れることができる人と、全く非人道的な行為以外の何物でもないとして拒絶する人がいるはずだ。そのような中で、征服者スペイン人を英傑視するようなネイミングは、無神経だと感じずにはいられなかった。

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グアテマラ・シティ

タパチュラ

メキシコ・シティ

■タパチュラは、メキシコ最南部のチアパス州に位置し、グアテマラ旅行のゲイトウェイとなっている。グアテマラ・シティからメキシコとの国境に向かうバスに乗っていたが、途中でエンジンの故障のため停車してしまった。乗務員が必死に修理していたが、乗客に対する説明は全くなく、2時間後にようやく出発した。前回の東南アジア旅行の際に続く不運だが、今回は旅程に余裕があるため、泰然としていることができた。旅程に余裕を持たせることは重要なことだ。

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メキシコ国境

グアテマラとメキシコの国境は、太平洋上に2か所ある。そのうち、エルカルメンからタリスマンに抜けるルートを想定し、降車場所として告げていた。しかし、バスの行き先はテクンウマンであった。そのため、途中で降ろされそうになった。どちらの国境を越えてもよいのであれば、国境の名前は指定しない方がよさそうだ。テクンウマンに到着すると、ヴェトナムと同じく客席が運転席の前にあるシクロが待ち構えていた。名前も「シクロ」だ。3USドルを支払って国境に向かったが、数分で到着してしまった。シクロを利用する必要はなかったようだ。グアテマラ側のイミグレイションを過ぎると、メキシコとの国境に川が流れている。今度はシクロを断って、歩いて橋を渡った。メキシコ側のイミグレイションではヴィザを取得していないことを入国審査官に咎められたが、これは、ヴィザの取得が免除されている国からの旅行者が少ないことを示すものだと言うことができるであろう。

メキシコ側の町はシウダー・イダルゴだ。入国手続が終わるとバスに乗ってタパチュラに向かい、ホテルを決めると市内見物を始めた。

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イサパ

翌朝は、イサパに出かけた。マヤ遺跡よりも古い紀元前後の遺跡がある。日本で言うと登呂遺跡の頃に当たる。タパチュラからタリスマンに向かうバスに乗り、遺跡の見物をすると運転手に伝えておいた。遺跡は北群と南群から成り、約1km離れている。南群、北群の順に通りかかり、北群の前で降車することになるが、南群の前を通り過ぎる時、運転手は、北群の見物が終わった後、そこに戻ってくるようにと南群の場所を指し示してくれた。どうも親切な人が多いように思うが、スペイン人の気質を受け継いでいるのであろうか。遺跡は修復されている部分もあり、当時の面影を偲ぶことができた。

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グアテマラ・シティ

タパチュラ

メキシコ・シティ

■メキシコ・シティ(シウダー・デ・メヒコ)は、特別市(厳密には連邦区)に位置付けられる。タパチュラから20時間のバス旅行となった。選んだのは1等車であったが、休憩所に立ち寄った時にそれが食事休憩なのか短時間の休憩なのかがよく分からず、時間のかからない軽食を取っていた。

翌朝、メキシコ・シティに到着した。往路と同じ北バス・ターミナルに到着したため、事情が分かって都合がよかった。日本出発の時点でエルサルバドルなどの訪問は予定していたが、メキシコ訪問は予定していなかったため、持参したのは合衆国で買ったロウンリ・プラネットだ。

ホテル探しには、少し手間取った。グアテマラ・シティのホテルでファンを付けたまま寝てしまい、風邪気味になっていたため、中級ホテルに見当を付けて、高級店が立ち並ぶソナ・ロサを目指した。しかし、意中のホテルは料金の折り合いがつかず、周辺に手頃なホテルがなかったため、立ち往生してしまった。結局、安宿が集まっている中心部でホテルを探すことになった。大きな町で最初からホテルを絞り込んだのは得策ではなかった。

その間、若い男性に声をかけられた。そして、しばらく立ち話をした後、親切にしたので1メキシコ・ペソ(1メキシコ・ペソは約14.5円)を欲しいと言われた。即座に断ったが、通りから外れた場所に連れていかれていたため、財布を取り出すとそのまま持ち逃げされていたかもしれない。軽率であった。

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カテドラル

ホテルで仮眠をした後、雨の中を市内見物に出かけた。中心部ソカロでカテドラルを見物した後、ソナ・ロサを目指して散策することにした。大都市であるメキシコ・シティは見所が多そうであったが、雨中、道に迷ってしまい、自動車には道路脇に溜まった水を思い切り跳ね上げられたため、散策は中止することにした。若い男性に道を尋ねると、何と一緒にバスとメトロに乗ってホテルの最寄駅まで送ってくれた。しかも、こちらのバス・列車料金まで負担してくれるという予想外の親切に非常に驚かされた。

翌日は、ホテルをチェックアウトした後、シウダー・フアレスに向かうバスが出発するまでの間、テオティワカンを見物することにした。北バス・ターミナルからバスに乗って向かう。広大な敷地に建てられた壮大なピラミッドは、6世紀に最盛期を迎えた文明の偉大さを思い起こさせた。若いノルウェー人男性と行動をともにした。入口付近では、高い棒の先から逆さ吊りになった人が笛の音色に合わせて回転しながら降りてくるボラドーレスというアクロバティックな儀式を見物することができた。
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テオティワカン

■メキシコ・シティの北バス・ターミナルを出立し、年が改まった翌日、シウダー・フアレスに戻った。途中、午後4時半頃に休憩所に立ち寄った時、車掌に出発時刻を尋ねると、「シンコ(5)」との返答であった。5時出発の意味だと考え、レストランで夕食を取ることにした。ところが、食事を始めて間もなく車掌に乗車を促されることになった。「シンコ」とは、休憩時間が5分だということを意味していたらしい。それならば、「シンコ・ミヌトス(5分)」と答えてほしかった。

シウダー・フアレスでは、三大ネットワークなど合衆国と変わらない放送を受信することができる。一方で、一夜を明かすと大雪になっており、寒さも合衆国並みだ。

今度は、エルパソに向けて、歩いてリオ・グランデ川を渡ることにした。川には2本の橋が架かっている。北行用と南行用に使い分けられており、メキシコから合衆国に向かうためには西側の橋を渡らないといけないらしい。それを知らずに東側の橋を渡り始め、途中で追い返されることになった。グアテマラからメキシコに抜ける時にも感じていたが、中央アメリカでは、北に向かってイミグレイションを通る時には、南に向かっている時には感じない緊張感を覚える。無事に入国を許可してもらうことができるであろうかと考えてしまうためだ。これは、経済的に豊かな合衆国など北側の国で何とかして働きたいという地元の人の希望と、それを押し留めようとする当局の意向が影響しているのであろう。本来、地元の人が心配するべき問題であり、日本人には関係ないはずだが、入国審査官の態度などから地元の人の心配が日本人にも伝播してしまうのであろうか。何はともあれ、先進国に憧れる発展途上国の国民の心情を擬似体験することができるのは興味深い。

3か国を訪ねた中央アメリカ旅行中の宿泊料金の最高はメキシコ・シティの約1,800円(125メキシコ・ペソ)で、最低はサンサルバドルの約970円(80コロン)であった。

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