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ネパールC

出発

カトマンドゥ

ナムチェ

クーンブ

抜粋
ルクラ

カトマンドゥ2

回顧

概要

■カトマンドゥのトリブヴァン空港到着は、1時間の遅延であった。しかし、旅行代理店のスタッフと難なく待ち合わせることができ、ネパール国内線の航空券を受け取ることができた。また、帰国便のリコンファームを電話で行うことはできないとのことであり、ロイヤル・ネパール航空のオフィスを訪ねる時間はなかったため、スタッフに代行してもらうことにした。

例によって、無料送迎を提示してきたゲストハウスの送迎車に乗って安宿街タメルに向かった。タメルは、クリスマスのためのデコレイションが施されていたこともあり、華やかだという印象を受けた。なお、ゲストハウスからタメル中心部に向かう時、蓋のないマンホウルに右足を突っ込み、右手を地面に強く打ちつけてしまった。

出発

カトマンドゥ

ナムチェ

クーンブ

抜粋
ルクラ

カトマンドゥ2

回顧

概要

■ナムチェ(ナムチェバザール)は、エヴェレスト方面へのトレッキング・ルートとなるクーンブへの拠点となる町だ。ナムチェからは、エヴェレストを間近に眺めることのできるカラパタールか、エヴェレストからは少し離れているものの並居る山々を一望することのできるゴーキョ・ピークを訪ねるのがメイン・ルートだ。そして、この旅で目指すことにしたのは、カラパタールの方だ。

トリブヴァン空港へは手配してもらったタクシーに乗って向かい、イェティ航空の定員20人程度のプロペラ機に乗ってルクラを目指した。カトマンドゥの辺りは厚い雲に覆われていたが、ルクラに到着すると快晴であった。ルクラ空港では同じ滑走路で続けて飛行機の離着陸が行われており、危険なため、降機後に不用意に動き回らないように注意する必要がある。

しばらくすると、動悸に気付いた。標高約2,800mだが、急に高地に降り立ったため、まだ体が十分に順応していないのであろう。そこで、朝食を取りながら動悸が収まるまで待つことにした。そして、同じ飛行機に乗ってきたトレッカーが皆ナムチェに向けて出発し、姿が見えなくなった頃、ようやく歩き始めた。

写真
クスムカングル

ガイドを同伴せずにトレッキングをするのは初めての経験であったが、道はあまり迷うようなものではなく、地元の人やトレッカーと会うことも多いため、困ることはなかった。高山病に注意してミネラル・ウォーターを大量に飲みながらトレッキングを始めた。右手に見えてきた山はクスムカングル(標高約6,400m)らしい。途中で、カトマンドゥからバスに乗って向かうことのできるジリを出発点とし、遠くナムチェを目指してトレッキングをしているという若い日本人男性と出会った。ジリからナムチェまでの最高地点は約3,500mだが、8日間を要する。山の頂上を目指すのとは別の醍醐味を味わうことができるのであろう。

トレッキング初日の滞在を予定していたチュモアを過ぎ、ナムチェの直前にあるジョルサレで荷を解くことにした。ロッジには、体調を崩し、ナムチェまでのトレッキングを続けるかどうか迷っている若い日本人女性がいた。日本で登山の経験があるようで、地図の見方を教えてもらった。

トレッキング中は途中でジャンパーとセーターを脱いだほか、襟付きシャツも脱ぎたくなるほど体が温まっていたが、夕方から急速に冷え込んできた。ブランケットを借りて寒さに震えながら寝ることになった。上海からの飛行機に乗り合わせた女性に、高地で風邪を引くと重い高山病にかかると忠告されており、本来は防寒対策に慎重を期したいところであった。

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エヴェレスト遠景(奥)

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ナムチェ

2日目は、標高約3,400mのナムチェを目指した。ジョルサレから距離はないが、河原を離れると急坂が待っている。時間をかけてゆっくりと登っていった。途中、右手にエヴェレストが姿を現したことをほかのトゥーリストに教えてもらった。何とか見えているという程度だが、間違いなくサウス・コルが見えているらしい。前日から運動靴の底が抜けており、紐で縛ってかろうじて固定していたが、ナムチェから降りてきた商業従事者がトレッキング・シューズを売っていたため買うことにした。疲労のため足が前に進まなくなってきた頃、前方の視界が開け、ナムチェの町並みが見えてきた。トレッキングの拠点として、ルクラなどよりもはるかに賑わっている。その中でも目立った存在のクーンブ・ロッジに泊まることにした。1985年にカラパタールに登ったジミー・カーター元米国大統領が泊まったロッジだ。

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タムセルク

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アマダブラム

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エヴェレスト(左奥)

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タウチェ

標高約3,900mのシャンボチェからは、エヴェレストの素晴らしい眺望を楽しむことができる。ナムチェからゆっくり登って1時間半の距離だ。ナムチェに到着した翌日に高度順応を兼ねて登った。ナムチェからシャンボチェまで道らしい道はないが、とにかく上を目指していると到達することができる。

チャーター機の離着陸する空港を通り過ぎ、丘に登ると、右手から左手に向かってクスムカングル、平らな斜面のタムセルク(標高約6,600m)、丸い頂上のカンテガ(標高約6,800m)、急斜面のアマダブラム(標高約6,900m)、エヴェレストの南岳とも言えるローツェ(標高約8,500m)、急斜面であることや強風が吹くことなどにより雪が積もらず黒い岩盤が身を晒しているエヴェレスト(標高8,848m)、タウチェ(標高約6,500m)など、特徴のある山々が居並んでいる。世界の屋根を目の前にして贅沢な昼食をゆっくりと取った。日本人の一行も見かけた。目指すカラパタールはタウチェに遮られて視界に入らないが、アマダブラムとタウチェの間を通って向かうことになる。先の行程が思いやられた。

当地ではガイドを手配してもらったほか、シュラフザックとダウンジャケットをレンタルした。ルクラに出かけていたガイドは、1日でナムチェに駆け付けてくれた。マラソンで活躍してアメリカ合衆国に留学することを夢見ている男児であった。ガイド料は、料金交渉の結果、1日700ネパール・ルピー(1ネパール・ルピーは約1.55円)と決まった。前回のトレッキングと同様、シュラフザックはガイドに運んでもらうことになった。また、毛糸の帽子とソックスを買った。これで寒さに悩まされることはなくなったわけだ。

当地で人々と接していると、カトマンドゥとは民族構成が全く異なることが分かる。ネパールの多数派であるインド系の人は陰を潜め、地元の人の顔付きは東アジア系になっている。皆、ガイドやポーターとして名高いシェルパ族に属するのであろう。考えてみると、ネパールは、外見、言語、宗教などの全く異なる民族が大きな問題なく複合国家を形成している稀有な国ということになるのであろうか。

出発

カトマンドゥ

ナムチェ

クーンブ

抜粋
ルクラ

カトマンドゥ2

回顧

概要

■クーンブは、ナムチェからエヴェレストなどヒマラヤまでの一帯を指す。トレッキング4日目、ガイドとともにクーンブ・ロッジを出発した。その後、同日は標高約3,900mのタンボチェ泊、5、6日目は高度順応のために標高約4,300mのペリチェに連泊、7日目は標高約4,900mのロブチェ泊と順に登り、新千年紀を迎える8日目に標高5,545mのカラパタールを目指すという予定を立てていた。

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カンテガ

出発してすぐに待っている上り坂を過ぎると、シャンボチェから連なる丘の東側の麓を進むことになる。エヴェレストなどの山々を望むことができるほか、前方にプンキテンガからタンボチェまで続く急坂が待ち構えていることが手に取るように分かる。プンキテンガでの昼食休憩に十分な時間をかけた後、非常にゆっくりと登っていった。高地であることと急坂であることが重なって、体に対する負担はかつてなく高くなっている。

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タンボチェ

ようやく辿り着いたタンボチェのロッジには日本人も泊まっていた。当地を目的地としている人もいたが、多くの人が元旦にカラパタールに登りたいという希望を持っていた。そのうちの一人は、以前ゴーキョ・ピークを目指したものの、同行者が高山病に罹ったため途中で引き返したことがあり、今回が再挑戦になるという。活力がみなぎっている感じがした。高山病に罹ったためか、頭痛がしてきた。そこで、高山病対策として、水を大量に飲むことにした。

5日目は、頭痛が治まったため、予定通り出発することにした。しかし、長い行程の中で、再び頭痛に襲われた。そこで、パンボチェで休憩することとし、大量のティーと水を飲んだ。また、鼻腔を布で覆い、暖かい空気を吸うことができるようにするとよいとガイドに教えてもらった。頭痛は何とか治まったため再び出発したが、すぐに再発した。昼食時に大量の白湯を飲んだが、今度は完全には治まらなかった。5、6泊目はペリチェとは別のルート上にあり、高度順応のための日帰りトレッキングに都合のよい標高約4,400mのディンボチェに滞在するということも考えられたが、当初の予定通りペリチェに滞在することにした。少しでも早く荷を解きたかったためだ。最後の峠では青息吐息の状態になり、恥ずかしながらガイドにデイパックを持ってもらって、ようやくペリチェに到着した。

右手にはアマダブラムが聳える一方、左手のタウチェは近くの丘に遮られて視界に入らないようになっている。エヴェレストの前には、エヴェレストの西岳とも言えるヌプツェ(標高約7,900m)が立ちはだかるようになってきた。前方にプモリ(標高約7,200m)が見え、その麓がカラパタールだと教えてもらうが、まだ遠くに感じられた。行程の上では既にルクラからカラパタールまでの約40kmの8割程度をカヴァーしていたが、この時点ではカラパタールに到達することのできる見込みが低くなっていたため、実際よりも遠くに感じられたのかもしれない。

ロッジへのチェックインを済ませると、ガイドはペリチェ診療所を訪ねてくれたが、オフ・シーズンのためかオウプンしていないとのことであった。もっとも、オウプンしていたとしても、高山病の究極の治療は下山することにあるため、下山を促されることは目に見えている。ロッジには、数人のヨーロピアンのほか、若い日本人男性がいた。男性は、ルクラで雇ったガイドの素行が悪いため、出発後すぐに契約を解除し、ガイドを同伴せずに登ってきたらしい。前日は頭痛に悩まされていたが、既に治まったため、翌日はロブチェに向かうという。体調が回復してきたということが羨ましく思われた。

夜のうちは頭痛が治まってきたように思われたが、一夜明けると再発した上に、吐き気を催すようになってきた。近くにはヘリコプターが飛んできた。高山病で倒れた人の救援用であろう。ヘリコプターで救援されるような事態は避けたいと考えた。ガイドには高度順応のための日帰りトレッキングに誘われていたが、頭痛が治まらないため、結局見送ることにした。それによって、仮に頭痛が治まったとしても、翌日が厳しい行程になることは避けられなくなった。

午後になって仮眠をしていたが、その間に体調は悪化した。そして、夕食を取る前に食堂で水を飲んでいる時、ついに嘔吐してしまった。既にある程度覚悟していたが、この時点でカラパタールに向かうことは諦めざるを得ないと観念した。ベッドで横になっていても、激しい頭痛が襲ってきた。新千年紀元旦にカラパタールの地に立つことができなくなった失望感もあり、非常に辛い夜であった。

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ペリチェ

7日目は、辺りの景観がすっかり変わってしまっていた。夜間の雪で一面雪景色になっていたのだ。さすがにヒマラヤだ。侮ることはできない。後ろ髪を引かれる思いであったが、体調は回復しておらず、下山することにした。前日はカラパタールとエヴェレストBC(エヴェレスト・ベイス・キャンプ)の双方を訪ねるためにはどうすればよいかとガイドに熱心に尋ねていたオーストラリア人の一行も、一行のうちの一人が頭痛に悩まされるようになったことと悪天候のためにあっさりと下山を決断していた。変わり身の早さには脱帽してしまった。

下山と言っても、しばらくは緩やかな上り坂が続く。目標がなくなってしまったため、足取りは重い。ただ、雪道なので、滑らないように慎重に歩を進めた。山々の眺望はほとんど失われてしまった。最初の峠を越えると下り坂が続くようになり、一息つくことができる。オーストラリア人の一行とは抜きつ抜かれつしていたが、先頭から最後尾まで30分程度開いていたのではないだろうか。一方、日本人の一行は隊列を組むようにして歩いており、間に入り込むようなことはできない。全く対照的な行動様式だ。タンボチェへの最後の上り坂では、再び息が上がってしまった。何回も立ち止まりながら、何とかタンボチェに辿り着いた。そして、往路と同じロッジのベッドに滑り込んだ。

一休みして食堂に出てみると、多くのトレッカーが集まっていた。オーストラリア人が多い。ニュー・イアー・イヴ(大晦日)を盛り上げるために、花火を配るなどしていた。そのうちに、ガイドなどによって民族舞踊が始められた。トレッカーも参加して、次第に賑やかになっていった。食欲はあまり戻っていなかったが、体調は最悪の状態を脱したようであった。疲れていたため、日本時間の新千年紀や現地時間のニュー・ミレニアムになった時には既に眠りに落ちていたように思う。

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タンボチェ

新千年紀元旦は、残念ながら曇であった。夜のうちに再びかなりの雪が降ったようで、一部で現れていた地肌が再び雪の下に隠れてしまった。外に出てみると、アマダブラムの中腹から下が何とか見える程度であった。地図で確認すると、当地からアマダブラムまでの距離は約10kmだ。カラパタールからエヴェレストまでの距離も同じぐらいなので、いずれにしても初日の出を拝むことはできなかったのではないかと思う。

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エヴェレスト(左奥)

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クーンブ

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ナムチェ

食欲は戻り、頭痛も治まった。元気を取り戻してプンキテンガまで足早に下ると、雪はほとんど溶けていた。シャンボチェから連なる丘の東側の麓まで戻ると、エヴェレストが顔を覗かせていた。カラパタールに到達することはできなかったが、新千年紀元旦に世界最高峰を眺めることができて幸せだと感じた。ナムチェのクーンブ・ロッジへは、午後早く戻った。予定よりも2日早く戻ることになったが、ガイド料は実働の5日分でよいとのことであった。良心的だと感じたが、ガイドはむしろ最終日のガイド料を全額貰うことができるかどうかということを心配していたようだ。

ロッジの外に出ると、若い日本人男性に声をかけられた。ちょうどカラパタールから下山してきたところだという。クーンブ・ロッジに泊まり合わせていた別の若い男性と意気投合して、3人で夕食をともにした。相当な苦難の末にカラパタールに登った男性は、その後、チョララを経由してゴーキョ・ピークを目指すルートに挑戦したが、雪のため諦めたという。インターネット関係の業務委託を引き受けるヴェンチャー・ビジネスを兄弟で経営しているそうだ。バジェット旅行を行うだけではしょせん地元の文化を理解することはできないのだから、バジェット旅行を極めた後はトレッキングなどの活動を織り交ぜることが現実的ではないかとの意見であった。同宿の男性は、長期旅行に出かけるために設計事務所を退職した後、同じ事務所に契約社員として勤務しているという。ペリチェから抜きつ抜かれつ下山してきた壮年のオーストラリア人女性とも会った。元気になってよかったと声をかけてもらった。ペリチェでは心配してもらっていたようだ。

出発

カトマンドゥ

ナムチェ

クーンブ

抜粋
ルクラ

カトマンドゥ2

回顧

概要

■ルクラに向けて、トレッキング9日目にナムチェを出立した。ジョルサレまで急坂を下ると、河原に沿って快調に歩を進めた。ただ、往路は気付かなかったが、ルクラに近づくと上り坂が待っている。延々と歩いた後であったため、長く感じられた。

ようやくルクラに辿り着くと、イェティ航空のオフィスを訪ね、カトマンドゥに戻るフライトの予約の変更に取り掛かった。下山が予定よりも早まったためだ。オフィスには多くの人が押しかけ、とても順調に事務処理が行われていると言うことはできない有り様であった。それでも、しばらく待っていると順番が回ってきて、予約表に名前を書き込んでもらうことができた。

ルクラ空港の滑走路の横にロッジの部屋を確保し、宵のうちは食堂で暖炉に当たっていたが、夜になって部屋に入ると寒さに震えることになった。シュラフザックはナムチェで返却していたためだ。少し厚めのブランケットという程度では十分には役立たない。

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ルクラ空港

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ルクラ空港

翌日は、8時に空港に到着するよう指示されていたが、泊まっていたロッジは階段を降りると滑走路があるという場所にあったため、ただロッジで飛行機を待っていればよいのだと考えていた。しかし、ガイド同伴の宿泊客が外から戻ってきたガイドから搭乗券を受け取っている様を目にした。このような空港でも、やはりチェックインの手続きは必要であったのだ。チェックイン・カウンターは、滑走路の反対側の小屋の中にあるという。慌てて滑走路を横断し、小屋に向かった。小屋の中には、イェティ航空を含め、カトマンドゥ、ルクラ間のフライトを持つ航空会社のカウンターが並んでいた。既に指定の時刻を大幅に過ぎていたため、搭乗券を受け取るまで随分待たされた。

出発

カトマンドゥ

ナムチェ

クーンブ

抜粋
ルクラ

カトマンドゥ2

回顧

概要

■カトマンドゥのトリブヴァン空港に到着すると、国際線ターミナルまで歩いた。入国時と同様に無料送迎をしてもらうためだ。そして、入国時と同じゲストハウスの送迎車を見つけ、タメルに向かった。しかし、初めての客ではないという理由で、送迎費を請求された。作戦失敗であった。ただ、ゲストハウスの近くにリコンファームを依頼した旅行代理店があり、航空券を受け取るためには都合がよかった。

翌日から出国日までの3日間は、市内と郊外を訪ねた。下山が予定よりも早まったため、時間は十分にある。


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バクタプル

最初に訪ねたのは、古都バクタプルだ。オウルド・バス・パークからバスに乗っていると、次第に静かになってきて、バクタプルが姿を現す。バドガオンとも呼ばれるこの町は、映画「リトル・ブッダ」のロケイション撮影が行われたことでも分かるように、町全体が古都の雰囲気を残していると言ってよいであろう。ただし、町に入るための入場料金が750ネパール・ルピーと非常に高いことは残念だ。

エヴェレストを空から眺めることのできるマウンテン・フライトにも参加した。これには、トレッキングの最終目的地であったカラパタールに到達することができず残念に思っていたことや、シャンボチェで出会った日本人の一行がトレッキングの前に経験しておりその口調から魅力的に感じていたことが影響している。シャングリラ・エアを利用したが、航空料金は各社共通のようであり、109USドル(1USドルは約112円)であった。

タクシーに乗ってトリブヴァン空港に向かったが、チェックイン・カウンターで、霧のため遅延となっていることを告げられた。滑走路が閉鎖されているという。定刻の3時間後にようやく搭乗が始まったが、飛行機はいつまで経っても飛ばなかった。今度は、モンゴル大統領が入国するために、一時的に滑走路を利用することができなくなったらしい。一旦ロビーに戻り、シャングリラ・エアの負担で昼食を取った後、定刻の5時間後に再搭乗し、6時間後にようやく飛び立つことができた。

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マウンテン・フライト

座席は2列であるため、すべて窓側に配置されていることになる。右側に座ったため、進行方向に向かって左側にある山々は、最初は通路越しの眺めであった。そして、離陸してから30分程度でエヴェレスト付近で旋回した後は、山々を正面から眺めることができるようになった。予想したほど山々の近くを飛ぶわけではなく、独特の形をしたアマダブラムでさえ見つけることができなかったが、大地にできた多くの皺をしっかりと確認することができた。

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ボダナート

ボダナートへも、オウルド・バス・パークからバスに乗って向かった。ネパール最大のストゥーパ(仏塔)があるのだ。到着すると、多くのティベット人が熱心に参拝していた。ティベットへの憧れが、また募った。

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火葬場

その後、パシュパティナートを再訪するために、歩いて向かうことにした。近道と思われる小道を入っていくと、質素な住居が立ち並ぶ地域や草原などが待ち構えていた。通常の観光客が目にしないような光景を見ることができて、満足であった。パシュパティナートでは、再び火葬の現場を目にすることはできなかった。そのうちに、猿の大群が出没した。猿は、火葬台を荒らすなどのいたずらを働いた後、立ち去っていった。

出国まで時間が余ったため、乗合テンプーに乗って一旦タメルに戻ろうと考えた。しかし、運行経路がよく分からず、適当な場所で降りざるを得なかった。そして、タメルに向かおうと四苦八苦している時に、またもモンゴル大統領の一行と鉢合わせし、しばらく進行を妨げられることになった。全くタイミングが悪い。

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オウルド・バス・パーク

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カトマンドゥ市街

タメルからオウルド・バス・パークまで歩き、市内バスに乗ってトリブヴァン空港に向かった。タメルとオウルド・バス・パークの間は、この旅を含めて何回も往復したため、すっかり馴染みの場所になった。混沌とした状態のオウルド・バス・パークも、全く問題ではなくなっている。

空港へは、帰国便の出発時刻の3時間前に到着するよう指示されていた。早目に空港に到着すると、タンボチェのロッジで泊まり合わせた若い日本人男性と出会った。タンボチェから下山した後、ポカラからアンナプルナ山系を眺めるトレッキングに挑戦していたという。チェックイン・カウンターの最前列に並んでいたが、プリンターの不調のため搭乗券の印刷に手間取り右往左往するロイヤル・ネパール航空のスタッフを目の前にして、チェックイン・タイムが例になく早く設定されている理由が分かったような気がした。上海虹橋空港を経由して翌日に帰国し、関西空港で国内線に乗り換えた。

出発

カトマンドゥ

ナムチェ

クーンブ

抜粋
ルクラ

カトマンドゥ2

回顧

概要

■この旅では、最終目的地であったカラパタールに到達することができなかったのだから、まず、その理由について反省しなければならないであろう。

トレッキングに充てることにしていた12日間という旅程は、出発前には十分だと考えていた。ガイドブックで必要だとされていた日数を確保することができたためだ。前回のトレッキングでアンナプルナBCに登った時には、ガイドブックで必要だとされていた日数と比べて、上りで少なくとも1日の短縮をすることができた。そのため、ガイドブックはトレッキングの日程については慎重な記述をしているとの印象を持っていた。また、フライトを手配してくれた旅行代理店も、12日間の日程でパッケイジ・トゥアーを催行していた。ただ、旅行代理店で航空券を受け取る時にトレッキングについて相談すると、この日程でカラパタールに到達することは難しいとのことであった。また、ガイドブックでも、予定外の連泊をするなど日程を変更することなくカラパタールに到達することができるトレッカーは半数に達しないと指摘されていた。

結論としては、予備日を設けることができなかったことが敗因だと言うことができるであろう。ナムチェとペリチェに連泊することにしていたが、これは高度順応のために必要なものであり、予備日と言うことはできない。高山病は死に繋がる可能性があるだけに、トレッキング中も心理的な圧迫感は強かった。

クーンブから降りてきた後にナムチェで夕食をともにしたヴェンチャー・ビジネス経営者も、トレッキングの日数が12日間で十分だと受け取られかねない記述をしているガイドブックを批判していた。

技術的には、カトマンドゥから飛行機に乗ってルクラに到着した日にすぐにナムチェに向かって歩き始めるのではなく、ルクラでそのまま1晩を過ごすことが考えられるそうだ。迂遠なようだが、トレッキング初日にルクラとナムチェの間の渓谷にある村に滞在する代わりに高地にあるルクラに滞在することによって、高度順応を期待することができるのだという。2日目にナムチェまでを一気にカヴァーし、ナムチェに連泊することなく3日目にタンボチェに向けて歩き出すことによって、1日の節約をすることができるという計算だ。ただ、裏技に属するものであろう。

この旅でも、クーンブから下山した後、インターネット・カフェに足を運んだ。驚いたことに、パーソナル・コンピューターにグロウバルIME(インプット・メソッド・エディター)をインストールすることなどによって、日本語や中国語など複数の言語で閲覧や文字入力をすることができるようになっていた。予想していたよりもはるかに早い機能追加だ。早速、日本の新聞社のウェブサイトなどにアクセスした。利用料金は1時間40ネパール・ルピー(1分では1ネパール・ルピー)と、前回の旅の際の10分の1以下になっていた。当地ではインターネット・カフェが過当競争気味になっているのかもしれない。

現地での1日平均の旅行費用(土産費を除く)は約3,500円であった。旅行費用のうち宿泊料金の最高は入山時のタンボチェの2食付約1,900円(1,225ネパール・ルピー)で、最低は下山時のナムチェの1食付約460円(300ネパール・ルピー)であった。なお、トレッキング中のロッジを宿泊料金単独で見ると、最高はペリチェの約230円(150ネパール・ルピー)で、最低はジョルサレの約78円(50ネパール・ルピー)であった。

クーンブから下山した後は、味のシルクロードなどの日本料理店に毎日足が向かっていた。嗜好が保守化してきているかもしれない。

出発

カトマンドゥ

ナムチェ

クーンブ

抜粋
ルクラ

カトマンドゥ2

回顧

概要

前訪問地発 当訪問地着 訪問地
出発 日本 東京
24日07:35 空路 08:55 大阪
12:30 空路 14:10 中国 上海
15:45 空路 18:35 ネパール カトマンドゥ
25日07:10 空路 07:45 ルクラ
09:30 徒歩 15:30 ジョルサレ
26日09:05 徒歩 12:05 ナムチェ
27日08:50 徒歩 10:10 シャンボチェ
13:10 徒歩 14:05 ナムチェ
28日10:10 徒歩 15:30 タンボチェ
29日09:15 徒歩 15:15 ペリチェ
31日08:45 徒歩 13:30 タンボチェ
1日09:15 徒歩 13:30 ナムチェ
2日08:50 徒歩 15:20 ルクラ
3日13:00 空路 13:45 カトマンドゥ
5日13:10 空路 14:20
6日23:55 空路 7日07:00 中国 上海
08:00 空路 10:45 日本 大阪
13:00 空路 14:10 東京
徒歩 :徒歩、 空路 :空路)

訪問地 宿泊先 単価
ネパール カトマンドゥ Fuji Guest House US.$ 6 1
ジョルサレ Buddha Lodge NP.R 340.00 1
ナムチェ Khumbu Lodge NP.R 915.00 2
タンボチェ Gompa Lodge NP.R 1,225.00 1
ペリチェ Pumori Lodge NP.R 847.50 2
タンボチェ Gompa Lodge NP.R 530.00 1
ナムチェ Khumbu Lodge NP.R 300.00 1
ルクラ Buddha Lodge NP.R 470.00 1
カトマンドゥ Fuji Guest House US.$ 6 3

国名 通貨 為替 生活 食料 交通 教養 娯楽
US.$ 112円 30
内訳
0 0 0 109
内訳
ネパール NP.R 1.55円 1,920
内訳
3,810
内訳
2,186
内訳
0 6,070
内訳
日本 JP.\ 1.00円 0 0 0 0 0
通貨計 JP.\ 1.00円 6,345 5,904 3,387 0 21,651

国名 住居 土産 支出計 円換算 日平均
24
内訳
0 163
内訳
ネパール 8,140
内訳
630 22,756 52,597 14 3,757
日本 0 0 0 0 1 0
通貨計 15,309 976 52,597 15 3,506
(注)円換算と日平均は他国通貨での支払いを含み、土産費を除く。

出発

カトマンドゥ

ナムチェ

クーンブ

抜粋
ルクラ

カトマンドゥ2

回顧

概要

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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