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ネパール寄航

クーンブ地図もどうぞ。
ネパール

カトマンドゥ

ナムチェ

ゴーキョ

チョララ
抜粋

カラパタール

ルクラ

カトマンドゥ2

服装

■2004年10月中旬から11月上旬にかけて、20日間の旅程でネパールに出かけた。2000年のネパール旅行で叶わなかったエヴェレストを間近から眺めるという希望を成就させたいという強い思いがあった。海外旅行では長らくバックパックを持たず、トレッキングにさえデイパックを背負って出かけるようになっていたが、さすがに不便なので、出発直前に新調しておいた。タイ航空を利用してクアラルンプール空港を出発し、バンコクのドーン・ムアン空港でトランスファーを行った。バンコクまでは半分以上空席であったが、バンコクからはほぼ満席であった。年配の日本人トゥーリストも目についた。毛沢東主義派による武力攻撃がさらに深刻になり、外務省の渡航情報は、カトマンドゥについては渡航の是非検討要請(危険度2)となっていたが、治安を心配している人は少ないようであった。

バンコクからのフライトでは、壮年の日本人男性と乗り合わせた。勤務先を退職し、次の就職まで1年間遊ぶつもりだという。日本では登山の経験が豊富で、ネパールではジョムソンなどを訪ねているとのことであった。

ネパール

カトマンドゥ

ナムチェ

ゴーキョ

チョララ
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カラパタール

ルクラ

カトマンドゥ2

服装

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ティベット・ゲストハウス

■カトマンドゥのトリブヴァン空港では、比較的簡単にヴィザを取得することができた。そして、例によって無料送迎を提示してきたゲストハウスの送迎車に乗って安宿街タメルに向かった。

ゲストハウスは、タメルの西の端にあって喧騒からある程度隔離されており、落ち着いて過ごすことができた。

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風の旅行社

ちょうど、日本で言うと正月に当たる年間最大の祭りダサインの最中であった。旅行代理店も本来は休業のところであったが、国内線の航空券の受け渡しのためにスタッフに出勤してもらっていた。ついでにトレッキングの情報の入手にも努めた。この時点では、ガイドを同伴するかどうかを決めかねていた。最大の難関は、チョララという峠を越えることであった。スタッフによると、ガイドを同伴しない場合、ガイドを同伴しているトレッカーに従って歩を進めるとよいのではないかとのことであった。

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タメル

当地にはトレッキング用品店がひしめき合っており、容易に装備を整えることができる。シュラフザックとダウンジャケットのレンタルは後回しにして、小物を買った。トレッキング・シューズ、帽子、手袋、マスク、ヘッド・ライト、水筒、方位磁石、日焼け防止クリーム、そして高山病の予防薬ダイアモックスだ。ゲストハウスの屋上からは雪山が見え、いよいよトレッキングが始まるのだと気持ちが昂ってきた。

タメルには兵士がいたが、それほどものものしい雰囲気ではなかった。トレッキングに支障はないであろうと思われた。

ネパール

カトマンドゥ

ナムチェ

ゴーキョ

チョララ
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カラパタール

ルクラ

カトマンドゥ2

服装

■ナムチェが、トレッキングの最初の拠点となる。その先は、カラパタールとゴーキョ・ピーク(ゴーキョ・リ)の両方を目指すという欲張りな計画を立てていた。

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機内から

タクシーに乗ってトリブヴァン空港に向かい、イェティ航空の飛行機に乗り込んだ。機内では左側の座席を確保することができ、クーンブの山々を眺めることができた。機内からはどの山が見えているのか特定することは難しかったが、着陸近くになって見えていたのはタウチェではないかと思う。

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コンデリ/ルクラ

この旅では、ルクラで動悸に悩まされるということはなかった。トレッキング用品店が軒を並べているが、取り立てて用もないため、早々にナムチェに向けて歩を進めた。ガイドは同伴しないことになりそうだ。

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ガート

トレッカーは多いと感じたが、これはあくまでもオフ・シーズンであった前回のトレッキングと比べての印象だ。オン・シーズンとして、治安悪化の影響があるのかどうかは分からなかった。

ガートでは、注文を間違えられたこともあって注文した料理がなかなか来ず、昼食のために1時間も要した。トレッカーが多い時は、村に到着してすぐの場所にあるロッジは敬遠した方がよさそうだ。

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チュモア

チュモアを過ぎると、トレッカーが一気に減った。ルクラからナムチェに向かう途中の村では最も標高が高く、その日のうちにそれ以上進む必要はなかったかもしれない。

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ジョルサレ

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ジョルサレ

チェック・ポストで国立公園入域料を支払い、前回のトレッキングの際と同じジョルサレのロッジに泊まることにした。暖房は軽く入っていたようだが、部屋に明かりはなく、また防寒具のレンタル前なので、寂しく寒い夜であった。オン・シーズンだというのにほかに宿泊客はおらず、経営が成り立つのかと心配してしまった。人見知りをしない男児がかわいかった。

高山病対策としてダイアモックスの服用を始めたため、利尿作用により頻尿になっている。ダイアモックスは睡眠中の呼吸促進と浮腫(むくみ)の軽減に効果があるようだが、副作用もあり、服用は慎重に行うこととされているらしい。夜は少し吐き気がした。

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ドゥードゥ・コシ

トレッキング2日目は、ナムチェを目指す。明るくなるのを待ってすぐに出発したかったが、朝食のために時間がかかってしまった。

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コンデリ/ナムチェ

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ナムチェ

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クーンブ・ロッジ

ナムチェに向かうための最後の吊橋からはタウチェが見え、続いてエヴェレストやコンデリ(標高約6,200m)が顔を覗かせるなど、早くも目を楽しませてくれる。ジョルサレから抜きつ抜かれつしていた壮年のフランス人女性とともに目的地を目指した。ガイドとポーターを連れていた。長い休憩を取ることなく、あっけなく到着した。

馴染みのクーンブ・ロッジにチェックインしたが、トイレットの前の部屋を割り当てられることになった。フランスからの団体客が大挙して押しかけていたためらしい。

シュラフザックとダウンジャケットのレンタルを済ませると、シャンボチェに出かけた。目的地に早い時刻に到着したような場合には、高度順応のためにその日のうちにできるだけ日帰りトレッキングをしておきたいと考えていた。登っている途中で霧がかかってきて、雪山の眺望は失われた。そこで、昼食を済ませると早々に下山することにした。

ナムチェに戻ると、毛糸のソックスや薄目のジャケットを買い、トレッキングの装備を整えた。クアラルンプールから持参した荷物の重量は5kg程度であったが、現地で調達した装備を含めると10kg程度になるであろうか。

睡眠時に呼吸が浅くなるのか、夕食前の仮眠時に少し気分が悪くなったほか、翌未明にも軽い頭痛があった。たいしたことはないのだが、後の行程を考えると気がかりだ。

ロッジには、ジミー・カーター元米国大統領のほか、俳優ロバート・レッドフォードさんも泊まったことがあるらしい。

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エヴェレスト(左奥)/ヌプツェ/ローツェ

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ピーク38/アマダブラム

ナムチェでは、高度順応のために連泊する必要があるとされている。

夜が明けても霧がかかっていて、日帰りトレッキングのために視界が優れない中をまたシャンボチェに登らなければならないのかと考えていたが、幸いなことに次第に晴れ間が広がってきた。シャンボチェまで登ると、クスムカングル、タムセルク、カンテガ、アマダブラム、ローツェ、ヌプツェ、エヴェレスト(標高はネパール政府によると8,848m)と、馴染みの山々がよく見えた。タウチェには少し雲がかかっていた。アマダブラムの右左に見えていたのは、それぞれオンビガイチャン(標高約6,300m)とピーク38(標高約7,600m)のようだ。高度順応のためにはできるだけ長い時間高所に留まった方がよいとされており、さらにクムジュンまで足を伸ばすことにした。トレッカーが少ないためか、サーヴィス心はあまり感じられなかった。カンテガの山容が素晴らしかった。

上り行程の間は運動量が多く、暑く感じるが、目的地に到着すると急に寒くなる。そのため、どのような服装で出かけるべきか、気を遣うところだ。ナムチェに戻った後、夜になって風邪の症状が出てきた。高山病ではなく、風邪だと思う。ガーリック・スープを飲んだり風邪薬を服用したりしたが、心配だ。
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タウチェ/エヴェレスト/ローツェ/ピーク38/アマダブラム/オンビガイチャン/カンテガ/タムセルク


ネパール

カトマンドゥ

ナムチェ

ゴーキョ

チョララ
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カラパタール

ルクラ

カトマンドゥ2

服装

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ナムチェ

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ナムチェ付近

■ゴーキョに向けて、トレッキング4日目にナムチェを出発した。カラパタールとゴーキョ・ピークの両方を目指すとすると、先にどちらに向かうかということが問題になる。最初に考えるのは、結果的に片方しか訪ねることができなくなる可能性もあるため、どうしても訪ねたい方を先に訪ねた方がよいということだ。しかし、これは甲乙付け難い。そこで、どちらが行程上都合がよいかということを基準に判断することにした。そして、先にカラパタールに向かうとすると、一旦プンキテンガまで数百メートル下った後にタンボチェまで急坂を登り返さなければならないが、これは心理的にも体力的にも辛い。また、カラパタールとゴーキョの間はチョララ越えをしようと考えていたが、ゴーキョ方面から歩を進めた方が峠を越えやすいという解説を目にしていた。そこで、先にゴーキョに向かうことにしたのだ。

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タウチェ/ポルツェ

最初の急坂を登り切ると緩やかな上り坂が続き、歩きやすい。ジョルサレ方面も見渡すことができる。エヴェレストは一瞬顔を覗かせていただけで雲間に隠れてしまった。タウチェ、ローツェ、アマダブラムは比較的よく見えていた。カンテガやタムセルクは逆光気味だ。

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アマダブラム/タンボチェ

キャンズマを通り過ぎてサナサの手前まで来たところで、カラパタールに向かう道との分岐に差し掛かる。ゴーキョ方面に進むトレッカーは少ないのではないかと考えていたが、多少はいるようだ。右手には、カラパタール・コースを進んだ場合の次の滞在先であるタンボチェが、巨大なアマダブラムに押し潰されそうな様子で小さく見えていた。ロッジを求めるモンラも比較的はっきりと見えていたが、そこまでの道程は長かった。峠なので風が強い。

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タンボチェ/モンラ

モンラで荷を解き、昼食を済ませると、日帰りトレッキングのために裏山に登った。1時間程度登るとモンラを上から見下ろすような格好になってきた。その先にはタンボチェも見えていた。急勾配のため、下に落ちてしまいそうな感覚に陥った。

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アマダブラム/モンラ

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スノウランド・ヴュー・ロッジ

ほかに宿泊客はいなかったが、オウナーは気を利かせて暖炉に火を灯してくれた。気遣いに感謝する気持ちを込めて、夕食では注文する料理の品数を増やした。

オウナーの子は片道1時間をかけてクムジュンにある学校に通っているとのことであった。また、ナムチェから3時間半程度を要していたが、地元の人の足ではナムチェまでの往路2時間、帰路2時間半が目安らしい。

宵にロッジの外に出てみると、月に照らされてタウチェがはっきりと見えた。日中のように鮮やかであった。アマダブラムもある程度はっきりと見えた。月の明るさに驚かされた。影もくっきりと出来るのだ。

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チョオユー

5日目は、ドーレを目指す。雲が現れていたが、カンテガとタムセルクが顔を覗かせていた。ポルツェテンガ付近で一旦ドゥードゥ・コシの川沿いまで下るが、そこから上りに転じる。到着に先立って、チョオユー(チョーオユー、標高約8,200m)が現れて目を楽しませてくれる。

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ポルツェ/ドーレ

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ヒマラヤン・ロッジ

ドーレまで高低差の小さい山腹を楽に歩くことができるのは歓迎するが、運動量が少なくなるため、強風が吹くと急に体感気温が下がる。要注意だと思う。

ロッジで昼食を済ませると、前日と同じく日帰りトレッキングに精を出すことになる。1時間半程度をかけてマッチェルモ方面の丘に登ることにした。頂上付近では積雪を見かけた。短時間ではあるが頭痛に襲われ、早々にロッジに戻った。また、夕食中、体がほてっていることに気付いた。熱があるのかもしれない。風邪薬を切らしており、代わりに解熱剤を服用した。夜は、悪寒がするというほどではなかったが、厚着をしているにも関わらず少し寒く感じられた。

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ドゥードゥ・コシ

6日目は、体調が万全ではないため、出立を遅らせて、暖かくなるのをロッジで待った。マッチェルモに向かう途中、粉雪が降ってきたり積雪を見かけたりするということがあった。

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マッチェルモ

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ナムギャル・ロッジ

ゆっくりと登ったが、滞在することも視野にあったルザを通過し、午後早くマッチェルモに到着した。ただし、日帰りトレッキングはせず、昼食を取った後は部屋でシュラフザックに入って休憩することにした。

ほかのロッジとは異なり、ロッジを取り仕切っていたのはティベット系ではなく中国系の若い女性であった。手際よく働いていた。また、ロッジには洗濯物から氷柱が垂れて困っているトレッカーがいた。服の洗濯はせず、暖炉での乾燥に留めるべきところなのであろう。

夕食時には壮年の日本人写真家といろいろと情報交換を行った。雪が降り続いていたため、雪の中のチョララ越えは可能かということが主な関心事であった。シュタイクアイゼンの装着が必要になるような状況であれば素人は無理をしない方がよいというのが写真家の見解であった。

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キャジョリ/マッチェルモ・ピーク

深夜0時頃、月明かりに照らされて、近くの山が映える様に見とれた。その後は雲がかかっていたが、日の出とともにマッチェルモ・ピーク(標高約6,000m)やキャジョリ(標高約6,200m)が放つ光彩は見ていて飽きなかった。

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マッチェルモ・ピーク

7日目は、積雪を踏みしめながらの出立となったが、快晴の下、明るくなるとともに雪はどんどん溶けていった。パンガを過ぎると上り坂が続くため、おかしいと思って下を見ると別の道があった。間違えてチャドテンに登るところであったことが分かり、慌てて引き返した。時間のロスは10分程度であろうか。

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チョオユー

ゴーキョまでの道程は長かった。体調がよくないことも影響していたように思う。滑落の危険がある場所もあり、注意が必要だ。

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タウチェ・ツォ

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ゴーキョ/ドゥードゥ・ポカリ

左手に湖が見えてくると、ゴーキョが近づいてきた印だ。ロンポンガ・ツォ(ゴーキョ第1湖)だ。次いでチョララに向かう道との分岐の辺りに現れるのがタウチェ・ツォ(ゴーキョ第2湖)で、最後にドゥードゥ・ポカリ(ゴーキョ第3湖)が姿を見せると、その先の湖畔にゴーキョが待ち構えている。どの湖もエメラルド色の水を湛えており、見ているだけで心が休まるように思う。標高4,750mだ。

数あるロッジの中でも目立ったゴーキョ・リゾートにチェックインした。トレッカーの数は多く、中でも団体客が多いようだ。ドーレのロッジには若いヨーロピアンが、マッチェルモのロッジには様々なタイプの個人客が多かったが、ロッジごとに特徴があるのかもしれない。

出発時は気分がよくても、ハード・ワークをしているうちに発熱してしまうらしい。解熱剤のほかに服用しているヴィタミン剤の量を増やすことにした。

夜は自分の動悸に驚いてなかなか寝付くことができなかった。高度順応に成功するかどうかの瀬戸際であったかもしれない。

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カンチュン

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ギャチュンカン

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エヴェレスト

翌日は、ゴーキョ・ピークに登ろうかとも考えたが、やはり無理だと思い直し、代わりにゴジュンバ・ツォ(ゴーキョ第5湖)を目指すことにした。持参したガイドブックには掲載されていないルートだが、絶賛しているウェブサイトを見かけたことがあった。マッチェルモでも、片道2時間程度しかかからず、上りは厳しくないと教えられていた。それならば、往復してもマッチェルモからの行程を辿るようなものかと安易に考えてしまったのだ。しかし、都合の悪いことに、道は途切れがちでよく分からなかった。そして、出発直後、小川を渡る必要がないのに渡ってしまったり、凍っている泥濘を地面と勘違いして水の中に足を踏み入れてしまったりした。その後も、石の上を飛び跳ねながら進むなどしているうちに、疲労が蓄積してきた。とても楽な行程と言うことはできない。丘陵もあるほか、トナク・ツォ(ゴーキョ第4湖)を過ぎると右側はゴジュンバ氷河に向かって切り立った断崖となっている稜線を進まなければならなくなる。慎重すぎるほど慎重に足を運んだ。途中、ドーレで同宿であった若いオーストラリア人男性と出会った。高山病のため、目的地まで行くことを断念したという。もしかすると、体調が万全な人はそれほど多くないのかもしれない。

カンチュン(標高約6,100m)やギャチュンカン(標高約8,000m)などは比較的早くから見えていたが、ゴジュンバ・ツォの辺りまで来ると、ギュバナレ氷河の先にエヴェレストとヌプツェがほかの山に遮られることなく姿を見せるようになる。ギャチュンカンとエヴェレストの間に見えていたのは、フンチ(標高約7,000m)とチュンブー(標高約6,900m)のようだ。エヴェレスト方面が曇りがちであったのは残念であったが、苦労した甲斐があった。ただし、帰路は疲労困憊といった状態であった。

結果的に、後にゴーキョ・ピークに登った時よりもはるかに苦労することになったが、これは高山病のためであろう。
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ギャチュンカン/フンチ/チュンブー/ギュバナレ氷河

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フンチ中腹/チュンブー/エヴェレスト/ヌプツェ

■ロッジに戻って遅い昼食をとることにしたが、吐き気のためにシテューが喉を通らない。激しい頭痛にも襲われた。体調が十分ではないのに無謀なことをしてしまったかと後悔しながら、夕食も取らずに早々に寝てしまった。

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チョラツェ/タウチェ

朝になると頭痛は治まっていたが、動悸を感じる。吐き気も完全に治まったわけではないため、朝食では粥を注文した。そして、無理を重ねてはいけないとロッジで静養することにした。とは言え、裏山ぐらいであれば大丈夫であろうと登ってみた。すると、チョオユーをはじめ、中国・ティベットとの国境を形成している山々を見渡すことができた。ゴジュンバカンT峰(標高約7,700m)や同U峰(標高約7,600m)などが連なっていたようだ。また、チョラツェ(標高約6,400m)は、マッチェルモで見た時とは異なり、左に傾いたような山容を見せていた。
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チョオユー/ゴジュンバカンT峰/同U峰/ギャチュンカン山頂

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ドゥードゥ・ポカリ/ゴーキョ

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ゴーキョ・リゾート

ロッジでは、アメリカ合衆国に留学中のコリアン女性と親しくなった。約16kgの荷物を背負っているとのことであった。チョララ越えを希望していたが、断念したそうだ。半年間以上の休暇中で、ティベットの後に訪ねてきたとのことであり、さらにフィリピン、オーストラリア、日本を訪ねる予定だという。残念なことに、前日は憔悴していたオーストラリア人が途中で話に割り込んできた。そうなると、語学力の関係で話の中に入ることは難しくなってしまった。

日中から暖炉に火が入ったのはありがたかった。ソーラー発電らしく、日中しか引き受けてくれないディジタル・カメラの充電を依頼することもできた。300ネパール・ルピーであった。国際電話の発信の取り扱いとともに、ナムチェを出発してから初めて提供されていたサーヴィスであった。また、嬉しいことに、風邪薬を入手することができた。高山病は峠を越えたと思われ、悩みは解消しつつあった。

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ゴーキョ付近

10日目は、ゴーキョ・ピークに登った後、チョララ越えに取り掛かることにした。そうすることによって、前日停滞したことによる遅れを取り戻すことができるのだ。風邪の症状はかなり緩和していた。

ゴジュンバ・ツォに向かった時と同じく、小川を渡るための石飛びとともに行程が始まる。ここで片足を水の中に踏み入れてしまった。気を取り直して上り勾配に取り掛かった。

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エヴェレスト/ヌプツェ/ローツェ

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チョオユー

1時間程度登るとカンチュンの右側の丘の背後からエヴェレストが顔を見せ始めた。上空は雲一点ない快晴であったが、エヴェレストの周囲では雲が舞っていた。多くのトレッカーを追い越して、2時間程度でゴーキョ・ピークに到着した。標高5,360mだ。

クーンブのパノラマは素晴らしかった。ゴジュンバ・ツォからと同じく、エヴェレストはほぼ全景を見渡すことができる。ヌプツェやローツェよりもひときわ高く聳えており、エヴェレストが最も高い山だと一目で分かるのもよい。そして何よりも、チョオユーからタムセルクまで並居る山々を一望することができるのだ。チャンツェ(標高約7,600m)のほか、遠くにはマカルー(標高約8,500m)も顔を覗かせていたようだ。
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エヴェレスト/ヌプツェ/ローツェ/マカルー遠景

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カンチュン/チャンツェ/エヴェレスト/ヌプツェ/ローツェ

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チョオユー/ゴジュンバカンT峰/同U峰/ギャチュンカン/フンチ/カンチュン/チャンツェ/エヴェレスト/ヌプツェ/ローツェ/マカルー遠景/チョラツェ/タウチェ/カンテガ/タムセルク

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ゴジュンバ氷河/ゴーキョ/ドゥードゥ・ポカリ

ゴーキョに戻る途中で眼下に広がったゴジュンバ氷河、ゴーキョ、ドゥードゥ・ポカリの眺めも印象深いものであった。

しばらくの間だけであったが、刺すような頭痛があった。高山病の症状であろう。ロッジに戻ると荷物を整え、チョララに向けて出立した。

ネパール

カトマンドゥ

ナムチェ

ゴーキョ

チョララ
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カラパタール

ルクラ

カトマンドゥ2

服装

■チョララは、ゴーキョ方面とカラパタール方面を結ぶ峠だ。上級者向けのルートだが、峠越えにより少なくとも1日の節約ができる。

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タウチェ・ツォ

本道とチョララに向かう道との分岐は分かりやすく明示されてはいなかったが、ゴーキョに向かっている途中、タウチェ・ツォの辺りに怪しいと思われる目印があったため、ディジタル・カメラで撮影しておいた。そして、ゴーキョ到着後、撮影した写真をロッジでモニターに表示してスタッフに見てもらい、分岐だと確認することができていた。

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チョラツェ/ゴジュンバ氷河

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チョラツェ/ゴジュンバ氷河

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ドラクナク

マッチェルモ方面に下っていく本道から外れ、ゴジュンバ氷河に差し掛かった辺りで、地元の人が通りかかった。ゴジュンバ氷河越えは、チョララ越えに次いでこのルートの難関だ。当日の目的地ドラクナクまで先導してもらうと楽だなと思っていたが、とても同行することのできるような速さではなく、みるみるうちに引き離されてしまった。次いで、ガイド同伴のトレッカーに追い付いた。あまり速くなかったため追い越して少し先を進んでいたが、途中で引き返したのか、そのうちに見当たらなくなってしまった。ほかに氷河越えをする人はおらず、こうして単独行をすることになった。

氷河と言っても石や砂が堆積しており、滑りやすいということはない。一部は氷が溶けて池や小川ができていたほか、小山になっている場所もあった。危険なクレヴァス(氷の割れ目)を見かけるということはなかった。最初は道があったが、そのうちになくなり、代わりに目印とするために積み上げられている石を頼りに進んでいった。小山を登るためには、両手両足のうち一時に動かすのは1つのみとするという登山の三点確保の要領を用いなければならない場所もあった。そのうちに目印の積み石が分からなくなり、道に迷ってしまったかと慌てた。それからは正規のルートを探すというよりも渡河することだけを目指した。歩を進めているうちに南側を通っていた道に出会い、渡河に成功したと確信するとほぼ同時にドラクナクが見つかった。こうして無事に目的地に到着したが、実際に渡河のための正規のルートというものがあるのかどうかは分からなかった。

ロッジの食堂でくつろいでいると、7時間をかけてチョララ越えをしてきたチェコ人の団体が到着し、場の空気を支配するようになった。ジリからトレッキングを始めたが、途中で毛沢東主義派と遭遇し、通行料と称して1,000ネパール・ルピーを要求されたそうだ。部屋は相部屋となった。高山病は峠を越えたと言っても、ハード・ワークのため風邪が悪化してしまう。

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チョラヴュー・ロッジ

トレッキング11日目は、できるだけ早く出立したいと考えていた。チョララを1日で越えられず、途中で予定外のビヴァーク(野営)を余儀なくされた経験の紹介をウェブサイトで見かけたことがあったためだ。若いスペイン人男性付きのガイドが5時朝食、5時半出立と言っていたため、それに合わせようと考えていたが、食堂にはチェコ人の団体のうち個室に入り切らない人が寝ていたため、食事は6時まで提供することができないとのことであった。そして、出立は6時40分となった。一緒に行こうと約束していた若いニュージーランド人女性は先に出かけていたが、途中で追い付いた。

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チョララ

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チョララ

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チョララ

起伏があり歩きづらい河原を越えると、チョララが待っている。想像を超えた急坂であった。とにかく一歩一歩進まなければならないと念じながら頑張った。上りだけでなく下りも大変なようで、多くのトレッカーは滑り落ちないよう細心の注意を払っていた。一方、中にはスキーの滑降の要領で下りてきて、ターンによる急停止を行っているトレッカーもいた。言うまでもなく危険な行為だ。チョララはゴーキョ方面から進んだ方が峠を越えやすいという解説は、カラパタール方面から進むと、このように峠を越えてからの下りでも苦労することによるものだと思う。ただし、後に、カラパタール方面から進んだ方が峠を超えやすいという逆の解説を目にした。

地図によるとドラクナクからチョララまで数本の川を越えなければならないことになっていたが、実際には水無し川なので何本の川を越えたのかは数えづらい。そして、急坂を登っている最中は、それが最後の上り坂だということに気付かなかった。そのため、苦労した割には、チョララに到着した時には拍子抜けしてしまった。標高約5,400mだ。

スペイン人の一行は先に行ってしまったが、ニュージーランド人とはほぼ同時に到着することができた。驚かされたのはブリティッシュ男性で、ガイドとポーターを連れてはいたが、70歳になるというのに瞬く間に追い越されてしまった。日頃の鍛錬の賜であろう。チョララで小休憩を取った後、当日の目的地ゾンラに向かうことにした。

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アマダブラム/チョラツェ・ツォ

峠を越えると雪道になっていたが、行程は楽になった。勾配が緩やかなためだ。峠の反対側が雪に覆われていたとしたら行程を諦めなければならなかったかもしれない。しばらく進むと展望が開け、山容を変えたアマダブラムが正面に現れる。これだけ展望が開けているというのも、峠越えをした甲斐というものであろう。岩山を下るようになる頃には雪はほとんどなくなっていた。

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アマダブラム/ゾンラ

岩山を下り切ると勾配はさらに緩やかになり、川を渡るなどしているうちにゾンラが見えてきた。先に到着していたスペイン人の一行は、昼食を済ませるとロブチェを目指して進んでいった。ゴーキョで出会った壮年のコリアン男性は直接ゾンラに向かうと言っていたし、チョララを2日間で越えることは難しくないのかもしれない。

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ゾンラ

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グリーン・ヴァレイ・ロッジ

ロッジでは、単独行の場合はドミトリに泊まることとされていたが、必要があれば相部屋にするとの条件で個室になるよう交渉した。チョララ越えに取り掛かってから夜の寒さは厳しく、ロッジは貧相になっていたが、中でもゾンラの条件は悪いように思う。また、それまでは水筒に白湯を入れて飲料とするほか夜は暖を取っていたが、ドラクナクに置き忘れてしまっていた。なお、スペイン人付きのガイドが、ドラクナクを経由してナムチェに向かう友人を見つけ、水筒を探してクーンブ・ロッジに届けておいてくれるよう依頼してくれたが、結局戻ってくることはなかった。

食堂では、3人連れのロシア人が会話を独占した。前日、ゴジュンバ氷河越えを途中で諦めたように見えていた一行だ。別のルートを採ったようだ。夜は少し吐き気がした。

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チョラツェ

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タウチェ

12日目も、ニュージーランド人が先に出発した。そして、チョラツェやタウチェなどが次第に明るく光り輝くようになる様を眺めてから出立した。最大の難関は、チョラツェ・コラーだ。石飛びをして渡るのだが、石と石の間隔が広すぎるのだ。後にニュージーランド人は、トレッキング・シューズと靴下を脱ぎ、川の中を歩いて渡ったと言っていた。道は分かりづらいものではなく、眼下にチョラツェ・ツォを眺めながら左回りに進んでいく。アマダブラムの麓には、ペリチェ方面から上ってくる本道沿いの村が見えてきた。本道と合流する直前、再び川を渡るための石飛びをすることになっているが、滑りやすくなっており注意が必要であった。

本道とチョララに向かう道との分岐には、大きな黒岩の上に石が積み上げられていた。目印とするためであろう。本道と合流すると、ロブチェは近い。

ネパール

カトマンドゥ

ナムチェ

ゴーキョ

チョララ
抜粋

カラパタール

ルクラ

カトマンドゥ2

服装

■カラパタールに向けたトレッキングが、いよいよ始まる。

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プモリ/ロブチェ

ロブチェとゴラクシェプの高度差は小さいが、後半にアップ・アンド・ダウンがあるため、油断は禁物だ。ニュージーランド人は荷物が重いと訴えてきたが、こちらも手助けをするだけの余裕はなかった。

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プモリ/リントレン/クーンブツェ

そのうちに、目の前にプモリ、リントレン(標高約6,700m)、クーンブツェ(標高約6,600m)、チャンツェ、ヌプツェが立ちはだかるようになる。早くエヴェレストを間近で眺めたいと気持ちが昂ってきた。疲れていることを忘れてしまいそうなぐらいだ。
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プモリ/リントレン/クーンブツェ

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プモリ/リントレン/クーンブツェ/チャンツェ/ヌプツェ

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プモリ/カラパタール/ゴラクシェプ

カラパタールは、ネパール語で黒い丘という意味だ。その名の通り黒褐色の土に山肌を覆われており、早くから確認することができる。しかし、ロッジを求めるゴラクシェプまでの道程は長かった。

ゴラクシェプに到着し、ロッジで休憩していると動悸を感じたため、水分補給に努めることにした。標高5,150mだ。

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エヴェレスト

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エヴェレスト/ヌプツェ

カラパタールへは、日の出と日の入りをともに見るために2回登ることにしていた。最初は5時頃に出発した。暗闇の中を進まなければならないかと思っていたが、何とか道が分かるぐらいの明るさであり、ヘッド・ライトは消灯しておくことにした。ただ、時々道を踏み外してしまうこともあった。同じように日の出を拝もうとしている人は多かった。7時頃、頂上付近に到着し、しばらく休憩した後、頂上と目される岩山に登った。ドイツ人の一行が陣取っていた。このようなことが好きな国民性なのであろう。標高5,545mだ。

到着して間もなく、ヌプツェの頂上から太陽が昇ってきた。それとともに、白一色であった空は青みを帯びていった。プモリ、リントレン、クーンブツェ、エヴェレストと、中国・ティベットとの国境を形成している山々が居並ぶ。エヴェレストの左に見えるチャンツェは、ティベットにある山だ。そして、ヌプツェは、ゴラクシェプに向かう途中で見かけた屏風のような山容とはまるで異なり、鋭利な刃を天空に突き立てているかのようだ。南側には、アマダブラム、タムセルク、タウチェ、チョラツェと、馴染みの山々が顔を揃えている。ロブチェ・ピーク(標高約6,100m)、ニレカ・ピーク(標高約6,200m)、チャングリ(標高約6,300m)、チュンブーも見えていたようだ。
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プモリ山麓/リントレン/クーンブツェ/チャンツェ/エヴェレスト/ヌプツェ

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タムセルク/タウチェ/チョラツェ/ロブチェ・ピーク/ニレカ・ピーク/チャングリ/チュンブー

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タムセルク/クーンブ氷河/ゴラクシェプ

感動を胸にゴラクシェプに戻る途中、スペイン人の一行と行き違った。カラパタールに登った後、その足でディンボチェまで下るという。カラパタールに登る途中で2回、ゴラクシェプに戻る途中で1回、軽い頭痛があった。高山病の症状であろうが、たいしたことはなさそうであった。

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カンテガ/タムセルク/タウチェ

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エヴェレスト/ヌプツェ

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エヴェレスト/ヌプツェ

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エヴェレスト夕景

2回目は14時頃に出発した。日の入りを見るという目的のためだけであれば早すぎる時刻だが、カラパタールからの眺めを目に焼き付けておきたいという思いもあった。引き続き快晴であったが、カンテガ、タムセルク、タウチェの中腹には雲が現れていた。チョララ越えをしてゴラクシェプに到着してから午後になっても雲が現れないようになっていたが、季節が変わったわけではないのだ。ディンボチェやゾンラは上空を厚い雲で覆われていたと思う。カラパタールが快晴であったのは、標高が高く雲もなかなか近寄らない場所に来ているということを意味するのかもしれない。

太陽が沈むに従って、山々は次第に橙色に染まっていく。そして、明るい部分は山頂付近に限られるようになり、やがてヌプツェも暗くなり始めた空に溶け込んでいった。ここからがエヴェレストの本領発揮だ。

エヴェレストは、カラパタールからの眺めが距離も近く有名ではあるが、ヌプツェと自らの西稜の後方に位置することになるため、中腹から下は見せてくれない。また、ヌプツェの迫力が圧倒的であり、エヴェレストは奥の間に鎮座しているとの印象を受けてしまう。しかし、ヌプツェを含めて周囲の山々が光を失った後、独り赤々と輝き続けている様は忘れようのない印象深いものであった。世界最高峰の貫禄十分だ。また、間近にいるからこそ堪能することのできる光景であろう。

日の入りを見届けると、ヘッド・ライトを点灯して転げるように下山した。再び軽い頭痛があった。

昼食と夕食をともにした年配の日本人男性は、アンナプルナ・サーキットを始め様々なトレッキングを経験しているとのことであった。トレッカーで溢れていたロブチェでは、ドミトリ扱いで食堂で寝たという。ガイドを同伴して、団体によらないトレッキングを堪能しているようであった。ほかにも時々日本人を見かけた。

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ヌプツェ

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エヴェレスト・アイスフォール

その翌日は、エヴェレストBCに向かった。途中、クーンブ氷河に下りる時など、かなり険しい坂道もあった。ヘリコプターが墜落している場所まで来ると、エヴェレスト・アイスフォールを間近に眺めることができる。エヴェレスト登山の出発点だ。エヴェレスト山頂を見ることができなくても、訪ねてみる価値はあるかもしれない。帰路は水不足が祟ったのか、頭痛に襲われた。

ロッジには、コリアン女性が到着していた。ポルツェを経由してきたとのことで、2日遅れとなっていた。朝、昼、夜と暖炉に火が入るのはありがたかった。テイブル席のほか、暖炉を囲む椅子を加えないとすべてのトレッカーが座ることができないという大盛況であった。そのほかにガイドやポーターがいるのだ。

カラパタールに登ってからディジタル・カメラの調子が悪くなったが、寒さのためなのであろう。ヨーロッパ系の若い女性も暖炉でディジタル・カメラを温めていた。

ネパール

カトマンドゥ

ナムチェ

ゴーキョ

チョララ
抜粋

カラパタール

ルクラ

カトマンドゥ2

服装

■ルクラに向けて、トレッキング15日目に下山を始めた。今更ながらではあるが、体調は万全だ。ダイアモックスや風邪薬の服用は中止することにした。ロッジでは、若いドイツ人女性が高山病のため苦しんでおり、別の女性からダイアモックスを貰ったり、相談に応じてもらったりしていた。すぐにロブチェまで引き返した後、様子を見るべきところであろう。

ロブチェのロッジには、国際電話の発信の取り扱いを行っているという案内があった。ただ、ゴラクシェプのロッジにも同様の案内があったが、実際には毛沢東主義派が回線を切断した後、復旧していなかったため、こちらでも実際に国際電話をかけることができるのかどうかは分からない。

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カンテガ/タムセルク/トゥクラ

チョララに向かう道との分岐を過ぎた頃、壮年の日本人夫妻と行き違った。山々の名前を教えてあげた。トゥクラに向けての急坂は、上りであれば非常に苦労したであろうと思いやられるようなものであった。

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アマダブラム/マランプラン

トゥクラを過ぎるとすぐに分岐があるが、前回のトレッキングにおける最高到達地点であるペリチェではなく、高台にあるディンボチェに向かうことにした。アマダブラムはまた山容を変えて目の前に迫ってきた。奥には、マランプラン(標高約6,600m)が見えていたようだ。

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ローツェ

ディンボチェからは、ローツェなど多くの山々が間近に見える。眺望を楽しみながら昼食を取り、ペリチェからの道と合流した後、ロッジを求めるパンボチェに向かった。部屋に明かりがあったのはナムチェ以来だ。ただ、トレッカーが少なく手馴れていないためか、夕食のために2時間も要した。

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タウチェ/パンボチェ

16日目は、まずタンボチェを目指した。パンボチェから見えているが、やはり遠い。最後の上り坂は厳しかった。ただ、ジョルサレからナムチェへの上り坂と同様、前回のトレッキングで長い休憩を取らざるを得なかった場所でしっかりと足を運ぶことができた。また、タンボチェを過ぎてからの下りの方がはるかに急坂であり、逆ルートでよかったと胸を撫で下ろした。

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クスムカングル

キャンズマではヨーロッパ系の壮年のカップルが馬に乗って進んでいたが、どこまで行くのであろうかと不思議に思いながら見送った。モンラのほかエヴェレストなどの山々がよく見えていた。また、ナムチェに近づくと、クスムカングルが見えていたようだ。

ナムチェに到着すると、再びクーンブ・ロッジにチェックインした。今度は2階の角部屋で、2面に窓のある明るい部屋を割り当ててもらった。ランドリ・サーヴィスを依頼したりシャワーを浴びたりと、トレッキングの垢を落とすことに意を注いだ。

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クーンブ・ロッジ

17日目は、前日にジョルサレ方面から到着したばかりの若い日本人夫妻と朝食をともにすることから始まった。カナダ在住で、日本語のガイドブックとロウンリ・プラネットを併用していた。3週間ぐらいでカラパタールとゴーキョを訪ねたいとのことであった。夫君は軽い頭痛があるという。トレッキングについていろいろと教えてあげた。

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パクディン/ドゥードゥ・コシ

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ジリに向かう道との分岐

シュラフザックとダウンジャケットを返却すると、ルクラに向けて駆け下りるように急ぎ足で進んだ。昼食を取ったガートでは、ゴラクシェプを1日早く出立した二人連れの年配の日本人男性と再会した。いつの間にか追い付いていたようだ。

ルクラに近づくと残り20分という看板があるが、そこから1時間を要するため注意が必要だ。

ルクラに到着すると、イェティ航空のオフィスを訪ねてリコンファームを行うことになるが、営業時間中なのに、時間を置いて出直すようにと指示された。上司がいないと何も決められないらしい。指示に従って出直してみると前回のトレッキングの際と同様に大勢の人が押しかけていたが、何とか搭乗便を決めてもらうことができた。ただ、その後、ロッジに連絡が入り、予定よりも早い朝の便に変更になった。

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ルクラ空港

トレッキング最終日は、指定された時刻の30分程度前に空港裏を歩いていると、イェティ航空のスタッフに「クーンブ・リゾートの宿泊客か。」と尋ねられた。どうやら変更になった便よりも更に早い朝一番の便に搭乗することになったようで、空港で待つ間もなく搭乗と同時に飛行機は離陸した。

ネパール

カトマンドゥ

ナムチェ

ゴーキョ

チョララ
抜粋

カラパタール

ルクラ

カトマンドゥ2

服装

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機内から

■カトマンドゥのトリブヴァン空港からは、格安タクシーと料金交渉をし、正規のエアポート・タクシーの半分以下の料金にディスカウントしてもらってタメルに向かった。中にはエアポート・タクシーよりも高い料金を要求してくる非正規のタクシーもあるため、油断は禁物だ。ホテルも格安のものを選んだ。この方がホテルの無料送迎に頼るよりも安上がりかもしれない。

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日本料理店・桃太郎

トレッキング用品店では、ヘッド・ライトと方位磁石を買い戻してくれた。インターネット・カフェの利用料金は1時間20〜40ネパール・ルピーとなっていたが、料金は接続環境とは関係なく決められているように感じられた。

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日本料理店おふくろの味

食事のためには、ふる里、おふくろの味(味のシルクロードが改変)と、日本料理店通いが続いた。トレッキング中はネパール料理やティベット料理が長く続いたため、日本料理が恋しくなっていた。

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ニュー・バス・パーク

ニュー・バス・パークの見物では、相変わらずの喧騒を目にすることになった。

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オウルド・バス・パーク

翌日は、地図を見ずに市街をそぞろ歩きした。そして、オウルド・バス・パークから市内バスに乗ってトリブヴァン空港に向かった。空港では、毛沢東主義派のテロリズムを警戒してセキュリティ・チェックが厳しかった。そして、バンコクのドーン・ムアン空港でトランスファーを行った。

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ゴーキョ

チョララ
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カラパタール

ルクラ

カトマンドゥ2

服装

未明の就寝時
日中のトレッキング時
に分けて服装などを記しています。
「靴下」と記している日は、通常の靴下の代わりに毛糸の靴下を履いて就寝しています。
マレイシア滞在中であったため、通常と比べて汗腺が開き、寒さに弱くなっていたと思います。
天候 気温 訪問地 就寝時・出発時の服装など
20日 曇後晴 20〜26℃ カトマンドゥ       襟付きシャツ
21日 晴後曇 12〜26℃ ジョルサレ 肌着シャツ 襟付きシャツ
22日 晴後曇 6〜12℃ ジョルサレ 肌着×2着 襟付きシャツ セーター                 手袋
ナムチェ 肌着×2着 襟付きシャツ セーター
シャンボチェ 肌着シャツ 襟付きシャツ      ダウンジャケット 帽子
23日 晴後曇 5〜12℃ ナムチェ 肌着シャツ 襟付きシャツ      薄目のジャケット 帽子        靴下 寝袋
クムジュン 肌着シャツ 襟付きシャツ      ダウンジャケット 帽子
24日 晴後曇 3〜12℃ ナムチェ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ダウンジャケット    マスク 手袋 靴下 寝袋
モンラ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター 薄目のジャケット 帽子 マスク 手袋
25日 晴後曇 0〜10℃ モンラ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ダウンジャケット 帽子 マスク 手袋 靴下 寝袋
ドーレ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター 薄目のジャケット 帽子 マスク
26日 晴後曇 0〜 5℃ ドーレ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ジャケット×2着 帽子 マスク 手袋 靴下 寝袋
マッチェルモ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ダウンジャケット 帽子 マスク 手袋
27日 晴後曇 - 2〜10℃ マッチェルモ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ジャケット×2着 帽子 マスク 手袋 靴下 寝袋
ゴーキョ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ダウンジャケット 帽子 マスク 手袋
28日 - 3〜10℃ ゴーキョ 肌着×3着 襟付き×2着 セーター ジャケット×2着 帽子 マスク 手袋 靴下 寝袋
ゴジュンバ・ツォ 肌着×3着 襟付き×2着 セーター ジャケット×2着 帽子 マスク 手袋
29日 晴後曇 - 3〜10℃ ゴーキョ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ジャケット×2着 帽子 マスク 手袋 靴下 寝袋
ゴーキョ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ジャケット×2着 帽子 マスク 手袋
30日 晴後曇 - 4〜 6℃ ゴーキョ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ジャケット×2着 帽子 マスク 手袋 靴下 寝袋
ドラクナク 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ジャケット×2着 帽子 マスク 手袋
31日 晴後曇 - 9〜 8℃ ドラクナク 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ジャケット×2着 帽子     手袋 靴下 寝袋
ゾンラ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ジャケット×2着 帽子     手袋
1日 -10〜 7℃ ゾンラ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ジャケット×2着 帽子     手袋 靴下 寝袋
ゴラクシェプ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ジャケット×2着 帽子     手袋
2日 -12〜 7℃ ゴラクシェプ 肌着×2着 襟付き×2着 セーター ジャケット×2着 帽子     手袋 靴下 寝袋
カラパタール 肌着×2着 襟付き×2着 セーター ジャケット×2着 帽子     手袋
3日 -10〜 7℃ ゴラクシェプ 肌着×2着 襟付き×2着 セーター ジャケット×2着 帽子     手袋 靴下 寝袋
エヴェレストBC 肌着×2着 襟付き×2着 セーター ジャケット×2着 帽子     手袋
4日 - 7〜10℃ ゴラクシェプ 肌着×2着 襟付き×2着 セーター ジャケット×2着 帽子     手袋 靴下 寝袋
パンボチェ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ダウンジャケット 帽子     手袋
5日 0〜10℃ パンボチェ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター ダウンジャケット 帽子     手袋 靴下 寝袋
ナムチェ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター 薄目のジャケット 帽子     手袋
6日 1〜18℃ ナムチェ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター 薄目のジャケット           靴下 寝袋
ルクラ 肌着シャツ 襟付きシャツ セーター
7日 7〜21℃ ルクラ 肌着×2着 襟付き×2着 セーター 薄目のジャケット 帽子     手袋 靴下
カトマンドゥ 肌着シャツ 襟付きシャツ      薄目のジャケット
8日 8〜30℃ クアラルンプール 肌着シャツ 襟付きシャツ

ネパール

カトマンドゥ

ナムチェ

ゴーキョ

チョララ
抜粋

カラパタール

ルクラ

カトマンドゥ2

服装

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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