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ギリシャ寄航

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オリンピア
スパルティ

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機内から(アテネ)

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エレフテリオス・ヴェニゼロス空港

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キフィスウ・バス・ステイション

■2017年12月下旬、ギリシャに出かけた。週末2日間と元旦の祝日を含む6日間の旅程であった。年末年始の旅行先として、当初はトルコやエジプトなどの周辺諸国を訪ねたいと考えていた。外務省の海外安全情報によると、少なくともトルコについては大部分が注意喚起に留まっており、訪問に問題はないように思われた。しかし、関係者はトルコを含めて危険だとみなしており、訪問を断念せざるを得なかった。2年前に起こったダッカ・レストラン・テロリズム以来、治安に関して非常に慎重になっているようだ。訪問の可能性があるのはヨーロッパなどに限られるようであり、ギリシャやウクライナが候補に挙がったが、最終的にギリシャを選んだのだ。

空港出発は深夜であり、日付が変わろうとする頃、アパートメントを出発した。第7サークルに向かって歩いている途中、当地にも夜まで賑わっているナイト・スポットがあることを知った。アルコール飲料は提供されていないであろうのに、深夜近くまで盛り上がりを見せることを不思議に思いながら通り過ぎた。10月中旬のアラビア人首長国連邦訪問時と同じく、エアポート・バスがなかなか来ないため、タクシーに乗って向かうことにした。利用したのはエーゲ航空だ。

アテネのエレフテリオス・ヴェニゼロス空港に到着すると、エアポート・バスに乗ってキフィスウ・バス・ステイションに向かった。ギリシャでは、アテネ観光を後回しにして、先にペロポネソス半島の町に向かうという予定を立てていた。初日のオリンピアと2日目のスパルティのホテルは事前に予約してあった。

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Pコンディリ通り

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フェイディアスの仕事場

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レオニデオン

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ゼウス神殿

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スタディアム

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ヘラ神殿

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オリンピック採火場

■オリンピアは、言わずもがな、オリンピック発祥の地だ。アテネのキフィスウ・バス・ステイションでは、ピルゴスに向かう始発バスに間一髪で間に合わなかったため、随分待たされるかと危惧したが、30分後の便を確保することができた。乗換便の利用ではあるが、オリンピアまでの通し切符を手にすることになった。しばらくすると、左手にサロニコス湾が見え、コリントス地峡を過ぎてペロポネソス半島に入ると右手にコリントス湾を望むことができ、目を楽しませてくれる。ギリシャ本土との間に橋の架かっているパトラも確認することができた。ピルゴスでバスを乗り換え、順調にオリンピアに到着した。オリンピアは小さな町なので、現在地はすぐに確認することができた。また、ホテルは中心部から北に向かった場所にあったが、迷うことなく見つけることができた。まず、古代オリンピック競技博物館を見物した。当地だけではなく、ギリシャ全土からの出土品が展示されているのだそうだ。さらに観光を続けたかったが、かなりの雨になってきたため、中断せざるを得なくなった。冷たい雨に打たれながら、ホテルに戻った。傘を携行しなかったのは失敗であった。

翌日は、オリンピア遺跡とオリンピア考古学博物館を訪ねた。オリンピア遺跡は、予想をはるかに超える広大なものであった。一旦一周して各遺跡の位置関係を確かめた後、改めて見物を始めた。オリンピア競技前の合同練習を行った紀元前4〜1世紀のヘレニズム時代のギムナシオン(体育練習場)とパレストラ(闘技場)を過ぎると、紀元前5〜4世紀の古典時代の遺跡に行き当たる。保存状態のよいフェイディアスの仕事場、最大の建物であったレオニデオン(宿泊所)に続くゼウス神殿は、アテネのパルテノン神殿に匹敵するものであったという大きさを十分に実感することができた。スタディアムは、古典時代からヘレニズム時代への移行期に造られ、合計2万人を収容したという。ゼウス神に捧げた奉納品の宝庫と、ゼウス妃ヘラを祀り4年毎にオリンピックの聖火が採火されるヘラ神殿は、紀元前7世紀の前古典時代の遺跡だ。紀元1世紀のローマ時代の浴場もある。このように、様々な時代の遺跡が眠っており、当地が決してオリンピック競技だけの町ではなかったことが分かった。その後、遺跡で発掘された彫刻や陶器などが展示されているオリンピア考古学博物館を見物した。

午後早くピルゴスに戻ったが、スパルティ訪問のゲイトウェイとなるトリポリ行バスの出発は17時半であり、5時間も待たなければならないという。そして、当日中にスパルティに到着するという確証はなさそうであった。ガイドブックに掲載されている交通情報はアテネと地方都市を結ぶ便が多くを占めており、地方都市間の交通情報が不足していたため、旅程に支障を来さないよう慎重を期す必要があった。そのため、朝から行動を始めて前日の遅れを取り戻そうとしたのだが、努力は実らなかったかと落胆した。おそらく、バスは朝夕の2便しか運行していないのではないかと思う。しかし、予約していたスパルティのホテルは比較的高価なものであったため、何とか当日中に到着することができないかと思案した。そして、遠回りではあるが、コリントスに向かうバスを利用することができないかと思い付き、窓口で尋ねてみた。すると、すぐに出発するとのことであった。また、そのルートであれば当日中にスパルティに到着することができるという。そこで、ルートを変更することにしたが、そのようなことは尋ねられる前に教えてほしいものだ。

コリントス到着は16時半であり、本当にこのルートを選んでよかったのかと心配した。一時は、当日中にスパルティに到着することができないのであれば、コリントスとトリポリのどちらが当夜の滞在先としてふさわしいかということを考え始めていた。しかし、カウンターで尋ねると、あっさりとスパルティ行のバス切符を買うことができた。直行便だ。

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市街

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アゴラ

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聖ニコンのバシリカ

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劇場

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劇場

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ミストラ遺跡遠景(手前)

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カストロ

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アギア・ソフィア教会

■スパルティ(スパルタ)に到着する直前、バスの進行方向をよく確認していたため、降車後はリクルグウ通りをホテルのある中心部に向かって正確に進んでいくことができた。高い建物はなかったが、小奇麗な商店街が続いており、クリスマスの装飾が華やかさを演出していたこともあって、予想よりも発展した町だという印象を受けた。小ぢんまりとはしていても、十分に気品が感じられるのだ。ただし、19世紀に建設された街だという。ホテルは難なく見つけることができ、豪華なものであった。前日は寒さのためにホテル内でも震えていたから、ようやく人心地がついたという気がする。

スパルタは、古代ギリシャの中でアテネと並ぶポリス(都市国家)の覇者だ。スパルタ教育の元祖として名高い。紀元前12世紀に南下してきたギリシャ人第二波のドーリア人は、紀元前8世紀に都市国家を形成し、紀元前7世紀に軍事国家制度を整えたという。紀元前6世紀にはペロポネソス同盟の盟主の座に就き、紀元前5世紀のペロポネソス戦争ではアテネを降している。

スパルタ遺跡は、中心部から約1km北に位置している。コンスタンティヌ・パレオログ通りを進むと、雪を抱いた山並みが間近に迫ってくる。通りの北端には、紀元前5世紀にはアテネなどとともにアケメネス朝とペルシア(イランの古名)戦争を戦って戦死したスパルタ王のレオニダス1世像が立っており、遺跡へと誘ってくれているようだ。

遺跡は入場無料で、円形建物、聖ニコンのバシリカ、アテネ・チャルキオイコス聖域、浴場、窪地建物、ビザンティン教会、後期ローマ要塞城壁などが並んでいる。アゴラ(広場)は石垣で仕切られており、支配階級であったスパルタ市民が共同食事をした場所はどこなのかと想像を巡らせることになる。そして、ハイライトは劇場だ。遺跡を最奥部まで進んでいくと、左手に広大な窪みが現れて思わず息を呑んだ。自然の地形を利用して見事に円形の劇場が造られ、一部が階段などとして残っている。期待を上回るものであった。

沢木耕太郎著「深夜特急」(新潮文庫、1994年)では、スパルタ遺跡は以下のように取り上げられている。

古のスパルタは現代のスパルタの町のはずれにあった。あった、というのは正確ではない。微かに跡らしきものはあったが、そこには何もなかったのだ。一面オリーブ畑になっており、石垣だったのか建物の礎石だったのか、地中に半ば埋もれた石が散見されるだけだ。古代スパルタは徹底的な破壊にあったらしく、往時を思い出させるようなものはまったく残っていなかった。

(中略)

いくら歩きまわってもまったく何も残っていない。だが、それは私にはいっそ潔いものと映った。アテネのアクロポリスの丘に立った時よりはるかに強いうねりのある感情が湧き起こってきた。滅びるものは滅びるに任せておけばいいのだ。滅びのあとに生まれるものがあれば生まれればいい。滅びたものを未練に残しておくことはないのだ。スパルタは死んでいた。しかし、このスパルタの徹底して潔い死には、アテネのアクロポリスのあの壮大な骸のような美しさは打ち勝てないのだ、などと思ったりもした。

著者は同書で、町や観光名所に対に対する嗜好を含め極端な価値観を記しているように思う。日本で農耕が始まる前に開花した高度な文明の片鱗が残っているのに、何も残っていないという評価はいかがなものかと思う。遺跡の隅々まで歩いて文明の息吹を感じ取ってもらいたかったものだ。

遺跡を後にすると、遺跡の発掘品が展示されている考古学博物館を見物した。

次いで、東ローマ帝国時代に第4回十字軍によって築かれた要塞ミストラ遺跡を訪ねようとして、バス・ステイションに向かったが、日曜日なのでバスが運行しておらず、タクシーを利用することになった。その代り、山頂にあるカストロ(城壁)付近の入口で降ろしてもらうことができた。そこで、まず、カストロを目指して階段を登っていった。地形が険しい上に高い城壁が立ちはだかり、軍事的には堅固だが、政治や生活の場としては不便であり、抗争相手であったスラヴ人が強敵であったことが推察された。眼下にはスパルティの町が小さく見えていた。その後は山麓に向かって、14世紀に建てられたアギア・ソフィア教会、聖ニコラオス教会、13世紀に築かれた王宮、フレスコ画のあるパンタナサ教会などを見物しながら下りていった。

バス・ステイションに戻ると、アテネ行バスに乗った。途中で立ち寄ったアテネ中心部でバスを降り損ない、終点のキフィスウ・バス・ステイションまで乗り続けてしまったが、2日後にミケーネとコリントスを訪ねるためのバスの便を下調べすることができて、かえってよかったと思う。

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獅子の門

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穀倉

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円形墓地A

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アトレウスの宝庫

■ミケーネ(ミキネス)は、スパルティ観光の翌日である元旦に訪ねようと考え、それに備えてコリントスのホテルを予約していた。しかし、元旦はミケーネ遺跡やコリントス遺跡など、どの観光名所もクロウズドになっていることが分かった。そこで、コリントスのホテルをキャンセルして、アテネで年越しをすることにしたのだ。キャンセルは手数料なしで行うことができた。元旦はアテネで過ごし、翌日に日帰りでミケーネを訪ねるという予定であった。紀元前4世紀に建てられた古代劇場のあるエピダウロスを訪ねることは諦めなければならなかった。

キフィスウ・バス・ステイションからナフプリオン行バスに乗る。バスを降ろされたのは幹線道路上であり、遺跡は数キロメートル先だ。遺跡に向かうバスはなさそうであった。そこで、通りかかったピックアップ・トラックにヒッチハイクを依頼すると応じてくれ、荷台に乗るようにと言われた。残念ながら乗せてくれたのはミケーネ市街までであったが、バス停留所と遺跡の中間点ぐらいまでは来たようだ。そして、遺跡に向かって歩こうとしていると、タクシーの運転手に乗車を勧誘され、応じることにした。

ミケーネ文明は、紀元前16〜12世紀にギリシャ人第一波のアカイア人によって築かれ、エーゲ文明後期に位置付けられる文明だ。紀元前13世紀頃には、ホメーロスの叙事詩に著されている木馬に潜ませた兵士で有名なトロイア(トロイ、イリオス)戦争を引き起こしたとされる。ほかの遺跡よりも一段と古い青銅器時代の遺跡なのだ。

遺跡では、考古学博物館や獅子の墓を訪ねた後、丘陵上に残されている城塞を巡っていった。獅子の門を潜ると、穀倉と円形墓地が見えてくる。何という大きさであろうか。石垣に囲まれた城内の邸宅や祭壇を眺めながら坂道を上っていくと、王宮のある頂上だ。その先は職人の作業場などを経て貯水池に続いている。城壁外にあるアイギストスの墓、クリュタイムネストラの墓、円形墓地を見物し、タクシーに乗ってアトレウスの宝庫に立ち寄った後、当地を後にした。太古の遺跡がこれほどはっきりと足跡を残しているということは大いなる驚きであった。訪ねたことのある遺跡では、エジプトのギザのピラミッドに次ぐ古さということになるであろうか。

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グラウケの泉

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アポロン神殿

タクシーの運転手には、バス停留所まで連れていってもらおうと考えていた。しかし、運転手は、こちらの目的地がコリントス遺跡だと分かると、タクシーに乗って向かうよう勧誘してきた。ミケーネに続いてコリントスでもタクシーに乗ることを考えると、通しでタクシーに乗った方が効率的だと説得され、勧誘に応じることにした。

コリントス遺跡では、グラウケの泉、アポロン神殿、北マーケット、ベマ、北バシリカ、エウリクレスの大浴場、考古学博物館、ローマ時代の音楽堂などを巡った。古くは紀元前6世紀に建てられたものがある。その後、コリントス駅までタクシーに乗り、列車に乗ってアテネに戻った。

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オモニア広場

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アクロポリス夜景

■アテネでは、オモニア広場近くのホテルを予約していた。スパルティから乗ったバスがキフィスウ・バス・ステイションに到着すると、市内バスに乗り換えた。バスは、乗客の利便性を考えているのか、路地を行ったり来たりしながら進んでいくため、地元の人の目線で街を眺めることができた。バスを降りると、オモニア広場を目指す。道路が広場を避けて弧を描いているため、すぐに見つけることができた。しかし、路地を入り込んでいかなければならないホテルはすぐには見つからなかった。格安ホテルであり、大きな看板が出ていないという事情もあったであろう。

ホテルにチェックインすると、地下鉄に乗ってモナスティラキ広場に向かい、古代アゴラやライトアップされているアクロポリスを垣間見ることができた。また、タベルナ(食堂)でポーク・スヴラキ(鉄串に刺した肉の炭火焼き)、ギリシャ・サラダ、ギリシャ・コーヒーに舌鼓を打った。疲れていたためか、年越しを待たずに眠ってしまった。

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ピレウス港

年が改まって、快晴の下、観光名所はクロウズドであったため、午前中はラリッサ駅(アテネ駅)や、初回のヨーロッパ旅行の際に泊まったホテル・デルタなどを見物した。アクロポリスは、クロウズドであるにも関わらず、多くの観光客が繰り出していた。旅程上、翌日まで待てないということなのかもしれない。古代アゴラも丘の上などから見物した。その後、地下鉄に乗って、古典時代からアテネの外港として栄えたピレウスを訪ねた。エーゲ海の島々に向かうフェリーの乗船券を売る店が軒を連ねていた。

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ディオニソス劇場

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パルテノン神殿

翌日は、ミケーネから戻った後、残された多少の時間を利用して、アクロポリス遺跡を訪ねることにした。ディオニソス劇場やイロド・アティコス音楽堂方面から登っていき、プロピレア(前門)を経由してパルテノン神殿に向かっていった。アクロポリスの城塞としての利用は紀元前13世紀に始まり、紀元前6世紀に古パルテノン神殿が建てられた後、紀元前5世紀に現在のパルテノン神殿が完成している。「深夜特急」では、パルテノン神殿は以下のように取り上げられている。

パルテノン神殿はどの角度から見ても間違いなく美しかったが、その姿は、信仰の地として生きるでもなく、廃墟として徹底的に死に切るわけでもなく、ただ観光地として無様に生き永らえていることを恥じているようでもあった。

著者は、もともと遺跡などの観光名所の訪問に頓着していないが、長い時を生き長らえてきた遺産に対してこのような低い評価を下していることには全く賛同できない。新鮮な驚きはなかったのかと不思議に思う。古代アゴラや国立考古学博物館などはクロウズドであり、訪ねることができなかった。
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アクロポリス(右)

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タベルナ

ホテル付近のタベルナでは、ギロス(グリルした肉を削いだ料理、アラビア料理のシャワルマやトルコ料理のドネル・ケバブと類似)を試した。

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アギウ・コンスタンティヌ通り

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オモニア広場付近

大晦日には、モナスティラキ広場付近からホテルまで戻る途中、炊き出しを行っている一角に行き当たった。当地にも自力で年越しを行うことのできない人がいるのかと考えさせられながら歩いた。また、当地で非常に残念に思ったのは、建物に対する落書き(グラフィティ)が野放図になっており、街の景観を完全に破壊していたことだ。おそらく、訪ねたことのある町の中で最悪の状態であったと思う。それだけで長居はしたくないと感じてしまう。当局は対策を練る必要があるのではないだろうか。

日付が変わってからエレフテリオス・ヴェニゼロス空港を出立し、アンマーン到着は予定よりも遅れたが、初めてクイーン・アリア空港と市内の往来のためにバスを利用することができた。第7サークルからはタクシーに乗って帰宅し、仮眠した後、定時に受入先に向かった。

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