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ヨルダンC 地方

地方

抜粋

東部
北部

中部

南部

■アンマーン周辺以外のヨルダンは、東部、北部、中部、南部というように区分されるようだ。自動車を運転するなどしてこれらの地域を訪ねた。1回目と3回目の南部アカバ訪問が2日間、2回目のアカバ訪問が3日間の日程であったほかは、結果的に2日間に跨った南部トゥアーを除き日帰りであった。

地方

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東部
北部

中部

南部

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ハラナ城付近

■3月上旬、東部のアズラックに出かけた。アンマーンからは2通りの行き方がある。アズラック周辺に点在し、デザート・キャッスルと呼ばれているウマイヤ朝時代の7〜8世紀の宮殿などに立ち寄るため、往路は南回りの、帰路はザルカ経由の北回りのルートを採ることにした。いずれにしても、砂漠をえんえんと走ることになる。アズラックは、東部でほとんど唯一と言ってもよい町なのだ。

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ハラナ城

最初に現れるのがハラナ城だ。ギリシャ時代かローマ時代の遺跡を利用して建てられた隊商宿ではないかとのことだ。城の内部は多くの部屋に区分されているというが、残念ながら近づくことは認められていなかった。

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アムラ城

続いて現れるのがアムラ城だ。8世紀に建てられた隊商宿らしい。ハラナ城と同じく小ぢんまりとした建物であったが、内部のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描く絵画)が見事なためか、アズラックのアズラック城を差し置いて世界遺産に登録されている。

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アズラック城

アズラック城に到着する直前、三叉路に差し掛かる。道路標識には、右折すればサウディアラビアの町に向かうことが示されている。国境までは約50kmだ。そして、左折すればアズラック城を経てイラクの町に向かうことになる。国境まではまだ二百数十キロメートルあるが、一本道であるため近くにあるように感じてしまう。アズラック城は、ローマ帝国時代の3世紀頃に要塞として建てられ、東ローマ帝国、ウマイヤ朝、マムルーク朝によって改築が行われたという。戦略基地としての重要性が高く、きらびやかさはない。

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ハラバート城

帰路、中世の浴場跡であるサラ・ハンマーム、ローマ帝国のカラカラ帝時代の2世紀に要塞として建てられたハラバート城を経由してアンマーンに戻る途中、警察官に停止させられた。速度制限違反を犯していたようであった。しかし、どのように対応するべきか考えていたところ、処分を見送ってくれることになった。

貴重な遺産が眠っている東部を訪ねるためのアクセスが問題にならないぐらい悪いことは非常に残念だ。南回りのバス路線の開設が望まれる一方、ザルカでの乗り換えが不便な北回りのバス路線も見直しを検討するべきだと思う。

地方

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東部
北部

中部

南部

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ハーシェミ通り付近

■北部へは、イルビッドを単独の目的地として、自動車に乗って2回訪ねた。1回目は12月下旬で、2回目は2月下旬であった。

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ハドリアヌス帝の凱旋門

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大聖堂/ニンファエウム

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アルテミス神殿

3月上旬、ジェラシュに出かけた。アンマーンのローマ円形劇場付近を歩いていると、よくジェラシュに案内しようとガイドの勧誘の声がかかった。自分で自動車を所有していたため、もちろん勧誘に応じることはなかったが、ジェラシュがアンマーンから手軽に訪ねることのできる町だとの認識を持つようになっていた。

ジェラシュまで運転することは何の問題もなかったが、駐車場は満車であった。そこで路上駐車をすることにしたが、交通違反切符を交付されないかと心配しながらジェラシュ遺跡を見物しなければならなかった。もっと早くアパートメントを出発しておけば駐車のために苦労しなくてもよかったのにと反省した。

町としての発展は、紀元前4世紀にアレクサンドロス3世の支配とともに始まり、セレウコス朝やローマ帝国の下で繁栄を享受したという。遺跡は広大な敷地に広がっている。遺跡へは、ハドリアヌス帝の凱旋門と競馬・戦車競技場を通って南門にあるメイン・ゲイトから入ることになっている。スークとフォルム(広場)を過ぎると、列柱通りがえんえんとが続く。途中、ウマイヤ朝時代のモスク跡、四面門、大聖堂、ニンファエウム、西浴場が待ち構えている。ニンファエウムの脇の階段を登っていくと多くの柱が林立している様が印象的なアルテミス神殿に驚かされる。一方、フォルムを左折すると、南劇場とゼウス神殿が聳え立っている。

世界遺産に登録されていないことが不思議に思われてくるが、修復のために現代の技術であるセメントが使われたことが問題になっているのだそうだ。残念ではあるが、遺跡の素晴らしさは変わらないと思う。

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ニンファエウム

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西劇場

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地下埋葬室/バシリカ

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ガラリア湖

4月下旬、ウム・カイスに出かけ、帰路、イルビッドに立ち寄った。

ウム・カイス(ローマ帝国時代の名称はガダラ)を訪ねるかどうかは、かなり悩んだ。シリアとの国境から数キロメートルしか離れていない。国境に向かって2〜3km進むと軍事閉鎖区域に指定され、外務省が不要不急の渡航中止要請(危険度2)を発出している地域に行き当たるため、危険だとの情報があった。しかし、地元の人は気軽に訪ねているという。せっかくの機会なので、思い切って訪ねることにしたのだ。

ウム・カイスは、プトレマイオス朝時代に軍事基地として築かれ、セレウコス朝などの支配を経て、ローマ帝国時代に繁栄したものだという。博物館には、遺跡内で発掘されたというモザイクなどが展示されている。オスマン朝時代の学校を横目に進んでいくと、ローマン・ロウドに立ち至る。往時は馬車による都市間交通の舞台であったのだそうだ。その先は、ニンファエウム、東ローマ帝国時代の教会のバシリカ・テラス、3,000人を収容するという西劇場、商店街、東ローマ帝国時代の浴場、至聖所、浴場、聖者を埋葬するための地下埋葬室、バシリカ、後期ローマ帝国時代の門と、様々な時代の遺跡が目白押しであった。

遺跡自体も見応えがあるが、遺跡から望む景観も忘れることができないものだ。目の前にはイスラエルにあるガラリア湖(アラビア語名ティベリアス湖)が豊富な水を湛えている。その右側に広がるのがイスラエル占領下にあるシリアのゴラン高原(イスラエルは領有権を主張)であり、シリア、ヨルダン、イスラエル、レバノンのレヴァント(大シリア)4か国の領土がひしめき合っている地域だ。1960〜1970年代に起こった第三次・第四次イスラエル・アラビア戦争(中東戦争)の係争地でもある。滞在時、シリアでは、政府軍、クルド人勢力、その他の親欧米反政府勢力、DAISH、その他のイスラーム過激派が内戦を続けていた。一刻も早く平和が訪れることを願いながらシリア方向を眺めていた。なお、レヴァント4か国が首都と位置付けるダマスカス、アンマーン、イェルサレム、ベイルートを日本地図にトレイスすると、関東地方ぐらいの狭い範囲に収まってしまうようだ。

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ファッデル・ダルガモウニ通り

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キング・アブドゥッラー通り

イルビッドは、ヨルダン第3の町だが、都市圏としては2番目に大きいと言うことができると思う。5回目の訪問であったが、中心部を訪ねるのは初めてであった。中心部に近づくにつれて交通渋滞が激しくなってきたが、何とか路上駐車することのできる場所が見つかった。そこは、ダウンタウン中心部であった。ハーシェミ通り、ファッデル・ダルガモウニ通り、キング・アブドゥッラー通りなどの大通りから小路に至るまで、様々な商品を取り扱う小売店が目白押しであった。面的な広がりを持つため、アンマーン・シティ・センター付近からローマ円形劇場付近まで2本の商店街が伸びているだけのように見えなくもないアンマーンのダウンタウンよりも賑わっていると思わせるほどであった。

地方

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東部
北部

中部

南部

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マダバ考古学博物館

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バプティスト教会礼拝堂

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東ローマ帝国時代の遺物

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ヒッポリュトス・ホール

■2月下旬、中部のマダバに出かけた。自動車を運転することができるようになってから6日後のことだ。まだ、運転に慣れたと言うことのできる状態ではなかったため、初めて自分で自動車を運転してアンマーン都市圏以外の町を訪ねるに際して、30km離れたマダバを選んだのだ。残念ながら、往路、帰路とも、道を間違えてしまった。往路はデッド・スィー・ハイウェイ(死海道路)を走り、ナウアでマダバに向かう分岐路に入ろうとして失敗した上、そのことにしばらく気付かなかった。帰路は、キングズ・ハイウェイ(国王道路)、エアポート・ロウド(デザート・ハイウェイ、砂漠道路)の順に走ろうとしていたが、エアポート・ロウドとの交差点を見逃してしまい、アパートメントのあるアンマーンのアップタウンではなくダウンタウンに向かいそうになった。

マダバの中心部に近づくと道路が狭くなり、簡単に駐車場を見つけることはできそうにないことが分かった。そこで、南の外れで路上駐車することにした。十二使徒教会は、6世紀に建てられた建物の床一面に残っているモザイクが見所だというが、中に入ることができなかった。マダバ考古学博物館には、東ローマ帝国時代の6世紀のモザイクが多く展示されている。洗礼者聖ヨハネ教会(ラテン修道院)では、地下博物館にあるバプティスト教会礼拝堂や東ローマ帝国時代の遺物など見所が目白押しであり、ベル・タワーから眺めることのできる町並みも印象的だ。聖マリア教会脇にある東ローマ帝国時代の6世紀の住居跡ヒッポリュトス・ホールのモザイクも見所だ。マダバ地図が有名な聖ジョージ教会も訪ねた。

洗礼者聖ヨハネ教会では、二人連れの壮年の男性に日本人だと知られ、いろいろと案内してもらった。当地での少数派であるキリスト教徒として、遠くから訪ねてきた異邦人を歓迎したいという思いなのであろう。イスラーム教に圧倒されながらも、脈々と息づいているキリスト教文化の真髄を見た気がした。帰路、店先で売っているのを見つけたファラーフェルを頬張りながら当地を後にした。

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死海

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カラク城

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カラク城

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カラク城

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カラク城から

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カラク城から

4月中旬、死海のアンマーン・ビーチと、第1回十字軍により建国されたイェルサレム王国によって12世紀に築かれた城塞都市のカラクに出かけた。死海は海抜-420mと世界で最も低く、塩分濃度が非常に高いため生物が住むことのできない湖だ。

死海を訪ねるに際しては、アパートメントのオウナーに施設の状況を尋ねた。すると、死海沿岸にはパブリック・ビーチとプライヴェイト・ビーチがあり、高価なプライヴェイト・ビーチを利用する必要はないが、2つあるパブリック・ビーチのうちでは整備の整ったムンタジャ・アンマーンを利用するとよいとのことであった。

ムンタジャ・アンマーンでは、ショップで鍵を借り、ロッカー・ルームに向かうようになっている。着替えを済ませてビーチに向かう。時間が早かったため、人は少なかった。早速、初めての浮遊体験だ。塩水が目に入ると悪影響があり、稀に失明することもあると言われていて、注意が必要だ。仰向けになって水に浮かぶのが鉄則だ。確かに体勢に関わらず水中に沈んでいくということはない。不思議な感覚を味わうことができた。ただし、慣れないためか、体勢を保つことはそれほど簡単ではなかった。また、足が海底に付くことがあったが、滑らかでない岩肌もあり、怪我をしないように注意しなければならなかった。泥パックのサーヴィスは受けなかった。

カラクへは、アンマーンから向かう場合はキングズ・ハイウェイを南下するところだが、アンマーン・ビーチから向かう場合は、デッド・スィー・ハイウェイを南下した後、カラク・ハイウェイを東進することになる。車窓には砂漠がえんえんと続くのではないかと考えていたが、カラク・ハイウェイに入ると起伏が激しくなってきた。それによって、キリスト教徒とイスラーム教徒の争いに際して、当地が戦略基地として重視された理由を理解することができたように感じた。

カラク城に入ると、傾斜のある地形を活用して敵の攻撃を防ごうとの企図が窺われた。2世紀頃のナバテア人の胸像やローマ帝国時代の円柱などは、残念ながら確認することができなかった。

翌日、財布から160ヨルダン・ディナールが抜き取られていることが分かった。アンマーン・ビーチで所持金をロッカーに入れ、死海に入っている間に行われた犯行であろう。ほかに財布からキャッシュを盗まれる機会はなかったためだ。また、財布の中に入れてあったキャッシュの一部しか盗まれていないことから、窃盗に気付くのを遅らせることを狙った内部犯行の可能性が高い。鍵を管理しているショップで合鍵を持っているのではないかと思う。そして、多額のキャッシュを持っている確率の高い外国人をターゲットにしているのであろう。被害を発見した翌日、ムンタジャ・アンマーンを再訪し、マネジャーに事情を話したが、埒が明かない。その後、近くにある交番に連れていってもらった。所長でないと判断を下すことができないのか、なかなか手続きが進まなかった。ようやく事情聴取が始まっても、巧妙な内部犯行の可能性があるということが念頭にないため、勘違いではないのか、もし合鍵を持っているのであれば頻繁に窃盗が起こっているはずではないかと尋ねられた。最終的に何とかこちらの推測は理解してもらうことができたが、盗まれたキャッシュが戻ってくる可能性は低いと思われた。そして、残念ながら予想は当たった。後に、ロッカーに多額のキャッシュを入れることは適当ではないとの指摘を受けた。もっともだと思う。

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東部
北部

中部

南部

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イスラエル方向

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レストラン街

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アカバ湾

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アカバ要塞

■南部のアカバには、自動車に乗って3回訪ねた。1回目は10月下旬、2回目は12月中旬で、3回目は2月中旬であった。アンマーンから自動車に乗って訪ねることになるわけだが、当初はメイン・ストリートであるデザート・ハイウェイを走ることもあった。しかし、途中から、専らデッド・スィー・ハイウェイを走るようになった。高速で走ることができるのだそうだ。

10月下旬に訪ねた時に泊まったホテルは、前回の渡航時に泊まったホテルであった。当時、夜になっても外で人が騒いでいて眠ることができなかったと同行者が問題視していた。そのホテルに再び泊まり、同じ経験をすることになった。外というのは部屋の外にある通路ではなく、ホテルの外にある飲食店という意味であった。飲食店では日付が変わっているというのに大音量の音楽を流し、確かに眠ることができなかった。フロントに電話して相談すると別の部屋を用意してくれたが、新たにあてがわれたのは別の階の同じ方角の部屋であったので、それで問題が解決するとは思われなかった。ただ、ちょうど飲食店の大音量が止まったようなので、一旦は納得することにした。しかし、部屋を移ってすぐにまた大音量の音楽が流れ始めた。再びフロントに電話し、問題を指摘すると、既に一旦部屋を移っていたため、難色を示された。こちらは、安眠することのできる環境を提供するのはホテルの責務だと主張し、マネジャーと話をさせてほしいと申し出た。マネジャーは、反対の方角の部屋を用意してくれ、今度は騒音に悩まされることなく眠ることができた。マネジャーは、この問題は最近起こったものだと説明していたが、事実ではないであろう。ホテルは、もっと真剣に飲食店や行政に対して問題の解決を迫るべきだと思う。どうして問題が現状のまま放置されているのか、全く理解することができなかった。

12月中旬に訪ねた時には、初めて一人で町を歩き回った。16世紀にマムルーク朝によって築かれたアカバ要塞などを見物した。当地に数日間滞在してSCUBAダイヴィングのライセンスを取得することができないかと考えていたが、叶わなかった。

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犠牲祭壇トレイルから

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エル・ハズネ眺望場所への難所

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エル・ハズネ眺望場所遠景

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エル・ハズネ眺望場所への難所

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左上方から眺めたエル・ハズネ

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ウム・ビヤラ

4月下旬、ペトラに出かけた。初回の渡航に次いで2回目の訪問となる。カスル・ビントまたはエッ・ディールまでのメイン・トレイルは既に巡っているため、2回目はトレッキング・ルートを進むことによって、変化のある眺望を楽しみたいと考えていた。できるだけ多くのトレッキング・ルートを経験してみたかったため、5時頃にはアパートメントを出発し、8時頃に見物を始めた。

最初に進むことにしたのが犠牲祭壇トレイルだ。エル・ハズネからローマ円形劇場の手前まで来ると、左側に階段が待ち受けている。トレッキング・ルートの開始場所は分かりづらいものが多いが、階段を登っていけばよいだけであるため、例外的に分かりやすい。予想以上に登り階段が続き、メイン・トレイル上の遺跡が見る間に小さくなっていく。同じルートを採るヨーロピアンのグループも見かけた。

犠牲祭壇に向けて進路を右に取ろうと考えていた時、エル・ハズネを見下ろすヴュー・ポイントに案内するという勧誘があった。日本語のガイドブックには、メイン・トレイルの南側からエル・ハズネを見下ろすヴュー・ポイントに向かうトレイルの説明はなかったが、適当にガイド料をディスカウントさせて勧誘を受けることにした。しかし、ガイドについていくことは、容易なことではなかった。傾斜のある岩山を登ったり、断崖に申し訳程度に設けられているパスを進んだり、傾斜のある坂を下りた直後に断崖に渡してある板の橋を渡ったりしなければならないのだ。何とか進んでいくと、エル・ハズネを左上方から見下ろすことのできるヴュー・ポイントに到着した。エル・ハズネの前で見物している人が米粒のように小さく見える。エル・ハズネの巨大さを実感するためにも絶好の場所であったかもしれない。帰路は、ガイドが先に戻ってしまっていたため、2回も道に迷うことになった。ガイド料をディスカウントしすぎてしまったのであろうか。何とかガイドと出会った場所に戻ると、犠牲祭壇に向けてトレッキングを続けた。なお、このヴュー・ポイントへは、エル・ハズネから直接向かうトレイルも存在するのだが、そちらはガイド同伴が要件とされており、残念なことにガイド料は桁違いに高いようだ。入域希望者が多いためであろう。

カスル・ビント付近で昼食を済ませると、2回目のトレッキングに取り掛かることにした。選んだのは、エドム人の遺跡を訪ねることのできるウム・ビヤラであり、急勾配の階段が続く登山と呼ぶことができるようなものだ。開始場所がよく分からなかったため、ロバに乗って麓まで連れていってもらった。MERS(中東呼吸器症候群)に接触感染する可能性のあるラクダでなくてよかった。既に疲労が蓄積してきており、息絶え絶えであったが、眼下に広がる眺望を楽しみながら時間をかけてゆっくりと登っていった。頂上では、瓦礫が積み上がっているだけで、エドム人の村だと言われても実感が湧かなかった。下りは、膝裏痛に悩まされた。利き足に頼って階段を降りていたため、着地時の衝撃が利き足に集中したためであろう。反省が必要だ。

アンマーンへの帰路は、辺りが暗くなる中、家路を急いだが、途中でガソリンがなくなりそうになった。不思議なことに、ガス・ステイションが反対車線にばかり設置されていたため、一旦Uターンせざるを得なくなり、時間のロスが大きくなった。
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犠牲祭壇から

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フブサ・トレイルから

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上方から眺めたローマ円形劇場

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右上方から眺めたエル・ハズネ

同じく4月下旬、ペトラとワディ・ラムを訪ねるトゥアーに参加した。目的はワディ・ラム訪問だ。広大なワディ・ラム自然保護区内はトゥアーに参加して移動する必要があるため、アンマーンからトゥアーに参加した方が分かりやすいと考えたのだが、ワディ・ラムのみを訪問先とするトゥアーはないとのことであった。そこで、ペトラを訪問先に含むトゥアーに参加することにしたのだ。当日、スウェイフィーエの集合場所からバスに乗って向かうことになった。

最初に訪ねたペトラの滞在時間は、約3時間であった。所要時間を考えて、今度はフブサ・トレイルを進むことにした。メイン・トレイルの北側からエル・ハズネを見下ろすヴュー・ポイントに向かうものであり、エル・ハズネを見下ろす唯一のヴュー・ポイントとして、日本語のガイドブックに説明がある。時間が不足気味なので、最初から駆け足気味に歩を進めた。宮殿の墓の先に階段を見つけると、黙々と登っていった。途中から道は途切れがちになったが、ほかのトレッカーの足跡を追いながら目的地を目指した。そのうちにローマ円形劇場が小さく見え、さらに進むと、エル・ハズネを右上方から見下ろすことのできるヴュー・ポイントに到着していた。エル・ハズネを左上方から見下ろすことのできるヴュー・ポイントと近接しているにも関わらず、トレイルが全く異なるルートを辿ることになるのは興味深い。往路と帰路で1回ずつ道を間違え、帰路は若い日本人女性とともに正規のルートを探した。道標の整備に努めてもらいたいものだ。

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壁画

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自然石鹸製造実演

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ワディ・ラム

ワディ・ラムに向かう前、ワディ・ムーサでビュッフェの昼食を取った。しかし、多くの人は、昼食がトゥアーに組み込まれておらず、昼食休憩中、バスの中で待たされていた。トゥアーの組み方として、適切ではないと思う。

ワディ・ラムの見所は、広大な砂漠と、多くのそそり立つ巨大な岩山であろうか。ヴィジター・センター付近でジープに乗り換えると、岩山の間を行ったり来たりし、ナバテア王国時代の壁画や自然石鹸製造実演などを見せてくれた。ベドウィンの伝統的な生活を体験させるという趣旨があるようだ。当日はアカバに滞在する多くのトゥアー客を見送った後、観客参加型の舞踊を鑑賞したり夕食を取ったりして、当地で21時半頃まで過ごした。月明かりが美しかった。

アンマーン到着は、何と深夜2時半頃であった。スウェイフィーエの集合場所で解散するのかと思いきや、メッカ・モールよりもさらに北にある商店街に連れていかれた。そのようなことは地元のトゥアー客も予め知らされていなかったのか、多くの人から抗議の声が上がり、スウェイフィーエの集合場所に戻してもらうことになった。治安面の不安はあったが、歩いてアパートメントに戻ることにした。トゥアー終了時刻が非常に遅いことに対しては、強い違和感がある。

地方

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東部
北部

中部

南部

アラビア人首長国連邦寄航

春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋
春 夏 秋 冬
夏 秋 冬 春
秋 冬 春 夏
冬 春 夏 秋

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