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■2017年9月下旬、結果的に224日間となる海外生活を始めるため、日本を出立した。海外渡航としては86回目で2017年に入って10回目、海外滞在としては3回目であり、滞在先はヨルダン(正式名称はヨルダン・ハシェミット王国)だ。

住居を退去するため、家電リサイクル法の対象であり粗大ごみとすることができない冷蔵庫、洗濯機、テレヴィジョンなどをリサイクル・ショップに買い取ってもらい、机一式、布団上下、物干し台などは粗大ごみとして廃棄した。

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スマイルホテル日本橋三越前

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スマイルホテル日本橋三越前

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ビュッフェ

利用したのはエティハド航空のビジネス・クラスであり、重量制限は32kgまでの受託荷物2個、合計12kgまでの手荷物2個というものであった。空港宅配便を利用し、受託荷物とする予定でボストンバッグ(約12kg)を予め成田空港に送っていた。しかし、出国前日になって、残りの荷物を、受託荷物とするスートゥケイス大、手荷物とするスートゥケイス小に収めることはできないことが分かった。デスクトップ・コンピューター(約10kg)が重量的にも容量的にも高いウェイトを占めていた。そこで、急遽スートゥケイス大を買い足し、残りの荷物を詰め込んだ。すると、買い足したスートゥケイスが満杯になってしまった。そのままでは重量制限に引っかかってしまう。何とかしなければならない。ただ、住居の退去を先決するべきなので、荷物が一掃されて殺風景になった住居を十分に清掃してから退去立会を受けた。

前泊するホテルは都心に確保していたが、スートゥケイス大2個、スートゥケイス小、スリー・ウェイ鞄、簡易鞄の5個(合計約55kg)を抱え、タクシーに乗るのも一苦労であった。ホテルにチェックインすると、一晩をかけて衣服や書類を中心に廃棄し、買い足したスートゥケイスの空きスペイスを広げた。そして、スートゥケイス小などを買い足したスートゥケイスの中に入れ、朝までに荷物をスートゥケイス大2個のみに収めることができた。

空港までの経路の選定に当たっては、階段などの昇り降りを避けるということに重点を置いた。そして、ホテルの最寄駅からではなく、隣駅から地下鉄に乗ることにすると、エレヴェイターや相互直通運転を利用し、階段などの昇り降りをせずに空港に向かうことができるのを予め確認しておいた。

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エティハド航空

空港に到着すると、電源プラグ変換アダプターを買った後、ボストンバッグを受け取り、買い足したスートゥケイスに荷物を入れ直した。そして、当初のスートゥケイス大(28kg)と買い足したスートゥケイス(19kg)を受託荷物とし、スートゥケイス小とスリー・ウェイ鞄の2個(合計約12kg)を手荷物としてチェックインを受け付けてもらうことができた。

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クラウン・プラザ・ヤス(アブダビ)

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セヴン・ロウズイズ・ホテル(アンマーン)

アラビア人首長国連邦のアブダビ空港に到着すると、タクシーに乗って向かった指定のホテルにチェックインした。

翌日、アンマーン(安曼)のクイーン・アリア空港に到着すると、送迎車に乗って予約済みのホテルに向かった。第6サークルの西側のスウェイフィーエにあり、それまでの2回の渡航の際に利用するなど関係者御用達という趣の強いホテルではなく、第7サークルの西側のサヘルにあるホテルだ。第8サークルの西側のラウナクにある受入先により近く、アパートメントの選定もその辺りで行いたいとの考えから、ホテルの変更を希望したのだ。ホテルの格式は高いが、周辺にレストランが少ないという事情があるようであった。

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パリ通り

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パリ通り

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サイード・ムフティ通り

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プリンセス・スーマヤ通り

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プリンセス・スーマヤ通り

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プリンセス・スーマヤ通り

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プリンセス・スーマヤ通り

■渡航3日目の夕方から5日目にかけて、関係者に紹介してもらった不動産業者などの案内を受け、第5サークル(ドゥワール・アルハーミス)から第8サークルまでの間にある十数軒のアパートメントを内見した。住居手当の上限を伝えると、2ベッド・ルームズ+1などと呼ぶような豪華なアパートメントを紹介してくれた。ただし、ハウス・キーパー(管理人)が知人を勝手に部屋に連れ込むなど杜撰な管理が行われている物件もあった。

希望する第7サークルの西側では、メインテナンスが十分に施されたアパートメントを探すことが難しく、第6サークルの西側で探すことになった。そして、不動産業者ではなく、最初にオウナーに案内されて内見したアパートメントを6日目に再度訪ね、7日目に契約を決断し、8日目の午後になって晴れて入居となった。

アパートメントは、この界隈ではよく見られる石積み外壁の住宅であった。用いられているのは石灰岩らしい。3階建ての2階だが、英国式にロビー階をグラウンド・フロアと呼び、その上の階から1階が始まるため、日本式に言うと4階建ての3階だ。第6サークルの西側で、第7サークルの東側だが、第7サークルに近いことは好都合であった。

レンタル料金は、当初1か月2,000USドル(1USドルは約115円)程度を希望していたようだが、1,540USドルにディスカウントしてもらった。そのうち家具借料などが自己負担であった。

部屋は、ベッド・ルーム2、書斎、リヴィング・ルーム2、ダイニング・ルーム2、台所、物置2(屋内外に各1)から成り、日本式に言うと3LLDDKということになるであろうか。専有面積は百数十平方メートルであろう。また、浴室兼トイレット2、その他のトイレット2、ルーム・クーラー5、セントラル・ヒーティングのラディエイター8、ガスこんろ(4口)、クローゼット2、ベッド・セット2、テレヴィジョン2、電話機、食器棚2、応接セット2、食卓セット2、冷蔵庫、オウヴン、電子オウヴン、コーヒー・メイカー、自動食器洗浄機、乾燥機能付洗濯機、ランニング・マシンなどが備え付けられていた。トイレットの1つは屋内の物置の奥にあり、ともに住み込みのハウス・クリーナー(メイド)を雇った場合にあてがうためのもののようだ。さらに、マルティ・クッカー(炊飯機能を含む)とウォーター・サーヴァーを無償で追加してもらった。ただし、冷蔵庫の製氷機能と、乾燥機能付洗濯機の乾燥機能の大部分が故障しており、修理は不可能だとされた。オウヴンの電源が入らないこともあった。

アパートメントに対する不満としては、ほかにトイレット・ペイパーを流すことができないとされたことがあった。しかし、後に少量であれば大丈夫だと分かった。また、入浴するために十分に高温の給湯ができない場合があること、高温の給湯のためには給湯のスイッチを入れてから1時間程度待たなければならないこと、セントラル・ヒーティングでは室温が十分に上がらないこと、ディーゼルの充填やガス・ボンベの交換の手続きがあること、オート・ロック機能に不具合のある窓があること、場所や向きが不自然な照明のスイッチがあること、レンタル料金の割に古い電気機器や家具などがあること、台所に蟻が出没することも問題であった。

住み込みのハウス・クリーナーを雇うなどということはもちろんなかったが、1か月2回のペイスでハウス・クリーニングのサーヴィスを受けたいと考えた。アパートメントのオウナーに紹介を依頼すると、12月からサーヴィスを受けることができるようになった。途中でハウス・クリーナーが変わったが、相場はフィリピン人と決まっているようだ。1時間5ヨルダン・ディナール(1ヨルダン・ディナールは約161円)であり、1回3〜4時間で、食器洗浄、台所清掃、ベッド・メイキング、床清掃、浴室兼トイレット清掃などのサーヴィスを受けることができた。

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■英字新聞は存在するようであったが、情報の入手はほかの手段に頼ることにした。

口座を開設しようとした銀行は、レバノン資本のものであった。開設手続は遅々として進まず、銀行カードを受け取るために4回足を運んだほか、オンライン・バンキングができるようにするために2回足を運び、1回電話をかける必要があった。開設したのはUSドル口座とヨルダン・ディナール口座であり、滞在費が振り込まれるのはUSドル口座であったが、ATMを利用してキャッシュを引き出すことができるのはヨルダン・ディナール口座のみであったため、予めオンライン・バンキングで通貨間の振替ができるようにしておく必要があったのだ。

衛星放送を受信することができるため、視聴可能なチャンネル数は多かった。近隣国の放送などを受信することができた。しかし、英語放送に限ると、視聴可能なのは、BBC、アルジャズィーラ、主に外国人に日本文化を伝えることを目的としているNHKワールドTVなどだけであった。CNN、ハリウッドなどの映画専門チャンネル、海外に滞在している日本人を主な対象としたNHKワールド・プレミアムなどは視聴することができなかった。なお、そのような事態を避けるため、日本の留守宅などで受信し録画した放送をインターネット回線を経由して海外で視聴するという方法があることを教わっていたが、実行していなかった。

スマートフォンの通話やパーソナル・コンピュータのインターネット接続などのためには、ヨルダンの三大プロヴァイダーのうち、最も安価な第3ブランドと契約した。回線速度などに制約があったが、費用対効果の高いサーヴィスの提供を受けることができたように思う。また、日本で契約していたIP電話(インターネットを利用した電話)は通信が安定しなかったため、日本の固定電話に無制限通話をすることのできるSkypeのサーヴィスを申し込んだ。

インターネット接続のための環境が整うと、それを利用して、日本人を主な対象とした動画配信サーヴィスを受けられないかと思案するようになる。簡単ではなかったが、インターネット接続方法を工夫して、動画配信サーヴィスを受けることができるようになった。それによって、視聴可能な英語放送などのチャンネル数が少ないことに対する不満は収まった。

自動車については、前回の渡航の際、離任予定者から12万1,000円(交渉時は1,100USドル)で買い受けることにしていた。日産の2001年式、排気量3.3LのパスファインダーというSUV(スポーツ・ユーティリティ・ヴィークル、スポーツ用多目的車)で、走行距離は179,000kmに達していた。車体が大きいため、燃費が悪い。また、シフト・レヴァーを一旦Pレインジに入れると、横にあるボタンをキーなどの細長いもので押さない限り、ほかのレインジに動かすことができなくなるという現象が起こることが多かった。プレイク・ペダルを踏まないとシフト・レヴァーをPレインジからほかのレインジに動かすことができないようにするシフト・ロック機能が働いているのだが、ブレイク・ペダル踏みの検知機能が故障しているのであろう。後に自動車修理店に相談すると、シフト・ロック機能を修理することはできず、問題の現象が起こらないようにするためには、シフト・ロック機能を解除する必要があると言われた。また、運転席側のパワー・ウィンドウを閉めようとしてスイッチを押し続けていると、完全に閉まった後、反転して開いてくるという現象が起こった。挟み込み防止のためのセイフティ機能が働いているのだが、挟み込みの検知機能が故障しているのであろう。そのため、ウィンドウを完全に閉めたい時は、絶妙なタイミングでスイッチから手を離す必要があった。さらに、ダッシュボードが割れていた。車内温度がかなり上がることが想像された。

自動車を運転することができるようになるまでには、多大な日数を費やした。まず、11月下旬にヴィザのスタンプが押されたパスポートと滞在許可証を受け取った。次に、12月下旬に労働許可証の取得手続が完了した。そして、1月中旬に自動車免許証の申請のために必要な税務番号の取得申請、運転免許証の取得、自動車の登録申請を行った。最後に、2月中旬にようやく自動車の登録が完了し、晴れて自動車を運転することができるようになった。ただし、既に5か月を自動車を持たずに過ごした町で違和感なく自動車を運転することは、簡単なことではなかった。その後、買い物をしたり地方に出かけたりする場合などに重宝するようになった。

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ザイト&ザタール

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ザイト&ザタール

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セイフウェイ

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魚売場

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コズモ遠景

スーパーマーケットは、徒歩約10分の距離に3軒あった。また、よく買い物をする小型小売店も2軒あった。そのうちの1軒は、キリスト教徒だという兄弟で営んでおり、日本人客が多いのか、ともに片言の日本語で愛想を振り撒いていた。食事は自分で調理することが多かった。まず、主食としては、カリフォルニア米や、米粉などの麺を調達することができた。また、野菜や果物などのほか、ほとんど内陸国であるにも関わらず魚も豊富に売られていた。ただし、魚を調理する場合は注意が必要だ。あまり魚を調理する習慣がないためか、隣人に魚の臭いについて小言を言われるということがあった。そのほか、チキン・カトレット、ファラーフェル、肉ボールなどの加工食品も利用した。

日本語の書籍を取り扱う書店などというものは、あるはずもなかった。一昔前であればホウム・シックになっていたところかもしれないが、オンライン書店のAmazonを利用することができるため、全く問題にならなかった。オンライン書店を利用することができない場合、書籍のディジタル化を日本の代行業者に依頼し、インターネットを通じてダウンロウドすることによって電子書籍を手にするということもあった。時代は変わったものだ。

ほかに、転勤挨拶状と年賀状の作成と投函も、日本の代行業者に依頼することができた。なお、郵便物配達制度はない。受取郵便物があれば郵便局から連絡があり、受け取りに向かうことが必要であった。郵便物があることに気付かないこともあった。

インターネットを利用したサーヴィスと言うと、オンライン英会話のレッスンを精力的に受けた。数社のサーヴィスを受けたが、日本時間の深夜に受講することのできるサーヴィスが多く、重宝した。講師がフィリピン人などの場合は1時間当たり数百円で、ネイティヴ・スピーカーの場合は同千数百円でサーヴィスを受けることができた。自分の置かれている状況や悩みなどについて説明し、講師と馴染みになることもできた。

アラビア語には東アジアやヨーロッパなどにない発音が用いられており、習得することは難しそうであった。右から左に向かって書く文字も、区切りを理解することさえできなかった。周囲の多くの人が英語を話すため、アラビア語を習得しなくてもそれほど困らないという事情もあった。覚えたのは、「シュクラム(ありがとう)」、「アッサラーム・アライクム(こんにちは)」、「ワ・アライクム・アッサラーム(こんにちは、返答)」、「サラーム・ライクム(こんにちは、省略形)」などだけだ。なお、「サラーム」は「平安」という意味だ。インドネシア語やマレイ語の挨拶には、「スラマッ・ダタン(ようこそ)」など、「スラマッ」という言葉がよく用いられるが、「サラーム」が語源となったものだ。アラビア語というよりも、イスラーム語としての側面があると言ってよいのかもしれない。また、文語としてはフスハー(標準アラビア語)が存在しているが、口語としてはヨルダン方言を含む様々な方言に分かれているらしい。ただし、たとえばアパートメントのハウス・キーパーはエジプト方言を話すエジプト人と相場が決まっているが、オウナーとの意思疎通に困るなどということは起こらないようであった。こちらがハウス・キーパーと会話をしなければならない時は、オウナーに電話をかけて通訳してもらうか、Google翻訳を利用した。

ほかによく聞く言葉は「インシャアッラーフ」だ。約束時の受け答えなどで使われる。「神の思し召しのままに」という意味であり、神がお望みならば約束は守られるであろうという、他人任せの響きを持つ。約束が守られなくても不可抗力なのだから詰るのはマナー違反だということになる。何とも理解に苦しむ言葉だ。

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イスマイル・アブド通りから

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モスク(アカバ)

10月下旬にサマー・タイムの適用終了を、3月下旬に適用開始を経験した。ともに初めての経験であった。週末のうちにサマー・タイムに慣れてもらおうという意図なのか、適用切替は金曜日未明に行われることになっているようであった。この制度は日照時間を有効に活用することを目的としているが、イスラーム教国では用を成さないと思う。イスラーム教徒の日々の生活と不可分の関係にある1日5回の礼拝をいつ行うかということが、時刻ではなく、太陽の位置によって決められているためだ。たとえば夏時間が終わって前日よりも事実上1時間遅くまで寝ていることができると思って喜んでいても、それは叶わない。前日は1日の最初のアザーンによって5時頃に起こされていたところ、夏時間適用終了日は4時頃(太陽は前日の5時頃と同位置)にアザーンを聞かされることになるためだ。時計の針を早めたり遅らせたりしても、イスラーム教徒の生活時間を変えることはできないのだ。どうしてもと言うのであれば、時刻の切替を毎月行うぐらいの覚悟が必要なのではないかと思う。どうしてこのように効果のない制度が存続しているのか、不思議であった。

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ナキブ・オムラン通り

■活動拠点となる受入先へは、自動車に乗って約3km、10分程度の距離であった。当初、往路はタクシーを利用し、帰路は同僚とともに自動車配車サーヴィスを利用することが多かった。タクシー乗車のためには、アパートメント近くのサークルまで出向いて4方向から来る空車のタクシーを探した。

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ザフラン通り

タクシーは、一般に、整備が行き届いていない旧型の自動車であることが多かった。運転手の中には、実車になってから新たにタバコを吸い始める人も多かった。5回続けてタバコの煙に顔をしかめながら乗らざるを得なかったこともあり、やるせない思いであった。タバコを勧められることもあり、必ずしも運転手が傍若無人に振る舞っているというわけではない。受動喫煙という概念が全く存在していないのだ。また、アパートメントから受入先までの運賃は1ヨルダン・ディナール弱であったが、1ヨルダン・ディナール硬貨を差し出しても、釣銭を受け取ることはほとんどなかった。さらに、メーター料金制を適用してくれないこともあった。その時に請求されたのは1.50ヨルダン・ディナールであったが、強く抗議して支払いを1ヨルダン・ディナールに留めることができた。

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第8サークル

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ウバイド・ベン・アウス通り

一方、自動車配車サーヴィスは、一般人が愛車をサーヴィスに提供しており、グレイドが高い上に整備が行き届いている自動車が多かった。運転手による喫煙のような不快な思いをさせられることはなく、友人感覚で会話することも多かった。運賃は5割程度高かったが、それに見合う居心地のよさを味わうことができた。自動車配車サーヴィスの隆盛は、タクシーの参入規制を無に帰するものだとして、各国で反対の声が上がっていると聞く。ヨルダンでも、タクシー運転手によるデモンストレイションが行われていた。しかし、自動車配車サーヴィスがどうして隆盛に至ったのかについての反省がないまま反対運動を行っても、参入規制に胡座をかいているようにしか感じられなかった。

自動車配車サーヴィスにも問題点がないわけではなかった。アプリケイションによる自動車の誘導が不十分なためか、交通渋滞時を中心に、いつまで経っても配車がされないことがあった。受入先付近では、第8サークルが渋滞の原因であり、迂回して来てくれればよいのに、道路事情をよく知らない素人が運転しているためか、アプリケイションが不適切な経路を示すと、それに従って渋滞に巻き込まれてしまう自動車が多かった。また、渋滞を避けるためか、こちらに向かっていたはずの自動車が途中で踵を返して遠ざかってしまうということもあった。渋滞の情報をアプリケイションに取り込まなければ、最適なサーヴィスにはならないであろうと考えられた。

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ソブヒ・アムロ通り

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キング・アブドゥッラー2世通り

1月になると、同僚が新車を買い、受入先に運転してくるようになって、別行動となった。そして、健康を考えて徒歩で受入先に向かうことを志向するようになった。特に往路は、徒歩で向かうことが多くなった。一方、帰路は、第8サークル停留所から第7サークル停留所までマイクロバスを利用することが多くなった。徒歩で向かう場合、当初は約3km、35分程度の行程であった。2月になると、自動車を運転することができるようになったが、受入先に駐車場の確保を依頼する気にはならなかった。その後、他機関の敷地を通って行程をショートカットすることを覚えた。さらに、4月になると、第8サークルを縦断しているキング・アブドゥッラー2世通りに歩道橋が架けられた。それによって、キング・アブドゥッラー2世通りを横切るために第8サークルまで迂回する必要がなくなり、約2km、25分程度と、徒歩で向かうことが比較的容易な行程になった。

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プリンセス・スーマヤ通り

受入先に徒歩で向かうことの問題点として、建築中の住宅付近を中心に、砂埃や粉塵が舞っているということがあった。外壁のために用いる石灰石の成形を現場で行っていることも影響していたと思う。黒い革靴が白くなってしまうということも問題であった。また、雨が降ると数日間は道路が泥濘になってしまう場所があり、泥土が革靴に付着して困らされた。

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フンムス/ファラーフェル

昼食のためには、当初は付近の地元のファストフード店でシャワルマを食べていた。その後、ひよこ豆をペイスト状にしたフンムス、ファラーフェル、卵焼きなどを食べることのできるアラビア料理店を見つけ、足繁く通うようになった。ホブズと呼ばれるパンも付いてくる。また、弁当を持参することも多かった。

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■ヨルダン滞在中の主な日程は、以下の通りだ。

2017年9月下旬アンマーン到着
10月中旬アラビア人首長国連邦訪問
10月下旬アカバ訪問
12月中旬アカバ訪問
12月下旬イルビッド訪問
ギリシャ旅行
2018年2月中旬アカバ訪問
2月下旬イルビッド訪問
マダバ旅行
3月上旬アズラック旅行
ジェラシュ旅行
4月中旬アンマーン・ビーチ旅行
4月下旬ペトラ旅行
ウム・カイス旅行
ワディ・ラム旅行
イスラエル旅行
5月上旬アンマーン出立

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■気候についてみると、アンマーンは、砂漠気候を囲むように分布するステップ気候に属す。標高約800mと高所にあるが、夏は暑く、ほとんど雨が降らない。一方、冬はある程度の雨や雪が降り、寒い。気温は年間を通して東京とあまり変わらない。強いて言うと、1年の寒暖差は東京よりも小さいが、1日の寒暖差は東京よりも大きい。そして、平均最高気温は東京よりも5度ぐらい高いが、夏は差が縮まる。一方、平均最低気温は東京と同じぐらいだが、夏は5度ぐらい低くなる。湿度が低いこともあって、東京よりも過ごしやすいと言うことができるかもしれない。

日射が強いため、外出する時はUV(紫外線)カットの日焼け防止クリームやサングラスを欠かすことができなかった。

また、町の排水機能が弱いのか、大雨が降ったわけではないのに道路の一部が川のようになっていることがあった。歩道が自動車のために塞がれており、川の中に入っていく必要がある場所もあった。

一方、1月下旬に1回だけ雪が降った。粉雪のようなもので、積もることはなかったが、かなりの寒さであった。曇りがちの日が続き、寒さのために震えなければならない日も多かった。ただ、大雪になったり道路が凍結したりする年もあるそうなので、例年と比べると温暖な冬であったということになるのかもしれない。

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■アンマーンは、旧市街のダウンタウン、新市街のアップタウン、郊外に分かれると言ってよいであろうか。暫定的に、第4サークル(ドゥワール・アッラービア)を縦断している環状道路の内側をダウンタウン、西側をアップタウンと呼んでいる。それぞれ特徴を概観してみたい。

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■ダウンタウンには、観光名所が集中している。海外に滞在しているという気分を満喫するため、週末にマイクロバスに乗って向かうことが多かった。2年目を迎えた人気の位置情報ゲイムで遊ぶためのスポットが集中しているという事情もあった。駐車場を見つけることが難しいため、自動車を運転して向かうことはあまりなかった。

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フセイニ・モスク

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ニンファエウム

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ローマ円形劇場

マイクロバスは、第7サークル停留所から終点のアンマーン・シティ・センター停留所まで乗ることが多かった。約10km、30分程度の行程だ。マイクロバスを降りて東に向かうと、昔ながらの商店街が続く。衣料品、食肉用鳥類、生鮮食品、電気機器、雑貨など、様々な商品が売られているほか、レストランや両替所などが軒を連ねていた。年季の入った商店が多かったが、活気があった。その中心にあるのがフセイニ・モスクだ。集団礼拝日である金曜日やデモンストレイションなどの時には大勢の人が集まっていた。ヨルダン滞在中は何回も往来したが、東ローマ帝国時代に造られたフィラデルフィア大聖堂がウマイヤ朝時代の7世紀に改築されたものだという由緒が頭に入っていなかった。イスタンブルのアヤソフィアと同様の出自を持つわけだ。その知識を持って相見えたかったように思う。続いて現れるのがニンファエウムだ。2世紀に造られた妖精ニンフの噴水だが、地元の人の生活の中に紛れ込んでしまっており、尊崇の念を集めているようには思われない。その先にはインフォメイションがあったが、イラク戦争、シリア内戦、イラク・シリア両国における過激派組織DAISH(ISIL)の勢力拡大などによりテロリズムの危険が高まり、観光客が激減しているためか、閉鎖状態にあった。人件費削減のため人員を割くことはできないとしても、来所者が地図だけでも受け取ることができるようにすればよいのにと残念に思った。さらに進むと待ち構えているのが同じ2世紀に造られたローマ円形劇場だ。付近には、同じ時代にコンサートなどに使うために造られたオデオン、東ローマ帝国時代のモザイク・タイルが粗略に展示されているのが印象的なヨルダン伝統文化博物館、ヨルダンにおける伝統的な生活様式を再現しているヨルダン民俗博物館がある。

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アラビア料理店

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アラビア・サラダ/フィッシュ

ニンファエウムの近くには、行き付けのアラビア料理店があった。フィッシュ・フライ、ロウスト・チキン、ケバブ串などに舌鼓を打った。マンサフ・ウィズ・ミートはベドウィン料理として有名だ。また、茄子をペイスト状にしてヨーグルトを和えたムタッバルや、同じくトマトなどを和えたババガヌーシュなどは、朝食にも供されるが、昼食や夕食に供される場合は前菜となるようだ。さらに、ホブズが付いてくる。ダウンタウンを訪ねた時は、よく立ち寄った。当店でアラビア料理の魅力を堪能することができると感じたためだが、ほかに選択肢が少なかったという事情もある。困ったことには、釣銭を準備していないことが多く、10ヨルダン・ディナール札などを差し出すと、付近の商店に両替を依頼するために店員が店外に出なければならないということが頻繁に起こった。釣銭を準備しておいた方が効率がよいとは考えないのかと疑問に思った。

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ヘラクレス神殿跡

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シタデルから

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アイン・ガザルの人形

アンマーンは、当初7つの丘の上に形成されたという。シタデルのあるジャバル・カラア、第1サークルや繁華街のレインボウ通りのあるジャバル・アンマーンなど、ダウンタウンで目にすることのできる丘であろう。丘を見上げる場所にいても、見下ろす場所にいても、素晴らしい景観を目にすることができる。一方、地図上では目的地が近くにあると思われても、実際にはえんえんと坂を上っていく必要がある場合もあって、注意を要する。ローマ円形劇場からシタデルに向かう時がその一例だ。西側からアクセスしようとすると、高度を上げながら東側に回り込んでいかなければならないため、予想よりもかなり多くの時間を要する。ただし、近道はある。ローマ円形劇場正面の商店に挟まれた階段を登って一気に高度を上げると、東側からシタデルに近づくことに半ば成功している。Googleマップによって教えられたルートだ。途中、一般国民の日常生活を垣間見ることになる。

シタデルには、ヘラクレス神殿跡のほかにも、広い敷地内に、前期青銅器時代の洞穴、東ローマ帝国時代の教会跡、さらにはウマイヤ朝時代の離宮であった場所に記念門、モスク跡、マーケット跡、貯水池跡が残されており、様々な時代の生活、宗教、政治の中心であったことを現代に伝えている。そして、見逃すことができないのが、ヘラクレスの手の脇にひっそりと建っているヨルダン考古学博物館だ。最大の見所は、何と約1万年前の新石器時代に作られたアイン・ガザルの人形(ひとがた)であり、世界最古の人形だという。ほかにも、ローマ帝国時代の像や紀元前の棺など、貴重な遺物が無造作に所狭しと並べられていた。アパートメントから自動車を運転してダウンタウンに向かった場合、簡単に駐車することのできる場所としても重宝した。

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キング・アブドゥッラー1世モスク付近

第4サークルから環状道路を北上するとアブダリ立体交差点がある。そこから東側がアブダリだ。当地にある数少ない高層ビルディングが立ち並ぶ新市街だ。アブダリ・モールは、当地に似つかわしくなく非常に洗練されている。キング・アブドゥッラー1世モスク(通称はブルー・モスク)は、ヨルダン最大級のモスクとのことであり、ブルーのモザイク・タイルでできたドームが鮮やかであった。直線距離では第2サークル(ドゥワール・アッサーニー)や第3サークル(ドゥワール・アッサーリス)から近いが、起伏のため簡単に行き着くことはできない。

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アブドゥーン橋

一方、第4サークルから環状道路を南下するとアブドゥーン橋があり、さらに進むとアブドゥーン・サークルがある。アブドゥーン橋は、第4サークルとアンマーン南部を結ぶ目的で架けられたもので、ヨルダン唯一の斜張橋だという。周辺の景観に似つかわしくない高い橋脚には驚かされてしまう。橋がなかった時は、巨大な谷線のため、第4サークルとアンマーン南部を往来することは簡単ではなかったであろう。アブドゥーン・サークルの周囲に広がるアブドゥーンは、米国系のファストフード店が軒を連ねたり、大使館が建っていたりしており、華やいだ雰囲気を醸し出す高級住宅街になっている。

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■アップタウンには、観光名所はなく、滞在者や出張者でなければあまり寄り付かない場所であろう。

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シャリフ・アブドゥル通り

その中でも、アブダリ立体交差点から西側に広がるシュメイサニは、銀行、ホテル、小奇麗な小売店などが軒を連ね、ダウンタウンの延長線上にあると言うことができる。

第5サークルの周囲には、高級ホテルが軒を連ねている。

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ヨルダン・ゲイト・タワーズ

第6サークルの南東には日本大使館がある。また、第6サークルの北西には、ヨルダン・ゲイト・タワーズという2棟の高層複合施設が建設中であった。アップタウンのランドマークとなっていた。しかし、経済危機を契機として、資金調達問題のため長く工事が中断するなどしており、とても円滑に工事が進捗していると言うことはできない状況のようであった。マレイシアでも建設を中断した立ち枯れと呼ばれる工事現場を見かけたが、それと比べると完成の域に近づいており、今一歩の状態なのにと残念に思いながら、工事の進捗状況を見守っていた。

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アヴェニュー・モール

アパートメントのあるスウェイフィーエにも、様々な施設がある。ショッピング・モールとしては、第6サークル付近にアヴェニュー・モールとバラカ・モール、第7サークル付近にザ・ガラリア・モールがあり、どのモールも吹抜けを設けて高級感を醸し出そうとしていた。ザ・ガラリア・モールにあるフード・コートなどには、米国系のファストフード店も出店していた。度々通うということはなかったが、見慣れた店があることで心が安らぐという効果はあった。また、周辺には商店街が広がっていた。アパートメントから徒歩約10分の距離に3軒あるスーパーマーケットのうち1軒もスウェイフィーエにあった。

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第8サークル付近

アパートメントから受入先に徒歩で向かう途中、第7サークルを縦断しているエアポート・ロウドを過ぎると、サヘルに至る。アパートメントから徒歩約10分の距離に3軒あるスーパーマーケットのうち2軒が立地していた。また、大型電器店もあったが、品揃えは期待したほどではなかった。洗練されているとの印象を受ける小売店が軒を連ねるスウェイフィーエと比べると、やや雑然とした様相を呈していた。アブドゥッラー2世通りに近づくにつれて空地も目立つようになる。

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メッカ・モール

アパートメント周辺では、第3サークルから第8サークルまで走り、ダウンタウンに向かう場合などのバス路線となるザフラン通りが東西幹線道路だが、2km程度北を走るメッカ通りの北側にはメッカ・モールがある。アブダリ・モールと並ぶ巨大なショッピング・モールだが、敷地面積の広さを活用した構造であるため、どちらかと言うと郊外型店舗ということになるのかもしれない。アパートメント周辺で用を足すことができない時に訪ねたことがある程度だ。

出発

到着

生活

活動

日程

気候
首都

抜粋

下町

山手

郊外

帰国

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イラク・アミール

■郊外の見所は、何と言ってもイラク・アミール(正式名称はカスル・アバド)であろう。自動車を運転して向かったが、市内から一本道ではなく、道路標識がほとんどないため、Googleマップがなければ決して辿り着くことはなかったであろう。駐車場もないため、路上駐車を強いられる。

ヘレニズム時代の宮殿跡だが、外壁は半分ぐらい修復されており、内壁も部屋の構造が分かる程度には残されている。当地の古い歴史を現代に伝える貴重な遺産であり、是非アクセスの向上に努めてもらいたいと思う。

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ルセイファ

ヨルダン第2の町は、ザルカだ。2月下旬、自動車を運転して向かおうとしたが、辿り着かず、ルセイファの町並みを眺めた後、引き返した。

出発

到着

生活

活動

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郊外

帰国

■活動の継続を困難にする問題が招来し、活動期間を短縮して帰国することになった。

そのため、解約料金を支払ってアパートメントを解約することとなった。一方、自動車は、運のよいことに、転居してきた人に買い取ってもらうことができた。650ヨルダン・ディナール(交渉時は10万円)を受け取った。走行距離は、自動車売渡合意時までは約800kmであったが、最終的には約1,600kmに達した。アパートメントのオウナーによると、売渡価格よりもはるかに価値があるとのことであったが、日本人の視点で見ると、ヨルダン人に資本減耗の概念が希薄であることが不思議であった。

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クイーン・アリア空港

利用したのはエティハド航空であった。エコノミ・クラスを利用することとなり、重量制限は受託荷物30kg、手荷物7kgと厳しかった。そこで、15kgの重量追加を申し込み、受託荷物2個と手荷物に重量制限内で荷物を詰め込んだ。そして、送迎車に乗ってクイーン・アリア空港に向かった。アブダビ空港でトランスファーを行い、出国日の翌日に帰国した。

手配済みの短期アパートメントには13泊した。帰国5日目に入居先の内見を行って、すぐに入居手続に入った。最寄駅は、日本出国時に前泊のために都心に確保したホテルの最寄駅の隣駅だ。

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